Tiny garden

彼女に似合うこと(2)

 期待を込めた祈りが通じたのか、花火大会当日は快晴だった。
 夜まで雨が降る心配はないと天気予報も言っていた。今日一日の時間ごとの予報にはオレンジ色の晴れマークが並んでいて、俺は胸を撫で下ろした。

 午後六時過ぎ、社内で園田と行き会った。
 彼女は外へ買い物に出かけていたようだ。スーツの上着を脱ぎ、両手に白いビニール袋を提げていた。俺を見つけると園田はにっこり笑い、片方のビニール袋を軽く持ち上げてみせる。
「あ、お弁当買ってきたよ」
 しかしそれを見た俺は驚いた。残業中ということで夕飯を食べながら花火を見ようということになり、その夕飯は園田があらかじめ買っておくことにするというので任せた。だが俺も園田もそこまで大食漢ではなく、両手のビニール袋に収められた十個近い弁当には度肝を抜かれたのだ。
「随分買ったんだな。そんなに食べるのか」
 俺の感嘆に、園田は微妙な笑い方で応じた。
「そんなわけないから。他の人にも買い出し頼まれてただけ」
 ということは、園田以外の広報課員もちらほら残業をする予定なのだろう。この時期はどこも忙しいから仕方がないとは言え、ご苦労様なことだ。
 もちろん俺も例外ではない。花火大会自体はとてつもなく楽しみだが、その後は人事課へ戻って仕事の続きをやっつけなくてはならない。なので是非とも仕事が楽しくなるような、鼻歌交じりで仕事に取りかかれるような何かを期待したいところだった。
「安井さんの分も買ってきたからね」
 園田は何だか得意げに言った。
 どの弁当をするかは彼女に任せることにしていた。俺もすかさず尋ねる。
「何にした?」
「牛すき丼。私も一緒」
「夏でもあるのか、すき焼き丼って」
 すき焼きは元々は鍋物だから、冬季限定品というイメージがある。そうでなくとも八月の真夏にすき焼き、というのはなかなか珍しく思えたが、園田が平然と言った。
「あるところにはあるよ。ここのはエリンギ入ってて美味しいんだよ」
 すき焼きにエリンギを入れたことはないが、園田が言うなら期待してもよさそうだ。それにすき焼きと言うなら恐らく豆腐も入っていると見た。何せ園田のことだ、豆腐が入っているものを真っ先に選ぶに決まっている。
 ともあれ、俺はまだ仕事の途中だった。弁当はしばらく彼女に預かってもらうことにする。 
「悪いけど、屋上に上がる時に持ってきてくれ」
 すると園田は頷き、聞き返してきた。
「了解。何時にする?」
「七時半スタートだから、そのくらいに。ちょっと慌しくなるかもしれないけど」
「私もそうだから大丈夫だよ」
 園田が苦笑する。
 きっと彼女も花火を見た後で、また広報課へとんぼ返りしなければならないのだろう。園田にもできれば楽しい気分で仕事に戻ってもらいたい。そういう話を、今夜はできるだろうか。
「じゃあ後で」
 俺は園田に笑いかけて、彼女の前から立ち去った。
 花火大会まではあと一時間半。できる限り仕事を片づけ、少しはのんびり過ごせるようにしておかなければならない。
 三十にもなって恥ずかしい話だが、俺は逸る気持ちを抑えるのに苦労した。花火が楽しみだなんて、それこそ何年振りだろう。

 しかし逸る気持ちが空回りしたのか、俺は七時半ちょうどに休憩入りすることができなかった。
 三分ほど過ぎた時点でようやく人事課を出た後、早足でエレベーターホールへと向かう。途中の廊下では誰ともすれ違わなかった。広報課の中は覗けなかったが、恐らく園田は先に行っていることだろう。エレベーターが屋上で停まっていたからわかった。
 のっそりと下りてきたエレベーターに乗り込み、屋上へと向かう。
 すぐにドアが開き、頭上に広がる夜の空と、だだっ広い屋上の景色が視界いっぱいに広がった。湿り気を含んだ温い風が吹いていて、身体にまとわりついてくるようだ。途端に噴き出してきた汗を手の甲で拭った時、上空に盛大な花火が打ち上げられた。

