Tiny garden

世界を壊しつくすひと(6)

 その日はもう心底くたびれきっていたから、予定通り霧島たちと飲みに行った。
 炊飯器どころかスーパーに寄る気もしない。それに、買い物中にメール来ても困るし。

「――先輩、さっきから携帯ばかり見てますね」
 霧島が目敏く聞いてくる。
「まあな」
 俺は適当に答え、センター問い合わせを終えた携帯を閉じた。メールはまだない。
「誰かからメールでも来る予定?」
 覗き込もうとする安井の肩を押しやり、携帯はとりあえず居酒屋のテーブルの上に置いておく。鳴ればすぐわかるように。
「小坂が連絡くれるって言ってたから」
 そしてなるべく平然と話してみたつもりだったが、口元がにやけてしまったので台無しだった。
 途端、霧島と安井の顔も半笑いになる。
「ああー……そうですか。さっきまで死にそうな顔してた人とは思えませんね」
「見てみろ、石田のあのだらしない顔。幸せの極致って感じだ」
「何か俺、心配して損しちゃいましたよ」
「そうだな。こいつはどうせ小坂さんがいれば後はどうでもいいんだ」
 いやどうでもいいとまでは言わないって。俺だって始終恋愛ばかりしてられる立場でもなし、他にも考えるべきこと、やんなきゃいけないことがわんさかある。でもそういう毎日を乗り越えていく上で、小坂がいてくれたら大いに助かると思う。あいつだけいればいいってわけではないが、あいつがいたら、いいだろうなって。
「やっぱ小坂は、幸せそうに笑ってる顔がいいんだよな。可愛くて隙だらけで頬っぺた柔らかそうでさ。俺もあいつにそういう顔してもらえるなら何でもするぜって気分になるし、それであいつに笑ってもらえたらますます頑張れそうだし、それを長く続けていけたら最高だろうなって思うんだよ。要は俺たち、永久機関になれる可能性を秘めてるっつうか」
「長い長い、先輩長いです。その辺にしてください」
「しかも永久機関と来たか。医者が匙を投げる頃合だな」
 いちいちうるさいよお前ら。特に安井、俺はあの恨みを忘れちゃいないぞ。
 まあそれはさておき、いいだろ、小坂は俺が好きだし、俺だって小坂が好きだ。二人でいてお互いに幸せな顔してられるなら何の問題もない。あとは余計なちょっかい、邪魔さえ入らなければな。
「生きてく上で必要……って言ったら大げさかもしれないが、何か、あいつのいる毎日ってのも悪くないなって気がしてさ」
「え、何ですかそのプロポーズじみた台詞」
「ああわかった、もうわかったからとっとと結婚しろ」
 結婚か。それも何度か考えたが、小坂となら悪くないかもとは思ってる。あいつはいい嫁になるだろうって印象もあんま変わってない。よそで忘れ物してくるのはもう勘弁して欲しいが、さておきあいつが、仕事で疲れて帰ってくる俺を例の笑顔で出迎えてくれたりしたら、疲れも吹っ飛んでさぞかしいい気分になれるはずだ。まだ現実的ではない、むしろ絵に描いたような幸せな生活。
 でも、営業として頑張る小坂も見ていたい気がする。何だかんだで努力家のあいつを主任として見守りつつこっちも励まされたりする毎日ってのも捨てがたい。そういう意味では俺、主任になってよかったかもしれない。
「あいつ、いい嫁にもなるだろうけど、いい営業にもなれるよ」
 携帯電話を手に取り、開き、問い合わせまでしてみる。メールはまだない。帰ってから二時間経つ頃なのに何やってんだか。無事に家に帰れたのか、そこからして心配にもなる。
 ぱたんと携帯を閉じ、話は続ける。
「結婚も、悪くはないよな。でも俺はもうちょっとこういう関係も楽しみたい。昼間は上司としてあいつの仕事ぶりを見守って、夜は昼よりもくだけた感じで話したりして、そんな毎日をしばらくは続けたいんだよ」
 それはそれで幸せかつ贅沢な日々だと思う。
 もっとも、ルーキーイヤーが終わるまでなんて待てませんがね。それとこれとはまた別の話。だからこそメールのやり取りしようってことになったんだし、今もそわそわと待ってるわけだ。
「へえ……」
 霧島は意外そうに俺を見ている。何か言いたいなら言えばいいのに、唸っただけなのが気持ち悪い。
 一方、安井の目は疑わしげだ。
「そんなこと言って、ある日いきなり出来婚なんて言い出すなよ」
「わかってる。ちゃんと毎回気をつける」
「えっ、問題はそこですか」
 何言ってんだ、大事なことだろ。
「あと時期も、霧島と被らないようにしてくれよ。ご祝儀が地味にきつい」
「そういえば。……俺も節約しないとな、せっかく小坂とデート三昧って思ってたのになー」
「そういう言い方やめてくださいよ! 反応しづらいじゃないですか!」
 それはごもっとも。
 別に小坂とどうこうなっても、霧島への祝儀が増減するなんてことはないですがね。こんなんでも長い付き合いだから、まあそれなりに――うん。祝福してやらなくもない。
 俺が祝福される立場になるってのは、まだ想像もつかないが。しかし遅いな、メールまだかな。
「て言うか、祝儀の前に安井からは慰謝料も貰いたいしな」
 思いついたから水を向けると、なぜか安井は訝しげな顔をする。
「慰謝料?」
「……俺を騙して驚かせて、会議室まで走らせた罪」
「ああ。でも後で二人っきりにしてやっただろ? 何かいいこともあったんじゃないか? 逆に報酬が欲しいくらいだ」
 どの面下げて言うかこいつ。本気で心配したんだからな!
