Tiny garden

彼女に似合うこと(3)

 花火は上がり続けている。
 俺達が口を開こうと黙り込もうとお構いなしで、空に光を広げてから腹の底に響くような音を立てる。

 だから俺も、今更言葉を止めはしない。
「今だから言うけど、お前と別れた時も、舐めてかかってたところはあるんだ」
 ここまで来たら包み隠さず話してしまうつもりだった。
「俺は大した理由じゃないと思ってた。だからその気になれば、いつでもよりを戻せる気でいた」
 後悔はしている。今でも時々、あの時彼女の手を離さずにいたら、と思う。
 でもできることなら、こんな時間も俺達には必要だったと思えるようになりたい。
「私には、大した理由だったんだよ」
 園田は大切にとっておいた焼き豆腐を食べてしまって、空の器に蓋をした。その考えは今でも揺るぎないもののようだ。
 彼女の頑なさに俺は苦笑した。
「今振り返っても別れるほどの話には思えない。だって俺は喜んでたんだから」
 ぴくっと園田の身体が反応した。
 短い髪を揺らして勢いよく面を上げ、とっさに聞き返してくる。
「喜んでたって、何を?」
「園田から『寂しい』ってメール貰って、すごく嬉しかった」
 三年前の一月十日。残業を終えて帰ろうと乗り込んだ自分の車の中で、俺は園田がくれたメールを見た。
 あの時の気持ちは今でもはっきり覚えている。その後に起きた出来事も含めて、きっと一生忘れられない。
「気を遣ってくれてるなら――」
 園田がそう言いかけたので、俺は眉を顰めてそれを制した。
「遣ってない」
「安井さんは優しい人だから、迷惑だったなんて絶対言わないでしょ?」
「本当に迷惑じゃなかったんだよ」
 彼女の言う『優しい人』に俺は当てはまらない。
 そりゃ俺は見栄っ張りだろうし無駄にプライドが高いと弟から言われているし、おまけに想像力の足りなさから判断を誤るタイプだと石田にも言われたし――よくよく考えれば散々な評価を頂戴してはいるが、でもこの点だけは誤解して欲しくない。
 俺は優しさだけで園田に接してきたわけじゃないんだ。
「あの時、年明け早々に異動の告示があって、引継ぎだの挨拶回りだの俺はめちゃくちゃ忙しかった」
 やり直しをする為に、俺は記憶を丁寧に手繰り寄せていく。
「忙しい時こそ、無性に園田に会いたくなった。仕事終わってくたくたのまま部屋に帰って、あんまりにも疲れてて食欲もないって時でも、園田の顔見たら元気になれる気がしてた。本当に毎日、会いたくてたまらなかった」
 一緒に暮らせたらいいのに、と思うくらいだった。

 あの頃、一息つく時間ができる度に想像していた。
 隣に園田がいる生活。一緒の部屋で暮らしていれば、忙しかろうが疲れていようが彼女と共に過ごすことができる。あの明るい、あっけらかんとした笑顔が傍にあるだけでどんな疲れも、あるいは悩みや鬱屈さえも、たちまち吹き飛んでしまうだろう。たとえ俺の帰りが遅くなっても、先に眠っている園田の寝顔を見られたらそれだけでとても幸せなことだ。
 わざわざ時間を作らなくても、ふと顔を上げたら隣にいつでも園田がいる毎日。一刻も早く、そういう暮らしをしたかった。
 そういう想像だけが、異動を控えたあの頃の俺を支えていてくれた。

