歪な月(2)

 その夜、俺は小坂を連れて飲みに出かけた。
 飲みに、という表現が正しいのかどうかはわからん。なぜかと言うと店の要望を小坂に聞いてみたところ、こんな返事があったからだ。
「お願いですから、食べ飲み放題のお店にしてください!」
 もちろんそれは俺が奢ってやると言ったことを受けての申し出でもあったんだが、小坂らしい発言だとも思った。やはり可愛い食いしん坊である。

 そういうわけで俺は、居酒屋風レストランに小坂を連れていった。
 ここの売りは制限時間九十分のテーブルオーダーバイキング。食べ飲み放題のコースを選択して、小坂の為に食べ物多めのオーダーをまず済ませた。
「しかし、色気のないデートだよな」
 注文をまとめた店員が立ち去った後、俺は率直に呟いた。
「すみません……」
 差し向かいに座る小坂が、へこんだ様子で詫びてくる。
 かと思うと勢いよく顔を上げ、必死になって弁明してきた。
「でも、今日は主任のお誕生日ですから、あまり主任のご負担にならないようなお店がいいと思ったんです。それに食べ放題のお店だったら好き嫌いも全く不問でしょうし、あと――」
「わかったわかった。お前の気持ちはありがたいよ、全く」
 俺は笑って彼女を宥める。
 そういう気遣いも空回ってるとは思うが、しかし小坂がいたからこそ、こうして誕生日に飲みに来れたわけだ。おまけに小坂は俺を祝ってくれる気のようだし、色気がないなんて些細なことだ。とりあえずこの時間を堪能してやろうと決めた。
 来る前に化粧を直したという小坂は、そわそわした様子で料理が来るのを待っている。腹が空いているんだろう、店員がテーブルの傍を通る度にそちらを振り返っている。その度に高く結わえた髪が大きく揺れて、やっぱ犬っぽいなと思う。

 程なくして、中生のジョッキが二つ運ばれてきた。
 すると妙に張り切る小坂が、すかさず乾杯の音頭を取る。
「主任、お誕生日おめでとうございます!」
 ぶつかるジョッキの音なんかかき消すほど、小坂の声は店内に景気よく響いた。
 次々に振り向く他のテーブルの客。
 この歳で誕生日を祝われちゃってる俺、さすがに若干恥ずかしい。
「声大きいよお前、恥ずかしいからそこは小声にしてくれ」
 俺は慌てて小坂に告げた。
 小坂も店内を見回し、自分が注目を集めてしまったことに気づいたんだろう。とっさに声を潜めた。
「そ、そうでした。すみません、これっぽっちも気が利かなくて」
「いや、謝るほどのことでもないけどな」
 昼間の倉庫でもそうだったが、自分の誕生日でもないのに必死になったり張り切ったり、忙しい奴だ。
 俺は笑いを噛み殺しつつ、本音を打ち明ける。
「誕生日なんて祝ってもらうの、そもそも久し振りだ。こういうのって案外面食らう」
「そうなんですか……」
 小坂は意外そうに目を瞬かせる。
 二十三歳じゃ、まだ誕生日祝いなんてやってるもんなのかね。俺が二十三の頃はどうだったか――付き合ってる相手がいればしてもらった、ってとこか。
「小坂はそうでもなさそうだよな。誕生日ごとに大騒ぎしてそうだ」
 容易に察しがついてしまう。毎年カレンダーに欠かさず印をつけて、誕生日が近づいてくるとそわそわして、いざ当日になるとケーキの上にロウソクを立てて、吹き消すまできっちりやる。小坂はそんなイメージだ。
 俺が想像を逞しくしているのに気づいたか、小坂はきりりと真面目な顔になり、
「じゃあ、あの、今更かもしれませんけど」
 姿勢を正してから宣言した。
「今からは厳かに、真面目にお誕生日祝いをしたいと思います」
 タイミングは最悪だった。俺はちょうどビールを呷っている最中で、しかし小坂のその発言に不意打ちを食らった。思わず笑った途端にビールが気管に入り、大いにむせる羽目になった。
「だ、大丈夫ですか!」
 笑わしといて心配してくる小坂を、俺は咳き込みながら睨んだ。
「大丈夫じゃない、誰のせいだ!」
「えっ、わ、私のせいでしょうか?」
「頼むから、飲んでる最中に笑わせないでくれ!」
「すみません、すみませんっ」
 ぺこぺこ謝る小坂がハンカチを差し出してきたが、これがまた何やら可愛いペンギン柄だ。汚しちゃ悪いとそれは断り、自分のハンカチで口元を拭った。

