Tiny garden

余りにも脆すぎる(1)

 自分で言うのも何だが、嫉妬深い方だと思う。
 付き合ってる相手に対してのやきもちっていうのはそれほど珍しいものでもなく、程度の差こそあれ誰にでも起こりうる感情だ。俺も妬かれる側に回るなら、ちょっとくらいなら別に嫌じゃない。彼女が頬っぺた膨らまして拗ねてるのを見たら間違いなくにやにやしてしまうだろうし、その空気入り頬っぺたに思いっきり頬ずりしてもー可愛いんだからーなどと年甲斐もない台詞つきででれでれする容易に想像できてしまう。我ながら気持ち悪いな俺。
 ともあれ嫉妬もいわゆるスパイスってやつで、用法用量を守って正しくお使いいただければ何の問題もないわけだ。限度を超えさえしなければ――個人的に携帯チェックはアウト。手帳見られるのも、陰でやられたら引く。やましいところはなくても嫌です。そもそも浮気なんてのはする奴はする、しない奴は常識として断じてしないって代物だから、しない派の俺を藍子ちゃんはそのまま信じて一生ついてくればよろしい。それで俺が他の課の子や霧島の奥さんなんかと話してるところを見て、ほんのちょっと、軽くでもいいんでたまに妬いてくれたりしたらいいなーなんて思うんですが、現実にはバレンタインの義理チョコすらさほど気にしたそぶりはなかった。それはそれで、平和でいいか。
 平和じゃないのは例によって俺の胸中の方。それなりに嫉妬深い性質ゆえ彼女が他の連中と話してると、気になる。相手が霧島でも気になる。安井だったら気になるどころか超聞き耳立てるレベル。それはさておき、彼女もそして霧島も絶対に『しない派』だろうし、むしろ生涯のうちで一度として浮気なんて考えないんじゃないかって組み合わせだが、だとしても気になるものなのだ。
 疑いの目を向けるというのとは別の意味で。

「小坂さんって音楽の趣味いいんですねー! このアルバム、超よかったです!」
「気に入ってもらえてよかったです。お薦めしたのにいまいちだったらどうしようかなって」
「いやもう最高でしたよ。特に三曲目! もう何回リピートしたか!」
「あ、わかります! いいですよね三曲目!」
 朝の営業課を賑わす声の主は春名と小坂。
 話題は音楽CDについてのようで、聞き耳を立てずとも入ってきてしまう会話内容をまとめると、春名と小坂は普段聞く音楽の趣味が似通っているようで、何かの折にそれを知った小坂が、『じゃあこういうのもお薦めですよ』なんてバンド名を挙げて、流れでCDを春名に貸してあげた、ということだそうだ。春名はそれを今日、小坂に返して、アルバムの感想を語り合って盛り上がっているところってわけ。
 しかしながらつくづく油断ならねー新人だ。俺の知らないうちに小坂とCD貸し借りするような仲にまでなってやがった。営業なんて業務、人見知りじゃ務まらないのも事実だが、こんな調子でぐいぐい来られるのも気が抜けない。そりゃ小坂とそういうやり取りするのにまで俺の許可がいるっていうのも、筋の違う話だろうけど。
 浮気を心配してるわけじゃない。彼女がそういう行為を働く人間じゃないことも、できる人間じゃないこともちゃんと知ってる。春名が人懐っこいのも今に始まった話じゃなし、小坂だけにまとわりついてるならともかく、あいつは誰にでもこんな調子なんだから脅威に感じる必要だってあるまい。
 気になるのはもっと他の部分だ。
「この曲のPVがまた素敵なんですよ、ドラマ仕立てで、お話になってて」
「そうなんですか。確かにストーリー性ありますよね」
「ですよね! 曲にもぴったり合ってて、しかもいいお話なんですこれが」
「いいなー、見てみたいな」
「DVDもありますよ。気に入って、買っちゃってて……よかったらそれも持ってきましょうか」
「はい、是非! お願いします!」
 二人の会話は尚も続く。まだ始業前、出勤してきた課員はまだ半数って時分だ、趣味の話に多少興じてたって目くじら立てるものでもない。
