Tiny garden

教える人と教わる人(4)

 営業初日は、散々な結果に終わった。
 小さな失敗もいくつかあったけど、携帯電話を忘れてきてしまったことが何よりも痛かった。午後の外回りは大きなトラブルこそなく終えられたものの、結局お昼ご飯を食べる時間もなかったし、それでも予定していた帰社時刻を大幅にオーバーしていた。私は最大の失敗への後悔を引きずったまま、陰鬱な気分で会社へ戻る。
 そして帰社してすぐ、主任に呼ばれた。

「気をつけろ、小坂」
 開口一番にそう言われた。
 営業課オフィスの主任の机、その脇に立った私は、椅子に腰掛けてこちらを見上げる主任の顔を注視する。怒りとは違う、だけどとても険しい表情が浮かんでいた。
「申し訳ありませんでした」
 私が頭を下げると、主任がかぶりを振ったのが影の動きでわかった。夕方四時、蛍光灯の明かりはうっすらした影だけを作り出している。
「俺に謝ることじゃないって言っただろ」
「でも――」
 面を上げ、反論する。主任の目がすっとつり上がったのも見えたけど、どうしても言わずにはいられなかった。
「先方に、うかがいました。主任が私の分までお詫びしてくださったって。私のことで主任にまでご面倒をお掛けしたのは事実です、だから」
「そんなのは当然だ」
 ぴしゃりと、私の反論が封じられた。睨むような視線が向けられ、とっさに語が告げなくなる。その隙に畳み掛けられた。
「これも言ったはずだがな、お前の失敗は俺の責任だ。今のお前はそういう身分なんだ。だからお前がよそに迷惑を掛けたら俺が謝るのは当然だし、お前がそれを気に病む必要もない」
 淡々としているのに強い口調だった。私の胸にはずしりと、重石みたいな重量感をもって響いた。
「強いて言うなら、二度と同じミスはするな」
 石田主任が語を継ぐ。
「お前が上の人間に頭下げさせて悪いって思うなら、二度と失敗しなきゃいいだけの話だ。以後気をつけろ」
「……はい」
 たった一言答えるのさえ、息苦しくて、辛かった。
 こちらを見る眼差しは真剣だった。心底申し訳なくなるくらいに真っ直ぐで、引け目に思えてしまうくらいに強い視線。
「それと、得意先には迷惑を掛けるな。これだけは今後も絶対に守れ」
「はい」
 お言葉に、私は深く頷いた。
 それで主任が、戻っていいと言ってくださったので、私は自分の机へと戻った。もう一言、いや一言どころかたくさんお詫びしたい気持ちもあったけど、主任のお気持ちを酌むなら口にすべきじゃないことくらいはわかっていた。

 ものすごく、ものすごくへこんだ。
 自分自身に腹が立った。あんなつまらないミスでたくさんの人に迷惑を掛けて、馬鹿みたいだと思う。主任のおっしゃった通り、不注意にも程がある。どうして忘れ物なんてしたんだろう。それも携帯電話なんていう重要な代物を。
 と同時に、不安も覚えた。初日からこんな派手な失敗をして、明日以降は大丈夫だろうか。二度と同じミスをするなと言われたからには、絶対にしたくない。私が失敗をすれば主任が頭を下げることになってしまう。そんなのは、もう二度と嫌だった。絶対に失敗出来ない、そう思うと気が急いて、胃がきりきりと痛んだ。
 私と主任のやり取りは営業課内で行われたから、当然他の営業課の皆さんにも筒抜けだった。だからだろう、皆が口々に励ましの言葉をくれた。あまり落ち込むな、とか、次は気をつければいいよ、と言っていただいて、その優しさがうれしくも、辛くもあった。
「小坂さん、これを食べて元気を出してください」
 霧島さんからは、そんなお言葉と共に個包装の飴をいただいた。気遣わしげな笑みを向けられて、私もどうにか笑ってお礼を言おうと努めた。
「ありがとうございます。頑張ります」
 だから本当に、頑張らなきゃいけないと思った。

