Tiny garden

至福のバスタイム(1)

「よく聞かれるんだ」
 俺をじっと見つめながら、伊都がそう切り出した。
「安井課長って、家ではどんな感じなのって」
 俺達は今、向き合って座っている。
 目の前にいるのは化粧をすっかり落とした素顔の伊都だ。きれいだった。
「誰がそんなの聞くんだよ」
「例えば東間さんとか、長谷さんとか、藍子ちゃんとか」
 挙がる名前はどういうわけか女性ばかりだ。俺にとっては顔見知り、もしくは友人の配偶者という微妙な距離感の皆々様。確かに家での俺を知らない人達ばかりのようだが、そんなことを聞いてどうするのだろう。
 もっとも石田、霧島あたりに俺の私生活を気にされても気持ち悪いだけだろうし、そのくらいならきれいどころに気にしてもらえる方がいい。
「『どうなのか』ってどういう意味で聞いてるんだ」
 俺が聞き返すと、彼女はとってつけたように難しげな顔をする。
「巡くんって職場では、すごく真面目な人事課長さんで通ってるじゃない」

 正直、俺も外面だけはいい方だと自負している。元来の見栄っ張りさがいい方に作用しているのだろうか、聞こえてくる限りでは職場での評判もそう悪くない。人事課の皆にも、ひとまずは伊都の言うように『真面目な人事課長さん』だと思ってもらえているようだった。
 ただどんな人間にも、程度の差こそあれ裏の顔が存在している。オンとは違うオフの顔。職場などの公の場では、あるいは友人達にさえ見せることのない素顔がある。もちろん俺にだってある。

「家では違うって?」
 俺は伊都の反応を想像しつつ、笑いながら言った。
 伊都は俺の想像通り、まんまと慌てふためいた。
「あっ、そうじゃないよ。家では真面目じゃないって言うつもりはなくて!」
 よく響く声で否定してから語を継ぐ。
「皆はね、巡くんのこと完璧でスマートな人だと思ってるみたいなんだ」
 それが誤解だというつもりはない。俺自身、そう見えるように振る舞ってきたのはあるし、そう思われることに悪い気はしなかった。幻滅されるようなぼろを外で出したこともないはずだ。
 俺の素顔は伊都だけが知っていればいい。彼女だけに知っておいて欲しい。本当の俺は完璧でもなければスマートでもないが、だからこそ伊都を取り戻すことができた。
「だから、家でもそうなのかって気になるみたい」
 そこまで言うと、伊都は改めて奥二重の瞳で俺を見つめてきた。
 微かに潤んで光っている。この瞳には今、家にいる時の素顔の俺が映っているはずだ。だからだろう、見つめられるのが心地よかった。
「それで、皆にはなんて答えたんだ」
 彼女の髪に手を伸ばしながら、俺は核心に触れる。
 髪を撫でられると伊都は目をつむり、そのまま答えた。
「迷ったんだけど……家でもそんな感じだよ、って言ったよ」
「迷ったのか」
 どういうつもりで迷ったのか、気になるところだ。俺が彼女だけにと思っているのと同じように、伊都も俺の素顔を他の誰にも知られたくないと思ってくれたらいい。
「だって大体は同じでしょ? 家でも真面目だし、働き者だし、格好いい巡くんだよ」
 伊都は屈託なく言ってくれた。
 気をよくした俺が抱き寄せようとすると、彼女はそこでなぜか苦笑して、
「あとはまあ、正直には言いにくいってのもあるけど……」
「何だ、含んだ物言いをするな」
 まるでこの俺に、東間さんはじめとする皆さんには言いにくい顔でもあるみたいではないか。
 いや、あるか。恥ずかしがり屋の伊都は、そういうことを絶対他人に言わないだろう。
「だってこういうのとかさ、従来の巡くんイメージとは確実に違うよ」
 その伊都が、恥じらうように俺から目を逸らした。
「言うつもりないけど、こんなことしたがる巡くんを知ったら、皆びっくりすると思う」
「そうかな、このくらい誰だってやってる」
 俺が湯の中で肩を竦めると、乳白色の水面が微かにさざ波立った。湯船にはいつもより少ない湯量を張ったが、それでも二人で入った途端、いくらか流れ出てしまった。さすがに大人が二人で入るには手狭だったかもしれない。
 だが俺はこの時間を堪能している。
「それに伊都だって楽しいだろ? 二人でお風呂」
「狭いよ」
「楽しいだろ?」
「……どっちかって言うと、恥ずかしい」
 濡れた髪の彼女が俯く。そのまま湯の中に潜っていきそうに見えた。

