Tiny garden

くりこ二号と恋をする(2)

 前回と同じように、二人で並んでベンチに座った。
 私が選んだのは夏に美味しいソーダアイス。旭くんはバニラのアイスバーで、膝の上には猫のくりこを乗せている。
「俺が座ると膝に乗りたがるんだよ。待ってました! みたいに」
 旭くんが語った通り、彼がベンチに座った途端、くりこが駆けてきたのがおかしかった。きっと居心地がいいんだろうな。
 八月ももう終わりが近いけど、夏の暑さは一向に終わりが見えなかった。アーケードが作る影の中でも涼しいということはなく、だからこそアイスがとても美味しかった。気を抜くとすぐに溶けてしまうから、急いで食べる必要もあったけど。
「……あ、やべ」
 不意に旭くんが呻いたかと思うと、彼の腕に白い雫が伝った。バニラのアイスが溶け出したようだ。
 私はワンピースのポケットからハンカチを取り出す。
「大丈夫? これ使って」
「い、いや、汚したら悪いだろ」
 旭くんは遠慮しようとしてたけど、バニラの雫はもう肘まで流れ落ちていた。放っといたら膝の上のくりこにかかってしまう。
「くりこに落ちたら困るでしょ」
「なー」
 私の言葉に、猫のくりこも声を上げた。
 それでも旭くんは後ろめたそうにしていたから、私が代わりにハンカチでその雫を拭く。
「あ……」
 気まずげにする旭くんの肘から手首まで、ちゃんと丁寧に拭き取った。こんがり日に焼けた旭くんの腕は、見た目よりも硬くて締まっている。運動とは無縁な私の腕とは違うなと思う。
 それから顔を上げれば、旭くんは随分と申し訳なさそうにしていた。
「ハンカチ、洗って返すよ」
「気にしないで。洗濯ならうちでもできるから」
 彼の申し出を、私はやんわり断った。
 それで旭くんは納得したのかどうか、棒の先に残っていたバニラアイスを豪快に一口で片づける。そして溜息をつきながら言った。
「……くりこ二号って、女の子って感じ、すげーする」
「ハンカチくらいで?」
 大袈裟な物言いに聞こえて、私は笑いながらソーダアイスを頬張る。
 だけど彼は案外真面目に頷いてみせた。
「何か、イメージと全然違った」
「イメージって、作文とってこと?」
「ああ」

 あの作文から受けるイメージって、どんな感じだろう。
 ふざけてて、いい加減で、笑いが取れればいいみたいな享楽的な性格の持ち主――とか、かな。
 私からすればいいイメージなんて一切浮かばない。

