Tiny garden

溺れるほど溢れるほど(5)

 それからは、残り少ない貴重な時間を思う存分堪能して過ごした。
 普通にいちゃいちゃもしたし、一緒に飯作って食べたし、日曜日の朝は九時くらいまで二人して寝坊したりした。三大欲求の高度かつ贅沢かつこの上なく幸せな満たし方をこれでもかと言わんばかりに追求してみました。一杯ちゅーもしたし、めり込むくらいに頬ずりしてひげが痛いですと言われたし、あとそれ以外にもいろいろ、もうお付き合いしてる者同士の家デートなら押さえとかなきゃって類のことに挑戦してみた。

 一緒に映画を見た。
 彼女の趣味については、部屋に入れてもらった時のDVDのラインナップから大体把握はしていたが、一応本人にも聞いてみたところ怖い映画以外なら何でも見るらしい。
「ホラーとかスプラッターはどうしても駄目なんですけど……」
 と、ちょっと恥ずかしそうに打ち明けてくれた。
「でもそれ以外なら何でも……テレビでやってる知らない映画とかでも、つい最後まで見ちゃったりとかしますし」
 それならばきっと大丈夫だろうと、うちにある俺セレクション名画集の中から一、二を争う好きな映画のDVDを再生して、居間のテレビで鑑賞することにした。
 映画の内容は、哨戒中の潜水艦に出された本国からのミサイル発射命令をめぐり、叩き上げの艦長とエリートの副長が対立するというサスペンス人間ドラマだ。女優は一切登場しない男臭い映画ゆえ、デートムービーとしてこれを流すのはどうかとも考えていたんだが、藍子が何でもいいと言ってくれたからあえてのチョイス。俺の好きなものを彼女も好きになってくれたら、嬉しいし。
 そして何でも見るという言葉の通り、彼女は映画にとても熱中してくれた。ソファーに腰かけつつも次第に身を乗り出していく入り込みぶり。息詰まる緊迫の場面では拳をぎゅっと握り締め、全身を硬くしてテレビ画面に見入っていたし、諸々を乗り越えてのラストシーンではうっすら涙ぐんでもいた。
「ホウレンソウって、大事ですよね」
 鑑賞後の彼女の第一声はそんな調子だった。
「この映画見て出てくる感想がそれか」
「だってそう思っちゃいます。もし私がこの副長さんと同じ立場で、不完全でどちらとも受け取れるような指示を上の人間から受けたとしたら――」
 思いのほか登場人物に感情移入しちゃうタイプなんですね藍子ちゃん。
 しかし女が主人公の映画ならともかく、男が主役の映画でも『もし自分だったら』って考えちゃうものなのか。俺はするけどさ、この映画でも何回もしたけど、女の子でもするんだなあ。意外だが、しかし可愛い。
「お前だったらどうしてた?」
「もしかしたら、艦長さんの言うことを鵜呑みにしてるかもなって思いました。上の人の言うことだし、自分よりも経験豊富なはずだし、間違ってるはずがないって。何よりも自分を信じて、その気持ちを貫き通すことなんて、できるかな……」
 そう言って彼女はちょっと笑ったが、すぐに真剣な表情になって、
「それで戦争になってしまったら、きっと後で酷く悔やむでしょうけど」
 率直な感想を俺は、真面目だなあと微笑ましい気持ちで受け止める。鑑賞後しばらくしてからも藍子は肩に力が入ったままだったようなので、サービスよく揉んであげることにした。
「い……いだだだだ! 痛いです!」
「何だその色気のない声。もうちょい可愛い声出せないのか」
「本当に痛いんですもん! ああそこ! そこ押さないでください超痛いです!」
 映画の感動とは違う意味で涙目になった藍子が俺を責めるように睨み、そのうるうるした眼差しと拗ねた唇とが本当に可愛くて俺は、古典的表現ながらきゅんとした。恋に落ちる瞬間ってきっとこんな感じ。いやとっくに落ちてるどころかそろそろ底打ちしてもよさそうなのに一向に接地する気配ありませんけどね! このエターナルフォーリンラブをどうしてくれる。
