Tiny garden

現実家と夢想家(6)

 瞬間最大風速は百メートルを超えていたはずだ。
 一気にいろんなことを考えた。考えさせられるだけの言葉を耳にしていた。にもかかわらず何一つとしてまとまらないまま吹っ飛んだ。風がありとあらゆる理性的な思考と流動的な感情とをさらっていったその後、残ったのは恨めしさだけだった。

 アイスココアをぐっと煽る。
 温くなり始めていたココアは、それでも火照った頭を落ち着けるのに相応の役割を果たしてくれた。お蔭で吐息は冷たくなり、継いだ言葉も思いのほか冷静になった。
「――か、からかわないでください」
 私の抗議に対し、主任は明るい笑い声を立てる。
「からかってる訳じゃない。今は本気でそう思ってんだよ、付き合うなら若いのがいい。ぴちぴちした奴な」
 まるで魚みたいな例え方をしている。
 ともかく本気だと言われても、確認せずにはいられない。
「で、でも。私の反応を見ておかしそうにしていらっしゃいますよね?」
 そう問えば、思いっきり頷かれた。
「面白いんだからしょうがないだろ」
 ほらやっぱり。
 こちらを見下ろす笑顔がとても恨めしい。私がどういう反応をするかは大体わかっているはずなのに、主任はちょっと意地悪だと思う。
 私の気持ちだって、見ればわかると言っていたのに。
 ココアをもう一口飲んだ後、率直な心境を零した。
「……弄ばれているような気がします」
 それは静かな食堂内に案外と響いて、自分でうろたえたくなった。随分と不満げに聞こえた。もう少し控えめに零すべき言葉だったかもしれない。
 すぐ隣では、ぷっと吹き出すのが聞こえる。
「何だって?」
「いえ、その」
 大急ぎで言い添えた。
「主任のさっきのお言葉が、本当だったらいいのになと思ったんです」
「本気だって言った」
「うかがいましたけど……」
 愉快そうに笑って言われると、どこまで信じていいのやらわからない。
 好きな人の言葉を信じないというのも、よく考えれば失礼な話だ。むしろ信じるのが怖いだけなのかもしれない。期待して、後でがっかりするのが嫌だから。そう思うと私の方が悪いようにも感じる。
 主任の言葉が本当の本気だったとしても、二十三歳が年下の範囲内に含まれているとは限らない。年下ならどんな女の子でもいいという訳でもないはずだ。――ネガティブな方向にだけは考えがすっきりまとまるんだから毎度のことながらどうしようもない。
「弄んでるのはどっちだって感じだけどな」
 首を竦める主任。揶揄するような言い種だった。
 その意味を考えようとする間にも、話は繋がれていく。
「でも、だからこそ面白いってのもある」
 ちらと視線が投げかけられ、私は瞬きをする。
 面白いって何がだろう。
「他人事じゃない方が面白いんだよ。恋愛なんてのは、圧倒的にな」
 言ってから主任はコーヒーを飲み干し、空の紙コップはテーブルの上、小さな音を立てて置かれた。後に続こうとアイスココアのコップを傾けた時、
「さっきより、今の方がどきどきするだろ。違うか?」
 真っ直ぐに問われた。
 主任の言う『さっき』がいつなのか、今回はすぐにわかった。私は紙コップを不自然な位置に持ち上げたまま、ひっそり喉を鳴らしている。その音すら響いて聞こえはしないか心配だった。
 釣り目がちの主任が、私をじっと見下ろしている。三十歳という年齢に相応しい、大人っぽい顔つきをしている。すぐ隣、肩が触れ合うか触れ合わないかの近距離にいる。笑っているけど、おかしそうにしている訳じゃない。むしろ優しい笑い方。それでいて真剣なようにも、鋭いようにも見える眼差し。
 私はこの状況にまずどきどきしている。
 加えて社員食堂を二人占めしている事実。更に今の問い。答えはイエスだ、どう考えても。
 霧島さんたちとは違い、私は大人っぽい恋をしている訳じゃない。学生時代とそう変わらない、ちょっとしたことで浮かれたり沈んだりする恋だ。見つめてくれる人は恋人ではないし、そうなって欲しいと望むには身の程知らずな、目上の人でもある。私は主任の日々や生き方に深く関わりたい訳ではなかった。ただ主任の邪魔にならないように、それでも傍にいられたらいいなと思っている。その上で、この恋を楽しめたらいいなと思う。
 だけど、さっき以上にどきどきしている。
 片想いでも、子どもっぽい恋でも、心臓が破裂しそうなくらいにどきどきしている。

