歪な月(1)

 ついに、あの日が来てしまった。
 七月。俺の、三十歳の誕生日。
 もう朝からずっと憂鬱だった。そもそも三十歳になって喜べる人間がこの世にいるんだろうか。少なくとも俺の周りじゃ一人としていない。誰もが二十代の終わりを嘆き、三十代の門をくぐることに必死になって抵抗する。だが数字ってやつは無慈悲に各種データに反映されて、駄々を捏ねようが拗ねようがぐれようが三十歳にさせられてしまう。憂鬱である。
 俺もまだまだ二十代にしがみついていたい。ともすればおっさん扱いされる三十歳なんて嫌だ。許されるなら大いに駄々を捏ねて床の上を転げまわりたい気分だった。
 だがそんな俺に、ぴかぴかの今年度ルーキーが言った。

「三十歳になるの、そんなにお嫌ですか」
 小坂の問いかけは、驚くほど真っ直ぐだった。
 悪意ゼロパーセント、代わりに純粋な疑問だけでできている問いだ。俺が憂鬱がっていることを心底不思議に思っているようだった。
 でも俺はその質問にぐさっと来た。
 何せ、相手は小坂である。我が営業課が誇る期待の新人、夢や希望に満ち溢れているのが表情から一目でわかる可愛い可愛いルーキーだ。
 今、俺は新人指導の名の下に小坂を備品倉庫へ連れ込んでいる。無論、二人きりの密室というシチュエーションにかこつけて何か不埒な行為を働こうというのではなく、単にコピー用紙がなくなったから、補充のやり方を教えてやっているまでのことだ。
 真夏の備品倉庫は割と地獄だ。むしむしと暑いし、常に埃っぽいし、空気は常に澱んでいる。だが埃舞うごみごみした倉庫内においても、小坂はぴかぴかに光り輝く可愛いルーキーだった。皺一つないリクルートスーツと愛嬌たっぷりの顔立ち、そして俺へ向けてくる尊敬と気遣いの眼差しが、雑然とした蒸し暑い倉庫内でも眩しくて仕方がなかった。
 率直に言おう。
 俺は小坂の若さが羨ましい。
「なってみろよ、三十に」
 だから俺は、恨めしい思いでそう答えた。
「お前の若さが欲しいくらいだ」
 それはもう、喉から手が出るほど欲しい。分けてもらえるなら是非いただいてしまいたい。
「え……」
 備品台帳にペンを走らせる小坂は、俺の返答に戸惑ったようだ。顔を上げ、目を瞬かせている。
「いいよな、ぴちぴちの新入社員は」
 俺はそんな小坂を改めて眺めやった。
 彼女の若さは態度や表情のみならず、全身から溢れ出ている。肌はきめ細やかで、大雨が降ってきても全ての水滴を跳ね返しそうなほどぴちぴちしている。ほっぺたなんか柔らかそうで一度触ってみたいといつも思っている。セクハラ案件なので実行したことはもちろんない。思うだけはタダだ。
 犬の尻尾みたいなポニーテールはつややかで、スーツを着た立ち姿は背中に定規でも入れてんじゃないかってほど姿勢がよくて、そして体内にモーターを仕込んでてもおかしくないくらい常に元気いっぱいだ。羨ましい。そして眩しい。
「で、でも、三十代からが脂の乗る時期だって、よく聞きませんか」
 その小坂は、俺の反応に不安になったんだろう。慌てた様子でフォローらしきことを口にしてきた。
 まだ二十三のお前が、どこでそんなフレーズ仕入れてきたんだか。多分ろくにわかってないのに言ってるな。
「そりゃ三十になって、しばらく経ってから行き着く境地だろ」
 俺はその域に辿り着きたいとすら思えていない。
「ずっと二十代で来たからな。三十って数字がやけに重く感じるんだよ。身体的にも精神的にも大して変わった気がしないのに、歳だけ食ってんだからな。柄にもなく、このままでいいのかとか考えたくなって」
 思わず溜息だって出る。
「この歳で嫁どころか彼女だっていないしな。親だって祝ってくれる歳じゃない。友達を集めようにもほとんどが所帯持ち。となると祝う気も起こらないっての」

