Tiny garden

教訓赤ずきん(1)

 赤ずきんの話は、実はとても教訓的なんじゃないかと最近思う。
 他人の言葉を鵜呑みにしてはいけない。
 おかしいと思うことがあったら、相手に尋ねるよりも先に自分自身で確かめる方がいい。
 まず何より、おばあさんと狼という似ても似つかぬ相手を見間違えるようではいけない。
 無論、狡猾な狼の偽装が思いのほか巧みだったという可能性も踏まえて考えなくてはいけない。世の中にはそういう取り繕いが恐ろしく上手い狼だっているのだ。しかしそれにしても、赤ずきんには慎重さが足りない。耳や目や口の大きさの違いには気づけるほど観察力を持っていたというのにだ。それを素直にも相手に確かめることで、取り繕う隙を与えてしまっている。よって、赤ずきんがまんまと食べられてしまったのもある意味自業自得と言えるだろう。

「仕事と恋愛って、両立出来ると思いますか?」
 昼時の社員食堂にて、今年入社したての新人さんからそう尋ねられた時、俺の脳裏に浮かんだのはまさにそんな話だった。
 教訓としての赤ずきん。
「私、分不相応な気がして仕方がないんです。まだ新人なのに……その、好きな人が、出来てしまって」
 その新人さん――小坂さんは、もうもうと湯気が立つんじゃないかというほど真っ赤な顔をして、しかし姿勢よく、生真面目な口ぶりで語った。
 二十三歳の女の子とは、自らの恋愛をここまで真剣に語ってしまえるものなんだろうか。あるいは、それほどに真剣な想いだということなんだろうか。そこには既にたかが恋愛、と切り捨てられない重々しさがあり、彼女の口にした『好きな人』という愛らしい物言いとは対照的に感じられた。
「ああ、なるほど」
 俺の気の利かない相槌も何のそので彼女は続ける。
「も、もちろん、どうこうしようって気持ちはないんです。今のままで、見つめていられるだけで十分だって思っているんですけどっ。でも……好きでいるだけでも、仕事に差し障りそうな気がするんです。ただでさえろくに仕事ができなくて、これからたくさん覚えていかなきゃいけない身分なのに、他のことに気持ちを向けている余裕なんてないのに。そんな自分が罪深い人間のような気がして仕方ないんです」
 声はところどころ裏返りつつも至って本気の打ち明け話だ。少なくともアイドル相手に抱くようなミーハーな心とは訳が違う。こちらとしてもいい加減な答えはできまい。
 普段から模範解答しかできない男と揶揄されている俺も、こういう時こそ模範解答でいいのではないかと思わず気を引き締める。
 でもそこへ、先のイメージが再び頭をもたげてきて、少しの間踏みとどまりたくなる。

 今の語り口だけで説明がつく通り、小坂さんは非常に真面目な女の子だ。
 俺は同僚として彼女に若干の親近感、と言うよりはむしろシンパシーを感じていて、それは小坂さんだからと言うよりも彼女がこういう子だから、なのだと思う。いい子や真面目な子がそれだけで評価されない世の中にあって、それでも背筋を伸ばして働こうとしている人が何らかの形で報われればいいと考えてしまう、言うなればただの願望だ。こういう考え方を先輩たちに話したら甘っちょろいと鼻で笑われるだろうし、俺も社会人を五年もやっているから真面目さだけじゃどうにもならないことばかりだって幾度となく痛感させられてもいるんだけど、だからこそ新社会人たる小坂さんには何事にも挫けず頑張って欲しいなといつも思っている。
 それから俺は、小坂さんの好きな人が誰かを知っている。これは別に俺だけじゃなくて、営業課のほぼ全員が口には出さずとも気づいていたと思う。そのくらいわかりやすかった。前述の通り彼女はいい子なので、その人に対してあからさまに媚びるとか、他の連中を蔑ろにするなどということはないものの、例えば小坂さんがその人に対していつも向けている全幅の信頼の眼差しとか、その人に軽くでも誉められた後の跳び上がらんばかりの喜びようとか、第三者との会話でその人の話題が出た時の誉めっぷりとか――さほど敏い方じゃないと自覚している俺ですらわかる。これでも小坂さんは隠していたつもりだったと言うから驚きだ。そういう女の子の感覚だけは正直理解しがたい。
 そして、今回の件において一番肝心なことながら、俺は小坂さんの好きなその人自身について、間違いなく小坂さん以上によく知っている。これは別に好意からではなく、純粋に俺の方がその人と長い付き合いだからだ。
 知っているからこそ、俺は小坂さんを『赤ずきん』だと思っている。
 狼を盲目的に信頼している赤ずきん。そうして信じて心を寄せている様子は女の子らしくて可愛いんだけど、その相手に思いを馳せれば複雑だ。なぜよりによって、あの人なんだろう。

