Tiny garden

期間限定、六歳差(1)

「藍子ちゃん、おはよう」
 四月の眠気も吹っ飛ばす、爽やかな声がビル街に響く。
 その瞬間まで私は、まさに暁を覚えてくれない眠気と必死の戦いを繰り広げていたところだった。こんな日には朝の混み合う電車さえ絶好のゆりかごになってしまう。駅を出たところで敗色濃厚と見た私は、出社前にコンビニへと駆け込み、戦場に架けるブラックコーヒーを買い求めた。
 そしてお店を出たタイミングで、ゆきのさんとばったりお会いした訳だ。
「あっ、おはようございます!」
 コーヒーよりも効果覿面、ぱっちり目が覚めた。晴れ渡る視界には素敵な笑顔のゆきのさんと、同じくらいいい表情の霧島さんとが並ぶ。どうやらご夫婦で一緒の出勤らしい。
「おはようございます、小坂さん。早いですね」
「はい。昨日の仕事がまだ片付いてなくて……」
 霧島さんの言葉に答えつつ、つい苦笑してしまう。
 社会人生活も二年目、とは言えすぐさまレベルアップ出来るという訳でもなくて、ちょっとしたつまずきやうっかりミスのせいで予定通りに進まないことはしょっちゅうある。昨日だって残業までしたのに結局片付かず、こうして朝早く出勤することになってしまった。二年目の私も相変わらずの未熟っぷりだ。
「でも、霧島さんとゆきのさんもお早いんですね」
 仕事の残っている私はともかく、ご夫婦で一緒に出勤されるには早いくらいの時分だと思う。すると霧島さんも苦笑いを浮かべて、
「俺も、始業前に片付けたい仕事がいくつかありまして」
「そうですよね。年度初めはばたばた忙しいですもんね」
 むしろ営業課はばたばた忙しくない時期の方が少なかったりもするけど、それはさておき。年度初めの次はゴールデンウィーク前後のばたばたが待っているんだから、今の仕事はいまやっておかないとまずい。
「彼女には、無理して付き合わなくてもって言ってるんですけど」
 と、霧島さんが奥さんに視線を向ける。
 対してゆきのさんはくすっと笑い声を立てた。
「帰りは一緒の時間になること、まずないですから。出勤くらいは一緒にしないと……ね、映さん」
 小首を傾げるゆきのさんに、霧島さんも困ったような、それでいてとろけそうな表情を見せる。
「そうですよね。苦労かけててすみません、ゆきのさん」
「苦労なんてことないですよ。年度初め、頑張り時ですもんね」
 わあ。新婚さんに目の前で見つめ合われるとこちらとしてはどう反応していいものやら。わからなくなる。
 だけど、こう、照れとかこそばゆさよりも、お二人の場合は『さすがだ』という気持ちが先行するから不思議だ。のろけられて困ると言うよりは、これが夫婦としてのあるべき理想像なんだろうなあと感嘆し、納得してしまう感じ。食器洗剤のCMなんて目じゃない。
「さ、せっかく早く出てきたんですからそろそろ行きましょう。……よかったら、藍子ちゃんも会社まで一緒に」
 ゆきのさんが私にも水を向けてきた。直前に考えてたことがことなので、きゃーと声を上げたくなるのを堪えながら聞き返す。
「ご一緒してもいいんですか? お邪魔じゃないですか?」
「ちっともです」
 そう言い切っていただいたので、私も嬉々とご同伴あずかることにした。
 朝から爽やかに仲良しこよしな霧島さんご夫妻を眺めながらの出勤、実に和ませていただいた。会社に着いた後でコーヒーを飲みながら、眠気はすっかり覚めたけど、結果的に無糖にしたのは正解だったなーなんて思ってみたり。もっとも、そんな生意気なことを霧島さんに言ったら怒られそうなので、黙ってにやにやだけしておいた。

 その話を石田主任――もとい隆宏さんにしたら、同じくにやにやされた。
「何だあいつら、朝っぱらから堂々といちゃついてんのか」
「いちゃついてるというほどじゃなかったですけど、確かに仲良しこよしでした」
「十分だろ。全くいいご身分だよな、新婚さんって奴は」
 別にこの場にお二人がいるわけでもないのに、眩しそうにぼやく隆宏さん。
