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不安解消方法(5)

「そう言われるのもしょうがないのはわかってます」
 告白しながらも彼女は、どうにか平静に努めようとしていたらしい。
「うちの課は女の人、私しかいませんし、営業って結婚したら続けにくいお仕事だろうなって思ってましたし」
 だが、胸中の感情は上擦る声に表れていた。
「私もいつかは辞めなくちゃいけないんだって、それはちゃんと考えてたんです」
 一瞬だけ、こちらの反応を横目で見て、また視線を落とす。膝の上で握った白い手は微かに震えている。
「でも取引先の方から、そのうち辞めていく人間だって思われてるのは悲しくて……あの場での私は営業としてじゃなくて、ただの若い女の子としてしか扱われてなかったのが、すごくわかったから」
 俺は堪らず車のエンジンを止めた。
 吹き込む冷房の風が止むと、一気に静かになった車内で藍子は俯く。
「ごめんなさい」
「……何で謝るんだよ」
「だって、隆宏さんもきっと気に病むだろうと思って……」
 そりゃあ病むよ。すごく気分も悪いし腹立たしい。
 でもそれ以上に、そんな心ない言葉で彼女を傷つけられてしまったことが酷く悔しかった。しかも藍子はそれを、わざわざ俺に内緒にしようとしてたって言うから、余計に堪えた。彼女はその言葉に、俺が関わりあるってことをしっかり認識してるんだよな。
 そんなの、俺に配慮なんてしなくてもよかったのに。
「昨日のお店、本当にきれいで優しい人ばかりだったんです」
 次第に温くなっていく空気の中、彼女はぽつぽつと語る。
「初めてでどうしていいのかわからなくて嫌なことも言われておとなしくしてた私に、お水とかおしぼりとか持ってきてくださったんです。私が飲みすぎて具合悪くなってるんじゃないかって、心配もしてくれて」
 だろうなと俺も思う。
 お姉さんたちも驚いたんじゃないか、ああいう店に自発的にやってきそうもないタイプの子が男どもに連れてこられて、そしておとなしくしてたって言うんだからな。もう少し彼女の様子が不審だったら通報されてたかもしれん。
「それに比べて私は気も利かないし、お酌とか、ライターを出すタイミングがまだ掴めてなかったりするし、冗談とか言われても上手く切り返せなかったりで、全然駄目なんです。見習えって言われても本当、しょうがないくらいなんです」
 藍子が力なく肩を落とす。
 そこまでで俺はもう、昨夜彼女が得意先の連中にどんな扱いを受けてたか完璧に把握してしまって、それで仕事があると言ってもしつこく引き止められてたんだと腑にも落ちた。
 こんなことなら昨日は大人の対応なんて取らずに、『俺の彼女に何すんだ』ってそのまま店へ怒鳴り込んでやればよかったと思う。胃がむかむかしてくる。今となってはこんな気持ちも、どこへもぶつけようがない。
「比べるなよ。ああいうお姉さんは接客のプロだぞ、あれで飯食ってんだから優しくて当然なんだよ」
 内心はともかく、俺は藍子を宥めにかかった。
 あの人たちはちゃんと接客用の細やかな気配りを研修して、それで店に出てるんだからな。それをただの、掛け値なしの優しさだと思うのは浅はかだ。
「お前はそっちじゃなくて営業のプロだろ?」
 確かめるように聞けば、
「でも、私なんて他の人から見たら腰かけなんですよ。プロだなんて」
 弱気になっている彼女がどんどん項垂れていく。
 そのへこみ具合が居た堪れなくて、同時に少し苛立ちもして、頭を片手でぐいと掴んで無理やり顔を上げてやる。
「馬鹿、何を卑屈なこと言ってんだ。誰だってその仕事で飯食ってたらプロなんだよ。お前はちゃんとやってる、給料分の仕事してるだろ。お前に仕事教えた俺が言うんだから間違いない」
 頭を掴まれた藍子は痛いとも言わなかったが、赤い目をしていた。痛みのせいではないようだった。
 涙目の彼女を見てるのが苦しい。でもいい慰めの言葉なんてそうそう浮かぶもんじゃない。彼女を腰かけにする可能性を持っているのは、他でもない俺だ。俺は他人から何を言われようと全く気にしないつもりでいたが、彼女はそうではないのかもしれない。
「大体、そういう連中はたとえお前に落ち度がなくたって何かしら文句言ってきてたよ」
 俺はそう思う。彼女の態度がそのものはさほど問題でもなく、たとえ彼女がお酌にタバコの火にセクハラのかわし方まで完璧にこなすようなバリキャリの十年選手だったとしても、先方は何らかの心ない言葉を偉そうに吐いていただろう。