 もちろん、我が社で俺だけがこの歳でも独身ってわけじゃない。
 身近なところで、同期の安井も嫁なし彼女なしもうじき三十の実に寂しく哀れな男である。だが近頃のあいつは自分の歳を棚に上げ、ほんの数ヶ月年上でしかない俺を弄ってくるようになった。
『もうじき三十になる気分はどうだ?』
 などと顔を合わせる度にせせら笑われるので、今日ばかりは誘う気にもなれない。何なんだあいつは。数ヶ月後には絶対同じこと言ってやる。
 そして霧島は論外。何が悲しくてこんな日に幸せいっぱいの彼女持ちを誘わねばならんのだ。
 そうなると今日の誕生日はもう、一人の部屋に帰って孤独に酒でも飲んで寝るくらいの予定しかない。憂鬱に拍車をかける物寂しさだった。

「お誕生日って、いくつになってもおめでたいものだと思います」
 台帳を書き終えた小坂が、真面目な口調でそう言った。
「それはあれだ、お前が若いからそう思うんだ」
「そう、なんでしょうか……。私は主任のお誕生日も、うれしいことだって思いますけど」
 可愛いことを言ってくれる。
 できれば去年あたりにその台詞、言ってもらいたかった。
「せめて一年前だったら、素直にそう思えたんだろうけどな」
 俺は苦笑すると、小坂の手から備品台帳を取り上げた。
 中身を検めて不備がないことを確認してから台帳を棚に引っかけ、代わりにコピー用紙を三冊取り出す。
「あ、持ちます!」
 すかさず小坂が両手を差し出してきた。
 女の子らしく両方合わせてもちっちゃな手では、コピー用紙の束三冊なんて持ち切れないだろう。だが一冊だけ渡してやると、小坂は子犬の目で何事か訴えてくる。全部持たせろと言いたいらしい。
 仕方なく、残りの二冊もその手に乗っけてやった。
「重いぞ、無理するなよ」
「平気ですっ」
 用紙を受け取った両手がずしりと下がり、答えた声が引きつっていた。
 重いなら重いと言えばいいのに、小坂はコピー用紙を抱えながら難しい顔で頑張っている。そういう顔を見てると、とりあえず頑張らせてやるかって気にもなる。音を上げかけたら手を差し伸べてやるが、それまではちょっと任せてみるか。
「やっぱ、若いよな。小坂は」
 俺は頑張る小坂に感心して、ついでになぜか笑ってしまった。
 こういうとこ、可愛いなってつくづく思う。

 誘う相手、そういえばもう一人いたな。目の前に。
 春の飲み会の後、誘いそびれてからもう二ヶ月が過ぎていた。仕事と新人指導に追われつつ、機会があれば、いけそうだったら、なんて思いながら結局何もしていなかった。正直、そこまで焦ってなかったのもある。
 この日を迎えて初めて、前もって仕込んどくんだったかなと思った。
 小坂の俺に対する好意は真っ直ぐで、わかりやすくて、これもまた眩しいほどだ。俺が誘えば何の葛藤もなくのこのこついてくるだろうし、三十になったのが悲しいから慰めてくれと言えば、精一杯その通りにしてくれるはずだった。
 しかし、いかにその好意があからさまとは言え、寂しいから、慰めて欲しいからって理由で彼女を誘うのは気が引けた。
 それに小坂なら、『慰めてくれ』と言ったらむしろ励ましに来そうだ。
 俺がへこんでる横で今みたいに一生懸命励ましてくれる小坂を想像すると、確かに可愛いが、何か違う。少なくとも欲情はしない。