 ただ話がものすごく弾んでいるようで、しかも小坂がめちゃくちゃ楽しそうにしてるものだから俺としてはこう、複雑だった。音楽の趣味を誉められて本当に嬉しかったんだろう、饒舌にそのアルバムについて語る彼女は可愛くもあったし、DVD買っちゃうくらい気に入ってるアーティストがいたのかと新鮮な驚きも覚える。新鮮と言えば、小坂と春名はたったの一歳違いで、そのあるかないか程度の歳の差が織り成すほんのちょっとくだけた感じというのもあまり見たことがないので新鮮だ。客観的に眺めていられる分には微笑ましくて実に楽しい会話なのかもしれない。
 でも一度自分の立場に立ち返って考えてしまうと、楽しそうなのが何と言うか、悔しい。何が悔しいって、二人が話してるアーティストがどこの某か全く存じ上げないのが悔しい。世間様の流行から徐々に取り残されつつある三十歳の俺は、最近の音楽の流行ってやつも全くわからないようになっていて、以前彼女の部屋へ入れてもらった時も、棚に並んでいたCDのタイトル及びアーティスト名が知らない単語ばかりだったことに危機感を覚えた。こういうところからおっさん化現象は始まるんだろうな、やだやだ。
「今度公開の映画の主題歌もやるらしいですよね」
「そうなんですよ! 私、すごく楽しみにしてるんです」
「あれ原作もよかったですよねー、好きなんですよ俺」
「私もです、一日で読みきっちゃいました」
 若者の会話は幅が広くてえらいこっちゃのう……と、おっさん通り越してじいさんみたいな感想を抱く俺。原作って何なんだろう、漫画か小説か。春名も小坂もそういうのの流行までしっかり追い駆けられるようアンテナ張り巡らせてるんだろうか。だとしたらすげえ、頭が上がらん。
 小坂が楽しそうな顔をしてるのを見てるのは好きだ。可愛いし可愛いし可愛いしで眺めてるこっちまで自然とにやにやしてくる。うちの課は男だらけだからつまらん嫉妬も今更だし、目の前で盛り上がられてるからといって僻むのもかりかりすんのもおかしい。まして春名はあの通り話題も豊富だし、歳も近いし、趣味も似てるらしいし、そりゃ話してても楽しいだろう。俺だってそう思ってる。
 思ってても、つまらん嫉妬は湧いてくる。
 楽しそうで何かちょっと微妙に悔しい。

「……何むくれてんですか、先輩」
 ずっと読むふりをしていた書類の上、影がぬっと目障りに差した。
 顔を上げれば霧島が俺の席の傍まで来ていて、哀れみの視線っぽいものを向けてくる。
「顔に出てたか?」
 聞き返せば奴はすぐさま頷く。
「『この泥棒猫!』って書いてありました」
「マジか。ベタすぎんだろ俺の顔」
「冗談抜きでベタですし単純です。あんまり顔に出さない方がいいですよ。空気悪くなるから」
 声を落としてそう告げられたが、余計なお世話だ。
「口に出さないだけましだろ」
「むしろ慣れましょう。こんな男だらけの職場、いちいち妬いてたら時間の無駄ですし大人げないですよ」
 後輩のくせに、偉そうに説教と来たもんだ。そんなに酷い顔をしてたつもりもなかったし、俺がどんな顔したってお前に迷惑かかんないだろとも思う。空気が悪くなる? なってねーじゃんむしろ皆にやにやしながらこっち見てんじゃん。俺が妬いてんのばればれらしいですこっち見んなマジで。
 腹が立ったので言い返してやる。
「言いだしっぺのお前が慣れろ」
 すると霧島は眉根を寄せて、
「何にですか?」
「俺の顔。見て見ぬふりしろよ」
 そう続ければ今度はわざとらしく肩を落としてみせる。
「交ざりたいなら交ざってくればいいじゃないですか、いつもの無遠慮さでずけずけと」
「馬鹿、それこそ大人げないだろ」
「今更ですよ、先輩」
 何から何まで生意気な奴だ。
 これが、彼女が浮気という未知の領域に引きずり込まれる現場というなら俺はすっ飛んでって普通に邪魔するし、大人気なく割り込んで逆にこっちの仲を見せつけるというこの上なく醜い作戦に出る。そのくらいのことは恥でも何でもなくする。
