ボーイズアンドガールズ(2)

 山中にある旅館だけあって、露天風呂から見える景色も山林ばかりだ。
 もうもうと立ちのぼる湯気が岩壁を越え、辺りを囲む鬱蒼とした木々の間を流れていく。小雨が降り続いているからか、山林からは濡れた木の香りが微かに漂っていた。もっともそれは湯の匂いに比べたら本当にごくわずかなもので、雨が時折小さな波紋を作る茶褐色の湯は、鉄が錆びたような独特の匂いがする。含鉄泉というらしい。
 小さな旅館の『大浴場』が大きいはずもなく、俺達がいる露天風呂は十人がぎりぎり入れるかどうかという広さだ。
 しかし幸いなことにただでさえお客さんが少ない閑散期、少し早めの午後三時過ぎ、そしてこんな雨の中で露天風呂に入りたがる人はそうそういないようで、現在は俺達三人の貸し切り状態だ。俺も石田先輩も安井先輩も、足を伸ばしてのんびり湯に浸かることができた。

 そして雨も気にせず露天風呂へやってきた人達は、竹柵の向こうの女湯にもいる。
「こうして温泉浸かってると、お腹が空いてくるね」
「空きますよね! 私、ここのお夕飯がとっても楽しみだったんです!」
「写真見る限りめちゃくちゃ美味しそうだったもんね。期待しかないよね」
 ゆきのさん、藍子さん、伊都さんの声がする。
 どうやら向こうも貸し切り状態のようで、水音にまじって聞こえてくるのははしゃぐ三人の会話だけだ。
「確かに美味しそうな料理ばかりだったね、ここの会席プラン」
「鱧鍋! そしてロースステーキでしたね!」
「焼き茄子豆腐と湯葉の炊き合わせもあったよ!」
「すごい、二人ともメニュー覚えちゃってるんだ」
「それはもう食べたかったですから!」
「旅の醍醐味の半分は食事と言っても過言じゃないからね!」
 男湯と女湯を隔てるのは背の高い竹柵だけだから、会話は漏れ聞こえるどころかダイレクトに響いて聞こえる。向こうは実に楽しそうで、そして賑やかだった。

 一方、男湯は不気味なくらいに静かなものだった。
「あいつら、食べ物の話ばかりだな……」
 安井先輩がぼそりと呟いたので、俺は笑って応じる。
「いいじゃないですか、健康的で」
「しいっ」
 ところがそんな俺を、石田先輩は唇の前に指を立てて制した。
「静かにしろよ霧島、聞こえないだろ」
「いや、なんで聞き耳立ててるんですか」
「女湯の女子の会話に聞き耳を立てるのも『修学旅行あるある』だからだ」
 石田先輩は勤務中にも見せないような真顔で言い放つ。
「女湯と言えば俺らにとって未知の領域……まさに秘密の花園だ」
 何言ってんだこの人。
 俺の表情から疑問の色を読み取ったのだろう、石田先輩は声を潜めて語る。
「そこで繰り広げられる女子だけの密やかな会話、男だったら気になるだろ?」
「先輩、真顔でものすごい馬鹿なこと言ってるって自覚あります?」
「馬鹿とは思わねえな。なぜならこれは男の性のなせる業だ」
 そんなくだらない性を自慢げに言われましても。
 俺が呆れて溜息をつくと、茶褐色の湯の水面がにわかにさざ波立った。六月にもかかわらず、天候のせいか戸外の気温は少し低めだ。その分、湯の中は温かくてとても心地いい。ずっと浸かっていたくなる。
 しかし先輩がたはせっかくの温泉よりも気になるものがあるようで。
「だけど、思ってたよりときめく会話はしないんだな」
 安井先輩もすっかりその気で、竹柵に耳を張りつけ向こうを窺っている。
「女子だけだとガードが甘くなって、もっといちゃいちゃするものかと思ってた」
 この人もこの人でなかなかにネジの抜けたことを言う。
 まさかと思うけどお二方は女の子達が女湯で、
『わあ、伊都さんってお肌すべすべ……』
『きゃっ、藍子ちゃんったらくすぐったいよもう!』
 みたいなやり取りをしているとでも思っているのではあるまいな。こんな台詞が即興で思い浮かんでしまう俺も俺だけど、しかしこの人達ほど馬鹿ではない。
 断言してもいい。そんな女子はいない。俺でもわかる。
 いないと思う。多分。
 ともかく、女湯というのは俺にとっても未知の領域であって、幼稚園生の頃には何度か母親に連れられて入ったことはあるものの、当時の記憶が鮮明に残っているはずもない。この背の高い竹柵の向こう側が一切気にならないと言えば、さすがに嘘になる。だけどいい大人になった俺達に縁のある場所でもないだろう。
「あんまり行儀のいいことじゃないと思いますよ」
 とりあえず苦言を呈したら、二人からは同時に非難がましい目を向けられた。
「何だよ霧島、一人だけいい子ぶりやがって」
「そうだぞ、一人だけ眼鏡かけやがって」
「眼鏡は関係ないでしょう!」
 温泉はもちろん、自宅のお風呂でも俺は眼鏡をかける。湯気で曇ると見えづらいのも事実だけど、眼鏡がなければもっと見えなくなるからだ。シャンプーとボディソープを取り違えるくらいならまだ可愛いもので、足元の落下物に気づかず転んだり、うっかり何の覚悟もなく水風呂に突入しては困る。
 露天風呂へ出てくる前に湯で洗ってきた眼鏡は、今のところ曇らずにいくつか水滴を浮かべているだけだった。
 お蔭で先輩がたの姿もよく見える。別に見たくないけど。
「大体、何ですか『修学旅行あるある』って。どんな修学旅行してきたんですか先輩がた」
 俺がやり返すと先輩がたは濡れた髪の顔を見合わせ、
「何言ってんだ。十代の頃と言えば思考の九割が女子のことだっただろ」
「ましてや旅先だからな。普段と違うあの子の姿にどきっとしちゃうのもむべなるかな」
「十代どころか、今だって何一つとして変わらないじゃないですか」
 恐ろしいほど全く何にも変わってない。
 石田先輩も安井先輩も、どんな学生時代を過ごしてきたか容易に想像がついてしまう人達だ。