 旭くんは一度立ち上がり、お店の外にある蛇口で手を洗ってからベンチへ戻ってきた。
「この前、言ったろ。あの作文書いた人と話してみたかったんだって」
 そう語る彼の膝に、猫のくりこが再び座る。当たり前みたいに。
「日南久里子ってどんな人なんだろって、ずっと思ってた」
 そこでまた、思い出し笑いがぶり返したみたいだ。旭くんは肩を揺すって小さく笑い、そんな彼を猫のくりこが怪訝そうに見上げている。
「……あれを本気で書いたんだったら、ウィットに富んだユーモアセンスの持ち主だなって思うし、皮肉のつもりで書いたんならすごい切れ味だなって思った。どっちにしても日南久里子って頭のいい子なんだろうなってさ」
 しまった。そんな誤解をされていたなんて。
 私は慌てて告げる。
「期待には沿えないと思うな。あの作文、そういう理由で書いたんじゃないの」
 ユーモアセンスもそれほどないし、皮肉のつもりも毛頭ない。
 言うなれば『猫の平和利用』は、何も思いつかなかった私が自ら作った逃げ道だった。
「作文を書くよう言われたけど、全然書けなくて。『戦争と平和』ってテーマで思いつくことなんてたかが知れてるし、精一杯考えてはみたんだけどどうしてもまとまらなくて――」
 考えることに意味がある、と先生は言った。
 それで散々悩んだ末に、私はあの作文を書いた。
「ああいうふうにしか書けなかったの。だって他に何も思いつかなかったから」
 ユーモアでも皮肉でもなく、私の頭が導き出したたった一つの答えがあれだ。
 世界を平和にしたいなら、皆で猫を飼えばいい。
「それにね、旭くんに誉めてもらえるのは嬉しいけど、あの作文のせいでうちの担任が学年主任に怒られたんだって。あんなふざけた作文をクラス代表に選ぶとは何事だ、って」
 私は肩を竦める。
「先生にも申し訳ないから、もう二度とああいうのは書かない。私は頭がいいわけでもユーモアセンスがあるわけでもない、ただの考えが足りない子だよ。期待に沿えなくてごめんね」
 真実を知ってしまえば、私が旭くんのイメージとはかけ離れているとわかるだろう。
 にもかかわらず、
「謝ることなんてない」
 旭くんは首を横に振る。
「確かにイメージとは違ったけど、がっかりもしてないから」
 彼の吊り上がった猫目は今、思いのほか真剣だった。
 その眼差しの強さに一瞬、私の呼吸が止まった――気がした。
「だって、思ってたよりずっといい子だった」
「い……いい子、かなあ……」
 いい子はそもそもあんな作文、提出しないと思うけど。
 首を傾げる私に、それでも旭くんは言い募る。
「俺はさ、そりゃ弁論大会の時はめちゃくちゃ笑ったし、今でも思い出し笑いするけど。でもこいつを初めて見た時、あの作文にすげー共感したんだ」
 旭くんの手が、猫のくりこの頭を撫でる。
 くりこは気持ちよさそうに顔をとろけさせた。可愛い。
「親戚の家で飼えなくなったから貰ってきたんだ。うちに来たばかりでおとなしく座ってる姿見たら、こんなに可愛くてちっちゃい奴、大切にしなきゃって心から思った。抱き上げてみたらくたくたで温かくて可愛くて、確かに誰かと争う気なんて失せたよ」
 旭くんは一生懸命、熱く語ってみせてくれた。
「だから俺は、あの作文は正しいと思う」
 当の筆者である私が、言葉も出せなくなるくらいに熱く。
「それに会ってみて思った。くりこは、すごくいい子だ」
「なー」
 猫のくりこが無邪気に鳴いて、旭くんが思い出したように口元をほころばせる。
「そうだな。お前も、すごくいい子だ」
 そうして彼の日に焼けた手がくりこの頭を撫でるのを、私は自分が撫でられているような気分で見ていた。

 あの作文は、黒歴史だった。
 笑いは取れたけどそれだけで、自分でもふざけてるって思う内容で、担任の先生が代わりに怒られて――できることなら記憶から葬り去りたいと思ってて、実際に弁論大会から二ヶ月が過ぎた今、私は旭くんと出会うまで作文のことなんてどうでもよくなっていた。
 だけどあの作文でも、誰かの心に残ったりするんだ。
 それで誰かの運命が、幸せな方へ変わったりもするんだ。
 そう思うと、あんなのでも書いてみてよかった、のかもしれない。

