Tiny garden

三年と二十三年(5)

 二人で食事をする時は、食べるスピードもなかなかに肝要だと思う。
 速過ぎてもいけないし、もたもたしていてもいけない。相手を急かすのも待たせるのもあってはならないこと。だから私は、パフェをなるべくゆっくりと食べた。石田主任のペースに合うように。
 私がコーンフレーク層に辿り着いた頃、主任はグラス中間部に位置する小豆の層をやっつけ始めていた。実は甘党なのか、うれしそうにしながら小豆を口に運んでいる。ちょっと可愛い。
 酔いが回った頭は、失礼な感想まで容易く浮かんでしまうから厄介だ。

 主任のどこが好きなのかな、と考えることがたまにある。しばらく考えてみて、導き出す答えはいつも『全部』だった。外見から内面から全てが好みに合っていたのか、それともどこか一部分を好きになって、好きな人のことだから何でも気にならなくなってしまったのか、その辺りの詳細は自分でもはっきりさせられなかった。ただわかっているのは、今まで好きになった人よりもずっと年上の人で、大人だということだ。
 七歳の差は思いのほか大きくて、例えばデートに誘うことなんて絶対に出来ない。上司に対してそんな失礼なことは言えない。社用の携帯電話番号は知っていても、プライベートの番号やメールアドレスは聞けない。メル友になってくださいなんてまかり間違っても言えるはずがない。もちろんどこにお住まいなのかも知らないし、車は何に乗っていらっしゃるのかも知らないし、どんな女の子が好きなのかも知らない。――どこまでが部下でも質問していいことで、どこからが失礼に当たるのか、まるでわからない。
 今まで好きになった人はクラスメイトや学校の先輩で、それなりにアプローチが出来た。正直、アプローチなんて胸を張れるほど大層なことはしなかったし、上手くいったことは一度としてなかった。でも今思えば、自発的に行動が出来るのは幸せだった。駄目でも、頑張ったんだしいいか、って思えるから。端から勝ち目がなくたって、ばればれの態度で失態ばかり晒していたって、全力でぶつかれたなら納得出来た。前向きに諦められた。
 七歳も年上の人に、どうやって全力でぶつかればいいのかわからない。
 今までと同じく、端から勝ち目のない恋だった。態度でばればれだと言われていた。仕事でも会社の外でも失態ばかり晒していた。でも、全力ではぶつかれていない。前向きに、諦められもしない。
 今の、ルーキーのままの自分では駄目だ。
 主任のことを考える度、最後にはいつもそう思っていた。

