Tiny garden

秋深き、隣は君(3)

 実際に自転車通勤を始めたのは十月の終わりのことだった。
 約一ヶ月の間、週末に集中して練習を重ねたお蔭か、会社までの距離を走るのにも慣れてきた。自信がつくと上を目指したくなるのは人間の性というやつで、俺もぼちぼち本番を試したくなってきた。

「私もそろそろいいかな、って思ってたんだ」
 伊都もそう言って、太鼓判を押してくれた。
「巡くんもかなり走れるようになったし、一度試してみてもいい頃かなって」
 ただし、今回は休日にする楽しいサイクリングではない。最大の懸念は約十キロを走った後で仕事になるかどうか、そしてその仕事の後に同じだけの距離を走って帰れるかという点だった。
「もしどうしても帰りは漕げないってなったら、置いて帰るのも手だよ」
 俺の懸念を聞いた伊都は、思ったより軽い口調で答えた。
「置いてくのか? 大丈夫かな……」
 ロードバイクは安いものでもないし、俺自身この愛車をとても気に入っている。購入に当たって吟味に吟味を重ねたのだから当然だ。そうなるとやはり恐ろしいのは盗難であり、伊都が毎日部屋の中へ持ち込んで保管する心情がようやくわかった。
 我が社の地下駐車場は当然ながら屋内にあり、深夜になると出入り口が閉鎖するようになっている。社員のマイカーのみならず社用車なども停まっているからだ。だから不逞の輩が外部から侵入することはないと思うのだが。
「大丈夫だよ、私も置いてったことあるけど全然無事だったし」
 伊都は苦笑し、首を竦めた。
「仕事で疲れて、どうしても走れない日もあるよ。そういう日は無理しないこと」
 そして俺に言い聞かせるように、優しい口調で続ける。
「それとね、大事なのは、毎日続けようって思わないこと」
「毎日やらないと駄目なんじゃないのか?」
 予想外の言葉に俺は聞き返した。
 スポーツは毎日練習を積み重ねていくもので、一日のサボりが何日分かのリセットになる――なんて文言を昔、どこかで読んだ気がする。そうでなくとも継続は力なり、続けることに意味があるのかと思っていた。
「もちろん続けるのも大事なことだよ」
 伊都は俺の目を見て頷く。
「できるならその方がいい。だけどね、ちょっとでも辛かったり苦しかったりしたら一日でも何日でも休んでいいんだよ。これは趣味なんだから」
 自転車について語る時の彼女は真剣だった。
 彼女にとっては本当に大切で、心から愛している趣味なんだろう。
「走るのが楽しいって感じたら、『続けよう』なんて思わなくても自然と続くよ」
 彼女の言葉は確かに腑に落ちるものだった。
 自転車に乗る楽しさを、俺はまだほんの少し味わったばかりだ。その楽しさの半分くらいは『伊都と一緒に走る楽しさ』かもしれないが、これからもっと深く知り、味わっていくことになるのだろう。いつかは『続けよう』なんて思わなくても乗りたくなるようになるのかもしれなかった。
「だから、初めのうちは気楽にね」
 伊都が笑いかけてきたので、俺はすかさず顎を引く。
「それなら任せてくれ、気楽にやるのは得意だ」
 真面目にやるよりはそういう心持ちでいる方が俺にも向いているはずだった。続けようと思うのではなく、自然と続くようにする。それも自転車で走る楽しみをもっと知ることで叶うはずだった。
「にしてもお前、心構えを説くのが上手いな」
 俺は伊都の言葉に感心していた。経験者だからというのもあるだろうが、素人に『それならできる』と思わせるのが上手い。
「いいコーチがいてよかったよ」
 誉めると彼女はたちまち照れて、はにかみ笑いを浮かべてみせた。
「そ、そう? 巡くんにそう言ってもらえると嬉しいなあ」
「新人指導も向いてそうだな。広報に後輩が来たらお前が教えてやれよ」
「それはどうかな、私だってまだ広報二年目だよ」
 首を傾げつつも、伊都は満更でもない様子だった。二年目と言っても全くの新人ではないのだし、あり得ない話ではないだろう。
 俺が思うようなことは、小野口課長ならとっくに気づいていることだろうしな。