 歯軋りする俺とは対照的に、安井は至って明るく、
「ちゅーした? あの後」
「おまっ……それどころじゃなかっただろ普通に考えて! すっげー焦ったんだぞ俺!」
「でも結局は小坂さんも立ち直ってたし、お前はお前で飛んできた瞬間から恋心だだ漏れって感じだっただろ。全力疾走の後はちゅーで締めくくらないと青春っぽくないだろ」
 だだ漏れ? そんなの出てたか俺。違う心ならよく垂れ流してると霧島に言われてるが、恋とか青春ってのは何か、爽やかすぎて違くない? この歳になるとさすがに違和感ばりばりの単語だ。
「いや青春とかって、三十にもなって……なあ?」
 俺が苦笑しつつ首を傾げれば、霧島がすぐさま突っ込んできた。
「何で照れるんですか先輩、気持ち悪い」
「気持ち悪いって何だよ、今日の妙に優しいお前に言われたかねーよ」
「なっ、俺は本気で心配してたんですよ! 小坂さんより先輩が立ち直れないんじゃないかと!」
「そこが不気味だって言ってんだ。いつもは俺を、小坂を誑かす大悪党みたいな扱いしてるくせに!」
 どいつもこいつも今日はぶっ壊れてる。そりゃ俺の調子だって狂うよ、ちゅーする気なんてまるで起きなかったもんな。まあ霧島がおかしいのはアレのせいなんでしょうが――こいつのご祝儀、熨斗袋に俺の名刺突っ込んどいてやろうか。小坂は手放しで喜んだぞ、お前も当然喜ぶよな?
「まあまあ君たち、飲んでる時に喧嘩はやめたまえ」
 睨み合う俺と霧島の間、鷹揚な物言いで安井が割って入り、俺ははたと我に返る。
「誰のせいだよ誰の!」
「元はと言えば安井先輩が!」
 そうして俺と霧島の声が重なった時、――携帯のメール着信音が鳴った。
 やっと来た、と思った。
 間髪入れず俺は携帯を引っ掴み、開こうとしたらなぜか別の手がよそから伸びてきたりして、
「小坂さんからですか? 何て書いてあるんですか?」
「見せろ石田、ほらほら早く見せろって」
「見んな! 俺が先に見るに決まってんだろ手ぇ離せ!」
 その手をぶんと追い払ってから一呼吸置き、メールを開く。
 記念すべき小坂からの初メールは、こんな風に認められていた。

拝啓 初秋の候、いかがお過ごしでしょうか。
 平素は何かとお世話になり、誠にありがとうございます。
 また先だってはご連絡先を教えていただき、心より御礼申し上げます。
 早速ですが、当方の連絡先をこのメールに付記いたします。もしよろしければアドレス帳の末席にでも加えていただけると幸いです。
 今後ともご指導ご鞭撻くださるようお願いいたします。
 九月とは言え、残暑が続いております。どうぞお気をつけくださいませ。 敬具

 一読して、何だこれ、ってまず思った。
 それから数回読み直してみて、だんだんとフリーズしてた頭が働いてきて――ああそうか、そうだよな。小坂だもんな。俺はどんな可愛い、顔文字たっぷり絵文字たっぷりのメールが来るのかなーなんて考えていたが、そもそも相手は小坂だったんだよ。あの真面目な奴が、好意があるとは言え『上司に』メールすんのにそんなくだけた文面にできるはずがないよな。きっと失礼のないように、なんて可愛く首傾げながらうんうん考えたんだろうな。上司宛てならメールのマナーは遵守しなきゃみたいな前提の下にさ。それはわかる。わかるっつうか想像がつく。ある意味非常に小坂らしい行動原理だ。
 だが。
「……何て、書いてありました?」
 霧島が目を瞬かせたので、答える代わりに俺は笑った。もう笑うしかなかった。二人がぎょっとするのも放って、けたたましくひとしきりげらげら笑った後、脱力して居酒屋のテーブルに突っ伏した。
 ――普通に振られるよりきっついんですがこれ!