 とりあえず、今日は早めに上がるとするかな。で、一人で自棄酒だ。
 俺が萎む気持ちをどうにか奮い立たせた時だった。
「私は、三十歳も素敵だと思います」
 コピー用紙を抱えた小坂が、また呟いた。
 俺はそれを笑い飛ばす。
「お世辞か? ま、ありがたく受け取っとくよ」
「そういうつもりでは……」
「わかってるって」
 もちろん俺だってわかっている。小坂の言葉に嘘はないらしい。
 でも、そんなに必死になられてもな。
「小坂は気を遣い過ぎだろ、もっとふてぶてしいルーキーでいろよ、じゃないと持たないぞ」
 どんだけ励まされたって憂鬱なもんは憂鬱だ、どうしようもない。今日の俺に構ってたら、小坂まで頭使いすぎて共倒れしちゃいそうだ。
 そういう意味で諭したにもかかわらず、
「でも、私――」
 小坂はまだ何か言おうとして、しかしその直後、コピー用紙の重さのせいかよろめき、後ろ向きに倒れた。
 幸いにも彼女の背後には棚があった。お蔭で小坂は勢いよく倒れ込むこともなく、どこかをぶつけた鈍い音がした。
「いたっ……」
 目をつむった小坂の呻く声が聞こえ、俺は思わずその肩を掴んで引き起こす。
「だから言ったろ。大丈夫か?」
 それから顔を覗き込むと、こわごわ目を開けた小坂が、次の瞬間大きく瞠目した。その頬にみるみるうちに赤みが差したのは、倉庫の蒸し暑さのせいだけではあるまい。潤んだ瞳が俺に釘づけになるのを、悪い気はしないと思っている俺がいる。
 何てわかりやすい反応だ。
 いや、それはさておき、さっき思いっきりぶつけてたみたいだけど大丈夫か。どぎまぎしてる場合じゃないだろ小坂。
「小坂?」
 俺が名前を呼ぶと、小坂は我に返ったようだ。
「はい、あの、平気ですっ!」
 返事はめちゃくちゃ元気だった。どうやら無事らしい。
「……なら、いいけど」
 俺は彼女から手を離し、ついでに危なっかしいのでコピー用紙は全て取り上げた。備品倉庫の蒸し暑さももはや限界だ。そして今日をとっとと終えてしまう為にも、仕事に戻らなくてはなるまい。
「そろそろ戻るか。さっさと書類上げて、休憩入らないとな」
 小坂にはそう声をかけ、一足先に踵を返す。
 そんな俺の背中に、
「あのっ、主任!」
 今度は思い詰めたような、小坂の声が突き刺さる。
「ん?」
 振り返れば、埃が浮かぶごみごみした備品倉庫の中、やはり彼女はいい姿勢で立っていた。
 表情は硬く、だが頬はまだ赤く、瞳は真っ直ぐに俺を見つめている。目が合うと一瞬震え上がったようにも見えたが、すぐさま口を開いた。
「私は主任のお誕生日、やっぱりうれしいです。おめでとうございます!」
 急に何だ。まだ言うか。
 そして、それを言うのに何だって必死な顔をしてるのやら。
「は……いや、ああ、ありがとう」
 唐突な祝いの言葉に、俺は一瞬呆気に取られた。
「祝ってくれるのは小坂くらいのもんだよ。気を遣わせて悪いな」
 だからそう返せば、彼女はもどかしそうに言い募る。
「あの、よかったら、お祝いをさせてください」
「お祝い?」
「はい、えっと、お昼休みに入ったら、私、ケーキを買ってきます」
 俺の問いにも、つっかえつっかえ、だがひたむきに答えてみせた。
「クラッカーとか、プレゼントとか、そういうのは用意出来そうにないですけど、せめてケーキくらいはどうですか。いつもご迷惑をお掛けしているお詫びに買ってきます。それで、主任のお誕生日をお祝いしたいです!」
 その口調があまりにも一生懸命すぎて、言うこと自体も何だか健気で、こっちは面食らうしかない。
 俺の誕生日がしょぼかろうと物寂しかろうと、小坂が困ることもないだろうに。
「……何で、そんなにむきになってんだ」
 思わず俺は、そう尋ねた。
 すると小坂は、気合いの入った顔で答える。
「若いから、なんだと思います」
 にこりともしない真剣な表情からは、何かを伝えたがっている強い意志が見て取れた。
「私、主任のおっしゃる通り、若いんだと思います。だから主任のお誕生日をお祝いしたいんです。今日は主任には溜息をつかずに、いい気分でいていただきたいんです」
 そしてその気持ちは、確かに俺の胸に伝わった。