 彼女の深刻かつ真摯な表情と十秒間ほど向き合った俺は、結局、
「両立できますよ、必ず」
 精一杯模範的な解答を告げた。
「え……ほ、本当ですか?」
「そうです」
 小坂さんは少し驚いた様子だ。違う答えが返ってくると身構えていたんだろうか。でも俺は、やっぱり模範解答しかできない。
「そんなに難しいことではないですよ。どちらも一生懸命やれば、必ず結果はついてきます」
「一生懸命……」
「ええ。ひたむきでいられたなら、必ず」
 我ながら捻りのない答えだと思う。でも他の考え方ができるほど俺は器用じゃないし、息を詰めたように俺の言葉を聞く彼女も恐らく、そうなんだろう。
「罪深いことだなんて考えては駄目です、決して悪いことではありませんから。せっかく好きな人ができたのに、悪い方向に捉えてしまっては辛いだけです」
 いろいろと複雑な思いはあっても、何はともあれ小坂さんを元気づけたかった。
 せっかく営業課に来て仕事を頑張ってる彼女が、切ない思いに胸を痛めている姿を目の当たりにしたら何だかかわいそうになってしまった。恋の対象がどうこう、はこの際置いといて、こういうことで悩んで仕事に影響が出たら、いよいよ本格的につまづいてしまうんじゃないかと心配にもなる。ただでさえ性格的に他人事とは思えない相手だ、相談を持ちかけられたらアドバイスだってしたくなる。
「働いていたら恋愛が出来ないなんてことはありませんよ。むしろ仕事の息抜きに恋愛をしたらいいと思います。仕事に疲れたら恋愛に打ち込んで、仕事への活力を補充すればいいんです。前向きに捉えられるなら、その両立はきっとプラスになります」
 社内恋愛というのもあまり他人事ではないから応援したいし、そんなに難しく考えることじゃない、程度の助言はできる。そういう気持ちを自分の励みに変換してしまうのも案外楽しいことだったりする。俺ごときの人生経験がどこまで生きるかはわからないものの、とりあえず小坂さんにも明るい気分になってくれたらいいと思いながら、そう告げた。
 そして一通りのアドバイスを聞いた小坂さんは、きっといろんなことを考えたんだろう。神妙な顔が次第に和らいでいき、やがてぱっと電気の点ったような明るい表情になった。
「ありがとうございますっ! 私、頑張れそうです!」
 元々、立ち直りは早い子なのかもしれない。彼女だったら今の気持ちも前向きに変換して、割とあっさり乗り越えていきそうな気がする。小坂さんのはきはきした感謝を聞いて、俺も内心ほっとする。
「頑張ってください」
 でもすぐに先の懸案事項が蘇ってきて、今のアドバイスは果たして正しかったのかと思ったりもするわけだけど――相手はあの先輩なのに、小坂さんの背を押して、本当によかったんだろうか。
 よくなかった、とも言い切れないのが、俺のあの人に対する評価の不安定さを如実に表している。