 俺の手からは開けっ放しの携帯電話がするりと抜き取られた。それを止める気力もないまま、俺は頭上の会話を呆然と聞く。
「あっ……。これは、うん。ちょっと、さすがに、あれだな……」
「うわあ……な、何て言うか、ある意味ではすごく小坂さんらしいですけどね……」
「哀れ石田隆宏三十歳、意中の子からのビジネスメールに沈む、か」
「って言うか先輩、大丈夫ですか? 生きてます?」
 いやもうぎりぎりです。瀕死です虫の息ですよ。
「だから言ったろ。恋愛なんてそんなもんだ、向こうの気が変われば理不尽に振られたりするんだよ。お前だって小学生の頃から知ってただろ」
 安井が冷めたことを言うから、何でそんな終わったことみたいに言うんだよってますますへこんだ。
 終わってねーもん。まだ終わりじゃねーもん。そりゃ今まで女の子に振られてきたのより何倍もダメージでかいメールでしたよ。期待が大きかった分深刻な被害でしたとも。でもまだ振られたわけではないだろ。ないよな? 大丈夫だよな?
 やがて俺は立ち上がる。
 安井の手から携帯電話を取り返し、むかつくほど同情的な目を向けてくる二人に告げる。
「小坂に、電話かけてくる」

 居酒屋の外に出る。
 九月半ばの空気は思いのほか冷たく、吹きつける風に肩を竦めながら電話をかけた。
 待ち構えていたような素早さで繋がり、
『――あっ、しゅ、主任! いつもお世話になっております!』
 第一声からしてビジネス調なのはどうしたもんだと、また笑えてきた。小坂がこういう奴だってのは知ってた。知ってたけどな。
「おい小坂、今のメールは何だ」
 挨拶する間も惜しんで尋ねた。
 たちまち小坂は慌てたような声になる。
『ええと、あの、どこかおかしかったでしょうか』
「おかしい。おかし過ぎて散々笑った。そして笑った後でむしろ怒りが込み上げてきた」
『わあ、す、すみませんっ! 失礼があったならお詫びして修正します!』
 そんな謝られましても……本人がわかってないなら直してもらったところでどうしようもあるまい。まず意識の方から修正してもらおうか。
「失礼? まあ……ある意味失礼ではあるよな」
『どの辺りがでしょう』
「全部」
 俺はきっぱりと答える。
「小坂、今回のは仕事のメールじゃないんだからな。こんなに畏まってどうすんだか。お前は普段からこんなメールばかり送ってんのか?」
『い、いえ、そんなことはありません。例えば学生時代の友人には普通に……』
 つまり何か、俺はお友達以下か。
 二人で花火見たりパフェ食べに行ったりしたじゃんよ。それでもそんな扱いですか。
「じゃあ俺にもそういう風に送れよ。こんな扱いじゃかえって傷つく」
『でも、失礼になりませんか? 主任は私の上司で、日頃から大変お世話になっている方なのに』
 小坂の口調はすこぶる生真面目で、俺を尊敬すべき上司として捉えているらしいことはわかった。そういう扱いだって不快ではなく、むしろ入りたてのルーキーにされたら鼻が高いくらいだが、勤務時間外まで徹底しなくてもいいと思う。
「何の為にこのアドレス教えたと思ってる。退勤後まで上司と部下でいるつもりでじゃないんだぞ。公私の区別をつける為だ。誰もビジネスマナーに則ったメールを寄越せなんて言ってない」
 なるべく冷静に、淡々と言い聞かせてやろうと思ったが、説いているうちにむかむかしたのでこれだけは突っ込んでおく。
「大体何だよ、いかがお過ごしでしょうかって。毎日会ってるだろ! 今日も顔合わせただろ!」
 今日どんな風に過ごしたかってこともお前が一番知ってるだろうに。朝は初営業で緊張するお前を見てやきもきして、昼はなかなか連絡寄越さないお前にやきもきして、退勤後は安井に引っ掛けられてえらい目に遭い、そして夜はお前のメールでへこみかけました。こんな風にお過ごしでした。
『お、おっしゃる通りです……』
 恐縮しきった様子で小坂が応じる。どうやら理解はしてくれたようで、すぐに言った。
『じゃあ、次回からはビジネスマナー抜きで、略式の文面でお送りしようと思います』
 略式ってところがまた不穏な気がする。念を押しておこう。