「旭くんにそう言ってもらうと報われた気がするな」
 私は嬉しくなって、素直にお礼を言った。
「ありがとう。誰かの心に響くって、素敵なことだね」
「俺にはめちゃくちゃ響いたよ」
 旭くんが屈託なく笑う。
 いい子っていうなら彼の方こそだ。旭くんは親切で、明るくて、すごく人懐っこい。まだ出会ってから二回しか会ってないのに、すっかり仲良くなってしまった。
 夏休みももうじき終わりだけど、また会えたらいいな。
「旭くんって、夏休み中はずっと店番なの?」
 気になって尋ねてみたら、くりこを抱き上げた旭くんは頷く。
「ずっとだよ。夕方までしか開けないから、拘束時間は短いけど」
「そっか。じゃあまた来たら会えるね」
 今日もいくつか買ったけど、またお買い物に来ようかな。そう思う私に、くりこを肩によじ登らせた旭くんが猫目を輝かせた。
「また来てくれんの? 嬉しいな、俺もくりこが――」
「なー」
「あー、くりこ二号が来てくれたら嬉しいよ」
 猫のくりこに返事をされて、旭くんが照れながら言い直す。
 私はそれを笑いつつ、応じた。
「夏休み中にもう一度、絶対来るから」
「え、一度だけ? 毎日おいでよ、俺たち歓迎するよ」
「そうしたいのはやまやまだけど、受験勉強あるしね」
 両親からはまだそれほどうるさく言われてないけど、さすがに毎日出歩いてれば睨まれちゃうかもしれない。何と言っても高校生活最後の夏、受験生には毎日が貴重だ。
「旭くんは受験しないの?」
 毎日お店の手伝いなら、勉強する暇あるんだろうか。
 疑問に思う私に、旭くんはなぜか慌ててみせる。
「俺? いや、俺は別に……」
「もしかして、勉強しなくても余裕だとか?」
「そうじゃない、けど」
 口ごもる旭くんの肩の上、くりこがちっちゃな手でじゃれついている。細い尻尾が一生懸命ぱたぱた揺れている。
 彼女が落ちないよう片手を添えつつ、旭くんは急に難しげな顔をした。
「あのさ、くりこは――」
「なー」
「くりこ二号は、さ」
 そこで一旦言葉を止めて、ためらうように視線を彷徨わせる。
 それから彼は猫のくりこを両手で抱き上げ、ベンチからすっと立ち上がった。
「あー駄目だ! 勇気が出ねー!」
 何だか苦しそうに呻いている。
「何のこと?」
「ええと……何て言うか、話したいことあんだけど」
「私に? どうぞ、言ってみて」
「いや、今じゃなくて。次会った時に言う」
 旭くんはくるりと振り向き、ベンチに座ったままの私に向き直る。
 猫のくりこを抱えたその表情は、アーケードの影を受けてより真剣な、引き締まったものに見えた。
「でも夏休み中がいい。だから必ず、また来てくれ」
「わかった、約束するね」
 私は即答した。
 多分、それは旭くんにとって、すごく大事な話なんだろうと思う。
「旭くんも私の作文、聞いてくれたもんね。私も聞くよ」
 そう告げたら、彼はびっくりしたように瞬きしてから、はにかんだ。
「やっぱいい子だな、くりこ」
「なー」
 返事をした猫のくりこに高い高いをした後で、旭くんは独り言のように呟いた。
「おまけにすげー可愛いな、くりこは!」
「なー」
 こちらも、返事をしたのは猫のくりこだ。
 私には『どっちのこと?』なんて聞く度胸はさすがになかった。

 ただ、旭くんが何を話そうとしているのか、薄々見当はついていた。
 購入した駄菓子を持って家に帰った後、私はクラスの友達に電話をかけた。
「F組の入谷旭くんって知ってる?」
 何人かに尋ねてみた。F組に仲のいい子がいるって子にもしっかり確認を取った。
 皆の答えは同じだった。

 三年F組に、入谷旭くんという男子生徒はいなかった。

 いつの間にか、八月と夏休みが終わろうとしている。
 始業式まであと二日に迫った今日、私は重い腰を上げて旭くんの駄菓子屋さんへ向かった。
 それまではずっと、足を運ぶ気になれなかった。

 今日だってぐずぐずと決心がつかなくて、気づけばもう夕方だ。
 夕映えが広がる空の下、アーケードが斜めに傾く影を作って、物寂しい商店街をすっぽり包み込んでいる。
 その影の中に旭くんもいた。閉店時刻なのか、店先に並べていた駄菓子入りのざるを重ねて、片づけているところだ。それでも私に気づくと手を止めて、こちらを向いた。
「くりこ二号?」
 猫みたいな目を瞬かせて私を呼んだその後で、寂しそうに微笑む。
「今度こそ、もう来ないかと思ったよ」
 以前にも彼はそう言っていた。
 その理由も今ならわかる。
「ごめんね、ずっと迷ってて……聞きたいこと、あるの」
 ここまで来たらためらう意味もない。私は自分のスカートをぎゅっと握り締め、恐る恐る切り出す。
「旭くんは、一年生? それとも二年生かな」
 尋ねられて、旭くんは細い目を見開いた。
 だけど思っていたよりは驚かなかったみたいだ。すぐに後ろめたそうな顔になり、大きく溜息をつく。
「そうだよな、ばれるよな。時間の問題だと思ってた」
「やっぱり……そうなんだ」
 初めて会った日、彼から名前を聞いた時。
 私が彼のことを知らないと答えるまで、ずっと心配そうに私を見ていた。
 あの時、旭くんは『知らない』でいて欲しかったんだろう。
「嘘ついてごめん」
 旭くんは済まなそうにしていたけど、厳密には、彼は嘘はついていない。