 石田先輩との付き合いは長くて、俺が入社してからというもの、公私共にずっとお世話になりっ放しだ。安井先輩も含めて三人で飲みに行くのは毎月の恒例行事みたいになっていたし、俺の部屋まで来てもらったことも何度もある。俺が長谷さんとお付き合いを始めてからはその頻度もいくらか減ってしまったものの、同じ職場にいる以上はだからと言って疎遠になるということもなく、男の友情と表現するには若干緩い関係がいいペースで続いてきている。
 率直に、本人にも言えないような本音で石田先輩について語るなら、――もし会社じゃなくて学生時代にあの人と出会っていたとしたら、俺はあの人と全く仲良くなれなかっただろう。むしろ真っ先に敬遠したいタイプの人だった。ノリ重視なところや下ネタ好きなところ、それに他人をからかうのが好きで他人の恋愛事情にすらためらいなく首突っ込んできて、そのくせこっちが始めた真面目な話はすぐにぶち壊してしまうあの性格は、学生時代の、今以上に要領の悪い俺だったら全く受け付けなかったはずだ。だけど社会に出た俺はいろいろ苦労をする羽目になって、その過程で妥協や迎合、多少の適応力を身につけた。苦手なタイプだったはずの石田先輩から何かと面倒を見てもらうことになって、そういう人のいいところをよく目にするようにもなった。先輩が仕事においてはとにかく頼れる人だったのもあり、俺は性格はさておきあの人を尊敬するようにはなっていたし、飲み会であの人が繰り出してくる際どい話題をいつしか受け流したり突っ込んだりする余裕も持てるようになった。時々は後輩らしくもない生意気なことを言ったりもしたように思うけど、先輩は仕事の離れた場での上下関係をさほど気にしない方らしく、本気で注意された記憶はない。それをいいことに、俺も先輩がたに対しては随分と遠慮会釈なく振る舞っているし、そういうのが案外居心地いいという事実にも近頃気づいた。大人になった、ってことなのかもしれない。
 石田先輩は思いのほか付き合いやすい人で、一緒にいるとそれなりに楽しく、もちろん仕事においては大変尊敬できる相手だと思うようになって――本人にはこんなこと絶対言うつもりはないけどとにかく、そう思っていた俺の心を、しかしここに来て小坂さんの存在が揺り動かした。
 小坂さんの好意は誰の目にもわかりやすく、五月の段階から既に、当の石田先輩自身にすら看破できるほどだった。あまりにもだだ漏れなので先輩に尋ねてしまったことがあった。小坂さんのこと、どうするんですか、と。
 それに対して先輩はこう答えた。
『そりゃあんだけ可愛かったらしょうがないだろ? 向こうがいいって言ったら手も出るって』
 下心一杯、手を出す気満々の答えだった。
 別に、この人に対して潔癖なまでの品行方正さを期待するつもりはない。石田先輩が小坂さんに『お前の気持ちは嬉しいが今は一番大事な時期だ。仕事ができるようになって少し落ち着いてから考え直して、それでも俺のことが好きだったら考えてやる』みたいなことを言い出したら、何月だろうとお構いなしに雪が降るだろう。雹になるかもしれない。つまりは普段からそういう人だ、それこそしょうがない。
 ただあの人のしょうもなさを踏まえた上でも、俺は石田先輩の答えを不満に思ったし、引っかかりもした。模範解答を期待するだけ無駄なのに、何となくがっかりした。自分でもよくわからないけど、もっと別の答えが聞きたかったのだ。
 正直に言えば、先輩の幸せを願っていないはずがない。あの人に彼女ができたら癪だとか、そういう風に思って邪魔をしたいわけでは断じてなかった。聞けば、割かし長いこと彼女もいないようだし、元々女の子が好きな人にそういう状況は辛いだろう。そんな折も折、可愛くて若い女の子から誤解のしようもないほどはっきりと好意を寄せられたのだから、そりゃあその気にだってなるものだろう。男として、その辺りの感情は非常によく理解できる。
 小坂さんにだって、幸せにはなって欲しい。ああいう子が何の悩みも憂いもなくただただ笑っていられる世の中というのは一種の理想だと俺は思うし、仕事と恋愛を両立させたいと願う彼女の真っ直ぐさを応援したくもなる。相手の反応も幸か不幸か悪くはないのだし、小坂さんの恋が叶うのもそう遠い日の話ではないのかもしれない。
 更に、むかつくからこれも本人には絶対言いたくないのだけど、俺は小坂さんが石田先輩を好きになる理由がちょっとはわかる。口は悪いし一見不真面目だけど仕事はちゃんとやるし、面倒見いいし、何だかんだで他人に優しい。女の子がああいう器用で、他人を気遣う余裕もある男を好きになるっていうのは至極当然の道理だ。つまり、現在の状況はなるべくしてなったものと言わざるを得ない。
 二人にとってただの後輩もしくは先輩であり、部下ないし同僚という立ち位置でしかない俺に、そもそも口を挟む権利なんてあるはずもない。俺がどう思おうとそのうちどうにかなってしまうんだろうし、そうなったら少なくとも付き合いの長い先輩に対しては、おめでとうございますと言わなければいけないはずだ。気に入らないとか、何となくがっかりしているなんて気持ちは、胸にしまっておくべきだ。
 大体、何が気に入らないと言うのか。

