Tiny garden

なくてはならない(1)

 迂闊だった。
 その一泊二日、温泉ホテルへの宿泊という計画に際して、うっかりと『旅行』という単語を使ってしまったのがいけなかった。
 交通機関を利用してある程度遠出をするのが旅行だと言うのなら、この度の外泊は旅行というカテゴリには当てはまらない。ホテルに泊まって温泉入って、自分で作らない食事を楽しんでくる、目的はそんなところだ。観光すらする予定のない俺たちがただの外泊計画を旅行と呼んだのは、誤解を招く行為だったかもしれない。
 だけど一方で、どうしても『旅行』と呼びたい思いもあったりして――つまりこれは、内容的には旅行と呼ぶに相応しくないかもしれないけど、定義の上では新婚旅行、のつもりだった。結婚してから早数ヶ月、ハネムーンどころか結婚式さえ挙げなかったことに対しては不満も後悔もなかったけど、万年新婚気分の友人にはまんまと感化されてしまった辺りは俺もまだまだ甘い。渋澤がこっちに奥さんを連れてきて、一泊二日の短い旅行を存分に堪能していったのを見た時に、やっぱりこのくらいのことはしておかないと駄目なんじゃないかと影響されやすい心理で思ってしまった。我ながら単純明快、流されやすい日本人気質というやつだ。
 結婚してからこの方、真琴には当たり前のように店を手伝ってもらったり家事をやってもらったりしている。そんな華のない毎日でも彼女は実に楽しそうにこなしてくれるし、店にいる時はむしろ天職みたいな働きぶりだけど、そんな彼女をたまには労う機会があったっていいと思った。まして新婚旅行というなら是非とも新婚期間のうちに済ませておきたい。彼女とはもう長い付き合いでそういう括りにもこだわりはないつもりだったけど、思いつきでちょっとした外泊なんて気恥ずかしい真似ができるのは、現実に新婚のうちだけじゃないかって気もするからだ。子供なんてできたりしたら、いよいよ恥ずかしくなって二人で旅行なんてできそうにないだろうし。
 幸い、彼女の方も俺が提案した新婚旅行を二つ返事で快諾してくれたから、俺は鉄は熱いうちに打てとばかりに家から徒歩で行けるくらい近場の温泉ホテルに部屋を取った。親に言って、一日だけ仕事の休みも貰った――こういう時、実の親が雇い主というのは都合がいい。
 そうして着々と準備を整えつつあった、新婚旅行の三日前のこと。

 仕事前の昼下がり、着替えを済ませて仕込みの準備をしようと店へ向かおうとした俺を、母さんがそっと呼び止めた。
 部屋の隅へと引っ張ってかれて何の用かと眉根を寄せれば、母さんは割烹着のポケットからお年玉などを入れる、いわゆるポチ袋を取り出す。そして俺の手にそれを握らせようとして、
「正ちゃんこれ、少ないんだけどね」
 その瞬間にはもう、こっちも相手方の言わんとしてることを察していた。
「い、いやいや母さん、ちょっと待って」
「是非、旅費の足しにでもしてちょうだい」
「だから待ってってば。そういうんじゃないから」
「いいから持ってきなさい。あって困るもんじゃなし、むしろ何かと入用でしょう」
「いいよ別に、旅行ってほどのもんじゃないんだし」
 俺は押しつけられるポチ袋を受け取るまいと必死に抵抗した。それで母さんは子供みたいに拗ねて、唇を尖らせる。
「嘘、旅行って言ってたじゃない」
「言ったけどそれは何て言うか、言葉のあやみたいなものだって。大体、近場でちょっと泊まって、一日で帰ってくるだけなんだから」
 この度の計画を旅行と呼ぶのがそもそもの間違いであり、俺が迂闊だったのだと思う。
 うちの母さんなんて典型的なお節介おばさんでありながら年甲斐もない強情っぱりと来てるので、息子が奥さん連れてどっか行くともなれば、お小遣いをあげないと気が済まなかったりするんだろう。自分の母親ながら実に面倒くさい相手だ。
 俺だって本気で旅行のつもりでいたわけではないし、あくまで便宜上そう呼んでたってだけの話だ。渋澤に感化されたのも事実だけど、それは母さんの前では言いたくない。
「俺ももういい歳だし、親から小遣いなんて恥ずかしくて貰えないよ。そもそも休み貰ったのだって悪いと思ってるくらいなんだから、そこまで気遣ってもらう必要もない」
 率直な胸のうちを明かせば明かしたで、母さんは非難がましい目つきで俺を見る。
「正ちゃん、親にとって子供はいくつになったって子供なの」
「そりゃそうかもしれないけどさ」
「かもしれない、じゃなくて、そういうものなの。わかってないんだから」
「うん……母さんの言いたいこともわかるよ、わかるけどさ」
 いつまでも子供扱いされるものなんだとしても、自立できるところはすべきだと思うし、しておきたい。特にお金の面では親に甘えたくなかった。だからこそ今回の新婚旅行だって近場に決めたんじゃないか。そういう子供の側の心理ってものを、母さんの方こそわかってない。
「とにかくお金はいいよ。一泊だし、使いでもない」