 見つめ返していたことに気づくまで、しばらく掛かった。
 つまりそれは、見つめ合っていたということに他ならない。――事の重大さに気がつき、私はぱっと俯く。どうしよう、恋人同士でもないのに失礼じゃないだろうか。
 握り締めた紙コップに視線を落とせば、頭上ではまた笑い声がした。
「小坂はわかりやすいな」
 からかわれていたのかなと、その声を聞いて思う。
 笑われるのは嫌ではない。でも、からかわれるのは苦手だ。
「……主任は、ずるいです」
 拗ねたい気分で私は言い、間を置かずに問い返される。
「何がだよ」
「だって……」
 だって、こっちは本当に本気だ。何を言われてもどんな扱いをされても主任のことが好きだ。幻滅するなんてありえないくらいに好きだった。
 それをわかった上でわざと弄ぶようなことを言うのはずるい。
「私の気持ちをご存知なのに、そういう態度でいらっしゃるのはずるいです。私、どう反応していいのかわからなくなります」
 俯いたままで答える。
 頭上では溜息をつかれた。
「普通にしてたらいいんじゃないか」
 主任はそう言った。
「普通にしてたってわかりやすいんだからな、お前の場合」
「う……」
 反論に詰まる。なら、わかりやすい私が悪いと言うことになるんだろうか。――確かに、そうかもしれない。
 私がもし、好きな人を誰にも知られないように想っていられたら、当のその人にもあれこれ気を配っていただく必要はなかった。ばればれだと言われ続けているにもかかわらず、一向に改められないのだから困ったものだ。
 せめてもう少し、目立たないようにしていられたらいいのに。霧島さんたちとは違って、本当なら公にすべきではない恋なのに。主任だってものすごく気を遣うだろうと思う。実際、遣ってくれていると思う。そのお気持ちに報いるどころか、空回りばかりしているのが歯痒い。
「定期入れに写真なんて入れてるうちはまだまだだ」
 追い討ちを掛けるように言われ、私はおずおず面を上げる。
 主任が目を細めるのが見えた。
「動きもしないし喋りもしない写真より、もっと面白いものが、すぐ目の前にあるってのに」
 今、すぐ目の前には、私の好きな人がいる。
 面白いかどうかはわからない。どきどきし過ぎて、面白さなんて測っている余裕もない。私に出来る精一杯の想い方が、パスケースの中の名刺だった。
 でも、その程度の精一杯では駄目だとも思う。
 名刺の中の小さな写真よりもずっとありがたいものを、私は貰い受けているんだから。
 どきどきするけど、考えだってなかなかまとまりそうにないけど、頑張らなくちゃいけない。面白いとか楽しいとか、片想いでもせめてそんな風には思えるように。
「頑張ります」
 震える声で宣言してみる。
「何を?」
 石田主任には、すかさず聞かれた。正直に答える。
「ええと、まずはメールを。今日にでもお送りします」
「そこから始めるのか。長い道程になりそうだな」
 またしても笑われてしまったけど、心なしか温かい笑い方だった。私もちょっとだけ笑うようにした。
「それはその、不慣れな人間ですから……私、目上の方と接する機会だってそうありませんでしたし」
「勤務時間外まで気を遣うこともないだろ」
 主任は言い、それから腕時計を見た。私は退勤後でも、主任はまだ残業中だ。そろそろおいとますべきだろうかと、とりあえず紙コップのココアを飲み終える。
「お忙しい中、お付き合いくださりありがとうございました」
 席を立ってからそう告げると、なぜか眉を顰められた。
「元々コーヒーが飲みたかったのは俺の方だからな」
「あ、そうでしたね、あの」
 うっかり忘れていた。まごつく私に、
「こちらこそ楽しかったよ。コーヒーはほとんどおまけだった」
 言葉と同時に笑顔が向けられた。ひとまずはほっとする。
 主任に楽しんでいただけてよかった。お互いに利のある時間にしないと、誘った方としては申し訳ないから。
「よかったです」
 心底から呟く。
 直後立ち上がった主任が、同じくらいのトーンで言った。
「期待してるからな、メール」
「え」
「残業の後、疲れ切った心の励みになるようなやつを頼む」
 期待、されてしまった。
 これはもう、頑張って文面を考えなくちゃいけない。とびきり励ましメールを。それでいて、畏まり過ぎていないものを。
「む……難しいですけど、頑張ります!」
「頑張れ。俺も小坂のメールを楽しみに頑張る」
 主任はそう言って、ご自分のと私のと、二つの紙コップをゴミ箱へ捨てた。そして振り向きざまに付け足してきた。
「ああそれと、霧島に見せて自慢出来そうなやつがいい」
「――み、見せるんですか、霧島さんに!?」
 私は慌てた。そんな事態は想定してもいなかった。だけど答えは平然と返ってくる。
「あいつにはいつも見せつけられてるんだし、そのくらいの仕返しはしてもいいだろ?」
「駄目ですよだって私からのメールが自慢になるとは到底思えませんし、何より私が恥ずかしいです!」
「そんなに恥ずかしいメールを送ってくる気なのか、小坂」
 ――多分、そうなると思います。
 好きな人にするメールは、ラブレターみたいなものだから。

 社員食堂を出た後、主任と階段を下りて、三階でおいとまを告げた。
 それから向かったエレベーターホールには、もう誰もいなかった。だから私も、主任と主任宛てのメールのことだけを考えて、ひたすらどきどきしていた。
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