 こっちは営業として出てるんだから、お酌要員扱いされた上での忠告なんて聞くだけ無駄だ。
「給料も出ない業務外でわざわざ付き合ってやったんだから、それで十分だろ。いちいち真に受けんな」
 そうやって誰かの言葉を素直に聞いてしまうところが、彼女の長所でも、短所でもある。
 俺にとっては心配の種でもあって、にこにこと話を聞いてるうち、いつか悪い奴に騙されてしまうんじゃないかと思ってた。実際は騙されるよりも早く本人が打ちのめされてしまったが、傷ついたのが彼女の心だけでよかったのか、どうか。
「私もそうしたいと思ってるんです」
 まるで涙を逃がすみたいに、彼女は何度か瞬きをした。
 指先で目元を拭い、しっかりと俺を見上げて語を継ぐ。
「聞くなら主任のお言葉だけでいいんだって。この会社で働いている以上、一番信じておくべきなのは私に仕事を教えてくださった人の言うことなんだろうって、思ってはいるんです」
 わかってるんじゃないか。俺は彼女の頭から手を離し、
「そのとおりだ。お前の仕事ぶりは俺が知ってる、査定だって俺がつけてるんだからな」
 語気を強めて言ってやる。
 そこで彼女は真面目な顔になり、いよいよ蒸し暑くなってきた空気とは裏腹な、温度の低い声で続けた。
「でも、昨夜は考えてしまったんです。あの人たちの中では、主任が評価してくださる営業としての私なんて、どうせ辞めていく人間だから何の意味もなくて、女の子としても不足ばかりで、私という人間の価値なんてほとんどないことを」
「そんな言い方するな」
 俺が咎めても、藍子は強くかぶりを振る。
「本当なんです。『若くていい』とは言っていただきましたけど、それだけだったんです」
 その後で苦しそうに唇を噛み締め、絞り出すように、
「私だって、いつまでも二十四歳のままじゃないです。ずっと若くいられるはずがないのに」
 と呟く。
「だったらそのうち、若くもなくなった自分にはどんな価値があるんだろうって考えたんです。きっと仕事を辞めたら何にも残らなくて、あの人たちにも忘れ去られてしまうんだろうなって……私が自分なりに考えて頑張ってきたことも、あの人たちには『どうせ辞めていく人間』のすることにしか映らないんだろうなって思ったら、どうしても悲しくなって」
 それでもじっと、強い目で俺を見てくる。
「だから昨日、電話をしました。私が信じたい言葉を、主任なら言ってくださるんじゃないかと思って」
 打ちのめされた後でも、彼女の眼差しは気後れしたくなるほど真っ直ぐだ。本人の言うとおり、確かに彼女はいつまでも若いままじゃないだろう。でもいくつになっても同じ目をしてるんじゃないか、って気はする。
 そして考える。俺はあの時、彼女の望む言葉をかけられていただろうか。
 思い返してみたら何だか他の事柄に気を取られていたようで、自信はなかった。
「昨日、迎えに来てくださったのがとても嬉しかったから、私はまた頑張れると思います」
 藍子はそう言ってから、無理しているのが見て取れる硬い笑みを浮かべた。
「本当は今日、すぐにでも『また頑張ります』って言いたかったんですけど……すみません。ちょっとだけ引きずっちゃいました」

 本音で言えば、彼女の話はいささか耳が痛い。
 よその会社の辞めていく人間をずっと覚えてられるかといったらそうではなく、そりゃ得意先なら担当替われば仕事にも影響あるし、わざわざ退職の挨拶をくれた人もいる。だが何年もすれば前任者のことを思い出す機会もそうそうなくなってしまう。藍子の言う価値がどうこうという話とは関係なく、そういうものだ。
 社内でだって同じで、いい例が安井だ。さすがにプライベートで付き合いがあるからあいつを忘れてしまうことはないが、でも営業課であいつと一緒に仕事をしていた頃の記憶は年を追うごとに薄れつつある。俺の中でも『人事の安井』がすっかり定着していて、たまにあいつが営業課へ来ても、何か部外者がいるな、と思うくらいになってしまった。
 いつかは藍子のこともそんな風に思う日が来るのかもしれない。いざそうなったらむちゃくちゃ寂しいだろうな。でも寂しいって口にしようものなら、課の連中に袋叩きにされるな。
 そして、その安井が言ってたっけ。小坂藍子はプライドの高い人間だって。
 俺も彼女のプライドの高さ、及び向上心の強さは理解してきた頃合いだったから、今回の一件についても納得できるところもあった。彼女なら『腰かけ』扱いは不服だろうし、だが女として気が回らないと言われればまともに受け取って落ち込むだろうし、それらを俺に打ち明けるのは酷く抵抗あっただろう。