「霧島さんに相談してよかったです」
 すっかり安堵の表情になった小坂さんが、溜息交じりにそんなことを言った。
 それほど深く悩んでいたのだと思うとこっちまで苦しくなってしまう。やはり幸せになって欲しい、上手くいって欲しいと、彼女に対しては思う。でも――。
 あの先輩は、小坂さんのことでそれほど深く悩んじゃいないだろうし。多分そういう人じゃない。恋愛を恐ろしく気楽に考えるタイプで、小坂さんからの好意も同じように気楽に捉えて、ラッキーだとばかりに食らいついていくんだろう。
 そうなったとして、それで、小坂さんは幸せなんだろうか。
「いえ、それほどでもありませんが……」
 後ろめたさから俺がちょっと視線を外した時、小坂さんの肩越しに見覚えのある姿が見えた。既に注文を終え、トレーを手にしたその人は、こちらに気づくとにやっとして真っ直ぐ歩み寄ってきた。多分、俺の向かい側にいる小坂さんにも気づいたはずだ。賭けてもいい、このテーブルに来たらあの人は小坂さんの隣に座る。
 何なんだ、そのにやにや笑いは。こっちはあんたのことでもやもやさせられてるっていうのに。小坂さんだってあんたのことでそれはもう深く深く悩んでるっていうのに。
 とは言え俺に二人の邪魔をする権利はないし、今日は見守るだけの気力もない。石田先輩の姿を認めた直後、俺は箸を置いて席を立ちながら小坂さんに声をかけた。
「あ、すみませんが、俺はここで失礼します」
「え?」
 脈絡もない申し出に小坂さんがきょとんとする。そりゃそうだろうなと思いつつ、適当な嘘をついてみる。
「ちょっと、電話しなくちゃいけないんです。奥に移動します」
 そこで、呆けた顔の彼女の背後には石田先輩が到着し、食べかけのうどんを運んでいこうとする俺を見て、やはり怪訝そうに目を瞬かせた。
「何だ、霧島。彼女に電話か?」
 急に聞こえた声に小坂さんの肩がびくりと跳ねた。すぐに振り向こうとせず、そのまま固まってしまうのがいかにも彼女らしい。さっきまでこの人の話をしていたんだから無理もないだろうけど。
 俺は先輩に対して首を竦め、
「違いますよ。取引先に連絡するんです」
 と言ったものの、言葉の不自然さは取り繕えなかったらしい。石田先輩は揶揄するような顔つきになる。
「長谷さんなら受付にいたぞ。こそこそしないで会いに行ってやれよ」
「こそこそなんてしてません、仕事なんですってば」
 今更、人目を忍んで会いに行くような間柄でもない。むしろ先輩がたがそうやって公然と突っ込んできたりからかってきたりするから、他の人たちにまでそういう空気が伝染して、意外な人からからかわれたりするようにもなってしまった。絶対、石田先輩と安井先輩が広めたんだと俺は睨んでいる。
「わかったわかった、そういうことにしといてやるから」
 しかめっつらになった俺を適当にあしらう石田先輩。何が、そういうことにしといてやる、なのか。ただの事実誤認じゃないか。
 俺は黙ってそのテーブルを離れ、いくらか歩いてからちらっと振り返ってみる。予想通り先輩は、小坂さんのすぐ隣に座ったようだ。小坂さんがどんな反応をしたか、ちょっと見ておきたかったような気もした。
 二人の姿を背後から確認できる席へ移り、いくつかのテーブル越しに観察してみる。表情は見えないが二人で何事か話している様子で、先輩がいちいち小坂さんの方を向いて話しかけたり、小坂さんが腑に落ちたようにうんうんと頷くそぶりをするのがわかる。こうして見る分には仲がよさそうだし、お似合いと言えなくもないのかもしれない。実際、不真面目で女の子相手でも言葉を選ばない石田先輩と、お行儀はいいんだけど時々すっとぼけた発言をする小坂さんの会話はどことなく噛み合ってなくて、傍で聞いてるとおかしいし、でも噛み合ってないなりに根本的なところは通じている感じがするのは不思議だなとも思う。そういう二人が付き合うようになったとして、何かまずいことなんてあるだろうか。
 俺は、何が気に入らないんだろう。

 赤ずきんの話は実に教訓的だ。どうしたって赤ずきんには観察眼と慎重さが必要だし、それ以上に狼には自分を取り繕うだけの努力が必要なはずだ。なのにあの二人にはそれがないから、傍で見ている第三者がやきもきさせられてしまう。
 先輩は小坂さんのことを可愛いとは思っているようだし、事あるごとに構ってもいるようだ。仕事中にちょっかいかけたりはしてないようだけど、飲みに行ったりはしたというから、もうすっかり手を出す気になっているんだろう。小坂さんが仕事と恋愛の両立に頭を悩ませている間も、先輩は悩みもせず迷いもせずただただあの子の好意を食べつくす気でいるわけだ。
 いっそ、先輩も少しは悩んだり苦労したりすればいいのに。狼だっておばあさんになりきる為の多少の努力はしたと言うのに、先輩が何にもしないのはずるい。少しは厳しい目に遭ったらいい。でなきゃ、小坂さんの想いともまるで釣り合わなくて、全く不公平じゃないか。
 結局は、そこなんだと思う。俺が気に入らないのはその点に尽きる。
 小坂さんは先輩のことであんなに悩んでいるのに、当の先輩は、小坂さんのことが好きなわけじゃないんだ。
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