「でも、遅く帰った後で会いに行くのは悪いと思ってて――」
 言いかけて、それも見栄を張っているだけだと気づき、首を横に振った。
「いや、それも格好悪い気がしてただけかもな。一分でも、ほんの一目でもいいから会いたいなんて言ったら、まるで園田に縋ってるようで無様だろ? それで自制してた」
 そこで園田が口を開こうとしたけど、軽く手を挙げて押し留める。
 彼女が何と言うかはわかっている。
『そんなことなかったのに』
 きっとそう言ってくれただろう。今でも、あの頃だってそうだったに違いない。
 わかっていたのにいざという時に頼ったり、縋ったりできなかったのも、結局は俺のせいだ。
「だから園田がメールをくれた時、会いに行く口実ができた、って思った」
 そのメールを目にした時、心臓を握り潰されたような感覚が走った。
 園田にそこまで言わせてしまったことを申し訳なく思いながらも、俺は密かに喜んでいた。
「誕生日はぎりぎり終わっちゃったけど、園田が寂しがってるんだったら会いに行けばいい。園田の顔を見たら、明日からの仕事も乗り切れると思った。すぐに車に乗って、園田の部屋まで行ったんだ」
 園田に会える。
 ほんの短い間でも会って『誕生日おめでとう』を言える。プレゼントは車に積んでいたから問題もなかったし、髪を切っておいてよかったとも思っていた。連日の引き継ぎ準備で俺はあちこち擦り減らしていて酷い有様だったけど、髪型だけはそこまで酷くない。これが昔のような長めの前髪だったら、垂れ下がってますますくたびれた姿に見えたことだろうから。
 でも、実際はどうだったんだろうな。園田が泣くくらいだ、俺が思う以上に酷くて、みっともなくて、無様な姿をしていたのかもしれない。
「そしたらまさか、あんなに泣かれるとは思わなかった」
 そこまで語ると、園田は堪りかねたように俯いた。
 睫毛を伏せて、振り絞る声で言った。
「あの時は、ごめん」
「謝るなよ。迷惑じゃないって言っただろ」
 俯く園田の背中が小さく見えて、俺も思わず手を添えた。
 思い出話は楽しいものばかりでもない。話していれば悲しい気持ちになることもある。お互いにすれ違っていたなら尚更だ。
 園田の背中は温かかった。手のひら分の面積しか触れていないのに、変わってないなとなぜか思えた。
「私、本当に、全然知らなかった」
 彼女は愕然としているようだ。嘆くように呟いている。
「園田が思いのほかショック受けてたみたいだから、後でじっくり話すつもりでいた。結局話す暇もないままだったけどな」

 泣きじゃくる園田を前に、俺も途方に暮れていた。
 どうすれば泣き止んでくれるのかまるでわからなかった。俺なりに言葉を重ねても、キスしても、抱き締めても駄目だった。
 でも今ならわかる。
 あの時、俺達にどんな言葉が必要だったか。

「別れようって言われた時も、俺はそうなるだろうなって思ってたんだよ」
 そう言って俺が腕時計を見たのと同じタイミングで、園田が顔を上げる。
 俺が屋上へ上がってから、もう十分が過ぎていた。残りの時間はわずかだ。
 話を続ける。
「園田はあれ以来俺を避けてたからな。でも俺にはフォローするだけの余裕も時間もなかった。だから一旦冷却期間を置くのも手だと、園田の言う通りにしたんだ」
「私は何もかも終わらせたつもりでいたよ」
 つれない言葉の割に、寂しげな口調で園田は言う。
 俺も、弱く頷いた。
「だろうな。大分長いこと避けられてたし、後から失敗だったかもって悔やんだほどだ」
「安井さんには迷惑かけたくなかった。せっかく付き合ってもらったんだから」
「付き合ってもらったなんて言うなよ。俺も好きで付き合ってたんだ」
 その気持ちはずっと俺の中にあったのに、園田には一向に伝わっていなかった。
 そして俺は、今も園田が好きだ。またやり直して、傍にいてもらえたらと思っている。
「ただ、いつでもやり直せるって見込みは甘かったな。気がついたらもう、こんなに時間が経ってた」
 俺が苦笑すると、園田は気落ちした様子で深く息をついた。
「何か私、安井さんのこと全然わかってなかったんだなあ……」
「あの時点で四ヶ月ちょっとの付き合いだろ。理解してる方がおかしい」
 しかもその四ヶ月の間、俺は往生際悪く彼女に見栄を張り続け、それを打ち捨てて本性を晒す覚悟ができなかったのだ。俺の見栄の張り具合も全く大したものだと思うし、俺の本心を見破るなんて超能力者でもないと無理だっただろう。
 でもこれからはもっとわかりやすい自分でいよう。格好悪くても、園田には俺をわかっていて欲しい。
「それにこうしてやり直せてる。俺はそれだけで十分だよ」
 俺は園田に声をかけると、もう一度腕時計を見た。
 あと二分。話したいことは大体話した。最後に何を告げようか、俺は考えていた。
 考えながら彼女を促した。
「そろそろ時間だ。少しだけ、花火見よう」
「うん」
 園田は答えたが、横顔が物憂げだった。子供みたいに寂しそうな顔をしている。彼女は下唇がほんの少し厚いから、笑っていないと余計に寂しそうに見える。
 そんな園田を、俺は今でも可愛いと思っている。
 手を伸ばしたのは、園田に思い出して欲しかったからだった。身体が覚えているのはわかっていたから、膝の上に置かれていた園田の手を掴んだ。意外と小さな手をぎゅっと握りしめてみる。
 彼女の背中は温かかったのに、手はひんやりと心地よい冷たさだった。もしかすると俺の手が熱くなっているのかもしれない。昔から、彼女の手に触れる時はいつもそうだった。
 俺の身体は覚えている、園田の小さな手の冷たさを。彼女も俺の手の熱さを覚えていることだろう。
 園田が、弾かれたように俺を見る。
 俺はあえて彼女を見ずに、笑っておく。
「あと一分だけ。それまでは貸してて」
 意外にも園田は俺の頼みをすんなりと受け入れてくれた。
 俺達は手を繋いで、夜空を照らしては消えていく花火を眺めた。

