Tiny garden

期間限定、六歳差(2)

 あっという間に誕生日がやってきた。
 その日、私たちはなるべく時間を合わせて帰れるように努め、どうにか午後七時には揃って退勤出来た。私は仕事用のカバンの他、ぱんぱんのボストンバッグを抱えてあのSUV車に乗り込んだ。大急ぎでまずは駐車場を出る。
「どっか旅行でも行くのか、三泊四日くらい」
 わかってるくせに、隆宏さんがからかってくる。私の荷物の大きさがおかしいらしい。私自身、一晩分にしては仰々しいくらいの荷物だなと思うけど、それを笑われるのは気恥ずかしくて、むくれてしまう。
「朝、持ってくるの大変だったんですよ。スーツもパジャマもお化粧品も、全部入ってるんですから」
 一泊だってこれだけ大荷物になるんだから、三泊四日もするとしたらボストンバッグ一つじゃ全然足りない。もっとも、一番かさ張っているのは替えのスーツだから、普通の旅行ならここまでにはならないのかもしれないけど。
「そりゃ苦労かけたな、悪かった」
 ひひひと笑い声を立てる運転席の隆宏さん。ますます拗ねたくなった私を宥めるみたいに続ける。
「でも帰りは楽になるぞ、着替えは置いてけばいいんだからな」
 言われて私はなるほどと思う。重くなる荷物は置かせてもらって、次のデートの日にでも取りに行けばいいんだ。
「ご迷惑じゃなければお願いしたいです」
 そう返事をしたら、隆宏さんは急に眉を顰めた。
「断言してもいい。お前は絶対、俺の言わんとしてるところをわかってない」
「えっ、そんなことないですよ」
 誤解しようもない話だったと思うし、むしろどうしてわかってないと言われるのかがわからない。次にお邪魔する日までいらない荷物を保管していてもらう、ってことじゃないんだろうか。
 ぽかんとしていれば隆宏さんが説明して曰く、
「こういう機会の為に、常に着替えを置いとけって意味だぞ」
 こういう機会。
 というのはつまり、次の日が勤務でも泊まりに行く機会、ってこと?
「せっかくだから今回だけじゃなくて、頻繁に来るようにしろよ。別に次の日が仕事でも、一緒のとこに出勤するんだから問題ないだろ? 何だったら土日泊まって月曜は同伴出勤、なんてのもいいよな」
 隆宏さんはものすごく弾んだ声をしている。私としてはくすぐったいような、ちょっとうれしいような、変な気分。
「だけど、仕事のある日に私が泊まりに行ったら、隆宏さんの負担になっちゃいませんか?」
「ならない。むしろ次の日の活力になるに決まってんだろ」
「わ、いつものことながら躊躇なくずばりと……」
「お前はどうなんだよ。こういうの、負担か?」
 照れかけたところに質問をぶつけられた。
 負担かと言われたらもちろんちっともそんなことはないんだけど、でもやっぱり、お休みの日には敵わないなって気持ちはあったりする。今日だってもう七時を過ぎてるし、明日のことを考えたら早く寝なくちゃいけない。
「こういうのもいいと思うんですけど、次の日がお休みの方がゆっくり出来るっていうのはありますよね」
「へえ」
 素直に答えたら、意外そうにされてしまった。どうしてかなと思っていれば、今度はいやに意味深長な口ぶりで、
「休みの前の日じゃないとゆっくり出来ないようなことって何だ?」
「何って……」
 一瞬間を置いてから、今度は言わんとしているところに何となく、おおよそ気づいてしまって、私は思いっきりうろたえた。
「や、ちょっ、別に変な意味じゃないですよ!」
「変な意味ってどういう意味かなー。隆宏くんは純情だからわっかんないなー」
「ままま待ってください、私だってそういうつもりじゃなくて!」
「またまた。自分から率先して深読みしてるくせに」
「し、してないですもん。全然してないですっ」
 本当に、変な意味で言ったんじゃない。次の日が休みだと時間を気にしなくていいし、夜更かしだって出来るし、その分を二人でのんびり過ごせるからいいなってだけで……別にそんな、隆宏さんが意図するような意味合いはちっともない。ふ、深読みは確かに、ちょっとばかりしちゃったかもしれないけど!
 言葉に詰まる私の耳に、運転席からは押し殺した笑いが届く。悔しくなって、ぼそっと言ってみた。
「今日は私の誕生日なのに、さっきから何か、からかわれてばっかりいるような気がします」
「そうだな、悪い」
 隆宏さんはあっさりと認め、すぐに明るく笑った。
「お前の誕生日なのに、俺の方が浮かれてんだ。しょうがないよなあ」
 つり目がちのいい笑顔でそんなことを言われると、咎める気なんてすっきり消えてしまう。
 それどころか喜んでもらえてるうれしささえ感じて、敵わないな、とつくづく感じた。七歳差が一つ縮まったくらいじゃ、全然だ。