「そんなことないでしょう。ホテルにも売店はあるし、ルームサービスだってあるじゃない」
「使わないと思うよ、そういうのも」
「冷蔵庫のジュースくらいは飲んでくるのがマナーなんだからね」
「知ってるって。俺だってそのくらいの余裕はある」
 こっちだって余裕もないのに温泉行ったりしないって。お金を使いたくないわけじゃなくて、純粋に使い道がないってだけの話だ。ホテルの売店ったって並んでいるのは見慣れた地元銘菓ばかりだろうし、たった一泊二日でお土産を買ってくるのもちょっと、むちゃくちゃ意気込んでるみたいで恥ずかしい。ルームサービスはサービス内容の割にお値段が張るのが相場だし、きっとメニューを覗いただけですぐに閉じたくなることだろう。地元にお金を落とすというのも大事なことではあるかもしれないけど、観光客気分で浮かれる気にまではなれない。むしろこっちが落とされたい。
「真琴ちゃんにいい思いさせてあげたくないの?」
 業を煮やしてか、母さんは切り札として彼女の名前を出してきた。
「奥さんにもたまには贅沢させてあげなさいよ。こういう時にけちけちするような男の人なんて駄目よ、旦那さん失格よ」
「……うん。それは心得てる」
 そして彼女の名前を出されると、俺は滅法弱い。ただでさえ華のない生活を送らせてることには引け目もあるし、だからこその今回の新婚旅行なわけだし。
 とは言え、こうして計画を立てた以上はある程度の用意だってできてるってことでもあって、形成有利と見てか例のポチ袋を押し込もうとしてきた母さんに対し、俺はあくまで強硬に主張した。
「母さん、お金のことなら心配しなくていいから。ちゃんと用意してる」
「本当?」
「本当、本当。こんな時まで彼女に倹約させようなんて思ってない」
 嘘ではないけど、この場合のポイントはそこでもないんだよな、と思う。
 一応家を出てる身なんだし、仕事の上ではまだまだ未熟な見習いながら、経済的な面ではちゃんと自立してるつもりだ。そうじゃなきゃ結婚もしてない。母さんは純粋に好意のつもりでやっているんだろうけど、そこまで気遣ってもらうのはやっぱり悪いし、どうしたって受け取れない。
 俺の意思が揺るがないことをようやく察してか、少ししてから母さんは残念そうにポチ袋を引っ込めた。
「なら、いいんだけど。……ちゃんと家族サービスに努めてくるのよ」
「わかってる」
 どうにか退けられたことにほっとして、俺も全力で頷いた。

 そして、旅行当日。
 夕方にチェックインした俺と真琴は、海の見える客室に通された。このホテルの売りは全室が海に面しているというところと客室備えつけの露天風呂で、入った途端に見えた大きなガラス張りの窓の向こう、まだ日没前の眩しい海原を見た途端に彼女が声を張り上げた。
「播上! 見て見て、海! 海!」
 子供みたいにはしゃいだ様子で窓際まで駆け寄っていく真琴。さほど広くない和風の客室を一気に奥まで突っ切って、ガラスにぶつからん勢いで海にかぶりついている。
 港町に住んでるんだから海なんて見ようと思えば毎日見られるのに、それで浮かれてしまう彼女はちょっと可愛い。
「テンション高いなあ」
 俺が素直な感想を漏らすと、彼女は短い髪を揺らしながら振り向いて、にこにこ笑った。
「だって旅行だもん! 嬉しいもん!」
「そっか。……ごめんな、近場で」
「何言ってんの、全然いいよ。むしろ最高だよ!」
 二十九歳と言われたらちょっと目を疑いたくなるほどの朗らかさ。同い年なんだけどな、とその元気さが羨ましくなる。
 その後も真琴はうきうきと室内を見て回っていた。冷蔵庫や金庫を開けてはいちいち中を覗き、洗面所のアメニティーをチェックし、クローゼットも覗いてはいち早く浴衣を引っ張り出してきた。
 直に、いい笑顔を俺に向けて、
「もう着ちゃう?」
「もう? いや、いいけど」
 こういうのって着るタイミングがよくわからない。入浴後の方がいいんだろうか。出張と里帰り以外の旅行はそういえば何年ぶりだろうという俺は、彼女のようにはしゃぐこともできず、手持ち無沙汰だったのでとりあえず二人分のお茶を入れてみた。がっしりした造りの座卓の上、見慣れた地元銘菓がお茶請けとして用意されている。
「ホテルの中歩くなら着といた方がよくない? 私服の方が浮きそう」
 真琴はそう言うなり、二着あるうち小さい方の浴衣を持ち上げて開こうとしたが、その途中で何か思い出したような顔をした。あ、の形で止めた口が、こっちを向いた時におずおず動く。
「あ……のさ、そうだ。ちょっと、話があるんだけど」
「話?」
 俺が聞き返せば、彼女は浴衣を一旦置き、畳の上にぺたんと座って、持ってきたボストンバッグから小さなバッグを取り出した。マトリョーシカみたいだと野暮な感想を抱く俺の目の前、真琴のちっちゃい手が何かを乗っけて、差し出してくる。