 まあ、いい映画を見た後だしふざけるのは少しにしとこう。可愛い可愛い彼女を前に、俺は余韻に浸るようにゆっくりと告げた。
「ありがとな。映画、付き合ってくれて」
 藍子も、それでさっきの痛みなんか全部忘れたみたいにして笑う。
「いいえ。楽しかったです」
 まだ涙の残ってる目すら柔らかく、顔中でにこにこしている彼女。本心から楽しんでくれたのが伝わってくるからほっとする。よかった。
「隆宏さんの好きな映画が知れたのも、嬉しかったですし」
「そっか。じゃあ次来た時にはまた別なの見ような。まだあるんだよ俺セレクション!」
「次のお勧めはどんなお話なんですか?」
「戦闘機が撃墜されて、脱出したパイロットが敵地から逃げるって話なんだけどな、さっきの艦長役の俳優が司令官役で出てて、それがまた超渋くて格好いいんだよ! それで――」

 一緒にネットで通販サイトを見た。
 と言っても通販したかったわけではなく、藍子に買ってやろうと思ってるサドルレザーのキーホルダーがどんなやつかを、ちょっと見てみようかって話になっただけだ。
 彼女を椅子に座らせて、俺はその背後に立って、後ろから腕を回すようにしてマウスを握る。職場でやったらセクハラだと総攻撃を受けそうな態勢も、家でやれば全く問題なし。むしろ更なるお触りし放題です。
「二人で一緒にパソコン見てると、職場にいるような気分になりますね」
 藍子は藍子で、ムードぶち壊しの発言をかましてきたが。
「ならねーよ。つか俺、お前に仕事教える時だってこんなに接近してませんでした」
「あっ、すみません。そうですよね、今とはちょっと違いました」
「そりゃ実際、こんな風にしたかったけどな……」
「え? 何か言いました?」
 さておき、ネットだ。
 お好みの語句で検索すれば一秒未満のスピードで商品が画像つきで絞り込まれる通販サイト。実際に手に取って見るのにはやはり敵わないが、それでも別角度からの画像やら材質についての説明書きやらがあればイメージするには十分だ。
「ほら、こういうのとか。結構シンプルでいい感じだろ?」
「へえ……もっとごついのなのかなって思ったら、結構可愛いんですね」
 モニタに乗っかってるごくごく薄い革色のキーホルダーを、藍子は相変わらず猫背気味の姿勢で覗き込んでいる。見立てはまずまず成功したようで、今のところ反応は悪くない。
「使い込んでくといい色が出るんだよ。だからそのくらいまで大切にしてもらえるかなってさ」
 俺が言うと、彼女はすかさず顎を引いて、
「隆宏さんからいただいた物なら、何だって大切にします」
「大切に、しまっとくだけってオチか」
「そんなことないですっ。使いますよ、これからはちゃんと!」
 むきになってる。かわええのう。
 実際問題、こんなキーホルダーをつけてたらもう定期入れの中になんかはしまっとけないだろうし、そうなると使う機会だって増えてくれる、かも知れない。そうじゃなくても彼女の手荷物の中であの合鍵が、より存在感を増してくれたら嬉しい。
「ところでこれ、お値段に言及したら、やっぱり駄目ですか」
「駄目です。このくらいするやつじゃないと、将来使い回せないだろ」
「使い回す、って?」
「結婚してからもこの部屋に住み続けるとは限んないし、そしたら新しい合鍵作るだろうしな」
 途端、藍子がむくっと顔を上げ、自分の肩越しに俺を振り返った。少しの間じいっとこっちを見てからふと、何か思い当たったみたいに――っていうのも実はおかしい。だって俺はかなりはっきりとわかりやすく、単語で口にしちゃってるんだから。でも彼女は標準タイムよりも幾分遅れて耳まで赤くなり、ようやっと俯いてみせた。
「あの、気の利いたことが言えなくて。すみません」
 気にすんな、いつものことだ。