 問題は今が浮気現場でも何でもないただの楽しいお話タイムで、相手も俺のよく知ってるアグレッシブな新人くんで、そして俺は彼女が楽しそうというほんの些細な理由だけでもやもやしているという点にある。
 この通り、俺はそれなりに嫉妬深い。浮気の疑いがなくてもこんな気持ちになって、ぶっちゃけ『俺以外の男と楽しく話すな』ってうっかり口走りそうになるくらい嫉妬深い。ただそれを言わないだけのプライドもあるし、彼女の前では格好つけたい気持ちも大いにある。まして向こうは彼氏いない歴二十三年という恋愛経験の持ち主で、俺のことを一時は聖人君子とさえ思ってたふしもあって、付き合ってからは結構いろいろ曝け出してるにもかかわらずそれでもまだ立派な人間みたいに評価してくるもんだから、その理想から大きくはみ出すような真似もしたくない。ここが難しいところだ。
「まあ、あの流れだとちょっと交ざれないですよね」
 と、霧島はなぜか急に気持ち悪いくらい同情的な物言いになる。
「俺もお二人の会話にはついていけませんから。もう最近の流行とか、てんで駄目です。最近の若い子はすごいなと思いますよ」
 そしてもっともらしい顔で続ける。自分も若いくせに。
「え、お前二十代のくせにそんなこと言ってんの?」
 それはそれでどうなの、と俺は突っ込む。来年には三十になる身とは言え、今はまだ二十代として猶予期間を過ごしているはずの霧島がそんな調子ではまずいのではないか。そういえばカラオケのレパートリーが入社当時から変化してないと課内でももっぱらの噂になってるようだが、お前はもうちょっとアンテナ広げてもいいんじゃないか。実際、霧島は学生時代から決まったアーティストしか聴かない性質らしいので、多分この先もレパートリーが急増することはなさそうだ。
「年齢は関係ないですよ。俺はあんまり幅広く聴いたりしないだけです」
 霧島はあっさりと俺の言葉を撥ねつける。
「そうかねえ……お前は昔っからじじむさい感じだし、案外早く老化しちゃってんじゃねーの」
「失礼な。先輩こそどうなんですか、最近の人気曲とかわかってるんですか?」
「いや全然」
 俺もカラオケのレパートリーは近年停滞気味だし、映画もいっつも同じようなのしか見ない。幅の狭さでは霧島のこと言えない。
 これが趣味じゃないから、嫌いだから聴かない見ないって言うなら簡単な話なんだろうが、もう拾いきれなくなったっていうのが正直なとこなんだよな。仕事で忙しくて趣味に使う時間が減ってった。減った分を補充するのに趣味の時間のうち、『新しいものを探しに行く』時間を削った。そうしてどんどん少なくなっていく貴重な自由時間に、外れの音楽や映画は引き当てたくない。なら前から知ってる音楽を聴いたり、見たことある映画を見よう――そんな調子で、新しいものを見つけるアンテナがどんどん萎んでってる。
「俺もいよいよ歳かなあ……」
「先輩はまだまだ幼いですよ。学習が必要です」
「そこは若いって言えよお前」
「十分お子様じゃないですか、さっきのむくれ顔とか」
 だから見るな気にするなって言ってんのに、しつこい男だな霧島。
 まあ、学習が必要ってのは一理あるかもしれない。せっかく若い彼女ができたんだし。若者たちのアンテナの活きのよさを羨むくらいなら、たまには新しいものにも果敢に取り組んでいくべきじゃないのか。知らないわからないで通すのはもったいない。
 と、春名と会話を終えた小坂が、件のCDを手に戻ろうとしたのを見た瞬間に思った。
「小坂」
 すかさず呼び止めると彼女は足を止め、俺を見てぱっと笑う。
「何ですか、主任」
「そのCD、俺にも貸して」
 間髪入れずの申し出に、なぜか課内のあちこちから笑い声が起きる。見え透いた行動だとでも思われたんだろうか、見れば春名まで一瞬気まずげにしながらも、いかにもおかしそうに少し笑っていた。いいじゃん、俺だって小坂と楽しく話がしたいんだよ!