 かくして俺は、初めての自転車通勤に臨んだ。
 十月最終週の月曜日、午前六時。日が昇ってから三十分経ったかどうかという頃合いだった。空はすっきりと晴れ、高いところに刷毛で掃いたような美しい筋雲が浮かんでいる。天気予報に寄れば今日は終日晴れ。そういう日を選んだのだから当然だ。
 伊都が愛車を軽々と担いで階段を下りていく。その後から俺も愛車を担いで下ろす。最近、少し慣れてきて以前よりは速く下ろせるようになった。
「行くよ、巡くん」
「ああ、いつでもいいよ」
 スポーツウォッチの計測をスタートさせた直後、伊都のきれいな脚がペダルを漕ぎ出した。
 俺も後に続いて漕ぎ始める。

 通勤路の景色は週末の度に様変わりしていた。
 住宅街を走ると感じられたキンモクセイの香りも、そろそろ花期の終わりのようだ。代わりによその庭先で椿のつぼみが膨らみ始めているのを見かけた。
 街路樹のプラタナスはすっかり葉が落ちてしまい、一時期は歩道を埋め尽くし車道にまではみ出すほどだった。だがいつからか清掃の手が入ったようで、どこもかしこもきれいなものだ。葉を落とした木々は何となく物寂しく、秋が一層深まっていくのを実感させた。
 朝だからだろうか、少し風が冷たい。もうじき木枯らしが吹くようになるのだろう。グローブを填めているので手は冷たくないが、走り始めは首の辺りが涼しかった。
 もう十月も終わる。十一月がやってくる。
 俺の誕生日と、秋の終わりと、俺達が夫婦になる冬がやってくる。

「早くに出てよかったね、道空いてる」
 大きな通りに出る前に、伊都が振り返って声をかけてきた。
「巡くん、頑張ってるね。すごくいいタイムだよ!」
 このひとときを楽しんでいることがわかる、朝日よりも眩しい笑顔だった。思わず目を眇めたくなるほどいい顔だ。
 俺も後ろを走る幸せを実感しつつ、声をかけ返す。
「お蔭様で楽しく走れてるよ」
「本当? よかった!」
「帰りもこうして走りたいな、二人で」
「そうだね、疲れてなかったらそうしたいな」
 いくつか言葉をかけあった後、俺達は縦に並んで道幅の広い通りに入る。早朝だからか車の数は多くなく、空気も澄んでいて走りやすい。
 今朝は特に障害も渋滞もなく、実に快調な道行きだった。

 初日のタイムは四十七分五十五秒だった。
 二人で地下駐車場へ乗り入れて、愛車を停めてしっかりと施錠する。それからエレベーターに乗ってロッカールームへ向かう。
「巡くん、どう? 疲れてない?」
 軽く息を弾ませた伊都が、ヘルメットを外しながら尋ねてきた。頬がほんのり赤いのは寒さのせいかもしれない。
「今のところは平気だ。いい汗かいたよ」
 俺は正直に答えた。
 週末に走り込んだからだろうか、思いのほか身体がきつくない。心地よい疲労感すら覚える。
 もっとも、あくまでも『今のところは』だ。実際きつくないかどうかは勤務に入ってみなければわからない。初日はまず経過を見ることにしよう。
「じゃ、あとでね」
 着替えをする為、俺と伊都はロッカールームの前で別れた。

 さすがにスーツで十キロ走る気にはなれないので、会社に着いてから着替えなくてはならない。それでなくても汗の始末をする必要もある。
 俺はロッカールームで汗を拭き、サイクルウェアを脱ぎ、持参したスーツに着替える。ここでワイシャツに袖を通すのはどうも妙な気分だったが、朝早くなので他の利用者がおらず、人目が気にならないのはよかった。伊都もこうして女子のロッカールームで着替えをしているのだろうか――などとよからぬ妄想もしつつ、鏡の前でネクタイを締める。