 そうして居間のパソコンデスクの周辺、半径一メートル以内にはいい雰囲気と言えなくもない微妙な沈黙が落ち、俺が俯き加減の彼女にちゅーしようかどうしようかと考えている間に、今度は意外なくらい早く立ち直った藍子がふと、切り出してきた。
「あ、えっと、ところで……隆宏さんはおうちでもよくネットをされるんですか」
「まあそれなりに」
 答えた俺はすぐに聞き返す。
「お前はしないの? 部屋にパソコンあったろ」
「ありますけど、それほどは……。ニュースを見そびれた時と、仕事の下調べが必要な時は見ますけど」
 彼女は何となく恥ずかしそうにして、首を竦めた。
「最近だとそういうのも、携帯で事足りちゃうんですよね」
「確かにな」
「久々に立ち上げてみたら更新が何件、とかあって、結局起動までにすごく時間かかったりして、それでかえって足が遠退いちゃう感じです」
 パソコン立ち上げるのめんどい、っていうのはあまり他人事でもない悩みかもしれない。俺も仕事で疲れて帰ってきた日とかは、起動を待ってる間に床で寝ちゃうとかあるある。ニュースだの天気予報だのは携帯からでも割と不自由なく見られるし、今二人で見てる通販サイトだって、画像を見るのが若干手間なのを除けば見られなくもないというレベルだ。
「でも、携帯のちっちゃい画面じゃ面白みないもんも結構あるだろ。画像とか動画とかさ」
 そう水を向ければ、藍子は腑に落ちたような表情をした。
「隆宏さんはそういうサイトをよくご覧になるんですか?」
 尋ねてきた彼女の表情はどこまでも生真面目で純粋で、別に皮肉を言うつもりなんか微塵もないようだったが、それでも俺の胸には音を立てて刺さった。
「ま、まあな。って言うか俺もよく見るのはニュースとか株価とか世界情勢とかそういうのばっかだし、携帯で見るのとそう変わんないってのもわかるな。うん」
「あ、そうなんですか。おんなじですね!」
 藍子の無邪気な笑顔を見下ろし、俺はこの子が天使でよかったなあと、心の底から思う。
 もっとも、彼女がいくら天使でも、履歴見られたら若干引かれるかなという気はしなくもない。

 彼女に、俺の服を着てもらった。
 別に誰に弁解する義務もないとは思うが、しかしながら事実関係をはっきりと説明しておくなら、これは俺の趣味でやらせたなんてことでは断じてなくあくまで必要に駆られてやむを得ず取った措置である。彼シャツ、とかそういうのをちょっとやってみたかったということではないのだ。決して。
 金曜日に着の身着のままやってきた藍子は、当然ながら仕事用のスーツを着ていた。俺の部屋には以前購入しておいたポロワンピースがあって、土曜日の彼女はそれを着ていた。夜寝る時には服は必要ないし、下着は洗濯すれば一日で乾く。
 だが、日曜日の日中に着る服がなかったのである。――ほら見ろ、やむを得ないだろ。
「どうせ帰る時にはスーツ着るんですし、ずっとこれでもいいですよ」
 と言い張る彼女を、それじゃ寛げないし皺寄っちゃったらせっかくアイロンかけたのにもったいないじゃないかいいから貸してやる黙って着ろと説き伏せ、どうにかこうにかTシャツを貸与するところまで漕ぎ着けた。やむを得ず。
「あ、あの……隆宏さんの服、思ったよりも大きいんですね」
 お約束の台詞と共に俺のシャツを着て現れた藍子は、何やらものすごく恥ずかしそうだった。
 グラビアアイドルがカッターシャツ一枚になってる系と比べたら、現実はさほど露出度も高くないし思ったより透けてもいない。しかしながらここでのポイントは付き合ってる彼女が俺のシャツを着ているという点である。肩の縫い合わせからしてオーバーサイズとわかる位置にあって、袖も微妙に長く二の腕から肘半分までが隠れてしまっている。シャツのプリント部分は意外なところがわずかに膨らんでいるし、襟ぐりさえちょっと大きめなんじゃないかってくらいで鎖骨がばっちり見えている。それでいて丈は惜しい感じに足りない。ぎりぎり脚の付け根が見えないくらいで非常に美味しい、いや惜しい。
