Tiny garden

はじまりのおわり(4)

 しばらくすると、後から注文した品もぽつぽつと届き始めた。
 豆腐サラダと揚げ出し豆腐は、どちらも巡くんが私の為に頼んでくれたものだ。

「ここの揚げ出し、美味いんだ。伊都にも食べさせたかった」
 巡くんが嬉しそうに言ってくれるのが嬉しい。
「ありがとう、巡くん。いただきまーす」
 私は空いたグラスを下げてもらい、ビールのお替わりを頼んだ後で、早速揚げ出し豆腐に取りかかる。
 うっすらきつね色に揚がった豆腐はかりかりの衣をまとっていて、とろみのついたあんが絡むともちもちした食感になる。中の豆腐は味が濃い目のどっしり系、当然美味しい。
「うん、美味しい!」
 一口食べてから声を上げると、巡くんはたちまち相好を崩し、石田さんは珍しいものでも見るような目を向けてくる。
「しっかしまあ、仲良いよなお前ら」
 何のことはないやり取りだったんだけど、そう言われると照れる。
「それは当たり前だろ。仲良くなきゃ一緒にいる意味もない」
 巡くんは警戒するように言い放ち、石田さんの冷やかしを制そうとした。
 ところが石田さんは気にしたそぶりもなく、茶化す口調で言った。
「そりゃそうだ。でもお前らの場合、順当なところでくっついたなって感じがするだろ」
「順当ってどういうことだよ、石田」
「昔から怪しいとは思ってたんだよ。結局尻尾は掴めなかったがな」
「怪しいって何が?」
 巡くんが眉根を寄せた。
 石田さんは鯵の開きを箸でつつきながら笑う。
「今言うと負け惜しみみたいに聞こえるだろうが、俺は結構前からお前らが付き合ってんじゃねえかって思ってたんだ」
 それは以前も聞いた話だ。つい何ヶ月か前、巡くんにも話していた。
 私達は思わず顔を見合わせ、納得いかない様子の巡くんが聞き返す。
「割と上手く隠してたつもりだったんだけどな。どうして、いつそう思った?」
「いつかっつったら、結構前だな」
 記憶を手繰り寄せるように、石田さんが腕組みをして目を伏せた。
「それこそ例の、お前らが付き合うきっかけになった合コンが流れた直後だ」
 どうやら巡くんはそんなことまで石田さんに打ち明けていたようだ。私がここに合流するまでの間、二人でどんな話をしていたのか、少々気になる。
 もっとも、巡くんは私とは違うところが気になるみたいだった。信じがたいというように息をつく。
「お前に感づかれるようなぼろを出した覚えはないけどな」
「ところがそうでもない」
 石田さんは自信たっぷりに唇を片端だけ吊り上げて、
「安井、お前が髪の毛ばっさり切って、今みたいな短髪で出社してきた時のこと覚えてるか?」
 と尋ねた。
 巡くんは虚を突かれたような面持ちで、ちらりと私に目をやった。

 私は覚えている。
 いや、正確には覚えているわけじゃなくて、知っている。
 なぜって、彼に髪を切るよう勧めたのは他でもない私だからだ。

 かつて社内報に載った新人時代の写真の通り、昔の巡くんは髪が長めだった。
 付き合い始めるよりも前、普通に同期として接していた頃から、私は彼には短髪が似合うと思っていた。彼も夕方になると落ちてくる髪が鬱陶しげで、切ればいいのにって何度か勧めたことがあった。
 彼はそれまで短髪に挑戦したことがなくて、ずっと勇気が出なくて思い切れないようだったけど、付き合い始めてすぐに『園田がそんなに言うなら』ってばっさり切ってきた。もちろん予想通りとてもよく似合っていて、彼自身もそう思っているのか、あれからずっと潔い短さのヘアスタイルを維持している。

