Tiny garden

正しい合鍵の使い方(1)

 隆宏さんから合鍵をいただいてから、いつの間にやら三ヶ月が経った。
 時は六月、もう梅雨時だ。それなのに鍵を使う機会はまだ一度もなくて――もちろん、もちろんわかってる。機会は待つものじゃなくて作るもの、ぼんやりしてたってどうにもならないってちゃんと理解はしている。隆宏さんにも何度か『で、いつ使うんだ?』と苦笑気味に聞かれてもいたし、一度なんて思いっきり拗ねられてしまったこともある。三十歳の男の人でも拗ねたり、寂しいなんて口にしたりするんだなあ、というのがその時の私の率直な感想だった。
 私はまだ二十四歳だから、そりゃあ世間的には大人と言われる歳だけど、自分ではいつまで経っても大人になれたような気がしないし会社の中でも全然ひよっこだ。今年の新人さんももう入ってきているけど、それでも社内では私より年上の方々が圧倒的に多いから、未だに何となくルーキー気分が抜けていないような気がするのはここだけの話。そんな私に比べて隆宏さんは三十歳だし、本当に大人っぽいし、私よりずっと落ち着いてるし物知りだし頭の回転だって速い。うっかりの私がしょっちゅう何かを見落としていると、すかさずずばっと指摘してくれる。そういう人だから、拗ねられたり寂しいと言われたりした時は意外すぎてびっくりした。でも、すぐに反省した。すごく年上だからとか、すごく大人だからって理由だけで、私は隆宏さんを何でもできて精神的にも強くてまるで向かうところ敵なしな人だって思っていたけど、そうじゃないんだ。大人になったって三十歳になってたって、好きな人に冷たくされたら拗ねたくもなるし、好きな人が傍にいなかったら寂しくなる。大人になるっていうのはそういう気持ちを全く感じなくなるということじゃなくて、そういう気持ちを簡単に他人には話さない、見せないってことなんじゃないかって、今は思ってる。
 そして、隆宏さんはそういう気持ちを、私だけにはちゃんと表してくれた。どうしてかは私だってわかってる。わかってなきゃいけないと思う。
 だったら私のすべきことは、隆宏さんを拗ねさせないよう寂しがらせないようにすること。これに尽きる。

 それで、合鍵を使うに当たってまず何をするか、なんだけど。
 何の為に使うか。実を言うとここが最難関であるような気がする。だって隆宏さんのお部屋にお邪魔する時は確実にご本人が一緒なので、そもそも鍵を使う必要がない。じゃあ隆宏さんのいない時に伺えばいいんだろうけど、そうすると今度はすることがない。一人で行ってただごろごろしてるなんて意味がないし、やっぱり意味のあることをしに行きたいって思う。例えばお掃除とか。
 でも、今までお邪魔した限りでは、隆宏さんのお部屋はいつだって平時の私の部屋よりも片づいていてきれいだ。洗濯物が干してあることは何度かあったけど、脱いだ服をそのままにしたり、床に物を散らばしておいたり、洗ってないお皿を放っておいたりは絶対していない。この点はさすが三十歳、格好いいなあ。
 掃除洗濯で用なしとなれば、残る一つは炊事しかない。
 炊事についても、現状では私より隆宏さんの方が上手だ。私が今までカレーと豚汁の二品しかまともに作れなかったのに対し、隆宏さんは毎朝自分でご飯を炊いてお魚か目玉焼きを焼いてお味噌汁を作るくらいのことはあっさりできてしまう。レパートリーも私よりは確実に豊富だ。それなら私もレパートリーを増やして挑まなくてはいけない。
 初めて合鍵を使うんだから、どうせなら喜んでもらえることをしたかった。合鍵の使うのをお待たせしてしまった分、あるいは隆宏さんを拗ねさせたり寂しがらせたりした分、ものすごく幸せな気持ちになってもらいたい。例えば私が隆宏さんのお仕事の帰りを玄関で待ってて、ドアが開いた瞬間に『お帰りなさい』を言ったら多分笑ってもらえると思うし、そこにものすごく美味しい晩ご飯を用意していたらそれはもう喜んでももらえるはず。
 となると、レパートリーを増やす為の練習が必要です。絶対美味しくなくちゃ駄目だもん。