 そこでロッカールームの扉が叩かれ、数秒後に開いた。
「お、やっぱり安井か。おはよう」
 現れたのは石田だ。手には奥さんお手製と思しき弁当の袋を提げている。
「おはよう。やっぱりって何だよ」
 ネクタイを締めながら聞き返すと、石田はにやにやしながら自分のロッカーを開ける。
「車乗ってたら見えたんだよ。お前が園田の尻を追っ駆けてるとこ」
「つくづく何て言い方をするんだ、石田……」
 追い駆けていたのは二重の意味で確かなのだが、それをこいつに言われると少々むかつく。
 だが俺の抗議には構わず、ロッカーに弁当をしまった石田は羨ましげに続けた。
「しかし、いいよなチャリ通。お前らが乗ってんの見たらますます欲しくなった」
「何だよ石田、お前まで自転車通勤するつもりか?」
「朝乗ってくるのは気分よさそうだ。また楽しそうに乗ってんだもんな、お前ら」
 石田は一体、どの辺りで俺達を見かけたのだろう。しきりに羨ましそうにされて、俺も一転悪くない気分になる。
「俺も今日がチャリ通初日だけど、楽しかったよ」
 深まりゆく秋の朝、空気は澄んでいて冷たかった。車の中では見落としがちな景色の移り変わりも感じ取れた。伊都が時々振り返っては俺に笑いかけてくれた――どれもとても楽しかった。
「へえ、続きそうか?」
 石田のその問いには、彼女の言葉を持ち出して答える。
「走るのが楽しいって感じたら、『続けよう』って思わずとも自然と続くんだってさ」
 俺がそんなことを言い出すとは思わなかったのだろう。石田は吊り上がった目を見開いた後、半笑いで聞き返してきた。
「それはアレか、お前の可愛いコーチの言葉か?」
「よくわかったな。俺の可愛すぎるコーチのお言葉だよ」
 伊都は有能な指導者でもある。彼女のお蔭で俺もすっかり自転車にはまりつつあった。
 おまけにうちのコーチと来たら、笑顔は明るく眩しいし脚はきれいだし性格は前向きで朗らかだし、料理もマッサージも上手い。あとは一緒のお風呂くらいであんなに恥ずかしがらなければ尚いいのだが、そこはじっくり口説き落とすことに決めている。
 閑話休題。俺の愛するコーチの話じゃない、自転車の話だ。
「安井がそんな爽やかな台詞、口にするはずねえしな」
 石田が小憎らしいことを言いやがったので、俺はスーツのジャケットを羽織りながら奴を睨んでおいた。
「俺に爽やかさが無縁みたいなことを言うな」
「実際無縁だろ、本性はもう結構な変態じゃねえか」
「悪いが石田ほどじゃないぞ」
「俺だってお前ほどじゃないと思ってるがな」
 どうやら石田とはいつか雌雄を決する必要がありそうだ。どちらがよりまともで、どちらが手の施しようのない変態か――こんなことはあいつの藍子ちゃんにも俺の伊都にも断じて言えないので、秘密裡にやらなくてはならないが。

