3 よそ見してると、他の誰も見えなくするよ。

「あ、もしかして隅田じゃないか?」
 聞き慣れない声が呼んだ名前に、俺は思わず振り向いた。
 夕方、今日の客入りはそこそこだった。三台並んだレジの右端に立つ、ちーちゃんの驚いた顔が目に入る。その前に歩み寄っていく、黒い学生服姿の少年の姿も――。
「久し振り!」
 同年代らしい男に向かって、ぱっと笑みを浮かべるちーちゃん。
 小さく手を振る様子に、随分と気安いなと思う。
「隅田、全然変わってないな。驚いたよ」
 見知らぬ男子生徒の口調も親しげなもので、何だか仲が良さそうに見える。ちーちゃんは女子高に通っているから、相手はクラスメイトじゃないはず。
 それなら、あいつは誰だ。あんな風に軽く言葉を交わすような相手がいるとは聞いてない。
 にわかに胸中がざわめく。俺は商品を並べる作業をしつつ、さり気なくレジの傍に近づいた。大人気ないとわかっていても聞き耳を立てずにいられない。
「そうかなあ。結構大人になったって言われるんだよ」
 ちーちゃんは男子生徒の持って来た商品をレジに通し始めた。後ろに並ぶお客さんがいないせいか、いつものてきぱきとした動作はなく、やたらゆっくり袋詰めしている。さっさと詰めて、さっさと帰せばいいのに。
「そっちはどう? 相変わらず野球やってるの?」
「まあな。何だかんだで続けてる」
「そっかあ。いいねえ、高校球児」
 あの男子生徒、高校球児だって? 丸刈りでもないくせに何を抜かすか。これだから最近の高校生はたるんでるんだ、全く。
「東高校だよね。東って他に誰行ってたっけ?」
「ええと……隣のクラスだったけど、わかるかな。斉木とか、藤井」
「覚えてるよ。ひかりちゃんたちでしょ」
「そうそう。今、俺と同じクラスなんだ」
「へえー、そうなんだ! あ、私はね、小島さんと同じクラスなんだよ」
「小島か。相変わらず仲良しなんだな」
「うん、おかげさまで」
 ちーちゃんと男子生徒は、楽しそうに話を続けている。
 俺にはまるっきりわからない話題で盛り上がっている。
 時間にすればほんの数分と言ったところだったけど、聞き耳立てている方からすれば恐ろしく長く感じられた。
 男子生徒が買い物を終え、
「じゃあまた。バイト頑張って」
 軽く手を上げて去っていき、
「ありがとうございましたー。また来てね!」
 ちーちゃんが手を振り返したところで俺は、ある決意をした。

 お客さんの波が引いて、店内が落ち着いた午後八時過ぎ。
 有線放送のメロディが聞こえ始め、レジの夜間バイトたちがちらほら私語を展開し出したタイミングを見計らって、俺は彼女に声をかける。
「隅田さん、袋出しやってもらっていい?」
 レジで使用するビニール袋を、倉庫から出してくる作業を頼む。
 振り向いた彼女は、何の疑いもなく笑顔で頷く。
「わかりました」
 レジを休止状態にして、鍵を掛け、倉庫へと早足で向かって行く後ろ姿。俺はそっとその後に続いた。
 閉店まであと一時間を切っていた。
 倉庫で作業をするアルバイトたちは皆、既に上がっている。
 残っているのは俺と、夜間バイトのレジチェッカー三人。つまり、倉庫に行けば彼女と二人きり、ってこと。
 俺が埃っぽい倉庫に足を踏み入れると、一瞬びくりとして肩を動かしたちーちゃんが、すぐに表情を和らげた。剥き出しの蛍光灯のせいか青白い顔に見えた。
「ああ、店長。びっくりしました」
 店長だなんて、他人行儀な。そりゃまあ仕事中だけどさ。
「今日も品出しで遅くなるんですか?」
 尋ねながら、彼女はまた作業に戻る。俺に背を向けて、棚に並んだレジ袋の入ったダンボールを、台車の上に載せている。エプロンを着けた後ろ姿がいやに無防備だ。
「……多分、ね」
 有線放送のボリュームを上げておいてよかった。足音を殺して背後まで忍び寄るのに好都合だ。
 結局俺が真後ろに立ち、腕を伸ばして彼女を背中から抱き締めた瞬間まで、
「わっ!」
