Tiny garden

教える人と教わる人(5)

 会議室は殺風景だった。
 テーブルと椅子の他に目につくのは大きなホワイトボードくらい。OHPのスクリーンは天井近くで真っ直ぐ巻かれているし、窓のカーテンも留められたままだ。暮れなずむ空と、ぽつぽつと明かりの灯るビル街と、窓ガラスに跳ね返る照明の光が見えていた。
 大人数でいてもどこか寂しい、物足りない感じのする会議室に、今はたった二人しかいない。しかも相手はあまり話したことのない人。ふと心細さを覚える。
 もっとも、心細いのはそれだけの理由じゃない。
 仕事で大失敗をしでかした日。失敗と後悔を引きずっている退勤後。かつては営業課にいたという安井課長から、一体何を告げられるんだろう。当然、緊張していた。石田主任といる時よりも――多分。緊張の具体的内容が違うから、何とも言いにくいけど。

 真正面を向いたまま取りとめもないことを考えていれば、視界の隅で安井課長が身動ぎをした。
 並んで座ったまま、お互いにしばらく黙っていた。もしかすると私の緊張が収まるのを待っていてくださったのかもしれない。
 息をつき、こっそりと課長の様子を見やる。課長の、指を組み替えた手は、テーブルの上に置かれている。姿勢がいい。足を組んだりもしていない。主任と比べて、やっぱり生真面目そうな印象がある。主任とは同期だとうかがっていたから、安井課長も同い年の三十歳、だろうか。大人っぽいという形容を飛び越えて、雰囲気ごと落ち着き払っている人だった。
 とりあえずは、何を言われてもしょうがない。覚悟を決めた私は、それでも結局、おずおずと視線を上げてしまう。
 そのタイミングで課長は、静かに口火を切った。
「前に話したよな」
 雰囲気よりもくだけた語調だった。
「石田がよく、小坂さんの話をしてくるって。覚えているかな」
「は、はい。うかがいました」
 八月の備品倉庫で聞かされた話。その時も大いにおののいてしまったけれど、今もびくびくさせられた。上司が人事の方に新人の話をするというのは、ものを知らない私でも、ちょっとやばいかもしれないと思える。
 私の怯えを見抜いてか、安井課長は溜息をつくように笑った。
「何て話してるのか、気になる?」
 覗き込むような目つきに、十分な距離を置いているにもかかわらず、ぎくりとさせられた。馬鹿げた発想かもしれないけど、もしかしたら読心術が使えるんじゃないかと思いたくなるような人だ。あるいは私がばればれなんだろうか。――こんな局面でも?
「それはその、気にはなります」
 素直に答えた時も、案の定という顔をされた。
「だろうな。じゃあ、少しだけ教えようか」
 課長がちらと、意味ありげに視線を外す。口元だけは笑んでいる。
 僅かな間が生じた時、蛍光灯の唸るような音が聞こえた。
「まず、そんなに不安がらなくてもいい。あいつは君のことを一度も悪く言ったことはないから」
「ほ……本当ですか?」
 思わず聞き返した。本当なら、すごく、うれしい。そしてものすごくほっとする。少なくとも主任は、私の不適正ぶりを人事の方に報告した訳じゃないんだ。そう思えるから。
 そして安井課長が顎を引く。
「本当だ。君の勤務態度については、特に評価しているようだった」
「わあ……」
 自然と感嘆の声が出て、ちょっと恥ずかしくなった。でもうれしい。主任が私の勤務態度までしっかりと見てくださってて、いいと思ってくださったなんて。どうしよう。明日からも頑張ろう。それはもうむちゃくちゃに。
 ――でも、今日の大失敗は、主任のそのお気持ちさえ踏み躙ってしまったのかもしれない。そう思うとうれしさの倍くらい落ち込んだ。どうしよう。挽回、出来るだろうか。もちろんしなくちゃいけないんだろうけど、私の力で叶うだろうか。不安が募った。
 そこへ割り入るようにして、
「もっとも、仕事の話は一割くらいだけどな」
 と安井課長は言い、
「……一割、ですか?」
 まず、思ったよりも少ないなと私は考える。私のことを話すのに、仕事の話は一割。なら残りの九割は何なんだろう。
「残りの四割は、小坂さんがいかに毎日可愛いかということについて」
 口ぶりはむしろ淡々と告げられた。
「更に残りの五割は、著しく品性を欠く発言なので社内では無論のこと、素面でも言えない」
 首を横に振る課長。どこか呆れた様子で続けた。
「そういうことだから、小坂さんはあまりあいつを買い被らない方がいい」
 その間、私はいただいた情報を処理するのに必死だった。
 石田主任が私のことを可愛いと、安井課長にまで話している――主任の言う『可愛い』が私の望むような意味合いではないことはわかっている。わかっているけど、それでもうろたえたくなった。だって四割は多い。仕事の四倍もそんなことを話していらっしゃるなんて、まさか、そんなに話題がないんだろうか。私が犬っぽいとか食いしん坊だとかそういうことをお酒の席で、仕事の四倍も話しているんだろうか。恥ずかしいので勘弁してください主任。
 それと、著しく品性を欠く発言の方も、ちょっと気になる。仕事の五倍も話される、品性のない話題って何だろう。……主任が、主任としての立場では言えないようなこと、かなあ。そもそも品性なんて単語を使う機会も少ないせいで、内容にまるで察しがつかなかった。主任が下品なことを言う状況もちっとも想像出来ない。
 私の思索を置いてけぼりにして、課長は話を続ける。
「まあ、それは置いておく。奴がプライベートでどんな人間かというのは、これから小坂さんが知っていけばいいことだ」