 もっとも、俺だって変わったのかどうか。
 学生時代は何となく女子が苦手で、特に甘酸っぱい思い出などもなく、当然ながら修学旅行は至って真面目に修学しただけだった。枕投げくらいはした覚えがあるものの、先輩がたの語る『修学旅行あるある』に比べたら実に地味なものだ。あの頃から俺は無駄に真面目で、融通の利かない性格をしていた。
 でも、変わったと思うことが二つだけある。
 一つは、学生時代の真面目で融通の利かない俺なら絶対に友達になれなかったであろう人達と仲良くなっていること。昔の俺なら石田先輩のような人は遠巻きにして近づかなかっただろうし、安井先輩のような人とも話が合わなかっただろうと思う。学生時代の俺なら一線を引いていたであろう人達と、仕事を通じて妙に仲良くなって、一緒に飲んだり奥さんや彼女を紹介しあったり各々の結婚式に出たり、はたまたこうして一緒に温泉に浸かってこれから同じ部屋に寝泊まりしようというのだから人生わからないものだ。
 そしてもう一つは、昔ほど女の子が苦手ではなくなったこと。
 今の俺にはきれいでよく気が利く奥さんがいて、俺はその人と暮らす毎日を無上の幸せだと思っている。女子ってなんであんなに偉そうなんだろう、なんてぼやいていたのも遠い昔のことだ。大人になってみると女の子は皆可愛いし、その中でもゆきのさんほど一緒にいて心安らぐ人はいない。
 学生時代の俺が今の俺を見たら、きっと驚くんじゃないだろうか。