 咳が止まり、どうにか落ち着いたところで改めて突っ込んだ。
「厳かで真面目な誕生祝いって何だよ。ビールのジョッキ片手に、真面目も何もないだろ」
 そもそも居酒屋で厳かな祝いの席なんぞ無理な話だろう。
 俺はそう思うが、小坂は尚も表情を引き締めて答える。
「それはその……硬い話題を中心にして行こうかと」
「へえ、例えば?」
「石田主任は社会人の先輩でもいらっしゃいますから、そういう社会人としての心得とか、ありがたいお言葉をお願いいたします」
 またしても不意打ちで吹いた。こいつはどうして腹筋に来ることばかり言うのか。
「嫌だよ」
 幸いにして今度はビールを飲んでいなかった。俺は笑いながら言い返す。
「何だってそんな頭使う講釈を、お前に垂れてやらなきゃならないんだ」
「でも私、主任のことを尊敬しているんです!」
 小坂が目をきらきらさせる。
「尊敬?」
 違うだろ、と俺は内心ツッコミを入れる。
 俺の誕生日を祝うと言ってこんなところまでのこのこ連れられてきておいて、その気持ちが尊敬だけとは言わせない。言って欲しくない。
 だが小坂は大きく頷き、
「はいっ。私もルーキーイヤーを無事に切り抜けて、立派な社会人になりたいと思っています!」
 まるで空気を読まずにそんなことをのたまう。
「そっか。頑張れよ」
 俺は溜息一つであしらったが、後からちょっとむかむかしてきた。
 お前は尊敬してるだけの上司の誕生日をこんなふうに祝いたいって思うのか。三十になることに打ちひしがれてた俺に、あんなにも必死になってくれたのは何だったんだ。
 むかついたので一言、言ってやることにする。
「小坂」
「はいっ」
「今日は何で誘ってやったのか、忘れたのか」
「ええと、主任のお誕生日のお祝い、ですよね?」
 小坂の答えは屈託がない。真面目な顔で姿勢も真っ直ぐで瞳もすっかり澄んでいて、ごみごみした居酒屋にいても浮くような清廉潔白なお嬢さんに見える。
 しょうがねえなと俺はずばり、事実を口にした。
「デートだろ」
 するとその単語がスイッチになったみたいに、小坂の柔らかそうな頬に赤みが差した。澄んだ瞳が泳ぎ出し、あれだけご立派なことを言っていた口が途端にもごもご歯切れ悪くなる。
「え、いえ、その……」
「お前は何のつもりで来たんだ、小坂」
「それはもちろん、えと、存じておりましたけど」
 どうやら本人も、ちゃんとわかってはいたらしい。
 ということは単に忘れていただけか、恥ずかしいので事実から目を逸らそうとしていただけか。あるいは尊敬自体も嘘ではなく、これが小坂なりの好意の示し方だとでもいうのか。
 何にせよ、小坂の気持ちは言うほど『尊敬』だけではないらしい。もじもじと俯く顔はろくに飲まないうちからすっかり真っ赤だ。おまけにちょうどいいタイミングで料理が運ばれてきて、店員がテーブル一杯に皿を並べ始めても、小坂は顔も上げずに黙っていた。
 そして、
「あの……」
 料理を運んできた店員が立ち去ってから、彼女はおずおずと口を開いた。
「主任、楽しんでいらっしゃいますか」
「まあな」
 俺は笑って答える。
「面白いよ、お前の言動見てると」
 さっきから腹筋に来ることばかり言われてる。少なくとも退屈はしてない。
「けどちょっと、張り切り過ぎだよな」
 俺は小坂に箸と取り皿を手渡しつつ、そう告げた。
「別に気負わなくてもいいんだぞ、小坂」
 尊敬しつつ好意も持ってる上司の誕生日となれば、小坂みたいな子は当然張り切るし必死にだってなるだろう。
 でも俺としちゃ、小坂がいてくれるだけでいいんだがな。
 もともと一人寂しく過ごす気だった誕生日だ。可愛くて面白い女が目の前にいる。そして誕生日を祝ってくれる。それだけでもうご褒美貰ったようなもんだ。