 就職してからずっと縁のなかった花火だが、いざこうして目の当たりにすると、見ていて楽しいという気はしなかった。
 むしろ切なかった。
 終わりがあること、繋いだこの手を離さなければいけない時間がやってくることをどうしても忘れることができないからだ。離したくない、俺はずっとそう思っているのに。
 霧島や石田はかつて、どんな思いでこの花火を見たのだろう。これから始まる恋の予感に浮かれていたのか、それとも既に恋に落ちていて花火を見ているどころではなかったのか。当人達に聞くとただの惚気話にしかならないだろうし、あえて聞くことでもない。
 俺はとてもではないが浮かれていられる余裕はないし、だが恋には既に落ちている。園田の手を握り締めつつ、この手を離すあと数秒後のことを考えている。
 離したくなかった。
 もう一言、何か言おうと思っていた。

 一分間が驚くべき速さで過ぎ去ると、俺は園田の手を離さなければならなくなった。
 彼女が再び寂しそうな顔をしてくれたことだけが救いだった。
「花火、一緒に見られてよかったよ。夢が叶った」
 最後の言葉は何にしようか迷った。だが考えた末、感謝を告げることにした。
 これがやり直しの最初の一歩だと思う。だから、園田が付き合ってくれて、嬉しかった。
「こちらこそ。あの……何て言うか、話聞けてよかったよ」
 園田は言いにくそうにしながらも、割と素直にそう言ってくれた。
「あの時メール送ったこと、後悔してたから。それ自体が悪かったんじゃないってわかって、よかった」
「園田は何も悪くないよ」
 慰めでもなく俺は言ったが、園田はきっぱりとかぶりを振った。
「ううん。私は安井さんのこと、何もわかってなかった。私のせいだよ」
「これからまた、じっくり知っていってくれればいい」
 俺はそう告げて園田を見つめた。
 見栄もプライドも捨てた本当の俺を知ってくれたらいい。その上でもう一度、好きになってくれたらいい。
 ところが園田は急に頬を赤くした。直後に上がった花火は白っぽいグリーンに光っていたのに、園田の顔は明らかに赤かった。そして赤面したのを誤魔化すみたいに蓋を閉じた丼や割り箸をいそいそとまとめ始めた。
「これ捨てとくね。安井さんは先に戻って」
 こういうところも変わってない。彼女らしい、わかりやすい逃げの打ち方だ。
 もっとも俺の残り時間ももうない。余裕があればもっと攻め入るところだが、そろそろ憂鬱な仕事の元へ戻らなければならない。せめてもの抵抗で尋ねてみた。
「一緒に戻らないのか」
「さすがに、これは見られたらまずいかなって思うから」
 そこで園田が微妙な顔をしていたら食い下がるところだった。しかし彼女が可愛らしい照れ顔で言ってくれたので、それならいいかと自分を納得させることにする。
「わかった。あ、弁当代は……」
「今度でいいよ。もう時間ないでしょ?」
 腕時計を何度も見ていればさすがにばれるか。園田が言ってくれたので、俺はひとまず仕事に戻ることにした。
 一足先にベンチから立ち上がる。
「後で必ず払う。それと、今夜はありがとう」
「こちらこそ。いろいろありがとう」
 そしてエレベーターへと向かう俺に、彼女がそう声をかけて見送ってくれた。
 今夜はお互い、胸中を打ち明けあうことができた。デートと呼ぶには色気がなかった気もするが、手も繋げたしよしとしよう。さて、次は何に誘おうか。繁忙期を過ぎたら今度は別の形で何か――。
 そんなことを考えながら、花火と園田に背を向けて歩いていると、
「また、時間見つけて話がしたいな。私……」
 不意に園田が、花火の音にかき消されそうな声で言った。
 小さな声ではあったが、ちゃんと俺の耳に届いた。呼び止められたようにも感じた。
 思わず振り向くと、園田は一瞬気まずそうにした。
 だがすぐにはにかんで、こう言った。
「すれ違ったままなんて、私も嫌だから。ちゃんと話をしよう」
 園田らしい、真っ直ぐな言葉だった。