 お部屋にお邪魔する前に、買い物を済ませた。
 誕生日に最も必要なもの、断じて欠かしてはならないもの――すなわちケーキを購入しなくてはならないからだ。
「ケーキの分を空けとかなきゃならないからな。夕飯は軽めにしよう」
 隆宏さんのアドバイスを聞いた私は、それならばと意気高く答える。
「だったら、晩ご飯がケーキでいいです!」
「あ? 今何て言った、俺の聞き違いか?」
「ケーキが晩ご飯です!」
「いやいや待て藍子、それはいくらなんでも無茶だろ」
「そんなことないです。四ピースも食べればちょうどよくお腹一杯になるはずです。全然いけますっ」
 誕生日と言えばケーキ。一つ歳を重ねる日の晩餐に、これほど相応しいメニューがあるだろうか。いつもなら時間とかカロリーとかいろいろ気にしちゃうところだけど、誕生日だし、いいよね!
「お前な、これからシャンパンも買うんだぞ。ケーキで酒飲むつもりか?」
「はいっ。私の誕生日はケーキから始まるんです!」
「……相変わらずいい返事だ」
 呆れ半分の隆宏さんからお許しをもらったので、私は胸を張ってケーキ屋の扉を潜る。ベーカリーも併設しているそのお店で、二人分のケーキと、明日の朝ご飯用のパンを購入した。隆宏さんは晩ご飯用にもパンを買っていた。
「考えてみりゃ、夕飯にパンを食べるのとケーキを食べるのって大差ないよな」
「そうですよね。小麦粉から出来てるのは同じですもん」
「だとしても四切れはないがな……。胸焼けしないのか、甘いのばっかりそんなに食べて」
 何だか心配そうにもされてしまったけど、私には不安なんてなかった。それどころかケーキの晩餐が楽しみで楽しみで胸が躍った。これだけでも最高の誕生日。幸せすぎる。
 別のお店でお酒も調達した後、隆宏さんのお部屋に連れて行ってもらった。
 そしてお誕生日パーティを――する前にいくつか準備があって、お互いに仕事帰りのスーツ姿なので着替えをする必要があったし、仕事の後だからお風呂にだって入りたかった。隆宏さんは私が二十四になったんだから、今日こそは一緒に入ろうと言って来たけど、私はやっぱりものすごく恥ずかしかったので、結局一人で入った。
「じゃあ俺の誕生日には一緒に入れよ」
 隆宏さんはどうしても、一緒のお風呂がいいらしくて、最後にはそんなことまで言い出した。私の反論よりも早く、更に主張する。
「その時はお前がプレゼントだからな」
「え、もう決まっちゃったんですか!」
「決めた。お前以外は要らない」
 何だがすごいことを言われてしまった気がする。
 だけど私だって、今日は隆宏さんがプレゼントとばかりに一緒にいてくれるし、ケーキのことでも譲ってもらったから、お返しは他のものじゃ駄目なのかもなと思っている。少なくとも、お金を出して買える程度のものでは釣り合いそうにない。プレゼントが私って自分で言うのは、一緒のお風呂以上に恥ずかしいけど。
 明日する、一緒の出勤と比べたなら、どうだろう。