 どこの会社もそうだろうが、我が社の屋上もまた実に簡素で殺風景だった。
 無骨な緑色のフェンスが張り巡らされた空間に、目立つものは給水タンクと機械室だけ。休憩用のベンチはいくつか置かれているのだが、夏は暑くて日陰がなく、冬は寒くて風除けがないと来れば、積極的に利用したがる社員などそうそういなかった。
 そのベンチの一つに、先に来ていた園田が腰かけていた。
 空に打ち上げられた花火の目映い光が、彼女を明るく、白く照らしていた。園田は花火に心奪われているのか、ぼうっと空を見上げている。光を一身に浴び続けているきれいな横顔に見とれかけて、俺は慌てて我に返った。
「悪い、待たせた」
 ベンチに近づきつつ声をかけると、園田が振り向いた。空を見上げていた時とは違う明るい笑みが返ってきた。
「そうでもないよ」
 そして俺が隣に腰を下ろせば、すかさず発泡スチロールの丼を差し出してきた。
「はい、どうぞ」
 受け取った器はまだほんのり温かかった。屋上に立ちこめる夏の夜の匂いに混じり、牛すき丼のいい匂いが漂ってくる。気がつけばかなり腹が減っていた。
「ありがとう。いくらだった?」
 俺が値段を尋ねると、園田はかぶりを振って割り箸を寄越してくる。
「後でいいよ。早く食べながら花火見ないと」
「それもそうだ。園田は何分くらいいられる?」
「十五分が限度かなあ。まだ仕事もあるしね」
「なら俺も、それまではいるかな」
 お互い、仕事に追われているのは同じだ。のんびりと花火を楽しむ暇まではない。花火と牛すき丼を同時に味わうくらいでなければいけない。
 それともちろん、彼女との時間もだ。
「しかし、牛すき丼ってチョイスが園田だよな」
 俺は蓋に手をかける。
 隣で園田が妙に得意げにしている。
「時々はしっかり食べて、スタミナつけておかないとね」
「まあ確かに。最近はいろいろ疎かになってるからな」
 二人揃って蓋を開けると、案の定牛すき丼の中には美味しそうな焼き目のついた焼き豆腐が入っていた。飴色に煮込まれた白滝や玉ねぎ、意外と大きく切り分けられたエリンギ、それに牛肉。なかなかのボリュームに見えた。
 まず一口、食べてみる。手に取った時の印象とは裏腹に少し冷めている感じはあったが、味がしっかりついているお蔭で美味しかった。
「冷めてるけど結構美味いな」
「美味しいよね。やっぱすき焼きには豆腐がないと」
 園田が熱く語る傍で、花火が次々に上がっていく。その度に彼女の顔が色とりどりの光に染まる。
 我が社の屋上には俺達二人しかいなかったが、隣のビルの屋上には数人の人影があった。営業課の窓を塞いでしまったあの因縁のビルだ。あちらの屋上からも花火がよく見えるようで、歓声を上げたのが聞こえた気がした。
「結構よく見えるのに、もったいないね。私達しかいないなんて」
 俺が割り箸でエリンギをつまんだ時、園田がふと呟いた。
 そちらを向くと、彼女は瞬きをしながら俺の顔を見ている。
「皆、花火見るより早く帰りたいって思うからな。一緒に見る相手でもいない限りは」
 首を竦めて答えた後、俺はエリンギを口に運んだ。独特の歯応えがなかなか美味く、すき焼きに入れるのも悪くないように思えた。
「なるほど……」
 園田が牛すき丼を食べながら、うんうんと頷いている。

 毎年、花火大会がやってくるのが憂鬱だった。
 社内でも、仮に早く帰れたとしても一緒に見てくれる相手がいるわけじゃない。お蔭でずっと縁遠いままだった。
 だが今年は園田と一緒に花火を見ている。
 いつか叶えたいと思ったことがようやく叶って、俺は少し不思議な気分でいた。隣に園田がいるのは嬉しい、だが彼女を誘って花火を見ればそれでいいということでもない。黙って花火を見ているだけでは何も変わらないままだ。
 営業課に園田を呼ぼうと考えていたあの頃とは違い、今の俺には園田に伝えなければならないことがたくさんあるのだ。
 いや、あの頃だって本当は、彼女に伝えておくべきことがたくさんあった。
 俺はそれらを伝えそびれて、園田を不安にさせてしまった。同じ過ちを繰り返してはならない。