 ただ私が彼を同い年だと勘違いしていて、彼も訂正しなかったというだけだ。
 この間、彼が言おうとしていたこともつまり、それだったんだろう。
 わからないのは、どうして旭くんはずっと訂正しなかったのか。三年生だと偽ることに意味があったとは思えないし、悪意やからかいの意図も窺えない。彼自身だって言ってた、『時間の問題だと思ってた』って。
 一体、どうしてなんだろう。

「怒ってるわけじゃないよ」
 私は彼に、そう応じた。
「ただ、旭くんが本当のことを言いたがらなかった理由がどうしてもわからなくて。知りたくて、だから来たの」
 少しもショックじゃないと言えば嘘になる。
 今日だって聞いてみなくちゃと思いつつ、なかなか来る気になれなかった。ここ数日はずっとそうだった。
 だけど旭くんは親切で、優しくて、あんな私の作文を認めてくれた唯一かもしれない人だ。そんな彼なら、事実を打ち明けられなかった理由もちゃんとあるはずだと思った。私には思いつかなかったけど、きっと何かあるんだろう。
 そう思って、ここへ来た。
「三年生のふりをしたのも、何か訳があったんだよね?」
 尋ねてみたら、旭くんは曖昧に頷いた。
「ある、けど……」
 言いにくいんだろうか。唇を結んでもごもごさせた後、ざるを手にしていることを思い出したのか、こう言った。
「ちゃんと話すから、上がってって。もう店じまいなんだ」
 外と比べると薄暗いお店の奥を指差し、旭くんは駄目押しみたいに続ける。
「くりこもいるしな。寝てるから、起きないかもしれないけど」
 そういえば今日は店先に、猫のくりこの姿がなかった。お昼寝の時間だろうか。
 ともあれ断る理由はない。私は本当のことが知りたくて――そして旭くんを信じたくて、ここまで来たんだから。

 旭くんのお部屋は、駄菓子屋さんの二階にあった。
 古めかしい商店街の佇まいによく似合う、漆喰の壁と板張りの床の小さな部屋だ。それでも壁の高い位置には真新しいエアコンがあって、室内は程よく涼しかった。

 猫のくりこは部屋の隅で、座布団の上で眠っていた。
 お腹を上に晒して、手足をだらんと伸ばしてすっかり無防備な寝姿だ。きっと安心しきっているんだろう。
「隙だらけ。まさに平和の象徴だね」
 私が感想を呟くと、旭くんも少し笑った。
「腹出して寝る生き物なんて人間だけかと思ったよ」
 それから旭くんは別の座布団を持ってきて、私の為に敷いてくれた。私はその上に座り、旭くんは私と向き合うように、猫のくりこの傍に座った。

 座ってから見渡せば、旭くんの部屋はごく一般的な高校生の部屋という印象だった。
 学校指定の通学鞄が置かれた勉強机があり、漫画から雑誌まで揃った本棚があり、ガラス戸つきの棚にしまわれたプラモデルがある。始業式が近いからか、クローゼットの戸にはハンガーにかけられた制服が吊るされている。上はワイシャツ、下はチェック柄のスラックス――うちの学校の制服だ。
 シャツには学年章がついていて、記されているクラスは『I‐F』だった。