 だから別に、無理して盛り上げようとしなくていい。
 俺の中じゃ既に十分盛り上がってる。小坂の可愛さにいちいちぐっと来ている。
「誕生日なんて祝う気もなかった俺としては、祝ってくれる相手がいるだけでありがたいくらいだ」
 俺が言うと、小坂はわかりやすく目を潤ませ、好意に溢れた眼差しで俺を見た。
「主任……ありがとうございます」
 それから手を合わせ、割り箸を割る。どうやら食欲に火がついたらしい。可愛いな、全く。
 ついでに別のところにも火をつけたくて、ちょっと煽ってみることにする。
「礼を言うのはこっちの方。でもまあ、どうせならもっと可愛い話をして欲しいものだがな」
「可愛い話、と仰いますと?」
「何かあるだろ、デートっぽい話」
 俺に促されて、小坂はそこで難しげな顔をした。女らしい眉をきゅっと細めて、絞り出すように答える。
「お言葉ですけど私、デートなんてしたの、高校生の時以来です」
 マジかよ。俺はまたしても吹いた。
「高校時代以来? 真面目なんだな、小坂」
「いえ、真面目というか、要は機会がなかったんです」
「もてなかったのか」
「ずばりと言わないでください、主任……」
 小坂はへこんだようだが、こっちは逆にテンション上がってきた。
 高校時代以来のデートか。意外だ。確かに慣れてない印象は受けたが、こんだけ可愛いのにもったいねえな。
 まあ、同世代からすれば小坂の可愛さはちょっと扱いにくいか。はしゃいでる犬みたいに一人で突っ走って暴走して、飼い主振り回してそうなタイプだもんな。ここは手慣れた年上の男の方がしっくり来るだろう、割と本気で。
「相手は一つ年上の先輩だったんです。朝尾さんっていう人で」
 小坂はぽつぽつと、高校時代のデート思い出話を語り始めた。
「友達に仲介してもらって、デートに行ったんですよ。遊園地に」
 初デートで遊園地。いいなあ青春だなあおい。
 小坂がまた、つい最近の思い出みたいに気まずげにしてるのが面白い。
「ものの見事に失敗しました」
 そして結末を先に言い、俺はさもありなんという思いで尋ねる。
「何をやらかした?」
「ええと……私、すごくはしゃいじゃったんです。待ち合わせ場所で顔を合わせてからずっと喋りっ放しで。緊張するとそうなんです、余計なことまでぺらぺら喋っちゃうタイプで」
 どうやら小坂は女子高生時代からこんな調子だったらしい。
 たかだか十代の高校生男子に御せるはずもない。
「朝尾さんは口数も少なくて、終わりの方はほとんど無言でいました。当たり前ですけどそれっきりで……」
「光景が浮かぶようだ」
 俺はしみじみ相槌を打った。
 すると小坂は気をよくしたのか、はにかみながら続ける。
「友達にもよく言われるんですよ、好きな人がいると態度でわかっちゃうタイプだって。小中高大とずっと言われ続けてきました。どうも緊張しちゃうっていうか、テンション上がっちゃうっていうか。それでばればれなんだって、皆に言われるんです」
 おっと、そんなにぺらぺら喋っちゃっていいのか。
 今のは手の内を明かしたようなもんだぞ、小坂。無論、聞いたからには忘れる気もないが。今度の攻撃は腹筋じゃなくて、胸に来た。
「すごく納得した。小坂は絶対そういうタイプだと思った」
 それでも俺はげらげら笑った。
 おかしさ半分、確信した嬉しさ半分ってとこか。あとほんのちょっと、安堵もしたかもしれない。よしよし。
「で、ですよね。そうなんですよ」
 小坂も口が滑ったと思ったんだろうか。笑う顔が引きつっていた。
 しかし手遅れだ。俺はもう漏れなくしっかり聞いてしまったし、そのわかりやすさを存分に活用させていただく所存である。