 園田はどう思っているのだろう。牛すき丼を食べながら、時折ちらちらと俺を見てきた。何を考えているのかはわからないが、その視線が気になって仕方がなかった。
「昔は、営業課からも花火が見えたんだよな」
 彼女の視線を感じつつ、俺は懐かしい話を切り出した。
 すぐに園田が応じてくる。
「そういえばそうだったね。隣にビルが建っちゃったから見えなくなったって」
 件のビルの上では数人の人影が、やはり花火を鑑賞しているようだ。打ち上がる度に声を上げたり拍手をしたりと賑々しい。あちらのビルの窓からは花火が見えているはずなのだが、わざわざ屋上へ出たのは夏の空気ごと味わいたいと思ったからか、それともあちらも繁忙期で、オフィスじゃ花火をおおっぴらに楽しめる空気ではないのか。
 もっともこのビルが建ったお蔭で、俺は園田の二人きりで花火を見るという恩恵にあずかれたのだが。何が幸運をもたらすか、わからないものだ。
「じゃあ安井さんも、昔は仕事しながら花火が見られたんだね」
 園田の言葉に、俺は複雑な思いで頷いた。
「一応はな。毎年こんなふうに忙しいから、実際はそれほど余裕もなかったけど」
「でも音だけ聞くよりいいんじゃないかな。音だけって相当空しいよね」
「何か、世間から突き放されてる気分になるよな」
「本当。平日開催じゃ、普通の会社員には全くご縁がないもんね」
 どうして土日でやらないのかが不思議だ。学生さん達にとっては夏休み期間だろうが、社会人にとってはただの平日。何が悲しくて仕事をしながら花火の音を聞いていなければならないのだろう。
 しかし一口に社会人と言っても、土日が休みではない社会人もいるわけだ。不平を唱えるのもお門違いなのかもしれない。
 平日開催でなければ、今年はまだ、園田と一緒には見られなかっただろうし。
「営業課で花火が見られた頃にさ」
 続々と花火が打ち上げられる中、俺は思い出話を続けた。
「霧島が退勤後の長谷さんを連れてきたことがあるんだよ。花火見せたいって」
 園田はなぜか驚いたようだ。牛すき丼を食べる手を止め、聞き返してきた。
「それって、安井さんがまだ営業課にいた頃の話?」
「ああ。ちょうど例の、合コンを企画してた頃の話だ」

 思い返すと笑えてくる。
 失恋した石田の為にと大義名分を抱えつつ企画した合コンを、あの夜の出来事だけで諦めざるを得なくなった。それほど長谷さんが霧島に惹かれていることは明らかだった。俺なんて端から脈もなかったのだが、俺も石田もそれ以外にも何人かが落胆のあまり打ちひしがれる羽目になった。

 どうやら園田も察したようだ。愉快そうに目を輝かせて言われた。
「つまりそれで安井さん達は、長谷さんと霧島さんの関係に気づいたんだね」
「そういうこと。気づくも何も、わかりやすいってものじゃなかったけどな」
「安井さん達かわいそう。普通に『付き合ってます』って言われるよりきついね」
 園田に同情されるのは非常に複雑だった。完全に他人事のように言われたので、俺は当時の比ではなくへこんで、一瞬唇を引き結んだ。
「別に失恋したってほどでもないし、そこまででもなかった」
 見栄を張る俺を、園田は容赦なくからかってくる。
「嘘、結構しおしおに萎れてたじゃない。私は覚えてるよ」
 そこまで酷く萎れていた記憶は、俺の方にはない。
 多分、その直後にもっと深刻な失恋をしていたからだろう。
「そりゃ悔しいのはあったけど。そんなの覚えてるなよ」
 俺は園田の容赦のなさにむっとして、牛すき丼の残りを思いきり口の中へ頬張った。それを全部飲み込んでから、弁解のように言い添える。
「あの頃は長谷さんを狙ってた奴ばかりだったからな。誰も彼もが総じてショック受けてたよ」
 むしろ俺なんて、皆より傷が浅かったほうかもしれない。その直後に園田を怒らせ、お詫びをして、結果すぐさま可愛い彼女ができてしまったのだから――まあその半年後には誰よりも深手を負うことになったから、何とも言えないか。
「もしかして、それで今日、私を花火に誘ったの?」
 ふと、園田が思いついたような口調で尋ねてきた。
「安井さんが合コンの中止を決めたきっかけだから。そういうことじゃない?」
「そうだけど、それだけじゃない」
 俺は静かにかぶりを振った。
 そして花火がやむタイミングを見計らって、告げた。
「その次の年には、園田を誘おうと思ってたんだよ」
 園田が箸で焼き豆腐を持ち上げようとして、やめたのが見えた。
「霧島が彼女を招いたなら、俺が園田を呼んだっていいだろうと思った。むしろ、そうしたかった」
 そこまで話すと俺は溜息をつき、器に残っていた牛すき丼を全て片づけた。