「どうぞどうぞ、是非お持ちください」
 小坂はわざわざ俺の席まで駆けてきてくれた上、ジャケット写真がよく見えるようにCDを手渡してもくれた。女性ボーカルのバンドなんだろうか、一人の女の子を中心としてバンドメンバーが風景写真をバックに写り込むその構図はなかなか見栄えがよく、噂のPVとやらもこういう雰囲気なら確かによさそうだと思えてくる。
「ありがとう。話聞いてたら聴きたくなってな」
 いろいろ見透かされてるのは違いないにしても口ではそう言ったら、皆にはもう一度笑われ、唯一何にもわかってないであろう本人は上機嫌の顔になった。
「嬉しいです! 主任にも気に入っていただけたらいいんですけど」
「お前のお薦めだろ、期待してるよ」
 好きな子の好きな曲ってだけで評価は上げ底しまくりになるからな。よっぽど好みじゃなかったり上手くなかったりしたら別だけど、大抵は『あの子は普段こんな曲聴いてるのかー』的な実感及びその後の妄想だけで十分満足できる。それで曲自体が当たりだったらもう言うことはない。
「それに最近、新譜のチェックなんかもしなくなったからな。たまに新しいものも聴いとかないと、老け込む一方だろ」
「そんな、主任はまだ老けるなんてお歳じゃないですよ」
 俺の自虐的発言にも素早くフォローを入れる小坂。先程の霧島の発言と比べると、涙が出てくるほど優しく思える。あいつは小坂の爪の垢でも煎じて飲むべきだ、全く可愛くねー。
「まあ、若者文化に触れたくなる時期ってやつでさ」
 そう告げると、彼女はちょっと考えてから思いついたように言葉を継いだ。
「それなら、他のもお貸ししましょうか」
「え? いいのか?」
「はい、あの、私の趣味でよければですけど」
 小坂は自分の趣味に自信がないのかどうか、とにかく照れたような表情になる。そしてにこにこ笑いながら更に続けた。
「そこまで新しめじゃないですけど、うちにいくつかありますから。主任に気に入っていただけたらすごく嬉しいなって……あ! もちろんそれ聴いてから判断していただいて結構です! もしかしたらご趣味に合わない可能性もなくはないでしょうし!」
 何を慌ててるのか、後半は特に早口になりながらもそう言ってくれた。
 彼女の方にも俺と趣味を共有したいとか、そういう気持ちがあるんだろうか。あるといいなと密かに思いつつ、こちらも好意的に答える。
「じゃ、趣味に合ったら頼む」
「はいっ。その時は持って行きますから、いつでも仰ってください」
 いい返事といい笑顔を残して、小坂は自分の席へ戻っていく。
 俺は借りたてのCDに改めて視線を戻し、それからふと、――『持ってくるから』じゃなくて『持って行くから』なんだなあと気づいて、込み上げる笑いを咳払いで誤魔化す。
 彼女のことだから言い間違いって可能性もなくはないだろうが、それなら直後に自分で気づいて言い直してるはずだとも思う。本人が気づいてない辺り、本気でうっかり言っちゃった発言なんだろう。確かに俺も、こんな始業前の社内で受け渡しされるよりかは俺の部屋まで持ってきてくれる方が実に楽しいしありがたい。
「やっぱり、無駄だって思いません?」
 そこへ再び霧島の声。
 もう一回顔を上げれば奴はまだ傍にいて、
「あれ、お前まだいたの?」
「いました。さっきからずーっといましたが、気づきませんでしたか」
「いや全く」
「……視界にも入りませんでしたか。いいんですけど」
 本当にどうでもよさげな調子で霧島は言い、それからいかにも呆れたような顔を作る。
「さっきも言いましたが、妬く必要もないと思うんですよね、先輩の場合」
 必要があるとかないとかじゃない。これはもう感情的なところだから理屈がどうこうなんてのは関係ないのだ。小坂が他の男と話してたら気になるし、それが楽しそうだったら多少かちんと来る。そういうもんだ、しょうがない。
 だが感情的なものだからこそ雲散霧消するのも実にスピーディで、彼女からCDを借りおおせた俺はすっかりいい気分になっていた。それを傷つけないように丁寧にカバンにしまい込んでから、霧島に対しても告げてみる。
「やっぱ最近の流行ってのにも触れてみないとな」
 奴は溜息交じりに応じてきた。
「先輩が触れたいのは流行だけじゃないでしょう」
 当然。実に愚問だ。
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