Tiny garden

正しい合鍵の使い方(2)

 土曜日、午前九時。私は再び隆宏さんのお部屋にいた。
 もちろん昨日の、デジカメを取りに来た時からずっといたわけではありません。デジカメはちゃんと金曜のうちに会社まで届けたし、今はスーツじゃなくて一応私服。今日も朝から蒸し暑いので、半袖のポロワンピースを着ています。
 今は二人で、リビングに置いてあるソファーに並んで座っているところ。朝の穏やかな空気の中、私は新聞を読ませてもらっていて、隆宏さんは携帯電話で天気予報をチェックしている。ベランダから窺う限り、六月最後の週末は曇天の幕開けを迎えた模様。
「やっぱ午後から雨だそうだ」
 隆宏さんが溜息をつき、携帯をテーブルの上に置く音が聞こえた。私が読んでいた新聞の上から顔を覗かせて、ちょっとだけ笑ってみせる。
「降水確率八十パーセント。これは降るな」
「残念ですね、せっかくのお休みなのに」
 梅雨明け宣言はまだだから仕方がないけど、お休みに天気が悪いとさすがにがっかりしてしまう。からっと晴れてくれた方が気分だっていいし。私はそう思うけど、隆宏さんはそうでもないみたいだ。
「まあいいだろ、のんびり過ごすのだって悪くない」
 そこはかとなく嬉しそうな顔で言う。
 休日はいつも前髪が下りていて、服装もTシャツにハーフパンツと実にくだけている。でもそのラフさに親しみを覚えると言うか、スーツ姿の時よりもすごく距離的に近くにいられるような気がするから不思議。今の表情もただ嬉しいというだけじゃなくて、私に同意を求めたがっているように見える。
「のんびり、しましょうか」
 だから聞き返すと、笑いを噛み殺すような複雑な口元のまま、私の肩に腕を乗せてきた。私は読みかけの新聞を下げて、肩に加わった温かい重みに目を向ける。
 隆宏さんの腕は構造からして私のとは違ってて、手首や親指の骨の辺りがごつごつしているし、血管が浮き上がってて献血しやすそうに見えるし、筋張っていてとても硬そうなのに肌自体は滑らかな感じがする。触ってみたいなとか、手を繋ぎたいなって思うことはよくある、特に半袖の期間はそう思ってしまうことが多いけど、まだ上手く言えない。
 さっきよりも耳元の傍で、今度は得意げな声がした。
「こうなると思って、食料はしっかり買い込んどいた」
「お天気が悪くなるのを見込んでってことですか?」
「一応な。雨の日は買い物出るのも億劫だし」
 隆宏さんは天気が悪くなるという予報にむしろ喜んでいるみたいだった。そうやって用意周到なところはすごいなあといつも思う。私なんて、計画は立ててもその通りに上手くできることなんてあんまりない方だから。夏休みの宿題はいつだって最終日近くに思い出していたし――そうだ、今年の年賀状は早めに用意しよう。
「ここんとこ忙しかったし、今回はどこも出ないでゆっくりするってことで」
 畳みかけるように言ってから、隆宏さんはふと何かを思い出したみたいに眉を顰めた。直に気まずげに溜息をつく。
「あー……昨日の場合は、忙しくさせたのは俺のせいだったな」
「気にしないでください」
 デジカメの件なら、私にとってはそれほど負担でもなかったし、お役に立てたなら嬉しかった。昨日届けた時からずっとそう言ってるんだけど、隆宏さんは気に病んでいるみたいだ。
「しつこいようだけど、手間かけさせて悪かった」
 昨日からずっと、そう言われてる。私がかぶりを振ってもすまなそうな表情で反論してくる。
「急に入用になったから、持ってきてくれてすごく助かったんだけどな。お前も仕事中なのに無茶言ったかと思って。俺、繊細だからそういうの気にしちゃうんだよな」
 冗談っぽい口調だったけど、事実、隆宏さんは細やかな人だと思っている。だから私も素直に答えた。
「無茶だったらその時にそう言ってます」
「本当か?」
「本当です」
 嘘ではない、と思う。それは確かに、少しくらいの無茶ならそうでもないふりしてやってしまうかもしれないけど。好きな人、あるいは尊敬する人の為ならって考えちゃうかもしれないけど。