「覚えてるけど、俺、何か言ったっけ」
 石田さんへと視線を戻し、巡くんが苦笑する。
 すると石田さんはまるで名探偵がそうするように、右の人差し指を立て、いやにもったいつけた口調で続けた。
「いきなりのイメチェンだからな。誰だって気になるだろ、何で切ったのか、何かあったのかってな。俺も当然聞いたよ、どんな心境の変化だって」
 そこまで言われても巡くんは思い当たらないようだ。お茶割りのグラスを傾け、無言で続きを促した。
「その時、お前が言ったんだよ。『園田に絶対似合うって勧められたから、思いきって短くしたんだ』って」
 石田さんの種明かしに、巡くんは拍子抜けした様子で肩を落とす。
「それだけか? そんなことで勘繰ってたのか、俺達のことを」
「いや、まだだ。どういう顔でそんなことぽろっと零したのか、聞いといた方がいいぜ」
「……どういう顔だよ」
 聞き返した巡くんは面食らい、それから口元を綻ばせるようにはにかんだ。
 すぐさま石田さんは獲物を捕らえた肉食獣の勢いで、
「そういう顔だよ」
 と指摘した。
「俺が髪を切った理由なんて聞いてくると思ってなかったのか、それともできたばかりの可愛い彼女に夢中で上の空だったのかは知らないがな。俺が聞いたらお前、最初はびっくりして、それから妙に照れながら園田の名前出したからさ。どうでもいい相手に言われたんだったらなんでそこで照れるって話だろ。ああ、こりゃ園田と付き合ってるか、さもなくば安井が哀れな片想いの相手に勧められるがまま髪を切ったなと踏んだわけだ」
 さすがは石田さん、目敏いと言うか何と言うか。
 運ばれてきた二杯目のビールを飲み始める私の前で、石田さんはこれぞ名推理とばかりに得意げな顔をしている。
 そして巡くんは腑に落ちないという顔つきで、でも焦ったように早口になって言った。
「まぐれだろ。いきなり予想もしてなかったこと聞かれたら、誰だってうろたえもする」
「普通に髪切ったってだけじゃうろたえねえよ。そこに誰か、お前が思いきった断髪するほど心変わりさせた相手がいたから動揺したんだろ」
 そう言うと石田さんはほぐした鯵の身を口に運び、しみじみと美味しそうに飲み込んでから語を継いだ。
「ま、俺もその後は尻尾掴めなくて、付き合ってるって確証には至れないままだったんだけどな。最近になって――去年だったか? お前が『豆腐料理の美味い店を教えてくれ』って俺に問い合わせてきて、その後園田が豆腐好きって話を聞いたからな。ああ、そう言や昔、こいつら付き合ってんじゃねえのって思ったことあったなって思い出したんだよ」

 石田さんに豆腐が好きなことを話したのは、確か去年の六月頃だったと思う。
 ということは、巡くんが石田さんに問い合わせた豆腐の美味しいお店は、恐らく五月の連休中に連れていってもらったところだろう。
 確かにあの時、湯豆腐が評判なんだ、っていう言い方をしてたっけ。

「そんな程度のことで見抜かれたとは思いたくないな」
 巡くんは悔しそうで、しかもめちゃくちゃ恥ずかしそうだ。赤い顔を顰めながら、同意を求めるように私を見た。
「せっかく隠してたっていうのに、その甲斐なく石田にばれてたなんて癪だ。だよな、伊都」
「私は、石田さんだったらしょうがないって思うかな。よく見てるもん」
 正直に答えると、巡くんは咎めるように小さくかぶりを振る。
「やめろよ。そんなこと言ったら石田がますます増長するぞ」
「俺の慧眼の前には安井の小手先の誤魔化しなんて通用しないってことだよ」
 人差し指を左右に振り、石田さんは巡くんの言葉通り大いに威張ってみせた。
「ほら見ろ、石田はすぐ調子に乗るんだからこういうのは認めちゃ駄目だ」
「安井は往生際悪すぎ。いい加減、人のこと言えねえくらいだだ漏れだって認めろ」
「そんなに漏れてない! その髪切った時一回きりだろ、お前が怪しんだのは」
「これからはもっと漏らすようになる。もう隠すつもりもないんだろ、どうせ」
 そう言うと石田さんは吊り目がちな眼差しを私へと向け、
「なあ、園田がここに来る前、安井がどんだけ惚気たか教えてやろうか」
 こちらに膝を乗り出してきて持ちかける。
「えっ……いやいいよ、そういうのは。照れるし」
 私はとっさに断った。

 だってそんなの聞くの恥ずかしいし、今の話でも十分すぎたほどだ。
 あの時、彼が髪を切ったのは、私は絶対似合うって保証したからだと思ってたけど――それだけじゃなかったんだって今頃わかった。そういう巡くんは、本当に可愛いと私は思う。
 だからもうこれだけで十分で、この他に惚気話なんか聞いたら酔いが回って倒れるんじゃないかと心配になる。