「普通でいいからな、普通で」
『はい』
 返事はいい、いつもながら。
 でも何だかこう、のれんに腕押しって印象なんだよな。
「いまいち、わかってる感じがしないな」
 呆れつつも少し考える。こいつにはいっそ、わかりやすく言ってしまう方がいいんだろうな。上司としては言っちゃいけないようなことでも、正直に。
「今日言っただろ。お前を甘やかして、公私混同と思われるのも困るって」
『はい。伺いました』
「お前がどういう性格かはおおよそわかってる。でもわかっていようがいまいが、お前を叱らなくちゃならない時は叱るし、誉める時もえこひいきにならないよう、皆の目を気にして適度に誉める。なるべく、そうしたいと思う」
 なるべくな。そこが難しいんだが、やらないといけない。
「お前を叱るのも、適度に誉めるのも俺の仕事だ。でも俺は、ミスをして落ち込んでる時のお前を慰めるのも、仕事が上手くいった時に誰よりも一番誉めてやるのも、俺の仕事にしたい」
 小坂がどんな顔をして俺の話を聞いているのかはわからない。真面目くさった神妙な顔か、実はもう嬉しそうな顔でもしてるのか。見えないから知る術もない。でも微かな吐息がかすめるように聞こえた気がして、それだけで彼女をとても近くに感じてしまう。すぐ傍にいるんじゃないかって思えてくる。
 やっぱ電話もいいな。うん。
「今日のことで余計にそう思った。俺はお前を叱るばかりで、落ち込んでるお前を慰める役割を、他の人間に攫われちゃ堪らない。だから両方俺の仕事ってことにする」
 もう二度と安井には譲らない。他の人間にもだ。
「だからこその、私用の連絡先だ。メールにしろ通話にしろ、この電話でやり取りする時は勤務時間外、お前を甘やかそうが何をしようが公私混同には当たらないだろ。他の人間に見咎められて、あれこれ言われる心配もまずないだろうしな」
 俺が決意を語ると、電話の向こうで短い沈黙があって、それから、
『主任……』
 不意に甘えたような、鼻にかかった声が俺を呼んだ。
 最大限に感情を込めて、でもどこか抑えたがってもいるみたいにそっと呼ばれた。
 まさに不意打ちだった。多少酒が入っていたとは言えその威力は耳をあっさり陥落させ、膝の辺りから力が抜けそうになる。いつぞやのようにすごく、ぐらっと来た俺は、今度は一転して電話であることを恨みそうになる。
 今のは駄目だろ。反則だろ。二人でいる時にそういう声を出してくれたらいいのに、電話越しとかどんな生殺しだよ。聞きに行っちゃうぞ。
 あと、どうせそういう声で呼ぶなら役職名じゃない方がいい。
「本当は、その呼び方も止めさせたいんだがな。勤務時間外くらいは」
『え?』
 小坂が戸惑った様子だったから、優しく説明しといてやる。
「だから、俺を主任って呼ぶのを。無理だろうけど」
 お前に小坂藍子って可愛い名前があるように、俺にもごくありふれた名前がついてる。『主任』って呼び名よりはよっぽど付き合いも長いし、愛着もあるから、いつかお前にもそっちを呼んでもらえたら嬉しい。ちょうど、さっきみたいな声で。
『――む、無理ですっ』
 今度はまごついている。忙しい奴。
 無理だって言われそうな気はしてたよ。だってあんなメール送ってくる奴だもんな。ゆっくりゆっくり時間をかけて、慣らしていくしかないのかもしれない。
「だろうと思ったよ。まあ、それはそのうちにな」
『そのうちにって……』
 そっちは追々でいい。他にも慣れてもらいたいことがどっさりあるしな。
 さしあたっては、
「とにかく、お前も連絡寄越せ。今日みたいに安井の誘いに乗るくらいなら、俺を頼れ」
 強く、それだけは言い聞かせておく。
「上司としては、これからもお前を叱るだろうし、時々厳しいことも言う。この先のお前の働き次第では、始末書の書き方だって仕込まなきゃならないかもしれない。なるべくそうならないようにして欲しい、でも、やむを得ずそういう事態に追い込まれた時も、長々とは引き摺るな」
 笑ってる方がいいから、お前は。