 もし安井の言うことが全部正しくて、彼女がプライドの高さに加えてしたたかさも持ち合わせているんだとしたら――いや、きっとそのとおりなんだろうな。本人がさっき言ったばかりだ、『また頑張れると思います』って。俺が無理に聞き出さなくても彼女はそのうちに自力で立ち直って、ちゃんと頑張ってくれたと思う。
 言いたくないことを俺が、自分が不安だからって理由だけで言わせる必要なんてなかった。

 その事実を察して俺が口を噤むと、藍子は気まずげに首を竦めた。
「本当にごめんなさい」
「だから、何で謝るんだって」
「あの、ご心配おかけしましたし、隆宏さんまで嫌な気分にさせちゃいましたし」
 俺のことなんて別に、気にしなくていいのに。俺はどうしたってお前のことにかけては心配もするし、やきもきもするし、おまけに独占欲が強くて嫉妬深くて妄想力もすさまじいと来ている。藍子のちょっとした変化でもめちゃくちゃ考えて勘ぐって一人もやもやしてしまう人間だから、そんな場合はあえて放っておいてくれるくらいがありがたい。でないとさっきみたいに問い詰めてしまうだろうから。
 でも、そこでまた、違う事実が脳裏にひらめいた。
 そうだよな。残念ながら、当たり前に気にするんだよ。
 俺が藍子のそぶりを見て、普段と違うところで一日中やきもきして冷静じゃいられなくなったのと同じように、彼女だって俺を見て、表情のちょっとした変化に、いつもは鈍感なくせにこういう時だけ鋭く気づいたりして、そしてやっぱり不安になったりするんだ。そういうものなんだ。
 大丈夫だとか気にしなくていいとか、言われたって呑み込めるものでもなく、気になるんだよ。お互いしたたかさではいい勝負なのかもしれないが、だからって相手のことを放っておけるほどの神経はしてない。むしろ自分のことじゃないからこそ気になるし、そっとしといた方がいいような場面でも、結局どうしたのかって問い詰めて打ち明けさせないと気が済まなくなる。そういうところは似た者同士、お互い様だ。
 だったら俺は、一緒になって落ち込んだり、ぶつけようのない怒りを滾らせていらついたりせずに、彼女が望むことをすべきだと思う。
 彼女が信じたい言葉を、今こそかけるべきだ。
「心配はするよ。当然だろ」
 助手席にいる彼女の柔らかい頬を手のひらで撫でると、少し汗ばんでいるのがわかった。本人もはっとしたようだったから、俺は久々ににやけながら車のエンジンを改めて、かけ直す。
 澱んだ空気を一掃するみたいに冷房の風が吹き込んでくる。またしても曇ってしまった窓も、そのうちきれいに晴れるだろう。
 そうして俺も、なるべく明るく言ってやる。
「でもお前はもう心配するな。お前のことは俺がちゃんと覚えてる」
 藍子が呆けた顔をするのが、場違いだが、すごく可愛い。
「相手がお前だから言うんじゃないぞ。俺はお前が入社した年に主任になったんだ。新人教育を全面的に任されたのもその時が初めてだった。一番最初に仕事教えた部下だ、忘れるはずがない」
 最初は俺も、若い女の子が来たって浮かれてたよ。昨日の連中を悪く言えないくらいに。
 いつしか、そうも言ってられないくらいになってた。お前から学ぶことも思い知らされることも考え直さなきゃいけないことも、たくさんあった。
「いつまで俺が新人担当になってるかわからないけどな」
 まだ主任二年目だしな。もう数年はこのまま、同じ仕事をしてそうな気がする。
 一年目のことを思い出しながら、律儀にシートベルトを締めている彼女に目をやる。
「この先も俺は、何人ものルーキーと会うことになるだろう。そいつらにお前の話をしてやるから」
「わ、私のですか?」
 びっくりして声を上げる彼女。
 俺はすかさず顎を引き、
「そいつらの中にはお前みたいなのもいるかもしれないし、お前と同じようなタイミングでつまずいたり、落ち込んだり、悩んだりする奴もいるだろうから、そういう時はお前のことを教えてやる。『前に、小坂が同じようなことやってたんだ』って」
 その頃にはもう、お前は『小坂藍子』じゃなくなってるんだろう。
 せっかく教えた仕事をお前から奪うようで、心苦しさもなくはない。でもお前が、悩みつつもそのことをちゃんと考えてくれてるって言うなら、俺も同じようにお前を信じていようと決めた。