 そんなことを茶褐色の湯の中でぼんやり考えていたら、
「あっ、動いた!」
 竹柵の向こうの女湯でも驚きの声が上がった。
 ふと意識をそちらへやると、女性陣の楽しげな会話が聞こえてくる。
「お風呂が好きみたいで、こうして時々お腹を蹴るんです」
「わあ……! ぽこぽこ蹴ってますね、可愛い!」
「すっごい元気な子だね。もう性別ってわかってるんだっけ?」
「いえ、まだなんです。どっちでもいいように名前は両方考えました」
「楽しみですね! 赤ちゃん、絶対すごく可愛いだろうなあ」
「可愛いだろうねえ。足腰も強そうだし、言うことなしだよ」
 どうやら、ゆきのさんが他の二人にお腹を触らせているらしい。
 お腹の子が盛んに動き出すようになったのはつい最近のことで、時にはゆきのさんが息を呑むほど強く蹴られるらしい。俺も何度か触らせてもらったけど、確かに思いのほか強烈に蹴り返されて、我が子の自己主張の強さに無性に感動してしまった。
 でもまさか、藍子さんや伊都さんにまで触らせるとは思わなかった。
 まさに安井先輩の言う通り、女の子同士だとガードが甘くなる、ということなのだろうか。
「何をにやにやしてんだ、霧島」
 石田先輩が俺の顔を見たかと思うと、からかうようにそう言った。
 いきなりの指摘に俺はついうろたえる。
「し、してないですよ」
「って言うか、お前も普通に聞き耳立ててるじゃないか」
 更に安井先輩にも指摘されて、俺は慌てた。
「違いますって。たまたま聞こえてきたから――」
「お前、俺と安井には散々言っといて、自分は盗み聞き堪能してんじゃねえか」
「出たな、普段真面目な奴ほどむっつりな法則。霧島は全くしょうがないな」
「先輩がたに言われたくないです!」
 一緒にしないで欲しい。俺は別に変な気持ちで聞き耳を立てていたわけではなく、ただ三人のやり取りが微笑ましいなと思って耳を傾けていただけだ。先輩がたのようにやらしい気持ちで女湯の様子を窺っていたわけでは決してない。
 だというのに先輩二人は攻撃の手を緩めることなく攻め立ててくる。
「もうじきパパになるんだろ。ちょっとは落ち着いた方いいぜ」
「そうそう、俺達のようにな。歳相応の大人になれよ、霧島」
「どの口が……先輩がたのどこが落ち着いてるっていうんですか!」
「その分厚いレンズ越しによく見ろよ。俺の堂々とした風格、立ち居振る舞いを」
「俺は常に冷静沈着だろ。じゃなきゃ人事課長なんてやってられないからな」
「お二人とも奥様の前じゃ常に浮かれまくりの思春期全開じゃないですか!」
 揃って三十をとうに過ぎているというのに、このお二人の恋愛における浮かれよう、はしゃぎようったらなかった。堂々とした風格、立ち居振る舞い、冷静沈着――そんな単語がかすりもしないような暴走ぶりだった。
 いや、『だった』とするのは尚早か。今もだ。現在進行形だ。
「何言ってんだ。俺は藍子の前じゃいつも『格好いい隆宏さん』を維持してるぜ」
 石田先輩が洗いたての髪をかき上げれば、
「俺も浮かれ気分は卒業だよ。伊都にとって恥ずかしくない夫でありたいからな」
 安井先輩が湯の中で胸を反らす。
 この人達には一体どれだけ自分のことを上げておく棚があるのだろう――俺が呆れて二の句も告げなくなった時だった。
 不意に竹柵の向こう、女湯から三人分のくすくす笑いが聞こえてきた。
 思わず振り返る俺達に、
「巡くん、そっちの会話、聞こえてるんだけど……!」
 伊都さんが笑いに声を震わせながら言い、安井先輩は目に見えてぎょっとした。
「聞いてたのか!? そ、それならそうと早く言ってくれよ!」
 自称していた冷静沈着さはどこへ消えたのか、あえて語るまい。
「あの、隆宏さんはいつも格好いいと思いますっ!」
 藍子さんからはちょっと必死そうな言葉が飛んできて、石田先輩はにやつく口元を手で隠す。
「ありがとな。ナイスフォローだ、藍子……!」
 今のこの緩みきった顔を見ても果たして、格好いいと言ってもらえるかどうか。
 考えてみれば、女湯の会話がこちらに聞こえてくるのだから、男湯の会話が向こうに聞こえてしまうのも当然のことだろう。俺達はいつの間に声を潜めるのをやめてしまったのか。迂闊だった。
 そして男から見た女湯が未知の領域であるのと同じように、向こうにいる彼女達から見た男湯も、やはり謎多き禁断の場所なのかもしれない。三人とも箸が転がってもおかしい年頃みたいに、ころころと愉快そうに笑っている。
 その様子がいかにも『女の子』という感じで、やっぱり可愛いなと思う。
「映さん、そっちもすごく楽しそうですね!」
 ゆきのさんが、笑いながら俺に声をかけてきた。
 俺は答えに迷った。
 だけどここは大人になっておくかと、竹柵と立ちのぼる湯気の向こうへ答える。
「お蔭様で、すごく楽しいです」

 それからは先輩二人がちょっとだけおとなしくなってくれたので、ゆっくり温泉だけを堪能することができた。
 大変いいお湯でした。

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