 これから先の話は、食べながらではない方がいい。そのくらい大切な話だ。
 俺達は昔に遡って、何もかもやり直さなくてはならなかった。

「夢を見てたんだよ」
 あの頃は、些細なことが嬉しくて、幸せだった。
 例えば髪を切った時。園田に勧められて髪を切って、その後でわざわざ見せに行った俺を園田が誉めてくれた時、すごく嬉しかった。たったそれだけのことで気分が軽くなって、園田をドライブに誘った。あの日の俺はいつになくはしゃいでいたように思う。
「霧島が長谷さんと付き合ってる間にしてた社内恋愛っぽいことを、俺もしてみたくなったんだ」
 空になった丼に蓋をして箸は箸袋にしまう。
 それから俺は花火の光が広がる夜の空を見上げた。
 二人で見る花火は思いのほか儚く、切なく映った。打ち上げられた花火がきれいだ、美しいと思ってもすぐに原形を留めず消えてしまって、後には何も残らない。腹の底に響くような音も一瞬だけで、次に花火が上がるまでの時間はかえって静まり返っているように思えた。
「正直、あいつがそういうことやってるのを見た時は、ちょっと馬鹿にしてたところもあった。いい年して社内公認のお付き合いなんて周りに醜態を晒すようなものじゃないかって。俺なら周りにうるさく言われながら付き合うのは面倒だし、結婚するまで秘密でもいいくらいだと思ってた」
 霧島は隠し事が下手だ。あれだけ真面目な人間だからこそこそするのも嫌なんだろうが、それで皆に突っ込まれてむきになっているんだから手に負えない。それならそれでからかう連中に惚気返すくらいのことはすればいいのに、それすらできない。そういう霧島のことを、仕方のない奴だと密かに思っていた。
 俺だったらあんな無様な真似はしない。
 霧島にも、石田にも、そんなことを何度となく思った。
 言うまでもなく、今となっては俺が一番無様だ。
「でも実際に自分が同じ会社に彼女作るとさ、そういうのも悪くないなって気になってくるんだよ。単純だろ?」
 俺は懐かしさに少し笑んだ。
 園田と付き合うようになってから、霧島の不器用さにも納得がいくような気がしていた。園田は可愛くて、朗らかで、一緒にいると気分がすごく弾んで――だから俺も一緒にいる時は馬鹿みたいに浮かれたりはしゃいだりして、二人の時間を楽しんだ。園田が俺自身すら知らなかった俺を引き出してくれて、俺は今までしたことがなかったような恋愛を園田としてきたのだと思う。
 ありふれていて平凡でとても格好よくなんかない、だが真面目で一途で素直な恋だった。
「皆に冷やかされつつ一緒に帰ったり、社内で会った時に手を振ってもらったり、花火見せる為に営業課まで連れてきたり、そういうのを俺も園田とやってみたかった」
 可愛い彼女を見せびらかしたかった。
 一言でいえば、それだけなのかもしれない。
 園田は皆に知られたくなかったようだが、俺はそのうち知られてもいいと思っていた。そろそろ石田に打ち明けようか、などと考えたこともあった。後になって別の意味で、誰かに話しておけばよかったと思うようになったが、その時には何もかもが遅かった。
「意外と可愛い憧れ持ってるんだね」
 彼女は驚いたようだ。心底意外だと思っているらしいのが声音から読み取れた。
「まあな。それでいて俺は見栄っ張りだから、そういうことに憧れつつもすぐには踏み切れなかった」
 俺は照れ笑いを噛み殺しながら続けた。
「園田といる時の俺は、普段の俺とは違うように思ってたから余計に。石田にばれたら散々にからかわれるだろうし、霧島にも日頃の仕返しとばかりにいろいろ言われるだろうし、営業課の連中はそういうネタ大好きなおっさんとおっさん予備軍ばかりだし」
 もっと早く、決断しておけばよかったのかもしれない。
 例えば石田辺りにでも恥を忍んで打ち明けていたら、違う結末が訪れていたのかもしれない。
 だが俺は誰にも言えなかった。振られた後すら口を噤んでいた。誰かに聞いて欲しいと思ったことも一度や二度ではなく、だが張り裂けそうなほど溜め込んだ思いを俺は自ら飲み込むしかなかった。
「結果的にはそれ以前の問題で、花火の日には呼べなかったけどな。お前とは別れてたし、それでなくてもうちの隣には新しいビルが建った」
 そして俺は営業の人間ではなくなった。

 何もかもが変わってしまって、もうあの頃には戻れない。
 だからやり直したいなら、俺達は前に進むしかなかった。
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