「……一年生、なんだね」
 気づいた私の問いかけに、彼はきまり悪そうな顔をする。
「先輩って呼ばなきゃ駄目かな」
「今更かしこまらなくてもいいよ」
「じゃあ今まで通り、くりこって呼ぶ」
 旭くんがその名前を呼んでも、猫のくりこは返事をしない。
 代わりに私が頷いて、その後尋ねた。
「聞かせて。どうして一年生だってこと黙ってたの?」
 すると旭くんは言いにくいのか、柔らかそうな自分の髪に手を差し込んでぐしゃぐしゃ掻き混ぜた。
 しばらくしてから呻くように答える。
「前に言った通りだよ。俺、日南久里子と話してみたかったんだ」
 それは聞いていたけど、黙っていた理由としては納得がいかない。
「一年生だろうと三年生だろうと、話くらいできるじゃない」
 私の言葉に旭くんは強く首を振る。
「一年坊主からしたら、三年生なんて話しかけられる相手じゃなかったよ」
 そうかな。私は尚も反論しようとしたけど、自分が一年生の時はどうだったかを思い出して――確かに、そうかもしれないと思い直した。三年生なんて、気軽に話しかけられるような相手じゃなかった。
「あの作文を聴いた時から、話したいって思ってた」
 旭くんはぽつぽつと、語り始めた。
「猫で戦争と平和を語る日南久里子って、どんな子なんだろうって。自分でイメージもしてみたし、実際に教室近くまで顔を見に行ったりもしてた」
「……気づかなかった」
 私が驚くと、彼はますます気まずそうに首を竦める。
「友達連れて、いかにも通りすがりですって装ってたから。まあ、友達にはバレてからかわれたけど」
 それから私の顔色を窺うようにして、尚も続けた。
「自分でもちょっと変だとは思ったよ。一度作文を聴いただけの、面識もない先輩のことが気になるなんてさ」
「確かにそうだね」
「だろ? でもそのうち、校内で見かける度に目で追うようになって、家にいる時も『日南久里子ってどんな子なんだろう』って考えるようになって、猫を飼うようになって、その猫に『くりこ』って名づけたりして――」
 あんな作文がそこまで彼の印象に残っちゃうなんて、私の方が驚きだ。
 それだけ気に入ってもらえたってことなんだろうけど、今更ながら戸惑ってしまう。
「でも夏休みに入って、きっとこのまま何にも起きないんだろうと思ってた」
 そこで旭くんの目が私を見る。
 猫によく似た吊り上がった瞳は、暮れていく部屋の中で静かに光っている。
「けど遂に、くりこ二号と出会えた」
「うん」
 気圧されるように頷けば、彼はまた思い出し笑いみたいに口元を緩めた。
「ずっと考えてたんだ。あの作文を書いた子がどんな子か――めちゃくちゃ頭いいけど皮肉屋で、性格きついのかもしれないとか、こんな見た目で実は笑いを取るのが大好きなお調子者じゃないかとか。でも、実物はそうじゃなかった」
 旭くんの目に、実物の私はどんな子として映ったんだろう。
「くりこは、あんな作文書くとは思えないくらい普通の女の子だった」
 彼は言う。
「いい子だし、見た目通りに可愛かった」
 その言葉で私はひとたまりもなくどぎまぎして、恥ずかしさに慌てた。
「そ、そうかな……」
「そうだよ。だから俺、初めて話をした時に思った」
 旭くんは、そんな私に言う。
「俺はきっと、くりこ二号と恋をするんだな、って」

 ――その、瞬間まで。
 私は、旭くんが言わんとしていることを掴めていなかった。
 作文で言うところの『論旨』に、たった今、この時にようやく気づいた。

「わ……私と?」
 危うく大声を上げそうになり、慌ててボリュームを絞る。
 この部屋には猫のくりこが寝ているから大きな声は出せない。
 でも逆に言えば、猫以外には私と、旭くんの二人きりということで――今更みたいにその事実を意識する。ここは男の子の部屋だ。
 そして部屋の主は、真剣な光を湛えた目で私を見ている。
「あの時に気づいた。俺は日南久里子を好きになってたんだって」
「でも私、あんな作文書く人間だよ?」
「あの作文がいいんだ。俺は好きだ」
 そうだった。
 旭くんはあの作文の、唯一とも言える理解者だ。
 それはもしかしたら私にとっても、かもしれない。あんな作文を提出するしかなかった私という人間の魅力を、唯一わかってくれる人かもしれない。
「だから同い年のふりをした。普通に話がしたかったし、名前を呼んでみたかったんだ。一年生じゃ手が届かない先輩に、夏休みの間だけでも近づきたいって思った」
 そう言って、旭くんは目を伏せる。
「嘘をついたこと、本当にごめん」
「う、ううん。別にいいよ」
 ああまで言われて、とてもじゃないけど彼を責められない。
 私だって、皆に笑われたり注意されたりした作文を、誉められて嬉しかったのも事実だ。
「それで……聞きたいんだけど」
 旭くんはおずおずと、だけど眼差しは強く私を見る。
「くりこは、年下って駄目?」
 駄目とか、そういうふうに考えたことなかった。
「三年から見たら、一年なんて頼りないかもしれないけど」
 そんなことはない。むしろ私なんかより旭くんはよっぽど頼れるし、しっかりしている。
 でも、さっきの言葉については、どう返事をしていいものか。
「俺は、くりこが好きだ。俺を好きになって欲しい」
 言葉を重ねる旭くんに、私は慌てふためきながら、必死に答えを考える。