 含むような言い方だな、とこっそり思う。知っていく機会があるかどうかもわからないのに、そんな言い方をされても困る。でも課長は、私に困る暇さえ与えてくれなかった。
「ただ、それにしたって石田は、上司としては甘いところがある」
 甘いと言われて、はっとした。
「あいつは人を叱るのが苦手なんだ。――得意な人間の方が珍しいか。俺も得意ではないな」
 課長は言いながら首を捻る。
「ともかく、ものを教えるのは好きで上手なのに、叱るのが下手っていうのはもったいない。石田はそういう奴なんだ。俺は前からそう思っていた」
 そう語る声のトーンは穏やかで、それでいて真剣だった。主任のことを本当によくご存知なんだとわかる。
「人に何かを教えてやるのは好きで、あれこれ丁寧に教えたがるけど、ああ見えて仕事の出来る男だからな。失敗の経験があまりない。あったとしても、あいつはそんなことでいちいち悩まない。だから自分の失敗よりも、可愛い教え子の失敗、ミスをしでかして叱らなくちゃならない時が一番辛い局面なんだろう」
 私は身動ぎも瞬きも出来ず、そのお話に耳を傾けていた。私の知らない、だけど言われてみると実にイメージ通りの主任がそこにいる。
 主任自身から聞いたこともあった。霧島さんが入社してきて、主任にとって初めて後輩と呼べる相手が出来た頃の話。霧島さんに辛い思いをさせたと言っていたけど、同じように主任だって辛かったはずだ。
 私に対しても、そうなのかもしれない。私が一人で空回りしたり、失敗したり、出来もしないくせに背負い込んで、結果へこんだりしているのを見て、辛いと思われているのかもしれない。もっと出来のいいルーキーならともかく、私のような駄目ルーキーでは石田主任の心労も一方ならぬものだろう。その為にも失敗なんてしていられないのに。
 どうしてあんな、うっかりミスをしたんだろう。
 溜息をつきそうになった拍子、安井課長がたしなめるように言った。
「まだ話は終わってないよ、小坂さん」
「あ! は、はい。すみません」
 集中していないように見えたんだろうか。私は慌てて姿勢を正す。課長は苦笑いを浮かべている。
「つまりな、俺の言いたいことは」
 そして、そんな風に語を継いだ。
「一度の失敗で、この世の終わりみたいな顔をして、落ち込んだりしないで欲しいんだ」
 私の頭が追いついていない。
 安井課長の真意に。話の核心部分に。
「もちろん、失敗はない方がいい。しないでくれた方がそれはありがたい。だけど一概に否定も出来ないんだ。失敗なんてろくにせずに成長していける奴もいれば、失敗を重ねていくことで学ぶ人もいる」
 でも、話のほんの一端には、どうにかしがみつけたような気がする。
「小坂さんが今日、どんな失敗をしたのかは知らないし、部外者がそれ自体を評価するのもよくないだろうから、詳しくは聞かない」
 これ以上理解に遅れを取らないよう、私はじっと聞き入っていた。
「だからこれだけは覚えておいて欲しい。君は今日叱られて、きっと辛かっただろうし、落ち込みもしただろうと思う。それと同じように、君を叱った奴も辛かっただろうし、落ち込んでもいるはずだ」
 聞き入りながら、私を叱ってくれた人のことを思った。
「君が失敗をして辛いのは、君だけじゃない。君が叱られて辛いのも、君だけじゃない。そのことは、出来れば頭の隅にでも置いてくれたらありがたい」
 安井課長はそう言って、自分の頭をとんとん、と叩く。生真面目な雰囲気の人の、そんな仕種は印象的だった。
「失敗についてはちゃんと反省もして欲しい。もう二度と同じ失敗はしないように気をつけて欲しい。でも、反省したならこれ以上は落ち込まないで欲しい。君が暗い表情でいたら、更に辛くなる奴がいるんだから」
 主任のことを思って、胸が痛んだ。
「小坂さんの次の仕事は、いつも通りの笑顔で挨拶をすることだ」
 言われて、思い出した。この間、主任が言っていたこと――私の笑顔に救われている人がいるという話。それが誰かはわからないし、そもそも大した意味ではないのだと思う。明るくて挨拶の出来る人が好きだと言った主任は、営業課の皆に、同じように思っているんだろう。
 だからこそ、私だって笑うべきだ。
「次に石田と顔を合わせる時、なるべくなら笑っていて欲しい。反省もして、必要なら謝って、でも必要ないなら謝らなくていいから、とにかくちゃんと笑えるようになっていて欲しい。それがきっと、何よりあいつの為になる。わかるかな」
 問われたから正直に頷いた。
「はい」
「じゃあ、俺の言った通りに出来るな?」
「はい!」
「……いい返事だ」
 課長が笑うと、私もほんのちょっとだけど笑えた。ぎこちないのは自分でもわかっている。それでも笑おうという気持ちにはなれた。

 私はやっぱり、一人で背負い込んでいたんだと思う。
 ――いや、違う。一人で背負い込んでいる気になっていただけだ。慣れない仕事はもちろん、失敗した時の辛さ、叱られた時の落ち込む気持ちも、まだ私だけのものじゃなかった。石田主任に、仕事と同じように少しずつ背負ってもらっているものだった。だから私がくよくよしていたら、主任だってずっと暗い気持ちでいることになってしまう。
 それなら、ちゃんと笑おう。
 もちろん反省もして。謝らなくていいと言われたから、その分思いっきり反省して。それから笑って挨拶をしよう。
 次こそは失敗のないよう、頑張ります。そう言おう。そして絶対、その通りにしよう。
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