「変なこと言うなよ。伊都が困ってるだろ」
 巡くんは庇うように咎めてくれたけど、石田さんはどう答えられても言う気満々だったようだ。勢いづいて続けた。
「いいから聞けよ、すごいぜ。『園田可愛い笑顔が堪らん、昔から笑う時はめちゃくちゃ素直に、全開で笑ってくれるから、胸がきゅんとして幸せになる。俺みたいな見栄っ張りの格好つけには園田の素直さが眩しいんだ』――なーんてなことをだな」
 ずらずらと並べ立てられた言葉は明らかに巡くんの言いそうなものではなく、もしかすると多少の脚色、あるいは曲解があるのかもしれなかった。
 でも、それが逆に私を狼狽させた。今のが石田さんの脚色によるものだとしたら、実際に巡くんはどう言ったんだろう。そんなことを考えてしまった。
「馬鹿、でたらめ言うなよ。俺は絶対そういう言い方はしてない」
 巡くん本人も早速それに突っ込んだ。
「そんな恥ずかしい台詞、言うのは石田くらいのものだろ。俺は他人にそんなこと語れないよ。と言うかお前、俺のことを見栄っ張りの格好つけだと思ってたのか」
 ところが、否定された石田さんはにわかに意地悪そうな顔をして、
「じゃあお前が事実の通りに言ってみろよ。俺の適当な記憶より、言った本人の記憶の方が忠実に再現できるだろ」
 と促した。
 すぐに巡くんが私の方を向く。
 酔いのせいかとろんとした瞳は、それでも熱っぽく、吸いつくように強く私を見つめていた。
 普段、二人きりの時にはそういう目を向けられることもある。
 でもこうして誰かのいる前でそんなふうに見つめられると、目のやり場に困るというか、恥ずかしさに逃げ出したくなるというか――。
 私はその眼差しだけでどぎまぎしてしまって、とてもじゃないけど忠実な再現を聞く余裕なんてなかった。
 それに石田さんも随分心臓に悪いとんでもない台詞を口にしていたけど、巡くんは本当はどう言ったのか。ちょっとだけ聞きたいような、でも聞いたら絶対心臓止まっちゃう予感もする。
「い、いいから本当に! こんなところでする話でもないし!」
 大慌てで遠慮しようとすると、巡くんは少しの間私を見つめ続けた後、石田さんに向き直ってから気まずげに額を押さえた。
「……思い返せば、さっきは結構なことを言ったような気がする。確かにここでする話じゃないな」
「そうだな。言ってたぜ、それはもうすごいやつをな」
 石田さんが深々と頷いたので、巡くんの惚気話の謎はますます深まるばかりだった。
 でもとてもじゃないけど、二人きりになってからだって、何を言ったのか聞けそうにない。

 そうこうするうちに三人ともいい感じでお酒が回り、お腹も膨れてくると、いよいよ気分もよくなってくる。話だって弾む。
 同期の気安さも手伝って、私達はいろんな話をした。お酒のせいでぐだぐだとまとまりのない会話ばかりになったけど、それがなぜか楽しい。