 今日、ここに足を運んだことが何よりの答えのはずだ。
 私は旭くんを信じたかった。彼が悪意で嘘をついたんじゃないって思いたかった。それを確かめるのが怖かったのも事実だけど、勇気を振り絞ってここに来た。
 それは、単に作文を誉められて嬉しかったから、だけじゃない。

 あの作文について考えた時より、よっぽど簡単に答えが出た。
「わ……私もね、旭くんと一緒にいるの楽しいし、頼りないなんて思ったことないよ」
 たどたどしく告げたら、旭くんは落ち着かない様子で顎を引く。
「そっか、よかった」
「だからね。これからも一緒にいたら、私、絶対に旭くんを好きになる」
 自分でもわかる。
 きっと私は、旭くんと恋をする。
「俺と一緒にいてくれる?」
 旭くんがそう尋ねてきて、私は即答した。
「うん。旭くんと、もっと仲良くなりたいから……」
 それだけ答えるのがものすごく恥ずかしかった。
 弁論大会で壇上に登った時の方が気楽なくらいだった。
「ありがとう、くりこ」
 旭くんは目を細めた。ちょうど猫のくりこが嬉しい時、そうするみたいに。
 そして床に手をついてこちらに身を乗り出して、
「じゃあ今日はもう少し、俺を好きになってから帰ってよ」
 片方の手を、すっかり熱っぽい私の頬に添える。
 私はさっきよりも近くにある、旭くんの猫みたいな瞳を見つめ返した。暮れていく部屋の中は次第に薄暗くなっていたけど、その瞳には小さな光がちらついていた。すごくきれいで、ひたむきで、素敵な目だと思う。
 やっぱりだ。私、旭くんのことをだんだん好きになってる。
 お互いに言葉もない時間が過ぎて、このまま時計が止まっちゃえばいいとさえ思ったけど――。
「あ、くりこ」
 不意に旭くんが名前を呼んだ。
 私のことかと思いきや、彼の目は座布団の上に向けられている。見れば眠っていた猫のくりこが伸びをしているところだった。そして小さな口を精一杯開けて、くあ、と大きくあくびをする。
「猫もあくびをするんだね」
 私が思わずその姿に見入れば、
「……隙だらけだ」
 猫を見ていた私の視界が旭くんに遮られて、唇に柔らかい何かが触れた。

 本当のことを言えば、猫がどのくらい世界平和に役立つかはわからない。
 私は猫が好きだし、可愛いって思うけど、そうじゃない人もいるだろう。動物の可愛さだけではどうにもならない争いごとだってあるだろう。
 でも猫が駄目なら、動物が駄目なら、もっと心がときめくものを自分で見つけてしまえばいい。
 私には好きな人ができた。
 多分、私の魅力をわかってくれる唯一の人だ。
 旭くんと一緒にいれば、その時間は小さいけど確かに平和だと思うし、そこにくりこもいてくれれば一層平和だった。
 だからやっぱり私にとって、猫は平和と、幸せの象徴だ。

 とうとう夏休みが終わり、始業式の日がやってきた。
 学校が始まってしまえば私は三年、旭くんは一年で、一緒にいるどころか校内ですれ違うこともあまりない。お互いの教室は階すら違っているから、むしろここまで見に来てくれてたんだな、なんておかしく思う。
 だけど約束はできたから、放課後は生徒玄関で待ち合わせをした。
「旭くん、帰ろ」
 先に来ていた彼に声をかける。
 白いシャツに一年F組の学年章をつけた旭くんが、振り向いて猫みたいに目を細める。
「待ってたよ、くりこ」
 私たちは家の方向も違うけど、途中まででも一緒に帰ろうと決めていた。連絡先も交換したし、特に心配はない。
「くりこ、今日って予定ある?」
 並んで歩きながら、旭くんが尋ねてきた。
「よかったら、うちのくりこに会いにおいでよ」
 彼の誘いは屈託がなかったけど、私はちょっと答えに迷った。
 なぜかと言えばこの間、隙を突かれたからだけど――。
 でも結局は頷いてしまう。
「……うん。お邪魔しようかな」
 なぜなら私は猫が好きで、そして旭くんが好きだからだ。
「やった。すげー歓迎するから、楽しみにしといて!」
 旭くんは猫のくりことそっくりの、とろける笑顔でそう言った。
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