 お料理の指導は、ゆきのさんにお願いした。
 言うまでもないことだけど、ゆきのさんはとってもお料理が上手だ。その上教え方も優しくて丁寧だし、私みたいな初心者中の初心者にさえわかりやすい、痒いところに手が届く説明をしてくれる。
 他に身近な人で言うと、うちのお母さんも料理は上手な方だと思う。でもお母さんの作るものは何と言うか上級者向けっぽくてすごく難しそうに見える。例えば、以前隆宏さんが私の家に来た時にお母さんのお煮しめをぱくぱく美味しそうに平らげていたから、あとでそれとなく作り方を聞いてみたら開口一番、
「まず、圧力鍋を使ってね」
 と来たからあっさりくじけた。圧力鍋ってあのひゅんひゅん音を立てるめちゃくちゃ重たいお鍋だ。子供の頃はあの空を切るような音が怖くて、鳴り出した途端に押入れへ隠れたりしてたっけ。今はさすがに怖くないけど、そもそもスーパービギナーの私には新しい調理器具を使うなんて難しすぎる。できればフライパン程度で済む献立がいい。
 その点、ゆきのさんが教えてくれたレシピはわかりやすい。いつもは仕事の後に晩ご飯を作っていらっしゃるそうだから、とにかく時間を短縮し、手間を省くことを重点においているのだと伺った。お蔭で使う調理器具はフライパン一つきりで済んだりするし、調味料も全部大さじで量れたりして、とてもありがたい。
 私が、
「初心者向けで失敗の少なそうなお魚料理ってありますか?」
 と営業泣かせのクライアントの如き無茶を言っても、ちっとも困った風もなく教えてくれた。
『ぶりの照り焼きなんてどうでしょう? お魚を焼いて、たれを絡めるだけです』
「わあ、美味しそうですね!」
『あとから味をつけるので焦がす心配があまりないのがいいんです。楽ですよ』
 退勤後やお休みの日など、ゆきのさんのご都合のいい時に電話で教えてもらった。覚えきるまでには何度かお電話してしまったのに、ちっとも迷惑がらないどころか私の成長度合いを喜んでくれたりもした。
「今日は今までで一番いい焼き具合になったんです。これが本番だったらと思うくらいで」
『さっすが藍子ちゃん! その調子で本番も是非頑張ってください』
「ありがとうございますっ。頑張ります!」
『味の方はどうでした? 甘めが好みだったら、お砂糖を足したりしてみてくださいね』
「味もばっちりだと思います。醤油一、みりん一くらいで」
 しょっぱめの味付けの方がご飯に合いそうな気がするんだけど、隆宏さんは何て言うかな。少なくとも私の口にはぴったり合った。味見の一切れでご飯もばっちり進んでしまった。
 調理法も初心者にはありがたい明快レシピ。ぶりの切り身に片栗粉をまぶして、フライパンで焼いて、合わせた調味料をかけて煮詰めるだけ。簡単なのに色つやよく仕上がってしかもふっくら濃い味で美味しい。この片栗粉プラス調味料後がけというパターンはお肉でも応用の利く技らしいので、今後もいろいろ試してみようと思う。
「もう五回も作ってますし、手順も大体把握しました。ドジさえ踏まなければ大丈夫です!」
『一杯頑張ったんですね、藍子ちゃん』
 もったいなくも感心してくださったゆきのさんの声に、意外とすぐ近くから霧島さんの声が重なる。
『先輩が緩みきった顔をするのが目に浮かぶようです。きっと自慢されるんだろうな……』
 ぼやきのように聞こえた。
「じ、自慢してもらえる出来になるといいんですけど」
 そこのところはあまり自信がない。私は結構なうっかり屋だから、肝心な時にやらかしてしまうのもよくあるパターン。気を引き締めていこう。
『そんなこと言って、映さんは石田さんに自慢されるの、心待ちにしてるんじゃないですか?』
『してないです。全くしてないです。俺はただ小坂さんには頑張って欲しいだけです』
 それにしても、霧島さんご夫妻は相変わらず仲がいい。通話先のこちらにも会話が聞こえるくらい傍にいらっしゃるってことなんですね。新婚さんの貴重なお時間を浪費してはいけないと、私は丁重なお礼と成功した場合の報告を約束した後、電話を切った。