 彼女はいつもそうだ。
 恥ずかしがり屋ですぐに照れてたびたび逃げを打とうとする割に、一番大切な言葉だけはいつもはっきりと口にする。その時だけ、何かが彼女を勇敢にさせているようだ。
 見栄やプライドと戦い、抗いきれない俺とはまるで対照的に、彼女は自転車を漕ぐ時と同じ身軽さで素直な言葉を口にしてくれる。
 そして俺はその言葉に、いつも背を押してもらっていた。

「ああ」
 俺は頷いた。
 だけでは済まなかった。園田の言葉に強く背を押された俺は残り時間がなくなったことさえどうでもよくなり、すぐに踵を返して彼女の元へ戻っていった。仕事はこれからその分の時間をかけて片づければいい。でも今は、この屋上から立ち去ったら花火と同じように掻き消えてしまう。
 今だと思ったら、その瞬間を手放してはいけない。
 ベンチの傍に立って後片づけをしている園田の前へ戻ると、彼女は戸惑った様子で俺を見上げてきた。俺自身がどんな顔をしているかはわからない。恐らく余裕のない顔はしていると思う。でも見栄を張る暇はない、これでいい。
 そう思い、園田をがばっと抱き締めた。
「え、え、な、何!?」
 うろたえる園田の声が俺の腕の中に、顔を押しつけられている俺の胸に響いている。
 本当に彼女が俺の中へ入り込んできたような錯覚を覚える。空に上がる花火の低い音も、俺達の身体を貫くように響いた。
 久々に抱いた園田の身体は記憶に残っていた通りに柔らかく、温かった。ほんのりと懐かしい香りもした。
 あれほど長く考えていたくせに、今は言いたい言葉がすぐに思い浮かんだ。
 耳元で囁く。
「お前が俺のところに戻ってきてくれるなら、何でもする」
 あの頃は、縋りつくことすらできなかった。
 だが今、俺は園田に縋った。無様でもいい、みっともなく見えていてもいい、園田が欲しくて、取り戻したくて仕方がなかった。本当は今も、抱き締めているこの身体を二度と離したくない。
「園田に、傍にいて欲しいんだ」
 彼女は俺の言葉をどう聞いただろう。唇を寄せた耳元に熱を感じたような気がした。
 二度目の囁きの後で腕を離すと、園田はよろよろと危なっかしい姿勢で後ずさりをした。短い髪から覗く耳まで赤くなった園田を見ていると、離しがたい気持ちが再び込み上げてくるようだった。俺は笑おうとしたが、上手く笑えていなかったはずだ。
「じゃあ、俺は先に戻るよ」
「う、うん……」
 園田がぎくしゃくと頷くのを目の端に見て、俺は再びエレベーターへ足を向けた。
 もっとゆっくり来てくれてもいいのに、エレベーターはすぐにやってきた。乗り込んで扉が閉まるまでの間は妙に空ろな気分だった。エレベーターの壁に寄りかかり、ゆっくりと下降する数秒間、目を閉じた。

 彼女が離れて寂しいのに、少し誇らしい気分なのはどうしてだろう。
 誰かに思いきり誉めてもらいたいと思った。
 どうだ、俺だってその気になればやれるんだ。
 園田の為なら何だって捨てられる。彼女を取り戻す為なら何でもできる。俺はそれを十分すぎるくらい見せつけてやる。誉めてもらいたい相手だって、結局はたった一人だ。
 もしかしたら後で、恥ずかしいことをしたなと一人で赤面でもするかもしれない。隣のビルに人もいたはずだし、全く目に入ってなかったがもしかしたら見られていたかもしれない――あの距離では我が社のどの社員かなんてわからないだろうから、いいか。

 今は胸を張っていよう。
 俺は、本当に言うべきことを言えたんだ。
PREV← →NEXT 目次
▲top