 俺が取り上げてしまうんじゃなくて、自分で選んで、俺についてきてくれるんだって。
「だから、何も残らないなんて思うなよ。もし万が一、お前のことをよその会社の連中は忘れても、確実に俺は覚えてて糧にもして、他の誰かに伝えていけるから。お前のやってきたことは少なくとも、俺と、この先俺が教えるはずのルーキーたちの中には残るし、その中の誰かの助けになれるかもしれない」
 更なる本音で言えばだ。
 こんな今時珍しいほど純粋かつ真面目で愉快なキャラを、どうして忘れられるって思う。でもそれは俺の贔屓目ってやつかもしれない、今は黙っておこう。
「そう思ったら、まだまだやれる気になるだろ?」
 俺の問いに、藍子はゆっくりと頷いた。
「はい。頑張ります」
「そうだよな。うっかり失敗談とか話されちゃ堪らんだろうし、頑張んないとな」
「う、が、頑張ります……いいエピソードだけ覚えててもらえるように」
 そして今度は恥ずかしそうに笑った。
「やっぱり主任は――隆宏さんは、未来を考えられる人なんですね」
 どうやらそのようです。俺の類稀なる妄想力の使い道がありました。
 ただ、根拠のない想像だとは思わないで欲しい。いつか本当になる未来の話だ。
 先の話にしても、彼女はいつか営業課を去るのだろうし、そして名字も変わるだろうし、俺はこれからも何人かのルーキーたちと出会うだろう。その時には俺も、今よりもうちょい落ち着いてたいものだ。
 そしてその未来はあくまでも未来で、現在じゃない。もうしばらくは彼女も『営業の小坂』だから、今日みたいに不安を抱いてやきもきする日もこの先、ないとは言えない。そうなったらまた、今日みたいにちゃんと話ができたらいいと思う。
 俺もせっかくだからもう少しの間、頑張る小坂を見ていたい。
 ――早く結婚したいとも思ってるくせに、つくづく勝手なもんだ。

 曇っていたフロントガラスがきれいに晴れた。
「ありがとな、話してくれて」
 車を動かす前に礼を告げたら、藍子は途端に慌てふためく。
「い、いえいえそんな、お礼を言うのは私の方です。何から何までありがとうございました!」
「こちらこそ。俺も助かった気分だ」
 俺も、明日からまた頑張れそうだ。
 助手席では満足げな溜息が聞こえ、
「私、隆宏さんみたいな人になりたいです。これから何年かかっても、なりたいです」
 サイドブレーキを外し、車を駐車場から出しながら、俺は複雑な気分になる。
「本気でか? お前はもっと違う路線目指した方がいいと思うがなあ……」
「そうでしょうか。一番好きな人が、こうありたいと思う理想の人でもあるって、すごく幸せなことだと思うんです」
 毎度ながらさらっと爆弾発言かますよな藍子ちゃんは。こっちは運転中なのに。
 しかし方向性はともかく、幸せなことには違いないか。
 それなら俺も、最初に仕事を教えた相手が真面目な奴で、そいつに理想だとまで言ってもらえてよかったって思っておく。最初とあって練習台にしたようで申し訳なさもあるが、彼女から学んだことはずっと忘れずにいたい。忘れようもないか。
「隆宏さん、提案があります」
 車がオフィス街を離れた辺りで、藍子はそう切り出してきた。
「今日のお礼に、私がご馳走しますので、ご飯を食べに行きませんか」
「えっ。お前、食欲ないのどこ行ったんだよ」
 それ言われてから一時間経ったかどうかってところなんですが。
 思わず聞き返せば、彼女は粛々と答える。
「ええと、どこかへ飛んで行ってしまったのかもしれません」
「俺、結構本気で心配したんですがね……何だよ、普通に腹減らしてんじゃねえか」
「ごめんなさい! 本当にご心配おかけしました!」
 しゃきっと詫びてきた彼女は、しかしすぐに照れたような笑い声を立て、
「この時期は帰りが遅くなるから、ご飯いらないって母に言ってあるんです。ちょっと遅い時間ですけど、よかったら一緒に……」
 当然ながら、可愛い彼女の誘いを断るような俺ではない。

 お盆休みまであと少し。残りの繁忙期を乗り切る為、張り切って二人で飯を食いに行った。
 正味一時間半のデートではあったが、いろいろ起きた後だけにそれはもう楽しくて、何より藍子がすごく嬉しそうにしてくれたのがよかった。俺はお酌とかしてもらわなくても、彼女がいて、目の前でにこにこ笑ってくれるだけで本当に十分だ。
 彼女の価値は言うまでもなく、俺が一番知っている。
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