 さて、やることは決まりその為の準備も練習も完了した。
 残る未決定事項はずばり、いつ実行に移すかということ。この点については私にも考えがあって、来月、七月の隆宏さんのお誕生日にしようと決めていた。ちょうど平日で『お帰りなさーい』をやるにはちょうどいいし――私が隆宏さんより先に上がれるよう、頑張らなくちゃいけないのはあるけど、でもそんなのは前々からの調整で何とかできるはず。それに私だって、そういうメモリアル的なことをするのは結構、むしろものすごく大好きだったりするのです。女の子ですから。
 ところが、そのアイディアを隆宏さんに話したら、難色を示されてしまった。
「そんなに先!? ふざけんな、そんな悠長に待てるか!」
「もう来月の話ですよ?」
 話を持ちかけたのは六月下旬、あと一週間で七月という辺りで、そんなに先の話でもないんだけどと私は怪訝に思う。
 でも隆宏さんが、
「誕生日とか言ってないでもっと早目に来いよ。最近全然来てくれてないだろ」
 と渋い顔をするのもわかる。ここ一ヶ月はお互いに少し忙しくて、隆宏さんのお部屋に行く暇がなかった。もちろん会うだけなら毎日会社で顔を合わせてはいるし、今月の初めには私の家にも来ていただいたんだけど、そういうのがデートに含まれないことは私にだってわかっている。
 また寂しいと言わせてしまったら、申し訳ないから。
「そ、そうですか? じゃあ今週末は空けておきます」
 私は誕生日案を断念してそう告げた。
 週末だと、隆宏さんの帰りを待つという計画が成り立たなくなってしまうものの、それなら隆宏さんにはどこかに――例えば好きな家電量販店にでもお出かけしてもらって、その隙に私がぶりを照り焼くというやり方もできるはず。そもそもの目的は合鍵を初めて使うという点であるからして、他の部分は臨機応変に対応できるようでなくてはならない。最終的には隆宏さんに喜んでもらえたら、それだけでいいのだし。
 というわけで、計画実行日は六月最後の週末に決定した。もうこれ以上決めておくべきことはないはずだし、計画自体もそれなりに完璧だと思っていた。そしてもちろん、上手くやるつもりでいた。
 初めての、合鍵を使う機会。私は興奮のあまり前の日から眠れなくなるんじゃないかってくらい、すごく張り切っていた。女の子はこういうメモリアルなことが大好きなのです。

 そして迎えた六月最後の週末の、前の日。
 その日は梅雨明け前だというのにからっからの晴天で、なのに天気予報からはにわか雨に注意と口酸っぱく言われていた。現に外気は恐ろしいくらいに蒸していて、高温多湿の中を車乗り回してあちこち営業に動くのは苦行に近かった。社用車はいつだってエアコンばりばりなのに一向に冷えてくれないし、むしろ停める度に熱されちゃうしで頭がくらくらしてくる。これで汗を掻いた分だけ痩せてくれればいいのにそうでもないから夏って苦手。
 お日様絶好調の昼下がり、道の向こうにコンビニの看板が見えた瞬間に引き寄せられてしまった。お昼ご飯もまだだったけど、何より水分補給しないと干からびそう。私は砂漠でオアシスを見つけた行商人のようにふらふらと、コンビニを目指した。
 駐車場に乗り入れてエンジンを切り、エアコンが停まった車内が一気にむわりとしてきた時だ。
 不意を突いて携帯が鳴った。
 音でわかる、社用携帯の方。もちろん勤務中にこっちが鳴るのは珍しくないどころかよくあることだし、特別びっくりはしなかった。ただ相手が取引先じゃなくて、『石田主任』と表示されていたからどきっとした。お休みの日に電話を貰ったりするのとは別の意味で。
 主任から電話って、何だろう。私が帰社してからでは遅い連絡ってことだよね。クレームじゃないといいな。前みたいに忘れ物とかでもないといいな。今日って会議の予定とかなかったと思う、うっかり忘れて連絡してきたってことはない、はず、多分。とにかく悪いニュースではありませんように――頭の中で一息にそこまで考えてから、電話を取る。
「……はい」
『小坂、悪いな急に。今、話しても平気か?』
 主任の声はトーン低めで、心なしか暗い。一層どきどきしてくる。
「大丈夫です。あの、何かあったんですか?」
『そういうんじゃない。……お前、今どの辺にいる?』
 私の不安を否定した後でそう尋ねてくる。どうしたんだろうと首を傾げつつ、私はコンビニのガラスのドアに目をやって、地域名を含む店名を読み上げた。
 すぐに主任がほっとしたように、
『そうか。今日はその辺回るって予定にあったから、いるんじゃないかと思ってた』
 早口気味になって更に続けた。
『悪い、頼みがある。俺の部屋に寄って、取ってきてもらいたいものがあるんだ、頼めるか?』
 言われて、そういえばと思い当たる。ここは主任のお住まいのごく近くだ。行こうと思えば車なら五分もかからず辿り着けるだろう。それに私は鍵を持ってる。お部屋の中にだって入れてしまう。
 もちろん主任だってそこまでを見込んで、私に連絡を取ってきたんだろう。そしてそこまでするということは、きっと大切な用か、急ぎの用なんだと思う。
「構いません」
 コンビニに寄る余裕があるくらいだから、私は即答した。
「何を取ってくればいいんですか?」
『助かる。取ってきて欲しいのはデジカメだ、パソコンの脇にあるはずだからすぐわかる』
「了解です」
『お前も忙しいのに、申し訳ない。できれば夕方くらいまでに持ってきてもらいたいんだが……』
「わかりました。ここからなら五分で行けますし、すぐにお届けもできると思います」
 答えながら再び車のエンジンをかける。すかさずエアコンが温い風を、ぶおおとすごい音を立てながら吹き出そうとするから、一旦切った。電話が聞こえなくなる。
 そしてエンジン音の向こうに聞こえる主任の声は、安堵一色に弾んだ。
『ありがとう小坂! お前本当いい奴だな!』
「そ、それほどでもないですよ。困った時はお互い様です」
『いやマジで感謝してる! 助かった! 愛してる!』
「え……ええ!?」
 いいいい今何か、ものすごくものすごい一言をさらっと言われたような!
『そうだ、冷蔵庫に入ってる飲み物適当に持ってっていいからな。暑いから気をつけろよ!』
 主任はそれだけ言うと電話を切ってしまい――。
 急がなきゃいけないはずの私は、気を落ち着ける為だけにあえて声に出して呟く。
「結構、さらっと、言っちゃう人なんだなあ……」
 あ、あいしてる、とか。
 びっくりした。
 一応仕事中なのに。社用携帯なのに。と言うか今の、まさか営業課からかけてきたんじゃないよね……? そうじゃなくても言われたの初めてだ。どうしよう! どきっとした、お休みの日みたいな感じででもいつもの数倍どきっとした!
 考え出すといよいよ本当に干からびそうだったので、私はひとまず考えないように考えないようにひたすらと念じながら依頼の遂行に移った。