「お前の辛さは、勤務時間外の俺が引き受ける。その時はいくらでも慰めてやるし、必要なら一緒に愚痴ってもやるよ。上司ががみがみ口うるさいとか、やたらつり目で目つきが悪いとか、一緒になって言ってやるから」
 小坂が思ってるほどには立派じゃないし、実に未熟な上司だから、お前もきっと苦労するだろうと思う。でもそういう愚痴も全部、仕事終わった後に打ち明けてくれたらいい。遠慮なくぶつけてくれたっていい。俺は駄目な三十歳なりに、そのくらいは受け止められるはずだ。
『ありがとうございます、主任』
 礼を述べた小坂の声は、どことなく嬉しそうだった。
『やっぱり主任は、すごく優しい方だと思います』
 もちろん優しいよ。俺はお前にはいっくらでも優しくするし、していい時なら甘やかしもする。お前が俺をそういう風に評価してくれるのもありがたい。
 でも、一つだけ知っといて欲しいのは、俺がどうしてお前に優しくするのかって点だ。上司だから、だけではない。もちろん大人だからでもない。
「優しい、か。こっちとしては、優しさばかりじゃないつもりなんだがな」
 それで俺は教えておく。
 お前に対してだけは、しっかり下心も持ってんだよってこと。
「小坂、前に言っただろ。両立の仕方を教えてやるって。覚えてるか?」
『え、ええと、両立って』
 意外と早く思い当たったらしく、小坂はうろたえている。
「だから、これがそのやり方の初手だ。これも忘れるなよ、小坂。ちゃんと覚えとけ」
『……あの』
 俺が釘を差せば、何か言いたそうにしている。電話でもわかるくらいにもじもじしながら、次の言葉を一生懸命探している。
『その……』
 でも見つけられなかったのか、どうしたらいいのかわからないといった態度で口ごもる。慣れてない感じも確かに可愛い。慣れた姿も見てみたいものの。
 ともかく、今日のところはこの辺にしよう。もう時間も遅いし、お前にとっても難儀な一日だっただろうしな。俺もうるさい連中待たせてることだし――堂々とした態度で戻ってやろう。ほら見ろ、振られてなかったぞ! ってな。
「昨日は寝てないって話だったよな。なるべく早く寝ろよ、そして明日もまた頑張れ」
『は、はい。頑張りますっ』
 終わりよければ全てよしとばかりに張り切って答える小坂。さっきまでの動揺も忘れてすぐに元気になるから始末に終えない。ならばと俺はさっきの仕返しを、電話越しにぶつけてみる。
「おやすみ、小坂」
 甘やかすみたいに、出力最大限の優しさで告げた。
 そうしたら小坂は絶句したようだ。何か言えよ、と俺は後になってから照れたし、でもその反応のよさにはいい気分にもなった。こいつが俺を好きでいてくれるのが幸せだな、と思う。いっそ俺なしじゃいられないくらいになったらいい。

 電話を終えた後、意気揚々と居酒屋の店内に戻った。
 待ちわびていたらしい霧島と安井は、帰ってきた俺の表情だけでその胸中まで悟ったらしい。ややほっとしたような、いや、どっちかって言うとがっかりしたような顔になりやがって口々に言ってきた。
「これはまた見事な……幸せそうな顔で戻ってきましたね」
「いい感じにぶっ壊れてきたな石田。すっかり手玉に取られてるじゃないか」
「取られてないよ馬鹿、俺が取ってんだよ」
 そう反論はしたものの、さっきのメールの後にこの緩みきった口元じゃ説得力もないか。
 だが手玉とか、本当にそんなんじゃない。小坂だって別に、意図的に俺を振り回してるわけじゃないだろうし――って言うか振り回されてもいないっての。今日みたいな日はしょうがないだろ、浮き沈み激しくったって。そりゃいろいろ壊れもしますって。
「いいんじゃないですか、むしろびっくりするくらい真っ当な恋愛になってますよ。こんなに夢中になってる石田先輩、見たことなかったですから」
 霧島はやたら嬉しそうに言って、揶揄するような笑みを浮かべる。
「先輩。小坂さんのこと、好きですよね?」
「――だから。好きだって、前に」
 答えが微妙に遅れたせいか、霧島にも、安井にも爆笑された。
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