 でも新婚さんと呼ばれる人たちで仲が悪そうなのは見たことないし、仮にいたとしても傍から見てるだけできっと辛いだろうから、仲がいいのは素晴らしいことだと思う。霧島さんとゆきのさんはご結婚前から仲良しだったから、きっとこの先も理想的なご夫婦でいるんじゃないだろうか。
「羨ましいですよね」
「羨ましいよなあ」
 エンジンを切ったSUV車の中、言い合う声がのんびり溶ける。
 退勤時間が重なった時、車で家まで送ってもらうようになったのは昨年度の、私たちがいわゆる『お付き合い』を始めるより前からだ。ただ近頃は以前と違い、ほんのちょっとの寄り道をするようにもなった。付き合い始めた直後は私の家の前に車を停めて、短く名残を惜しんだりしていたんだけど、それをやるとうちの両親が玄関からこっちを覗いてくるので大変落ち着かない。だから家から見えない程度に離れた路肩とか、公園の駐車場なんかに寄り道をして、そこでほんのちょっと話をしたりするようになった。
 今も、人気のない公園の駐車場に乗り入れて、今日あったことを話している。電話をすればいいのにって自分でも思うけど、やっぱり直接会って交わす言葉には叶わない。隆宏さんは言葉以上に、表情の魅力的な人だから、例えば霧島さんのことを話す時の眩しそうな、少しばかり悔しそうな、でも一番にうれしいに違いない顔つきなんかは、じかに会った時しか見られない貴重なものだ。
 ふと落ちた沈黙の後、目が合う優しい時間も、そう。どきどきするけど、何だかすごく幸せになれる。
「俺たちもそろそろするか、結婚」
 運転席から笑いかけてくる隆宏さん。その笑い方がまさに会心の笑みと言っていいくらい素敵だったので、私は言葉の方に注意を払うのが遅れた。
 気づいた途端、声が裏返った。
「――いいいい今、何て言いましたか主任!」
「主任じゃない」
「あ、た、隆宏さんでした!」
 まだ呼び慣れていないのでとっさの時には以前の呼び方になってしまう。そもそも今だって一日の半分以上は『石田主任』と呼んでいるんだからややこしい。
「だから、結婚。俺たちだってしたいだろ、新婚さんになって、毎朝一緒に家出て、一緒に出社してーって」
 それにしても毎度ながら、こういうことは平然と言ってしまうのが隆宏さんという人だ。しかも冗談じゃないらしいから困ってしまう。
 確かに結婚、したくないわけじゃないけど、まだ付き合い始めてから三ヶ月しか経ってないのに。
「考えてみろよ、結婚したらお前を家まで送ってく必要もなくなるし、別れ際に寂しい思いをすることもない」
「あ……そうですよね。そういうのは、やっぱりいいなって思います」
 今がまさに別れ際だからこそ、わかる。フロントガラスに滲む月明かりが眩しく、どことなくしんみりしていれば、運転席からもしみじみした声が続いた。
「それどころか帰って玄関開けたらエプロン一枚のお前が待ってたりするんだぞ」
「え? エプロン一枚?」
 声はしみじみとしていたけど、内容はいささか予想外だった。
「新婚さんのお約束だ。最高だよな」
「え、ええと、そうかなあ……」
「あるいは長襦袢でもいい」
「……あの、そもそも話がずれてる気がしますっ」
「そしたら俺はもう飯も風呂も選ばない。お前一択だ」
「そ、それは駄目です! まずご飯食べないと身体によくないですよ!」
「ツッコミどころはそこじゃないだろ、藍子」
 そうは言われても引っかかる箇所が多すぎてどこからツッコミを入れていいのかわからない。話題のタイトロープっぷりにまごまごする私を、隆宏さんは運転席から楽しそうに眺めている。実際楽しんでるんだと思う。すごい敗北感。
「こういうやり取りも悪くないんだがな」
 まごつく私を見かねたか、しばらくしてから隆宏さんが切り出した。
「でも、お前と一緒の部屋に帰れたらとはいつも思う。こういう帰り際は毎回。しかも霧島夫妻の話なんて聞かされた後ならな」
 忘れちゃいけないのは、今が『ほんのちょっとの寄り道』の時間だということだ。冗談みたいな本気のことも、私がびっくりするようなことも平気で言う隆宏さんだけど、そこに潜む寂しさ、離れがたさを見抜けないようでは駄目だ。
「安井が言うには、若い子に手を出すならそのくらいは覚悟しとけってことらしい」
 また、ここにはいない人に対して、隆宏さんが笑ってみせる。首も竦めた。