 その日は、午後八時過ぎに退勤した。
 なるべくなら帰りも自転車に乗りたかったので、仕事を心もち早めに切り上げたのだ。
 もちろん伊都とも時間を合わせた。と言っても彼女の方が先に上がれたようで、何分か待たせてしまったようだが。
「悪い、遅くなった」
 地下駐車場の駐輪場まで駆け寄ると、その前で待っていた伊都が笑顔で出迎えてくれた。
「お疲れ、巡くん。そんなに待ってないよ」
 その笑顔と言葉だけで疲れが吹っ飛んだ。思えばずっと前から、彼女を好きになる前からそうだった。
「ありがとう、伊都。待っててくれて」
「うん」
 はにかんだ伊都が、その後で気遣うように尋ねてくる。
「乗って帰れそう?」
「多分、平気だよ」
 今日はデスクワークが多く、昼食後は何度か睡魔に襲われることもあった。だが覚悟していたほどの疲労感はなかった。練習の賜物だろう。
 だから今日のところは帰りも乗って帰れそうだ。明日以降のことはわからないが、コーチのお言葉通り無理はせず、楽しく乗れる日だけ乗ることにしよう。
「無理しないで、辛くなったら途中で休憩挟もうよ」
 伊都は優しく言ってくれたが、駐車場の出口から見える外はとっぷり暮れていた。日中ならともかくこの時分に道端の公園で一休み、というのは落ち着かない。というより夜の公園なんて休憩する気分にはならない。どきどきする。
「なるべくなら一気に走りたいんだけど、無理かな」
 俺の提案に彼女は困ったように笑い、
「私はいいけど……巡くん、本当に大丈夫?」
 そこで俺はふとひらめいて、わざと含みを持たせて答える。
「多分な。楽しく走れさえすれば大丈夫だと思うんだけど」
 自転車で走ること自体を楽しいと思い、その気持ちが疲労感を上回れば何の問題もなく走り切れることだろう。
 だが俺は自転車を始めてまだ日が浅い。自転車の楽しさを十分に理解しているとは言いがたく、どちらかと言うと伊都とのサイクリング、むしろ彼女自身に楽しみを見いだしている。
 だから、他に楽しみがあればもっと頑張れる気がするのだ。
「走り切ったらご褒美が欲しいな、伊都」
 俺は彼女に笑いかけてみた。
 直後、何が欲しいと口にしてもいないのに伊都は表情を曇らせた。薄暗い地下駐車場でもわかるくらい、はっきりと。
「ごめん巡くん、私、オチが読めたんだけど……」
「さすが伊都。結婚前から俺達、すっかり以心伝心だな」
「読めはしたけどいいとは言ってないよ!」
「何でだよ、今日くらいは二つ返事でOKしてくれ」
 大分前から俺がしつこくしつこく誘いをかけているにもかかわらず、俺に対しては心が広く、いつもあっけらかんと笑ってくれる伊都が唯一首を縦に振らない事柄がある。
 それがご褒美だったら、俺は超頑張れる。これから一ヶ月間ぶっ通しでチャリ通を続けてもいい。
「家まで走り抜けたら、一緒にお風呂に入って欲しい」
 改めて、俺は伊都へ切り出した。
 地下駐車場の薄暗さの中でもそれとわかるくらい、伊都が顔を赤らめた。
「もう……巡くん、こだわりすぎだから」
「こだわるよ。悲願だからな」
 かつて付き合っていた頃にも叶わなかった夢だ。今こそ叶えたい。
「頼む、伊都。お前の返事一つで、俺はどこまでも走っていける」
 真摯に訴えると、伊都は恥ずかしそうに目を逸らした。
 数秒間の沈黙。
 その後でぼそりと、
「……い、一度だけだよ?」
「本当か!? 本当にいいのか、ありがとう伊都!」
「ちょっ、巡くん喜びすぎ!」
「喜ぶよ! いいって言ってくれるとは思わなかった」
 何が彼女の心を変えたのだろう。やはり俺の真摯かつ純粋な訴えが響いたのだろうか。
 その理由を、伊都はこう答えた。
「だって私の趣味に付き合ってもらってるわけだし……巡くん、頑張ってるしね」
 おずおずと俺へ視線を戻し、可愛い上目遣いになって語を継ぐ。
「私も巡くんが自転車乗るようになって、楽しいし、すごく嬉しいから……」
 柄にもなく胸がきゅんとした。
 リアルで口にしたらドン引きされそうだが、本当にそんな感覚が俺の身体を走り抜けた。
 俺のコーチは可愛すぎる。それはもう、自転車にだって乗るし仕事の後だろうがくたびれていようが十キロくらい走り切ってみせる!

 というわけで俺は自転車に乗り、まんまと会社からアパートまで十キロの距離を走り切りました。
 タイムは四十一分二十秒。往路よりも縮んでいる。
「巡くん、すごいね。いろんな意味で」
 伊都は感心したのか呆れたのかわからない反応だったが、目の前ににんじんをぶら下げられて走らない馬などいるだろうか。
「ご褒美、いただきます」
 肩で息をする俺が彼女に向かって手を合わせると、伊都は困ったように顔をほころばせる。
「約束したからいいけど……今夜だけだからね」
 もちろん俺としては、今夜だけなんてもったいない制約をつけるつもりなどない。
 深まりゆく秋の夜長、二人きりでのんびりするに最適の季節は、もうしばらく続く。
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