「そんなに見ないでください」
 藍子が背を向けようとするから、肩を掴んで引き留めた。
「何で恥ずかしがるんだよ。着てるんだから問題ないだろ」
「で、でも、下ははいてないですから」
 そうですはいてないんです。そこが一番のポイント。お蔭で俺の何の変哲もないTシャツは彼女をしどけない姿へと変貌させてしまっているのです。超ミニミニ丈のシャツの裾は、階段を上ったりしたらなかなかいい眺めではないかと想像を掻き立てるものですが、しかしながらそれをやらせたらさしもの天使もドン引きするだろうと思われるのでやめておく。
「下にはくものも、何か貸していただけたらありがたいんですが……」
 藍子は差し迫った様子でストレートに尋ねてきた。Tシャツの裾を両手で握っている仕種がまた可愛くて堪らん。本当はぎゅーっと引き下げたいんだろうが、借り物な以上、そう乱暴な扱いもできないとこのポーズだったりするんだろう。彼シャツの真髄とはまさにそこである。
 この素晴らしい文化に感謝しつつ、俺は彼女の問いに答える。
「ない」
「ええ!? 昨日ははいてましたよね、ハーフパンツ的なものを」
「あれはもう洗濯機の中だ。今頃はごろごろ回ってるさ」
「他にはその、ないんですか」
「どうだったかなー。別にいいだろそれ一枚でも、見えてるわけじゃないんだし」
「よくないです!」
 よくなくないと思うんだがなあ。少なくとも俺にとっては目の保養になる大変よろしい姿なのだが、いかんせん藍子が恨めしげに見てくるからだんだん仏心みたいなものも出てきてしまう。いや甘いな俺。
 これこそまさしくやむを得ず、俺はタンスから適当なハーフパンツを持ってきて、彼女に貸してやった。はかせるのを手伝おうかといった申し出はすげなく拒否された。
 かくして上は俺のシャツ、下は俺のハーパンという急にボーイッシュな格好になってしまった藍子は、それでも十分に可愛くて、ちょっとユニフォームのサイズを間違っちゃっただけのキュートな草サッカー選手に見えた。全く、何着ても可愛いんだから困る。
「貸してくださってありがとうございます」
 安堵の表情でお礼を言ってくる藍子が、また素直でいい。ついさっきまで不可抗力とは言え、俺に若干変態的な服装を強いられていたと言うのに、そうやって着込んでしまえばそれらを恨んだり非難したりするつもりはないらしい。
「隆宏さんって、ところどころ着眼点が変わってますよね」
 それどころか、割と好意的な表現をされた。
「変わってるか? 男としちゃ別段おかしくない反応じゃないか」
「そうなんですか……」
 納得したのかどうなのか、こくこくと小さく頷いた彼女は次に、照れたような表情を浮かべる。
「何でこんなことが嬉しいのかなあって、わからない時がたまにあります」
 その点についてはお互い様だ。
 俺だって藍子が何で喜んでるのか、嬉しがってるのか、笑ってるのか、わからないことが時々ある。そういうわからなさがもどかしく思う日もあれば、想像するだけに留めておきたいって思う日もある。付き合ってたって相手のことなんて全部理解できるはずもないけど、一緒にいて幸せになれるんだったらそれでいい。
 わかる分はわかってくれるようになったら、それはそれでありがたいが。
「俺の場合はどんな時でも大体一緒だ。お前が可愛いって、そのことばっかり思ってるよ」
 正直に打ち明けたら彼女が目に見えて動揺したので、今度こそいい雰囲気とばかり腕を伸ばして抱き寄せた。そして――。
「あ」
 俺の腕の中、藍子は大して色っぽくもない声を上げた。
 動揺の気配もすぐに引っ込んだ顔で俺に告げてくる。
「電話です、隆宏さん」
「え?」
「ほら、テーブルの上。ぱかぱか言ってます」