 お風呂も着替えも済ませて、お互い髪を軽く乾かしてから、改めてパーティを始めた。シャンパンを開け、ケーキをお皿に並べて、まずは乾杯をする。
「誕生日おめでとう、藍子」
「ありがとうございます!」
「よーしじゃあ今からは厳かに真面目に誕生日を祝うか。まずは社会人としての心得を言ってみろ」
「お、覚えてたんですか! あの、出来れば忘れてくださいそれは」
 厳かで真面目な誕生日パーティなんて、一見矛盾した言葉のようにも思えるけど、それは確かに私がかつて、『石田主任』の為にとした宣言だった。よくそんなの覚えてるなあって思ったけど、当の隆宏さんに言わせれば当たり前のことらしい。
「忘れようにも忘れられないっての。曲がりなりにもデートの最中にそんなこと言われたのは初めてだぞ」
 おかしそうに言われると居た堪れなさも加速する。これ、一生言われそうな気がするなあ……。
「あの頃の私は、全く配慮が足りませんでした。反省してます」
「いや配慮と言うかな……まあ、今はましになった方だ」
 隣り合って座る位置から向けられる視線が、不思議と優しい。
「あの頃と比べたら、やっぱり変わったよな、お前」
 それから隆宏さんは私の髪を、そっと撫でてくれたので、褒めてもらったような気がしてうれしくなる。
 思い切って聞いてみたくなる。
「私、少しは、大人になりましたか?」
 問いに対する答えは、柔らかかった。
「前から言ってるだろ。俺はお前のこと、大人だと思ってたよ。あの頃からずっとな」
 その言葉の意味はわかるような気も、わからないような気もする。ただ、隆宏さんの目に私が、以前よりも大人っぽく、少なくとも歳相応には映っていたらいいなと思う。差が六つだろうと七つだろうと大きな隔たりには違いないから、せめて成長しているところだけは見せられたらって。私のことを若い女の子ってだけじゃなくて、もっと違う意味合いで捉えていてくれたらいいなって。
 隆宏さんの表情は三十歳に相応しく、すごくすごく大人っぽい。つい見とれていた私に、その顔がふと冷やかすみたいな笑い方をした。
「何してんだ。ケーキ、食べないのか」
「あっ、食べます! いただきます!」
 忘れていたわけではないけど、ケーキの魅力をもってしてさえ太刀打ち出来ないんだから三十歳は偉大だ。
 とは言えケーキたちも本日はオールスター揃い踏み。イチゴショートにチーズスフレにフルーツタルトにミルクレープ、このそうそうたる顔ぶれを前にすれば、自然とお腹が空いてくる。食べずにはいられなくなる。
「お前の食べてるとこ見てるだけで、腹一杯になるな」
 真横から私を観察して、隆宏さんはにやにやしている。そうされると食べにくいんだけど、やめてくださいとは言えない。だって幸せそうにもされているから。
「隆宏さんは食べないんですか」
「俺は後でいい。今のところ、足りないのも欲しいのもお前だけだ」
 危うく、ケーキのフォークを落っことすところだった。
 でも今の発言はいつものような、冗談みたいな本気ではなくて、本当の本気みたいに聞こえた。その裏側に何が潜んでいるか、見えそうで見えない。
「あの……」
 何と答えていいのかわからなくなる私に、隆宏さんは言葉を重ねる。
「早く食べちゃえって。じゃないと先に俺の手が出る」
 そうは言われても私たちはパーティを始めたばかりで、隆宏さんは本当に何にも食べていなくて、シャンパンだってグラス半分も減ってない。別にいつならいいというわけではなくて、そういう意味じゃ全然ないんだけど、でも、何と言うか。
「それとも、明日が休みじゃないから駄目か? ゆっくり出来ないから」
 反応を窺うような口調。さすがに黙っていられなくなる。
「ですから! それはそういうつもりで言ったんじゃなくて!」
「わかってるよ」
 隆宏さんが私の肩を抱く。今度ばかりはフォークもテーブルの上に落ちる。
「でも、前よりは抵抗なくなったみたいだよな。泊まりに来るのも、俺の前でパジャマ着てるのも」
 それはそうかもしれない、だけど平気だと言い切れるほどでもない。現に抱き寄せられただけで全身ががちがちに強張ってしまったし、頬に張りつく湿った髪の、同じシャンプーの匂いに頭がくらくらするし、なまじ記憶があるだけに、余計に緊張するというのも確かに、ある。
 二十三が二十四になったところで、三十歳の前ではどうにもならない変化に違いない。
「やっぱり、隆宏さんは余裕一杯だと思います」
 敗北感に打ちひしがれながら言ってみたら、意外にも苦笑交じりに返された。
「余裕があったら急かしてない。前は、食べ終わるまでちゃんと待ってられたんだからな」
 そういえばそうだった。
 なまじある記憶を辿ってみれば、変わったのは私だけじゃないのかもしれない。六歳差になったからかな、なんて考えるのはさすがに短絡的だろうけど。
「隆宏さん」
 私は声が震えないよう呼びかけた。
「あの、今日は私、帰りませんから。明日の朝、出社するまではずっと一緒にいますから。だから……」
 顔が近づいてきて、唇が一回触れた。次の言葉は吐息が跳ね返るくらい近くから告げることになった。
「ケーキは、食べちゃってもいいですか」
 触れたばかりの唇が歪む。
「後で食べるって選択肢はないのか」
「だって、その、誕生日はケーキを食べないと始まりません」
「……確かにな。プレゼントはケーキの後だ」
 ちょっと悔しそうな顔をされた時、この人の全部が好きだなって、改めて強く思った。