「お前なら多少無茶でも取りに行ってくれそうな気がする。だから余計にな」
 隆宏さんは何でもお見通しみたいな口調で言った。つり上がった形の目がじいっと、何か探すみたいに私の頬の辺りを観察している。
「最近の俺、ちょっとお前に甘えてない?」 
 やがて、苦笑気味に聞かれた。
「そんなことないと思いますけど」
 私は否定したのに、間髪入れず否定し返された。
「いいんだぞ正直に言ったって。遠慮とかすんな」
「してないです」
「いいや、してる。藍子はそういうとこ、まだまだガード堅いもんな」
 そうかなあと首を傾げていれば、今度は頬を指先で軽く撫でられた。隆宏さんは私の頬が好きなのかな、なんてこの頃思う。よく柔らかいって言われるし、頬擦りもされるし。
 甘えられているという気はちっともしない。いつだってご迷惑をかけるのはうっかりの私の方で、結果的に甘えてしまうのも私の方。だからたまにはこうやってご恩返しができるとかえって嬉しいくらいなんだけどなあ。
「散々合鍵使えって言っといて、結局こんな形で使わせたってのも悪かったしさ」
 ぼそっと聞こえた低い声。多分、それが一番気に病んでいることなんだろうなって、この時に思う。
 昨日の一件がなければメモリアル初合鍵は今日になっていたはずだった。今週末にって事前に約束もしていた。立てていた計画がその通りにいかないことなんて私にとっては珍しくもないから、それほどがっかりはしていなかった。ご恩返しができたなら、嬉しいし。
 でも、隆宏さんはそういうの、気にしちゃうんだろうな。
「私が合鍵持っててよかったですよね」
 わざと明るく言ってみた。ちらっと向けられた視線は何か言いたげで、まだほんのちょっと気まずげだ。
「まあ、よかった……んだろうけどな。お前だっていろいろ、前もって計画してたんだろ?」
「それは別にいいんです。私は隆宏さんのお役に立てたら、それで十分です」
「でもなあ……」
「昨日は、いいこともありましたし」
 私の言葉に、隆宏さんは目を丸くする。
「いいこと? って何だ」
 とっさに思い浮かばないみたいだ。私は――正直には口にできそうにないし、思い出すだけでもどきどきして、きゃーって叫びたい衝動に駆られて、おまけに何だかにやけてきてしまう。あんなこと言われたの初めてだった。どうしよう。もう一回言われたら思考がハングする自信がある。
「どうしてにやにやしてんだよ」
 隆宏さんは訝しそうだ。心当たりすらないようだから、本当にさらっと言ってくれた言葉だったんだって改めて実感する。私もいつか、さらっと言えるようになったりするのかな。想像つかないけど。
「な、何でもないです。あの、いただいた紅茶、美味しかったです」
「ああ、冷蔵庫の? それがいいことなのか?」
「そうです。そういうことにしておいてください」
 詳しくは説明できない。恥ずかしくて。
 私が新聞で顔を隠すと、
「お、何だ? 彼氏に隠し事ですか藍子ちゃん」
 隆宏さんはわざわざそれを下から潜って、釈然としない表情で見上げてくる。
「どこから顔出してるんですか!」
「新聞よりも俺を見てってアピールだよ。つか、どうなんだ? 何か隠してんだろ?」
「別に隠してるってほどでは……あ、あの、それよりも、膝に、手が」
「この丸っこくてつるつるで可愛い膝がどうした」
「わあ、ちょっ、手を置かないでください。って言うか撫でないでくださいっ」
「いいだろ別に。膝が駄目ならどこならいいんだ」
「どこがいいとかじゃなくてです! やだ、くすぐったいですから……!」
 さっきまで隆宏さんはしおらしく私に詫び続けていたはずだ。別に悪いことをされたという意識も、謝って欲しい気持ちもなかったけど、そういうしおらしさがあっという間に影を潜めてしまったのは腑に落ちないと言うか、正直ずるい。私だって大したことはできないけど、昨日のことを隆宏さんに気にしないでもらえたらなとか真剣に考えてたのに!