 これは逃げを打つ為の発言というわけでもないようで、現に卓上に置いといた携帯電話の着信ランプがぱかぱか光っていた。わざわざサイレントにしといたのになぜ気づくか、というツッコミもなくはないが。
 並べて置いといた電話は二つ、社用のとそうでないのとで、今光ってるのは私用の方だった。これが社用のだったら今日は日曜だし、『たまたま忙しくて電話取れなかったんですけど月曜に対応するからいいですよねー』的な対応を取れたりするが、私用の方はどっからどんな用件でかかってくるかも読めないから、とりあえず出るしかない。
 光り続ける携帯を手に取ると、ディスプレイには発信者の名前が――『姉ちゃん』とある。
「……お姉さん」
 目にしたものをそのまま読み上げるみたいに口にした藍子が、その後でちょっと気まずげにした。覗いちゃって悪い、と思ったんだろう。俺としては彼女に見られてまずいことは特にないが、登録名をダイレクトに設定しといたのは恥ずかしい。そして電話に出るのがとても億劫だ。
 とは言え、身内に居留守を使うのも。何か重要な用件だったら困るし。
「ちょっと、悪い」
 俺は藍子に一言詫びを入れると、渋々通話キーを押す。
 繋がった途端、
『――もしもし、隆宏?』
 子供の頃から聞きすぎて条件反射的に身構えたくなるような女の声がした。
 基本的にうちの姉ちゃんはがさつで、無遠慮で、強権的で、弟を腕力でも知力でも捻じ伏せたがるような女だ。おてんば、という単語が控えめすぎて全国のおてんばさんたちに申し訳なくなるレベルのこの女が、しかし何を上手いことやったのか割かし真面目そうな旦那を捕まえ、今では二児の母である。そして義兄さんや姪っ子たちの話を聞く限り、怒った時には過去の片鱗を多少残しつつ、普段はとても優しくて気の利く妻であり母親だというから世の中間違ってる。それを詐欺と言うのです。
「何か用?」
 電話とは言え、藍子のいる前で姉ちゃんと話すというのも実にこそばゆい。ちくしょう居心地悪いな、と内心ぼやきつつ返事をする。
『何その無愛想な返事。って言うかあんたね、何でもいいからたまには連絡くらい寄越しなさいよ。一人暮らしなんだから、長く音沙汰ないとどうしてるかなって心配するでしょう』
 姉ちゃんの今の口調は母さんそっくりで、さすがにおばさん化の波は避けられないようだなとにやにやしたくなる。俺が三十になったように、あっちだってもう三十五だ。そりゃおばさんにもなるわな。
「こっちはもう十年も一人暮らしやってんだし、心配されるようなこともねーって」
 言われた通りにぶっきらぼうな応答の俺を、藍子が不思議そうな、好奇心一杯の目で見つめてくる。その頭を軽く撫でつつ、更に続けた。
「あといちいち連絡するようなこともないし。どうせメールしたらしたで姉ちゃん、くだらないって鼻で笑うだろ」
 と、そこで。姉ちゃんが少女時代の勝気さを窺わせるように短く笑った。
『あるでしょ、連絡するようなこと。お姉ちゃん聞いちゃったんだけど』
「何を」
 この時点で内容もリーク先も察しがついたがとりあえず尋ねた。
『あんた、彼女できたって話じゃない。お母さんが言ってた』
「ああ、まあな」
『すっごい可愛い子だって本当? 隆宏が珍しく浮かれてるってお母さんが』
「別に浮かれてねーよ!」
『しかも七つ年下だって? どんな上手いことやってそんなに若い子捕まえたの? まさか適当なこと言って誑かしたんじゃないでしょうね』
 この考えることの絶妙なシンクロっぷり。俺たち所詮きょうだいだな、血は争えん。
 そもそも母さんに言ったのだって、別に彼女できた記念で浮かれて報告したとかそういうのではなく、他の連絡のついでにちょっと言っといただけだ。もしかしたら何かの折に連れて帰るかもしれないから、程度の話と、あとはどんな子か聞かれたから二十四歳で、まあ可愛いよとは話した。それだけだ。何で俺が浮かれてるとかそういう話になってんだ。
『ね、こっち帰ってくる予定とかないの? 彼女さんと』