 今の小坂が、俺にはものすごく眩しかった。
 今時の二十三歳って皆、こんなに真っ直ぐなのか。俺が二十三の頃はこんなんじゃなかったぞ。
 それとも小坂が特別なのか。
 特別な相手に、話をしているからなのか。
 何にせよ胸に来た。伝わったなんてものじゃない、突き刺さった。ぐらっと来た。
 やばいな、めちゃくちゃ可愛いじゃねえか。
 でもって俺が慰めを求めてたり寂しがってたりするのなんて完全無視で、徹頭徹尾俺の誕生日を祝う気だっていうところも――何だろうな。三十になるのはもう決定事項の揺るぎない現実なわけなんだが、それを飛び越えていくいいことがありそうな気がしてきた。
 今年の誕生日、三十になるんであっても、他に祝ってくれる奴がいなくても。
 小坂がいたら、それだけで楽しくなりそうだ。

 静まり返る倉庫の中、俺は思わず本音を口にした。
「確かに若いな。眩しいくらいだ」
 それで小坂はびくりとして、今更のように慌てふためきだす。
「す、すみません、あの」
「――言っとくが、本当にお前くらいしかいないんだからな。祝ってくれる奴」
 謝罪の言葉を遮り、そう前置きしてから俺は続けた。
「そこまで言うなら今日は祝ってもらうかな」
「主任……!」
 たったそれだけのことで、小坂は何やら感激したらしい。今度は目をきらきら輝かせた。
「じゃあ、休憩に入ったら、駅前までひとっ走り行ってきます」
 何でだよ。俺は呆れて、反論する。
「何言ってんだ、小坂。貴重な昼休みにそんなことさせられるか」
「平気ですよ。ダッシュで行けば間に合います」
「馬鹿。誕生祝いなんて夜やるに決まってるだろ」
 せっかくの誕生日だ。仕事なんて全部片して、会社を離れて、二人きりで祝ってもらうことにする。
 それで俺は、小坂に持ちかけた。
「今夜、空いてるか」
「え? 仕事の後ですか? い、一応は」
「じゃあそのまま空けとけ。酒は飲めたよな?」
「はい、えっと、ばっちりです」
「ならよし。奢ってやるから、くれぐれも気を遣うなよ」
 そう言い添えたのが気に入らなかったのか、小坂はおずおずと言い返してくる。
「でも、今日は主任のお誕生日ですよね? それなら私が奢らせていただくのが筋で……」
「そういうところが若いって言ってんだよ」
 七つも年上の男、しかも上司と出かけんのに奢るとか簡単に言うな。
 それに、この機会に感謝したいのはこっちの方だ。
「遠慮すんな。七つも年下の女とデートなんて、誕生祝いにしちゃ出来過ぎなくらいだ」
 俺がその単語を口にした途端、小坂の表情が固まった。
 たっぷり五秒間ほど静止してから、ようやく気づいたというように目を瞬かせる。
「しゅ、主任っ」
「どうした? 都合が悪いなら先に言え」
「悪くないです、でも、あの」
「決まりだな。ほら小坂、そろそろ戻らないと昼休みがなくなるぞ」
 俺はそろそろのぼせそうな小坂を蒸し暑い倉庫から連れ出すべく、廊下へ続く扉を開け放った。
 開放してやるのがちょっと遅かったか、小坂はふらふらした足取りでついてきた。

 小坂の言う通り、誕生日は、いくつになってもめでたいものだ。
 おかげで俺も今年はいいことがありそうだ。今夜のデートが楽しみで、わくわくしている。まあこの小坂相手に一晩だけでどうこうできるとは思っちゃいないが、それなら次に繋がるデートにすればいいだけの話だ。
 次に繋がるデート。我ながら柄でもないが、久々なんだし、いいか。

 とりあえず、考えを改めておく。
 一生懸命励まされても欲情しないなんて思ったのは、とんだ勘違いだった。