 自転車通勤開始初日、俺は約十キロの道程を行き帰りとも見事に走り切ってみせた。
 そしてそのご褒美として、かねてから切望していた二人きりのバスタイムを獲得したわけだ。
 ずっと前から願望だけはあった。恋人同士、ましてや婚約して同棲もしている状況では一緒のお風呂くらいおかしなことでもないはずだが、恥ずかしがり屋の伊都はなかなか首を縦に振ってくれなかった。このままでは結婚して夫婦になってからも実現できないのではないか――そんな危惧が俺の中に生じつつあった。
 だが自転車に対する俺の努力が彼女に評価され、伊都もまた態度を軟化させたようだ。遂に今夜、めでたくお許しをいただくことができた。『真面目な人事課長』と謳われる俺の、まさに真面目さが勝ち取った権利だ。
 もちろん、実際入浴に至るまですんなりと事が運んだわけではない。
 一緒に入ると決めてからも伊都はあれやこれやと恥ずかしがった。電気を消して入ろうとか、水着を着て入ろうとか、実に往生際の悪いことを言い出した。幸い俺は水着を持っていなかったし電気を消すなんて目的に反するので言語道断と突っぱねた。結局にごり湯タイプの入浴剤を入れることで手打ちとした。
 いざ一緒に入ってからも伊都の恥じらいは留まるところを知らなかった。髪も身体も自分で洗うと言い張り聞かなかったのだ。

「普通、自分で洗うでしょ?」
 信じられないという顔で伊都が言うから、俺はわざと溜息をつく。
「何の為に一緒に入ってるんだよ……普通、洗いっこするだろ?」
 俺としてはそれこそが一緒のバスタイムの醍醐味であると思っていた。彼女が一緒のお風呂を了承してくれた時点で当然それも楽しめるものだと信じて疑わなかったが、現実は厳しかった。
「そんな常識聞いたことないよ」
 伊都がむっと唇を尖らせる。入浴中だからか、唇はいつもよりほんのり色づいて見えた。頬もふんわり赤い。
「それは勉強不足だな、伊都。二人でお風呂とはそういうものだ」
「って言うか勉強することなの、それ?」
 当然だ。伊都には是非とも勉強しておいて欲しかった。
 まあ、降って湧いたチャンスに際し、俺の準備不足も否めないところではある。今日からじわじわと啓蒙していくことにしよう。
「背中流すくらいはするかなと思ったけど……」
 伊都は頑なだった。俺の背中を流すのはいいが、自分が洗われるのは断じて嫌なのだそうだ。俺としてはむしろ洗う方を堪能したかったのだが、徹底的に拒まれたので今回はやむなく、苦渋の思いで見送った。
 代わりに彼女が自分で髪や身体を洗うところを、湯船の中から眺めてやった。それもなかなか眼福だったのだが、見ているだけではやはり少々物足りない。
「巡くんって、時々変なこと言うよね」
 伊都は俺の願望を、そんな言葉で一周した。
「変って言うなよ。俺は是非、お前を洗いたかったんだ」
「やだ。そんなこと、巡くんにさせられないよ」
「俺がしたいんだよ」
「それでも、やだ」
 伊都は濡れた髪を無造作にまとめ、おだんごにしていた。普段は低い位置で結わえていることが多いから、高くまとめていると新鮮で、それはそれで可愛かった。赤く火照った首筋が露わになっているのもいい。
「けど、お前が俺を洗うのはいいって思ってるんだろ?」
「背中だけだよ、あくまでも」
 やや食い気味に、念を押すように言ってきたのがおかしくて、俺は思わず吹き出した。
 それで伊都が拗ねた様子だったので、俺は手を伸ばして彼女の髪を撫でた。洗った後の髪は普段とは違うなめらかな質感をしている。
「そんなに恥ずかしがるなよ。俺達、結婚するんだぞ」
 同棲を始めたら少しは恥ずかしがらなくなるかと思っていた。だが彼女は相変わらず俺の前ですらガードが固い。これから一生を共にしていく仲だというのに、そんなに頑なでは疲れるだろう。俺の前ではもっと油断してくれてもいいのに。
「結婚したら一緒にお風呂入るようになる?」
 伊都が子供みたいな口調で尋ねてくるのが、たまらなく可愛かった。
「入りたいな、俺は。もっと毎晩」
「そんなの、心臓が持たないよ……」
 困り果てたように言う割には、黙って髪を撫でられている。恥ずかしいだけで、言うほど嫌ではないのかもしれない。
 湯船の中で向き合って座っていたから、彼女の髪を撫でるのはたやすかった。ついでに脚を撫でるのもたやすかった。そうすると伊都はびくりとして足を引っ込め、水面には大きな波が起こる。彼女はガードするみたいに膝を抱え込んでしまった。
「くすぐるの駄目。夜遅いからね」
 既に夜九時を過ぎていた。バスルームの擦りガラスの窓越しに、青とも黒ともつかない深い色の夜空が見える。
「なんで夜だと駄目なんだ?」
 俺の問いに、彼女は答えなかった。黙って何か言いたげに俺を見ている。
 言えばいいのに。
「声が響くからだろ」
 代わりに俺が答えてやる。
 すると伊都は困った顔をしながら、手で湯をざばっと跳ね上げてきた。
「わっ、何するんだよ伊都」
「だって巡くんが変なことばっか言うから!」
「先に言ったのは伊都じゃないか」
「そんなことない! 巡くんの馬鹿!」
 彼女の声はバスルームによく響いた。本人がはっとして、慌てて口を噤んだほどだった。
 それから気まずげに俯き、上目遣いに俺を見る。
「そ……そろそろ、上がらない? 何か、本当に恥ずかしいんだけど」
「まだ早いよ、温まってもないだろ」
 俺は湯に浸かっていない彼女の肩に手のひらで触れる。しっとり濡れたなめらかな肩は、湯温に比べると冷たく感じた。
 十月は日中こそ暖かいが、ひとたび日が落ちればぐっと気温が下がってしまう。湯冷めして風邪でも引いたら大変だ。秋の夜長にじっくり長湯というのもいいだろう。
「そんなに恥ずかしいんなら、こっちおいで」
 そこで俺は、伊都を手招きした。
 彼女はきょとんとする。
「こっちって?」
「俺の膝の上」
「な、何言ってんの、そっちの方が恥ずかしいよ……!」
 誘いをかけられ彼女はうろたえていた。
 しかし決して広くはない湯船で、まるで箱に詰められたケーキのように向かい合って座るのは正直窮屈だ。伊都が俺の上に座ればいくらか省スペースにもなるし、俺も一層楽しい。一石二鳥だ。
「向き合って座って、じろじろ見られるよりは恥ずかしくないだろ」
 俺は心にもないことを言ってみる。