 持っていた新聞がばさばさと音を立てて床に落ちた。ソファーの上で押し合いへし合いしたところで私の腕では敵うはずもなく、直に両肩を筋張った腕で押さえ込まれた。椅子より厚ぼったい背もたれの上に、どすんと私の後頭部が落ちる。髪の結び目がちょっと痛い。
「このくらい慣れろよもう、相変わらずくすぐったがり屋さんなんだからなー」
 すっごく嬉しそうな顔で、隆宏さんはいつの間にか私を見下ろしている。無性に悔しくなってる私に腕の力とは裏腹のびっくりするほど柔らかいキスをしてから、そっと囁いてきた。
「昨日のお詫びもかねてサービスするから、今日はどこも出かけずにのーんびりしような、二人で」
 私はちっとものんびりできてない。どきどきしすぎて返事もできないくらい忙しい。
 でも、お詫びって言うからにはやっぱり、昨日のことを今でも少し気にしていたりするのかな。今日は天気も悪いし、どこも出かけられないのもしょうがないし、のんびりするのは異存ないけど――この流れにちょっと納得いかないのは当然だと思う。やっぱり弄ばれてるのは絶対の絶対に私の方だという気がします。
 サービスって言うなら私だって、いろいろってほどではなくても考えてたんだけどな。もちろんこういうことじゃなくて。初合鍵の件はしょうがないとしても、他にもしようと思っていた計画が――。
「……食料、買い込んだって言ってましたよね?」
 もう一回キスされた後に尋ねたら、見上げた顔がふと瞬きをした。
「あ? ああ、言ったけど。何だ、まさかもう昼飯の話か」
「そうです。今日のお昼ご飯についてなんですけど」
「おいおいまだ九時過ぎだぞ、本っ当にお前は色気より食い気なんだから」
 しょうがないなって顔をされてしまったけど、私としては、まだとは言えない。だって支度とかあるし。
「隆宏さんの用意した食料の中に、ぶりの切り身はありますか?」
「ないよ。そんなもん常備しとかないだろ普通」
「確かにそうですね」
 今度は即座に納得して、それから切り出してみる。
「実は新レパートリー、ぶりの照り焼きなんです。今日のお昼ご飯にどうかなって思って」
「へえ、美味そうだな」
「美味しかったです。なので是非、隆宏さんにも食べてもらいたくて」
「ってことは、結局買い物出る必要あんのか……」
 隆宏さんが脱力する。私はその腕からさりげなく抜け出しつつ、一応確認してみる。
「あ、もし面倒なら私が行ってきますよ」
「いや面倒とかじゃなくてですね。食べたいですけどね、新レパートリー」
「合鍵持ってますから、おつかいだってできます」
「せっかく二人でいるんだから単独行動は禁止。しょうがない、一緒に行くぞ」
 そこで肩を竦めた隆宏さんが、落ちた新聞を拾い上げて畳みながら、こちらを軽く睨んだ。
「ただ何か、逃げ道に使われた気がするんだよな」
 私はそんなに遠くに逃げたつもり、ないんですけど、と心の中で返事をする。愛してるって言ってもらって、合鍵まで貰っている現状、見えなくなるまで遠くに逃げる気なんてない。いつだって、呼ばれたらすぐに参上して何かのお役に立てるくらい近くにはいたいと思ってる。
 ただ――その、あんまり明るいうちからべたべたするのはどうかなって思うのもあるし、どきどきしすぎて壊れそうになったことも何度かあるから、たまにちょっと逃げを打つくらいは許して欲しいなあ、なんて。新レパートリーを披露したいって気持ちもあったんです、本当なんですけど、何て言うか……だって、こういうのまだ慣れないんだもん。
 その代わり、五回練習した照り焼き、ちゃんと美味しく仕上げてみせますから。

 そんなこんなで私と隆宏さんは、近くのスーパーまでぶりの切り身を買いに出かけた。
 お出かけの際の施錠と開錠は、私が役目を仰せつかった。合鍵をパスケースに入れているのを見られた時は、名刺のことがばれた時みたいに苦笑された。隆宏さんは私にそれをしまっておいて欲しくないみたいで、何かキーホルダーでもつけたらどうかと提案してきた。