 その日は六時に仕事を上がった。
 いつものように、私が一番早い上がりだった。帰り際、営業課の皆さん一人一人にお詫びして回りたい気持ちでいっぱいだったけど、そこはどうにか堪えて普通に挨拶をした。
 主任にも、ちゃんと挨拶をした。顔を見る自信はなくて、お辞儀をしながら告げると、お疲れ、と短く返された。少し不機嫌そうな様子にも見えて、やっぱりこれ以上のお詫びは告げられなかった。
 営業課を退出して、タイムレコーダーにカードを通す。――今日のお仕事もこれで終わり。振り返るのも嫌になるくらいの酷い日だった。初日からこんな大きな失敗をするなんて、明日以降はどうなってしまうんだろう。営業の人間として、早く一人前になりたかったのに。むしろ大人としても駄目だ。失格だった。
 溜息が出た。
「――ああ、小坂さん。今帰り?」
 聞き覚えのある声が掛けられたのは、その直後。
 慌てて振り向くと、背後に生真面目そうな面差しの人が立っていた。人事課の、安井課長だ。少し笑んだ顔がとても上品に映る。
 すぐには返答の出来なかった私を、安井課長はふと怪訝な目で見てきた。そして問われた。
「あれ、どうかした? あまり元気のない様子だな。疲れてる?」
 一目でばれた。
 鋭さにどぎまぎしながら、私はなるべく普通の調子で答える。
「あ、あの、そんなことはないです」
「ふうん」
 答えを聞いても腑に落ちないそぶりの課長が、やがて肩を竦めた。そして囁くようなトーンで、重ねて尋ねてくる。
「じゃあもしかして、石田に怒られたりした?」
 鋭い。
 怒られたのとは違うけど、叱られたのは事実だ。そうだとしても他の課の方へは打ち明けにくい。タイムレコーダーのある廊下は営業課のすぐ近くだし、主任に聞かれたら気を悪くするだろう。大体今日のことは私が悪いんであって、主任はちっとも悪くないのに。叱られても当然で、むしろもっと手厳しく言われるべきだったくらいなのに。それを主任は、優しい言い方で済ませてくださった。
 どう答えようか迷った。視線を泳がせていたら、その間に安井課長に笑われた。
「そういうことか」
「えっ、いえ、あの」
 それで私もようやく慌てる気になり、早口気味に言葉を継いだ。もちろん、小さな声で。
「違うんです。私がとんでもないミスをしてしまっただけで、主任は怒って当然のところをあえて怒らずにいてくれたんです。だから――」
「そういえば、小坂さんは今日が営業初日だったか?」
 私の弁明に被せるように、人事課長は聞いてきた。なぜご存知なんだろうと不思議に思いつつ、頷く。
「はい。でも、失敗してしまって……」
「なるほど」
 安井課長も顎を引いた。そして壁際に設置されたタイムレコーダーの、デジタル表示の時刻を見たようだ。現在は十八時十二分。
 次にこちらへ向き直った時、課長はにっこりと笑んでいた。
「小坂さん、もう上がりなんだよな? これから時間ある?」
「え? あの、はい。時間はあります」
 タイムカードも通したし、後は帰るだけだった。でもどうしてそんなことを、と疑問を覚えていれば、安井課長は続けた。
「じゃあ少し付き合ってくれないか」
「構いませんけど……どちらへですか?」
「そうだな、会議室まで。ちょっと話したいことがあるんだ」
 課長のお言葉にもちろん、戸惑った。話って一体何だろう。同期の子でもない限り、他の課の方と話す機会なんてあまりないから、ちょっと緊張した。
 それに安井課長は人事の方だ。人事と言えば、つまり――その、異動とか。配置転換とか。あんまり考えたくないけどそういう話があったり、するんだろうか。
「大丈夫。小坂さんを取って食おうなんて思ってないから」
 怯えた私を見抜いてか、軽い言葉が掛けられる。
「この間話したよな。俺は昔、営業課にいたんだ」
「は、はい。うかがいました」
「だから今回は、営業の先輩として話がしたい。さ、おいで」
 安井課長は私を手招きした後、先に立って廊下を歩き出す。一呼吸置いてから私も、その後に続いた。まだ若干緊張しつつも、ついていくことに戸惑いはなくなっていた。

 そうして案内されたのは、第三会議室。安井課長がドアの鍵を開け、通してくれた。
 折り畳みの出来るテーブルとパイプ椅子の並んだ室内、当然いるのは私たちだけ。課長は私の為に椅子を引いてくれて、お礼を言いながら腰を下ろすと、すぐ隣に課長も座った。
 空席ばかりの会議室はがらんとしていて、そこに他の課の課長さんと一緒にいる状況が、何となく不思議に思えた。視線を動かせば、隣に座る安井課長と目が合って、笑いかけられる。
「緊張してる?」
 尋ねられたから、正直に答えた。
「少し、しています」
「そうか。石田といる時よりも?」
「――え? えっと、その」
 もう一度正直に答えかけて、慌てて口ごもった。そんな私を見て、安井課長は何だかすごく、楽しそうな笑い声を立てた。
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