 黙って眺めるだけなら向き合って座るのがいい。たとえにごり湯で水面から下は見えなくても、伊都の濡れた髪やほんのり赤い顔や後れ毛が張りついた首筋が眺められる。胸は湯に浸かっていて全部は見えないのだが、鎖骨から下の白くて柔らかそうな肌が見えるだけでも満足だった。
 ただ、せっかく一緒に入浴しているのだからもっと近くにいたい。密着したい。

「俺も自転車漕いで疲れてるし、ちょっと足伸ばしたいんだよ」
 口実めいたことを言ってみると、伊都の顔に一瞬迷いの色が浮かぶのがわかった。
 すぐに苦笑いが滲んで、
「だったら一人でのんびり入ればよかったんじゃない?」
 もっともなことを言われてしまったが。
「そんなつれないこと言うなよ」
「別に意地悪で言ってるんじゃないよ、ただ……」
 伊都が尚も何か反論しようとするから、それを遮るように俺は両手を広げる。
「いいからほら、おいで」
 何せ今夜は初めての、二人きりのバスタイムだ。
 昔付き合っていた頃はもちろん、近頃に至ってもなかなか実行に移されなかった願望が叶ってしまったのだ。
 それならこの機会を存分に生かし、楽しみたいし、やりたいことできることは全部遂行したい。
「でも……」
 伊都がこの期に及んでためらっている。
「今夜は俺へのご褒美だったよな?」
 駄目押しみたいに告げてみた。
 すると伊都はもじもじしながら、湯の中でぐるりと身体を反転させた。俺もその身体を両手で捕まえ、引き寄せ、膝の上に座らせる。柔らかかった。
 伊都の背中が俺の胸に触れ、濡れたまとめ髪は俺の頬に触れた。どちらも少しだけ冷たく感じた。湯の中では彼女の体温を感じず、ただ柔らかい身体だけがある。
「ありがとう、嬉しいよ」
 俺は彼女の耳元で、感謝の言葉を囁いた。
 伊都はくすぐったそうに身を捩り、ちゃぷんと乳白色の湯が揺れる。
「もう……巡くん、恥ずかしいことばっかりする……」
「これが俺の素顔だよ」
 他の誰も知らない、伊都だけにしか見せることのない素顔だ。
 世界にたった一人だけだってこと、伊都にはわかって欲しいと思う。
「誰にも言うなよ」
 もう一度囁くと、伊都は開き直りでもしたのか。朗らかにくすくす笑ってみせた。
「言えないよ。私が恥ずかしいもん」
「あ、それって何か夫婦っぽいな」
「そう? 夫婦の連帯責任、的な?」
「そんな感じかな。責任かどうかはともかく」
 俺達は日毎に、どんどん夫婦らしくなっていくような気がする。
 結婚って案外そういうものなのかもしれない。
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