「――さっきの話だけどな」
「は、はいっ」
 急に水を向けられ、私はびくりと我に返る。
 丸テーブルの反対側、主任が不思議そうにしている。目が合うとやっぱり、笑われた。
「何だ、どうした? 驚かせたか?」
 問われても、まさか『主任のことを考えていました』とは言えない。そして主任の言った『さっきの話』がどれのことかもとっさに浮かんでこない。だから尋ねた。
「さっきの話、って、何でしたっけ」
 妙にたどたどしくなった。
 三、四回の瞬きの後で、主任は答えた。
「結婚の話」
「ああ、その件ですか」
 大分話が遡ったなあ、と密かに驚く。私がそこまで記憶を巻き戻した時、主任の声が語を継いだ。
「そういえば小坂は、二十三年なんだよな」
「二十三? あ、年齢ですか? そうです」
「いや歳じゃなくて、恋人いない歴」
 さらりと言ってくださったのはきっと、主任なりの優しさなのだと思う。二十三にもなって、年齢と恋人いない歴がイコールなんて珍しいとよく言われる。むしろ大学時代から言われ続けていた。高校時代は言われたことなかったのに、時の流れは非情だ。
 それはさておき、目の前にいる好きな人からその事実への言及がされるという状況は、恋人いない歴二十三年の人間には、結構きついものがあった。
「――……そうです」
 沈黙をしばらく置いてから、私は事実を認めた。素早く問い返した。
「で、でも、そのことが結婚の話とどう関係があるんでしょうかっ」
「お前が、結婚なんて考えたことないって言ったからさ。そういえばデートも高校時代以来してないとか聞いてたし、ってことは二十三年間フリーなのかと」
「……フリーです、現在進行形で」
 思い切りしょげたくなった。
 私の場合、別に品行方正だから二十三年だった訳ではなくて、好きになった人から好かれることがまるでなかっただけだった。そっちの方が余計に性質が悪いというのも自覚済みだけど。
 おまけに今、これまでで一番遠い人に恋をしている。
 その人は今、慰めるような表情を浮かべている。
「落ち込むことじゃないだろ。そういう子の方が好きって男も大勢いるんだから気にするな」
 他人事みたいに言われても。もし、主任がそういう子の方が好きって言うなら、うれしいけど。でもきっとそうじゃないはずだ。
 多分、いや、絶対に――石田主任は『恋人いない歴三十年』じゃない。
 そのくらいは私にだって、わかった。
「じゃああれか、小坂はちゅーもまだか」
 際限なく切ない気持ちになっているせいだろうか。それとも、酔いのせいだろうか。主任が何を言ったのか、またしても理解出来なかった。
 それで主任が、親切にも言い直してくれた。
「ファーストキスもまだなのか、お前」
「――ななな、何をおっしゃるんですか!?」
 お腹の底から声が出て、割と静かなカフェバーの、高い天井にわんと響いた。はっと気付いて大急ぎで俯く。頬が熱い。
 テーブルの向こうでは、主任が一生懸命笑いを堪えているのがわかった。恨めしい気持ちで、それでも精一杯抑えた声で告げた。
「からかわないでくださいっ」
「別にからかった訳じゃない」
 くくくく、と喉を鳴らす笑い。面白がられてる。
 切ないやら恥ずかしいやら恨めしいやらで、私の頭はパンク寸前だった。そこにアルコールが流れてるんだからもう訳がわからない。面を上げ、自棄気味に言い返した。
「だって、恋人がいないのにそういうことしてるのって、おかしいですよ。そういうのはちゃんと恋人同士でしないと!」
「まあそうだな。お前の言うことが正しいよ、うん」
 にやにやしながら答える主任。パフェのスプーンは小豆の層を運搬し終えて、コーンフレーク層へと突入している。ざくざくといい音が聞こえてくる。
 私も焦って、自分のスプーンをグラスに突っ込んだ。赤い苺のソースを絡めたコーンフレークは、いざ口に入れると思いのほかもたついた。飲み込むまでに時間が掛かる。
「そういう女の方がいいんだって。教え甲斐がある」
 主任が言って、やはりコーンフレークを口元へ運ぶ。お互いにフレークは難敵だったようだ。私がその敵を飲みこんで、教え甲斐という単語の意味を尋ねる前に、主任が飲み込んで、尚も続けた。
「しかし、不思議だよな。お前みたいに面白い奴に、二十三年間彼氏がいなかったってのも」
 飲み込み終えた私は答える。
「あの、自分で言うのもどうかと思うんですけど」
「何だ?」
「『面白い奴』と『可愛い子』だったら、誰しも可愛い子の方を選びますよ。絶対」
 面白がられるのも笑われるのも構わないけど、可愛い方が得なのかな、とは思う。可愛くなれるものならなりたい。好きな人に、好かれる人になりたい。
 主任はどんな女の子が好きなんだろう。知りたい。でも、聞くのは怖い。それに失礼だ。この人はあくまで私の上司なのに。
「お前は十分可愛いよ」
 ざくりと。
 コーンフレークの砕ける音がした。
「面白いし、可愛い。一挙両得の最良物件じゃないか」
 粉々になった、と思う。
「何で今まで放っとかれてたのか、俺としちゃ不思議なくらいなんだけどな」
 細長いスプーンを動かす主任の手と、そのスプーンの先端が辿り着く主任の口元とを、私は数秒間黙って、注視していた。視線をもう少し上げたら目が合う。なのに、しばらく合わせる勇気が起こらなかった。
 可愛いって言われたのは初めてじゃなかった。でも、主任の言ってくれる『可愛い』には、私の望むような意味合いはなかった。少なくとも、一般的な意味合いとは違う。
 主任がそういう女の子を好きじゃないなら、まるで意味のないことだった。
 知りたい。
 でも、聞くのは怖い。
 逡巡している間に、主任がまた言葉を継ぐ。
「お前の可愛い笑顔に救われてる人間だっているんだ。そこは自信持っていい」
 恐る恐る視線を上げた。
 目を細めた主任が、真っ直ぐに私を見ていた。笑顔だった。優しい感じはしなくて、むしろ年上の人らしい凄みと、意志の強さをうかがわせる笑い方をしていた。簡単には揺るがない表情に見えた。全力でぶつかりたくなるような笑顔だった。

 ものすごいスピードで心が決まってしまった。
 恐怖に、知りたい気持ちが勝った。何よりも勝った。この場で粉々に打ち砕かれてもいいと思った。今聞かなくちゃ、ずっと聞けないままだと思った。全力で、最大速度でぶつかって、知りたいことを知ろうと思った。
 言える。今なら聞ける。
「主任、質問があります」
 私はそう切り出して、次に若干トーンダウンしながら言い添えた。
「あの、もし、失礼な質問だとお思いでしたら、無理にお答えいただかなくても結構です。すごくくだらない質問をします、私!」
 主任は訝しそうにしている。それでも一応頷いてはくれたので、深呼吸をした。
 一拍置いて、質問を告げた。
「――主任は、どんな女の子が好みですか?」
「好み?」
「知りたいんです。是非」
 必死の思いでそこまでを告げた。
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