 その後、ケーキはちゃんと食べた。
 始まりは多分そこから。幸せな、誕生日だった。

 次の日の朝はいつもより早く出勤した。何せ人目を忍ばなくちゃいけないから、誰もいないうちに会社へ行かなければならない。
 がらんと静かな営業課に、隆宏さん――もとい、石田主任と二人で入る。主任はすぐに自分の机に向かってしまったから、私も気持ちを切り替えようと試みる。浮つきがちな心も昨夜の記憶も、ひとまずどこかにしまい込む。席に着く動作はいちいちぎくしゃくしたけど、もう少ししたら慣れるはず。
 昨日とは違うスーツを着てるから、大丈夫。ボストンバッグは預かってもらってる。ここからはもう、誰かに見られたってばれない。一緒に出勤したって、人に見つからなければどうってことないのかもしれない。
 密かにほっとした時、
「小坂」
 不意に主任が、勤務中の呼び方で私を呼んだ。
「はいっ」
 勢いよく返事をすれば、つり上がった目が端っこからこっちを見て、
「何だか不思議な感じがするよな」
「何がですか?」
「さっきまで一緒に寝てた相手が、服着て職場に居合わせてるっていうのが」
 どきっとした、なんてものじゃなかった。
「……しゅ、主任っ!」
 ねじれた声を上げた私に対し、石田主任は余裕ありげににやりとする。
「週末までは昨夜の記憶で乗り切れそうだ。俺よりもお前の方がプレゼントだったのかもな」
 やっぱり余裕と言うなら主任――隆宏さんの方が、絶対、絶対にあると思う。私はもう本当に駄目で、今の言葉を聞いたら敗北感と火が出るくらいの気恥ずかしさと、でもどうしようもなくこの人が好きなんだという気持ちとでぐちゃぐちゃになってしまって、だけど私の場合は乗り切るどころか仕事が手につかなくなりそうで困るから、とりあえずそれら全部を吹っ飛ばす為だけに叫んだ。
「コーヒー飲んできます!」
 そして言ったからにはこけつまろびつ営業課を飛び出し、押し殺したような笑い声に見送られながら社食へ向かう。今の姿も見られたらいろんなことがばれそうだけど、構ってなんていられなかった。

 自販機のブラックコーヒーは、無糖のくせにやけに甘く感じた。
 それは私が二十四になったからだろうか。
 それとも、私よりはずっと余裕たっぷりな、あの人のせいだろうか。
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