「お前、安井のこと『巡くん』って呼んでんだ? 意外と可愛い呼び方してんだな」
 石田さんが私をからかい始めて、私は無性に照れた。
「だって、ほら、そういう名前だからね。呼び方としては普通じゃない?」
 表向きはさも当然って口調で言い返したけど、石田さんはにやにやと巡くんを見るばかりだ。
「巡くんなんて呼び方、安井がさせてること自体が面白い。女の子にそんな呼ばせ方する柄じゃねえだろ」
 そうして彼の方へと話の切っ先を向ける。
「何だかんだ言って、安井も相当彼女を甘やかすタイプと見た。『巡くんって呼ばせて』なんて園田に可愛くおねだりされて、満更でもなくなったんだろ」
 別にねだったりはしてない。他の選択肢が『めぐめぐ』しか思い浮かばなかっただけだ。
 もっともそれを言ったら更にからかわれそうな気がするので、黙っておく。
「名前の呼び方くらいで何がわかるんだよ」
 一方の巡くんは、表向きは平静を保っている。私を横目に見ながら応じていた。
「俺は良識の範囲内で優しくしてるだけで、甘やかしたりはしないよ。だよな、伊都?」
 口ではすごく真面目に、もっともらしく語っているけど、表情はものすごく優しく柔らかで、目つきは甘く和やかだ。アルコールが回り、普段よりも更にガードが緩くなっているように見えた。こんな顔で私を見て、『甘やかしてない』なんて説得力がないかもしれない。
「そうだね」
 私自身、甘やかしてもらってる自覚はあるけど、頷いておく。
「いや、どう見ても十分甘いだろ。園田が何にも言わないうちから豆腐頼んでたよな?」
 石田さんが卓上に残された、豆腐サラダと揚げ出し豆腐が入っていた空の器を指差した。
 ふん、と鼻を鳴らした巡くんが、酔いのせいか真っ赤な顔で反論した。
「こういうのは甘やかしてるんじゃない。呼びつけた相手に対する当然の労いだろ」
「まあ、園田が広報移った途端に社内報熟読し始めるのが安井だもんな。甘やかすよな」
「い、いいだろ、そのくらいは。誰だって同じことするに決まってる」
 言い返しつつも、その件に関しては巡くんも多少うろたえていた。どう見ても分が悪い。
 私の方がうろたえたし、改めて照れたけど――冷やかされてこんなにも動揺する巡くんなんて、見たことがないせいかもしれない。
「安井を冷やかしてんのに、園田まで一緒に照れてるのかよ」
 すっかり私を見て、石田さんが笑った。
 水を得た魚のようにいきいきとからかう様子は、本当に楽しそうだ。
「だって、私のことでもあるし……と言うか石田さん、めちゃくちゃはしゃいでるね」
「おかげさまでな! 今夜はめでたい話も聞けたし、珍しいもんも見れたしで最高だよ」
 石田さんはお酒に強い人だったはずだけど、今夜ばかりは酔っ払っているみたいだ。目元が赤くなっていた。
「女にいい顔して格好つけるのが安井だと思ってたからな。格好つけるどころかみっともなくでれでれしてる安井なんて想像つかなかったけど、今まさに目の前にいるんだもんな。もう何か、家でもこんな調子なんだろうなって想像つくわ」
 言われた途端、巡くんが手のひらで自らの頬に触れた。
 でれでれと緩んでいるかどうか、触って確かめようとしたのかもしれない。
 その後で困ったように溜息をついていたから、きっと何か思うところがあったんだろう。
「俺だって、自分がこんなに顔に出る人間だとは思わなかったよ」
 諦めたようにぼやいて、石田さんにげらげら笑われていた。
 それから脅かすように声を潜めて、
「覚悟しとけよ、安井。今日みたいな冷やかしを、これからいろんな人間から受けることになるんだからな。格好つけてる余裕もそのうちなくなる」

 石田さんの言葉は事実だろう。
 既に小野口課長や東間さんから冷やかされている私は、もうわかっている。

「経験者は語る、ってとこ?」
 負け惜しみみたいに巡くんが聞き返すと、石田さんはにまっと笑った。
「そういうこと。俺なんてもう、営業課じゃ悪者扱いだからな。悪い狼が赤ずきんちゃんをかどわかした、とまで言われてる」
「それはお前の普段の行いのせいだろ。俺は――俺達はそんなことない」
 巡くんが言いながら、また私の方を見た。
 私は身悶えするような恥ずかしさから黙ってお酒を飲んだ。飲みながら、隣に座る巡くんの視線をくすぐったく思っている。
「いやいや、どうしたってお前もああだこうだ言われるぜ。悪者扱いじゃなけりゃ、祝福って名の下に散々冷やかされるだろうな。それはもう、お約束みたいなもんだ」
 断言すると、石田さんはグラスに残っていたお酒を一気に飲み干してから、深い吐息と共に語を継いだ。
「俺もお前も、もちろん園田も、今のところはまだ『始まりの終わり』にいるんだってことだよ」

 始まりの終わり――その言葉の意味が、何となくわかる気がした。
 石田さんの言う通り、私達はまさにこれからなんだろう。
 冷やかされて恥ずかしい思いをするのも。二度と離れなくても済むように努力をするのも。
 そしてもちろん、今よりももっと幸せになるのもこれからだ。

「楽しみにしてるよ」
 うそぶくように、巡くんは余裕ありげな返答をした。
 それで石田さんが目を見開くと、散々やり込められた後のせいか、疲れたように笑いながら言い添えた。
「次に誰かに冷やかされたとしても、今夜のお前ほど手厳しい相手はいないだろ」
 ある意味賛辞とも言えるその発言に、だけど石田さんはかぶりを振る。
「どうかな。忘れんなよ安井、お前を冷やかしたがってる男がもう一人いるんだからな」
「……そうだった。いや、あいつはいざとなれば先輩を立ててくれるだろ」
 巡くんはそう返しつつも、嫌な予感に苦笑していた。
 私の場合は霧島さんよりも、その奥さんである長谷さんの方が気になる。彼女が結婚する時に同僚として祝福という名の冷やかしをしたことがあるから――まさに因果応報となるか。今からどきどきものだ。
「じゃ、次は六人でな。それまでせいぜい表情筋でも鍛えとけ」
 石田さんの不穏な忠告をもって、その夜の飲み会はお開きとなった。
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