「今度、何か買ってやるよ。定期入れにはしまっとけないような立派なやつ」
 今度、と念を押した隆宏さんは、今日はあまりあちこち出歩きたくないみたいだった。天気が崩れるのが心配なんだろうし、本当にのんびりしたいっていうのもあるんだと思う。それでもお買い物自体は嫌な顔一つせず、快く付き合ってくれるからやっぱり細やかな人だと思う。
 私もその気持ちを汲んで、目当ての品を購入した後は素早く切り上げることにした。

 部屋に戻ってからご飯を炊いて、お味噌汁も作った。ちなみに具は大根、これは隆宏さんが買い込んでおいた食料のうちの一つ。隆宏さんは大根のお味噌汁が一番好きなんだそう。ちなみに二位はキャベツと油揚げ、三位はしじみ貝とのことです。
 照り焼き自体は簡単レシピなだけあって、目立った失敗もなく仕上がった。片栗粉をまぶすのも丁寧にこなしたつもりだし、醤油一みりん一の比率もちゃんと覚えていた。そうして焼き上がったぶりの切り身は、見た目にはすごくつやつやしていて美味しそうなんだけど、問題は味が好みに合うかどうか。もっと甘い方がいいって言われたら、次からはお砂糖を入れてみよう。
 食卓に並ぶご飯、お味噌汁、ぶりの照り焼き。それから箸休めにと、隆宏さんがきゅうりの浅漬けを出してくれた。次からはそういうバランスも考えようと心に決めつつ、二人で手を合わせて、いただきますを言う。
「美味い」
 一口めで、隆宏さんはそう言ってくれた。思わず顔を上げた私に、少し驚いたように笑いかけてくれた。
「いやマジでいい線いってる。予想以上だ、やるな藍子」
「ありがとうございます!」
 よかった、すごくほっとした。私はすぐにお礼を言い、更に続ける。
「実はこのレシピ、ゆきのさんに教わったんです」
「霧島夫人に? へえ」
「ゆきのさん、教え方も上手なんです。調味料の覚えやすい割合とかフライパンで簡単にお魚焼く方法とか、初心者の私にも楽にできるように教えてくれて。お蔭で私にも美味しくできちゃいました」
 誉められたばかりだったから楽しい気分でそう語ると、初めは感心して聞いていた隆宏さんも、そのうちおかしそうに吹き出した。
「そういうの、得意げに話すようなことか?」
「え? お、おかしいですか?」
「いいけどな。お前だって練習してくれたんだろ、これ作れるようになるまでに」
「はい。練習しないとお出しできるレベルになりませんから」
 今はまだレパートリーを増やすのだけで精一杯だけど、将来的にはそれこそゆきのさんみたいに、材料はこれって決めたらそれにぴったりのメニューが思い浮かぶくらいになりたい。あと、メインの一品だけじゃなくて献立全体を考えられるようにもなりたい。そこに辿り着くまでには何回の練習が必要なんだろう。道のり、ちょっと険しそうだなあ。
「美味いよ。また食べたい。毎日でもいい」
 隆宏さんが考えられうる限り最大級の賛辞をくれて、いいペースで照り焼きを食べ進めてくれたので、私もすっかり嬉しくなってしまった。険しい道のりをのっしのっし越えていく心構えもできた。また美味しいって言ってもらえるよう日々研鑽、これからも練習頑張ろうっと。
「じゃあ、次回の為に是非ご意見をいただきたいです」
「もしかして、リクエストが欲しいとかそういう話か?」
「はい! 何かあったら言ってください、なるべくなら難しくないのがいいですけど」
「難しくないの、なあ」
 それで隆宏さんは食事を続けながらも少し考えていてくれたようだ。思案を巡らせること三十秒くらい、その後にむしろ隆宏さんの表情が難しくなる。
「これっていうのは浮かばないな……何でも食べるって言ったら、かえって困らないか?」
「困らないです。でも、本当に何でもいいんですか?」
 お魚が好きな人だから、リクエストは絶対魚介類で来ると思ったのに。拍子抜けする私に、でも優しい声で応じてくれた。