 キャラクター物のポチ袋には見覚えがあった。ちょうど三日前くらいに。
「お義母さんからいただいたんだけど……」
 真琴は一転、しおらしいくらいの態度で言った。
 大体そこまでで、俺は彼女がそれを受け取った経緯とか、母さんとの間にあったであろうやり取りなんかがほぼ想像できてしまっていた。あれだけ断っておいたのに、まだ納得してなかったのか、母さん。
「何て言うか、一応は断ったんだよ」
 彼女は俺の表情を見てか、申し訳なさそうに続ける。
「でもどうしてもって言うから、こう、断りきれなくて。もしあれだったら播上には内緒にしててもいいって言われたんだけど、そういうわけにもいかないじゃない?」
 恐らく母さんの方は、真琴がそのやり取りを俺に内緒にしない辺りまでが織り込み済みってところだろう。俺が頑として小遣いを受け取らなかったので、ならばと矛先を彼女に向けたんだろうけど、要らないって言ったのに。つくづく強情っぱりなんだからな。
「何か、ごめん。苦労かけて」
 俺はもっと後に言うつもりだった台詞をこんな早くから、まだ部屋に着いたばかりで浴衣も着てないうちから彼女に告げる羽目になってしまって、しかも内容がくだらないことこの上ないものだからすっかりげんなりしてしまっていた。真琴はこの通り明るくて愛想がいいから、しち面倒くさい姑とも今日まで何とか上手くやってくれてたようではあったけど、今回のことでは結構困ったりしたんじゃないだろうか。俺の反応を窺う顔が、どことなく気まずげだ。俺が詫びれば一層戸惑ったそぶりで首を横に振る。
「ううん、別に苦労とかじゃないけど。ただ、播上は受け取りたくなかったみたいだってお義母さん言ってたし、その気持ちは実際わかるし、どうしようか迷いはしたんだよね」
「そりゃそうだよ。たかが一泊の旅行で小遣いとかさ」
「でもお義母さんはどうしてもあげたかったんだよ、お小遣い」
 真琴はそこで、取り成すような柔らかい表情を浮かべた。
「そういう時は黙って受け取っておくのも、親孝行かなって思って」
 親孝行。
 わからないつもりでもないものの、俺はまだ納得がいっていなくて答えあぐねた末に唇を結んだ。彼女がずっと差し出しているポチ袋を渋々受け取り、中身を確かめてみる。福沢諭吉の顔が見える。
「……無理したんじゃないのかな」
 思わず呟く。
 親孝行とか、本当にわからないわけじゃないけど。こういうの見るとすごく複雑な気分になってしまう。子供の頃なら素直に臨時収入を喜べたんだろう、でも俺はもう大人だし、一応家計を背負って立つ身だ。これだけのお金を手に入れるのにどれくらいの労働が必要か、もう知っている。
「私たちが旅行楽しみにしてるからって、奮発したんだって」
 庇うような口ぶりで真琴は言う。
「もちろん、どうするかは播上が決めていいよ。でも、もしどうしても使い道ないって言うんなら、これでお土産買って帰ることにしない?」
「お土産? ここで?」
 売店に並んでいる地元銘菓はまず間違いなく見慣れた顔ぶれに違いなくて、例えばこんなホテルじゃなくても、駅でも空港でもデパートでも行けばあっさり買えてしまう品ばかりだろう。まして今回の旅行は厳密には旅行じゃないのに、お土産?
「うん、お義母さんたちに。きっと喜ぶよ」
 真琴はそれが名案だとばかり熱心に頷き、まだ方針を決めかねている俺に、改めて笑いかけてきた。
「何て言うか、私たちが旅行を思いっきり楽しんで帰ったら、お義母さんたちも嬉しいだろうって思うんだ」
 そうだろうと俺も思う。このお金はその為のものだ。使うのをためらっていたらかえってもったいないんだろうし、母さんの気持ちや、母さんと俺のことを考えてくれた真琴の気持ちを汲んだことにもならない。ここはありがたく受け取っておくのが筋か。一本取られた感もあるけど、しょうがない。
「お菓子、選ぶの手伝ってくれないか」
 考えた末に俺が言うと、真琴の表情はぱっと明るくなった。そして自分のことみたいに嬉しそうに、
「任せて! 私、そういうの超得意だよ」
「うん。……いろいろ、させちゃってごめん」
 そう言い添えれば途端にかぶりを振られた。
「いいっていいって。せっかくの旅行だし、盛り上がっていこう!」
「頑張るよ。俺、テンション上がるまでにすごく時間かかる方だけど」
「大丈夫、ちゃんと知ってるから。付き合い長いし」
 真琴は否定もせずに答えると、さっき出してきた浴衣をもう一度拾い上げて、大きい方を俺に寄越した。
「そうと決まったら着替え! で、早速売店に行くよ!」
 彼女はもう既に針が振り切れるくらいテンション上がりまくっている。明るいのに気配り上手で、そういう性格が俺にはちょっと羨ましくて、同時にすごくありがたいとも思っている。
 親孝行だって、彼女がいなけりゃ満足にできやしない。
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