 彼女は、自らの身の危険を察知できなかったらしい。手にしていたダンボールが棚にずるりと戻る。首を捻ってこちらに向けた表情は驚きに凍りついていた。
「な、何してるの、トモ」
「仕事中はそう呼んじゃ駄目でしょ」
 俺は笑って、彼女の肩に回した手でその顎を捕らえる。
 キスしようとしたら睨まれた。
「それこそ仕事中、じゃない」
「……駄目?」
 ちーちゃんの身体を離してすぐ、細い両肩を押す。
 彼女はふらっと傾いだかと思うと、台車の上に積んだ段ボール箱の上に、すとんと座り込んだ。弾みで足が揺れる。
 改めて、俺は彼女に近づく。今度は真正面から。呆然としている顔は、段ボール箱のお蔭で少し高い位置にあって、いつもよりキスがしやすかった。
 手を置くと、二人分の体重がかかったダンボールは斜めに沈んだ。どうせ中身はビニール袋だ、潰れても気にする必要はない。
「……どうしたの?」
 唇が離れた後、しばらくしてからちーちゃんが声を発した。震えたように聞こえたのは、呼吸が乱れているせいだろうか。
「何か、変だよね、トモ。いつもと違う」
「そうかな」
 俺は彼女の髪を指で梳いてから、ゆっくりと身を離した。
 見下ろす顔の心許なげな様子がいとおしい。
「聞きたいことがあってさ、ちーちゃんに」
「聞きたいこと? 何?」
「夕方、話してた奴のこと」
 彼女は、すぐにはわからなかったようだ。瞬きが繰り返された。
「レジに来てたでしょ。学生服着た男の子」
 そうと口にした時、自分でも意外なくらい声が低くなった。
 ちーちゃんが両目を瞠る。
「ああ、うん、あの子。聞きたいことって、あの子のこと?」
「どう言う間柄なのかと思って」
 俺の問いを聞いて、彼女はすぐに破顔した。
「中学の時のクラスメイトだよ。それだけ」
「それだけ? 本当に?」
 その割には随分仲良さそうだったけどな、と喉の奥で呟いてみる。大人の分別なんて既にどこかへやってしまった。
「本当だよ。それだけ」
 彼女は言って、恨めしげな目をする。
「トモ、自分のことは『信用して』って言うくせに、私のことは信用しないんだ」
「それはこっちの台詞だ。『浮気しないか心配』って言ってたくせに、俺の前で若い男と親しげにするなんてどういう了見だよ」
 年の差を気にしてるのはちーちゃんだけじゃない。俺だってそうだ。
 もしかしたら話の通じる同世代の奴の方がいいんじゃないかとか、あんなに親しそうな様子を見かけたら、思っちゃうじゃないか。
「だって本当に何でもないんだもん」
 彼女は苦笑いを浮かべて、
「トモが妬いてくれるなんて思わなかったし」
 と、何やらうれしそうに言ったから、こっちは悔しくてしょうがなかった。
「もしかして、それを聞く為に私に袋出しを頼んだの?」
「そうだよ」
「職権濫用って言うんじゃないの、それって」
「店長は俺。俺がルールなの」
「トモのやきもち焼き」
「妬くよ、俺だって。悪いか」
「悪くないよ。嬉しい」
「喜んでる場合か、全く」
 手を差し延べ、彼女を段ボール箱の上から降ろす。
 床に降り立ってすぐのところを、改めて抱きすくめた。
 もがく身体を腕ずくで押さえ込んで、耳元で囁く。
「あんまり油断してると、余所見どころか仕事もできないようにしちゃうぞ」
 腕の中でちーちゃんが答えた。
「え……どうやって?」
 力を緩めて顔を覗き込む。怪訝そうな表情が映った。蛍光灯の明かりの下でも、彼女の目は清らかだ。
 子供じゃないけど、大人でもない。
 だから俺はいろいろと悩む。そう、いろいろと。いっそ踏み込んでしまえたら、焦ることもなくなるんだろうなと思うけど。
 その時、倉庫に備えつけの電話が鳴って、内線連絡を知らせる。
「内線だよ」
 彼女が俺の二の腕を叩いた。
「知ってるよ」
 聞こえてる。わかってる。
「出ないの? トモ」
「……ちっ」
 どこかほっとした表情のちーちゃんを手放すと、俺は舌打ちの後で、受話器に手を伸ばした。