 初めての合鍵を、今日、使うことになった。
 予定より一日早く、考えていたのとは違う目的で。
 私は確かにメモリアルなことが好きだけど、でも当初の予定と違う使い道になってしまって残念だとは思わなかった。主任は本当にデジカメが必要で困っているようだったし、私は『石田主任』のお役に立てるのだってそれはそれはとても、嬉しいから。
 パスケースの中にずっと隠していた合鍵を抜き出し、主任のお部屋の鍵穴に差し込む。回すとがちゃりと音がして、玄関のドアは簡単に開いた。夏場の留守宅とあって中の空気はやはりむわっとしていてやや暑い。私は室内に駆け込み、リビングにあるパソコンデスクを目指す。
 ベランダのカーテンは開いていて、そこから降り注ぐ日差しが室内の埃をきらきらさせていた。匂いはいつもお邪魔する時と変わらない、柑橘系っぽい控えめな、でも今は夏らしい温度の空気。そして当たり前だけど物音はほとんどせず、せいぜい時計がこちこち言っている程度でとても静かだ。一人で入るのは初めての、隆宏さんの部屋――違う、勤務中だから石田主任の、って言うべきなのかもしれない。私はいつも勤務中及び営業課の他の方がいる前では『石田主任』、それ以外の場では『隆宏さん』と心の中でも呼び方を分けるようにしていたけど、でもこうして勤務時間内にこの部屋に来ると、どういう風に呼んでいいのかまるでわからなくなってしまった。
 話に聞いていた通り、パソコンデスクの上にデジカメはあった。それをケースごと取り上げて、とりあえず目的達成。あとは届けるだけと思ったところで、そういえば飲み物を持ってっていいって言われていたことを思い出す。ここまで急いできたのもあって喉はすっかりからからだ。もちろん届けに行くのも急いだ方がいいんだろうけど、それで熱中症にでもなったらいよいよ隆宏さんに――じゃない、今は、えっと、石田主任に? とにかく怒られてしまう。
 暑さのせいでくらくらしてきた頭を抱えつつ、キッチンまで足を伸ばす。冷蔵庫を断りなく開けてしまうのも初めてだ。でもためらわずに開けて、すぐに横たわっているペットボトルの集団を見つける。全部紅茶だった。三本あった。そのうちの一本をありがたく取り出して速やかに冷蔵庫のドアを締めた後で、今度は別のことを思い出す。
 初めてこのお部屋にお邪魔した時、飲み物は緑茶とウーロン茶の二択って言われていた。ソフトドリンクはそれだけで、あとはアルコールだけだって。実際に隆宏さんが買う飲み物は大抵がお茶で、たまにお水が加わる程度。甘い飲み物を買って飲む人ではなかった。
 その人がこうして冷蔵庫に紅茶を、しかも三本も買っておいてくれたということは。
 私はよく冷えたペットボトルを、その中の透き通った紅茶の色を見つめて、また違う記憶を思い出す。手のひらがひんやりと心地いい。暑さでぼうっとしていた頭が冴えていく。考えないようにしていたことを考えてしまう。もっと新しい記憶。ついさっきの出来事。

 さらっと言われてしまったけど、でも、本当なんだなあってこと。
 そういう気持ちをあの人は、私にはちゃんと言ってくれるんだ。
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