 九十分のテーブルオーダーバイキングを、小坂は食べて飲んでよく喋って時々慌ててと、随分楽しんでくれたようだ。
 俺はそんな小坂を眺め、からかい、大いに堪能した。バイキング料金分の元は十分取れたし、それ以上に賑やかで楽しい誕生日を過ごせた。

 店を出た後、俺は電車で帰るという小坂を駅まで送ってやった。
 駅舎の前で、小坂は折り目正しくお辞儀をしてきた。
「送ってくださってありがとうございます。それとご馳走様でした、とっても美味しかったです」
 デート後の挨拶にしちゃ、これまた堅苦しい挨拶だった。
 だがお辞儀の後に上げた顔は、ほろ酔いせいでほんのり赤くなっていた。駅舎の明かりを受けて、俺を見上げる瞳の中には微かな光が揺れている。口紅が落ちた唇は食べっぷりの割に意外と小さく、そういうところも可愛いなと思う。
 こうして見ると色気がないなんてこともないな。
「気を遣うなって。こっちこそ付き合ってもらえて楽しかった」
 振り返ってみれば今夜だけで、やたら笑わされた気がする。
 もちろんそれだけじゃない。いい思いだってできた。
「また機を見て誘うから、のこのこついてこいよ」
 俺が言うと、小坂はしゃきっと背筋を伸ばす。
「あの、はい、喜んで! でも出来れば、次回こそは割り勘にしていただきたいのですが……奢っていただくのはどうしても心苦しいです。だって日頃からお世話になってますし、ご迷惑もお掛けしてますし」
「嫌だ」
 七つ下のルーキーと割り勘なんてできるか。
 それに次の機会は確実に、下心込みのデートになる。どうせ美味いもの食うぞって言えばどこでも喜んでついてくるだろ。今夜みたいにわかりやすい態度でいればいい。
「小坂はやっぱりわかりやすいよな」
 俺は、そう呟いた。
「……え?」
 小坂が長い睫毛を瞬かせる。
「ばればれなんだよ。だから誘ってやる、楽しみに待ってろ」
 俺の言葉に小坂はますます怪訝そうにしたが、俺はそんな彼女の肩を叩いた。
「お疲れ」
 それから労いの言葉をかけ、踵を返した。

 一人の部屋へ帰る夜道で、俺はしみじみと今夜の思い出に耽る。
 三十歳の誕生日。振り返ってみれば最悪どころか、最高だった。楽しくていっぱい笑っていいこともあって、そしてこの先の楽しみまでできてしまった。
 小坂藍子。ちょっと堅くて真面目すぎて空回りばっかりしてるが、めちゃくちゃ可愛い俺の部下。
 せっかくだからもっと可愛いところを見てみたい。堅いだけじゃない、真面目なだけじゃない小坂をもっと知りたくなってきた。
 案外と、俺の三十歳は本当に、人生のボーナスステージなのかもしれない。

 見上げる夜空には光る月が浮かんでいる。
 満月よりちょっと欠けてる不恰好な月だ。歪なように見えるのは、もしかしたら結構酔ってるせいかもしれない。
 と言っても、酒に酔ってるわけじゃない。
 これから来る、今日以上に楽しい日々の予感に酔いしれている。

 まずは明日が楽しみだ。
 小坂がどんな顔で出勤してくるかわからないが、暇を見てまた構い倒してやる。