「お前の作ったものなら何でもいい。どんなものでも嬉しい。だからお前もとりあえず自分にできそうなとこから挑めばいい」
 それからちょっとだけ面映そうに続ける。
「本当に、何でもいいから。お前の作ったものなら別に魚料理じゃなくても、肉でも野菜だらけのヘルシーメニューでも、あるいは甘いもんでも構わず食べてやる。で、もっとこうして欲しいって注文があったらそれはちゃんと言うからさ。お前はまず自分の作れそうなやつを、少しずつハードル上げてく感じで作っていけよ」
 私は呆気に取られた気分でそれを聞いていた。
 知っていたけど、細やかで、優しい人だなって改めて思う。私の料理の腕がどの程度かをわかった上で、無理をするなって言ってくれてるんだ。もしかしたら私がどれほど練習したかも感づいているのかもしれない。確かに自分でも思う、料理あんまりしない人間の新レパートリーにしてはこのぶりの照り焼き、作り慣れてるみたいにきっちり仕上がっちゃってるもの。
「……優しいですね、隆宏さん」
 感嘆して呟くと、なぜか吹き出された後ににやにやしながら言われた。
「愛されてるって感じ、するだろ?」
 する。とても、する。
 でも私は隆宏さんみたいにその言葉をさらっと口にできたりしない。愛されてるなあ、なんて思うだけでどきどきしすぎて自爆しそうになる。紛れもなくそれは、隆宏さんが私に対して示す全ての行動は愛だと、思うんだけど。
 じゃあ、私の方はどうなんだろう。ちゃんとその気持ちに見合うだけのこと、できてるかな。
「隆宏さんは、あの……」
 逆に聞いてみる。つっかえつつ、ためらいや恥じらいと格闘しつつ。
「あ、愛されてるって感じ、してますか?」
「まあな」
 答えの方もさらっと、頷かれた。
「こんだけされといて、愛されてないって言ったら罰当たるよな」
 ぶりの照り焼きを指し示しながら言われたから、やっぱりわかっててくれてるんだなあって照れながらも嬉しくなる。
「よかったです! あの私、これからも頑張りますから!」
「ん、まあ、そんなに気負わなくたっていいけどな」
「いえ、頑張らせてください。私は隆宏さんの為なら何だってできます!」
 全力で気負う私を、隆宏さんはそこでどういうわけか恨めしげに見た。と言うか、軽くだけどむしろ睨まれた。
「何だって……か。その言葉、さっきソファーにいる時に聞きたかったな」
「あっ」
 逆に私はびくっとして、ついでに『さっき』の緊張感も一気に取り戻してしまい、あたふたと返事のような言い訳をする。
「えっと、何だって……と言うのは料理のことです、料理の!」
「料理以外は何にもしてくれないのかよ」
「そ、そんなことないですよ、します。何でしたらまた忘れ物とか取りに来ますよ!」
「それは合鍵の正しい使い方じゃない」
 鋭く突っ込まれてしまったので、私は合鍵の正しい使い方を考える必要に迫られた。初合鍵のメモリアルなあれこれはできなかったけど――肝心なのはこれから、ってことなんだろうな。次に合鍵を使う時は、ちゃんと愛情を証明できるようなことをしないといけない。でも、どうやって?
「ま、いいけどな」
 隆宏さんは私の動揺を見透かしたように、余裕ありげな笑みを浮かべている。
「今日はもうどこにも出かける予定ないし、お前の言う愛を確かめる時間はたっぷりある。他にどんなことしてもらえるのか、楽しみにしてるからな」

 ここでまた逃げを打ったら、愛情が足りないって言われてしまうだろうか。
 でも私の思考はとっくにハングしてどんな操作も受けつけない状態にあったので、愛の証明の為にできることももう思い浮かびそうにない。愛って、結構難しいなあと心の中で零しつつ、箸を持つ隆宏さんの、男の人らしい腕に目をやる。
 触ってみたいって思うのも、ひょっとしたら、愛なのかな。
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