 姉ちゃんはあからさまに、俺には用はないってな態度で聞いてくる。
「近いうちに帰ろうとは思ってたけど……」
 そして俺は傍にいる、件の可愛い彼女に目をやって、
「彼女もそっち行ってみたいって言ってくれたし。どっかで、連れて帰るかも」
 と言ったら、藍子の表情がたちまちぱあっと明るくなった。
 明るくなったのは電話の向こうでも同じのようで、
『本当? 会いたい会いたい、お姉ちゃんも会いたい!』
「いいけど、あんまいじめんなよ。うるさい小姑いるってわかったら逃げられそうだ」
『うるさくしないもん。……あ、チビたちいるからそういう意味ではうるさいかも。彼女さん、大丈夫かな?』
「むしろ会いたいって言ってた」
 俺が答えると藍子が、うんうんと頷く。電話の内容がどこまで聞こえてるかはわからないが、姉ちゃんうるさいし、案外筒抜けなのかもしれない。
『そっかー。何かいい子そうじゃん。お姉ちゃん安心』
 姉ちゃんはにやにや笑いが浮かんできそうな口調で言い、それから、あ、と声を上げた。
『そうだ、今度写真でも送ってよ。メールで』
「え? 何すんだよ」
『見るんだよ普通に。お父さんお母さんも言ってたよ、早く見たいって』
 そうは言っても俺は好きな子の写真とか持ちたくない方なので、あるのと言えばせいぜい名刺用に取った証明写真画像しか……撮って寄越せってことですか。
「彼女がいいって言ったらな」
 こっちとしては良識的な返答をしたつもりだったが、なぜかそこで盛大に吹き出された。
『え、何。断られる可能性あるの、実はもう尻に敷かれてたりするの? 年下の子に?』
 あーもう、この姉マジうざい。

 適当に挨拶して電話を切った後、俺は藍子にお願いして写真を撮らせてもらうことにした。
 藍子は嫌がりもせず二つ返事で了承してくれたが、俺に肩を抱かれて携帯のカメラに納まった後、急に不安そうになって聞いてきた。
「着替え、しなくてよかったんでしょうか」
「いや大丈夫だろ。わざわざスーツ着て写るほどのもんでもないよ」
 それで彼女はほっとしたのか、早速メール画面を開いた俺に寄り添うようにして続ける。
「隆宏さん、その写真、私にも送ってくれませんか?」
「いいよ。お守りにでもすんのか」
「はいっ」
 こっちは半分冗談で聞き返したのに、ものすごくいい声で答えられてしまった。
「これから仕事で大変な時は、この写真を見て乗り切ろうと思います!」
 彼女がそう言ってにっこり笑う。
 お守り、なあ。俺は写真とかだとかえって寂しくなっちゃうから、やっぱ本物の魅力とご利益には敵わないって思ってんだけど、例えば俺にもお守りがあったら、例えば一昨日みたいなてんやわんやも自力で乗り越えられたかな。
 ……ま、いいか。藍子が甘えさせてくれるんだから、もうしばらくは本物頼みで。
 こっちの威力はかなりすごい。一昨日はあんなにしおしおだった俺が、明日からまた頑張れそうな気になってる。って言うかお仕事頑張らないと藍子連れて帰るだけの休み確保できないし、もう本気で頑張っちゃうぞ。

 写真を送信してやったら、藍子はすごく喜んでくれたし、姉ちゃんからはすぐにメールで返信が来た。
『えー予想以上にすっごく可愛い子じゃん、びっくりした!』
 最初の一行にはそうあって、俺はざまあ見ろとばかりに勝ち誇った気分になる。
 だが次の行には、
『でもあんた彼シャツ着せてるとか、本当に浮かれすぎだから!』
 ってあって、一転ものすっごく悔しい気持ちになった。
 だから浮かれてなんか――いや現実には割と深刻なレベルで浮かれてるけど! 会ってもいないうちから何でわかるんだよ。シャツくらいでなぜ見抜けた。ちくしょう放っとけよ!
 それこそやむを得ないじゃないですか。実際、めっちゃくちゃ幸せにされちゃってんだから。
PREV← →NEXT 目次
▲top