「それも事実なんだよな。お前なんてようやく二十四ってとこなんだから、もう少し待っててやれるのが大人の余裕ってやつだ。だが」
 それから助手席に座る私をじっと見て、静かに零した。
「本当はいつでも、連れて帰りたい」
 眼差しからも声からも、寂しさや離れがたさは伝染する。
 明日も勤務だし、会えなくなるわけじゃないのに、帰りたくない気持ちは募る。一緒の家に帰れたらいいって、私だって思う。
 私も女の子だし、お嫁さんになりたいって気持ちもなくはない。いつかは結婚出来たらいいなあって思ってるし、その相手は絶対に、隆宏さんがいいとも思う。
 でも、するならもう少し大人になってからがいい。仕事もばりばり出来るようになってから。あとお料理も出来るようになってから。今のままだとレパートリーが少なすぎて一週間と持たない。豚汁とカレーの二交代制ではさすがにちょっと。
 とりあえずお料理は、今からでも頑張ってみようかな。二十四になるんだし。
「来週の水曜だったよな、めでたい日は」
「はい」
「それでも六歳差か。案外でかいよな」
 私は、来週には二十四歳になる。一つ歳を取ったからといってすぐに成長出来るわけでもないし、お料理のレパートリーが増えてくれるわけでもない。隆宏さんとの歳の差が縮まるのだって、ほんの三ヶ月程度。人生経験とか、考えの深浅では歳の差以上の隔たりを感じることもあるから、一つ縮まるくらいじゃどうにもならないっていうのもわかってる。
「誕生日はうちに来いよ。全力で祝ってやる」
 ふと、そんなことを言われた。
「わあ、本当ですか!」
「もちろん。プレゼントは俺でいいよな?」
「いいです! そういうの、すごくロマンチックですね!」
「……ロマン、か? まあ、そういう解釈でもいいか」
 祝ってくれるという気持ちだけでもう跳び上がりたいくらいうれしかったけど、だけどはたと思いついたことがあって、すぐに聞き返した。
「ただ、水曜は平日ですよ? お邪魔したらご迷惑では……」
 当たり前ながら、たかが私生誕記念ごときで祝日になったりはしないから、今年の誕生日は平日だ。もちろん隆宏さんと一緒に過ごせたらいいなとは思っていたけど、あいにくとばたばたする年度初めだし、デートは土日まで持ち越した方がいいかななんて考えていたところでもあった。
「馬鹿だな。平日だから都合がいいんだよ」
 と、隆宏さんは急に元気を取り戻して、
「水曜は俺の部屋に泊まって、木曜の朝は一緒に会社行くってのはどうだ」
「……えっ?」
 本日何度目かもう忘れた、びっくりな発言が来た。
「心配すんな、ちゃんとケーキは用意してやる。あとシャンパンか?」
「ケーキ! うれしいです! でも、一緒にっていうのは……」
「そうだ、ちゃんと着替えは持って来いよ。朝帰りと間違われないように」
「あ、あの、それって!」
 私が声を上げればたちまちにやりとされてしまう。
「同伴出勤だ。楽しそうだろ?」
 楽しい、かどうかはまだぴんと来ない。
 ただものすごく、どぎまぎしてきた。主任――じゃなくて隆宏さんのお部屋に泊まりに行くのは初めてじゃないし、一緒に帰るのはもう何度目になるかわからないくらいなのに、一緒の出勤となると妙にもじもじしたくなるのはどうしてだろう。したことのない、初めてのこと、だからかな。
「霧島に見せつけられたままじゃ悔しいしな」
 うきうきと聞こえる大好きな人の声に、私は俯き加減で告げるのが精一杯だ。
「悔しいとかそういうのはないんですけど、何かちょっと、何て言うか、恥ずかしいです」
「まあな。俺たちの場合は人目を忍んでやらなきゃならないのがネックだ」
 ネックだと思っているようにはちっとも聞こえない物言い。
「ともかく、こういう楽しみでもないと余裕持ってられないからな。全く年上ってのも大変だよ」
 そんな風に語る隆宏さんは、私よりはずっと余裕ありげに映っている。
 これから迎える六歳差の期間で、その余裕の裏側を、ちゃんと見抜けるようになりたいな。
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