4 誰より一番愛してる、でも絶対言わない。

 十二月に入ると、街は途端に華やぎ出す。
 そろそろ見慣れ始めた風景がクリスマスカラーに彩られると、気持ちまで自然と浮き足立つから不思議だ。
 クリスマスが楽しみだなんて、随分久し振りだった。毎年この時期ともなれば仕事が忙しくて、楽しい気分になれたことなんかなかったのに。
 とは言え、俺が彼女と一緒に過ごすクリスマスは、やっぱりカレンダー通りとはいかなかった。

「ケーキ、二十二日でも大丈夫だって」
 閉店後の駐車場で、俺と彼女は冷え切った車の中に二人きりだった。
 車にエンジンをかけつつそう告げると、助手席に座るちーちゃんが顔を上げた。
 ほっとした様子で微笑む。可愛いなあ。
「そっか、よかったね。ケーキでお祝いできるね」
「ごめんね、クリスマスが二十二日なんて、フライングもいいとこだ」
 対照的に俺は肩を落とした。
 今年のクリスマスイブは日曜日だった。当然、休みなんか取れっこない。おまけにクリスマスともなれば休みを希望する従業員が多いのなんのって……。シフトをやり繰りしているうちに、空いている日は二十二日だけになってしまった。しかもこれが、事実上年内最後の休日と来たもんだ。
 だからちーちゃんとは、クリスマスイブの前々日にパーティをする。恐らく今年最後の逢瀬でしょう。もう決めたぞ。俺は二十二日は携帯の電源も切って、家の電話線も引っこ抜いて、どうやっても店からは呼び出せないようにしてやる。完全に連絡つかないようにしてやる。
 エンジンが掛かるとすぐ、唸るような音を立てて暖房が入った。車の窓ガラスの曇りがゆっくりと引いていく。もう店の連中は全員帰ったから、曇らせておく必要もない。
「パーティできるだけで嬉しいよ」
 ちーちゃんは健気にそんなことを言う。コートをがっちり着込んでいるけれど、手は相変わらず悴んでいるようで、シフト一覧表を持つ指が震えている。
「寒い? ちょっと待ってね、今暖かくなるから」
「うん、大丈夫」
 今日は、珍しく仕事を早く切り上げる気になった。
 せっかくだから彼女を送って行こうと決めた。フライングクリスマスパーティの打ち合わせもしなくちゃいけないし。
 だけど俺ひとりならともかく、ちーちゃんを乗せるなら車を暖めておかなかったのは失敗だったな。夜の気温は低く、車内はすっかり冷え切っている。
「すごいね、クリスマスイブは皆して休み希望だったんだ」
 出来たてほやほや、今日手渡したばかりのシフト表には、十二月後半からのシフトが記されている。日曜日だってこともあって、クリスマスイブの人気ぶりといったら酷かった。特にちーちゃん以外の夜間バイトの子は、ほとんどが休みを欲しいと願い出てきて、シフト組む側としては大弱りだった。さすがに全員分の希望は叶えられない。
「そいつら、全員彼氏持ち?」
 俺がやっかみ半分で尋ねると、ちーちゃんは小首を傾げた。
「そうでもないけど……彼氏がいない子はいない子で、合コン行ったりとかするから」
「十代のくせに合コンか。生意気な」
 まさかアルコールが出たりするんじゃあるまいな。俺は眉を顰めたけど、助手席からは平然とした声が返ってくる。
「でも、私も誘われたことはあるよ。行きたくないけど」
 何だ。またやきもち焼かせるつもりか。むっとしつつ釘を刺しておく。
「ちーちゃんは行っちゃ駄目です」
「だから、私も行きたくないんだってば」
 ふふっと軽く笑う彼女が、口元をシフト表で隠してみせた。
 もちろん当人にそんなつもりはないんだろうけど、翻弄されてる気分になる。敵わない。
 そうこうしているうちに、車内が大分暖まってきた。
 二人きりでこうして他愛ないことを話す時間もいいけど、彼女には門限がある。そろそろ帰らなくちゃ。ああ、帰したくないな。
「じゃ、行きますか」
 ちーちゃんの家まで、駐車場から車を動かした。
 既に時刻は十時近く、この時分ならいつも人通りの少ない細い路地をゆっくりと走る。うちの店から彼女の家までは、車ならほんの十五分ほどだった。
「ね、トモ」
 助手席で声がした。
「何?」
 ハンドルに手をかける俺が、そちらを見ずに応じる。
「年末年始の予定って何かある?」
「何かって……野暮なこと聞くなよ。大晦日までみっちり仕事ですよ」
「そうだけど、三十一日は早めに店閉まるでしょ、その後」
 ちーちゃんの声が弾むように聞こえて、俺はそっと眉間に皺を寄せた。
「年明けは三日までお店、開かないじゃない。予定って入ってる?」
 確かに、大晦日は午後六時の閉店となっていた。その後の一月一日、二日はありがたい定休日になっている。俺にとっては滅多にない――というかもう一年中でここしかない、貴重な貴重な連休だ。
 運転中なので、彼女の顔は横目でこっそり窺っておく。
 窓の外を水銀灯の明かりが通り過ぎていく度に、彼女のはにかんだような横顔が白く映える。こちらを見ている目の優しさに、次の言葉が継げなくなる。
 予定は、あるんだ。残念ながら。
「あー……お正月、なんだけどさ」
 それでも躊躇いがちに事実を告げる。
「俺、久々に帰ろうと思ってたんだ。実家に」
 言ってから、またちらりと見てみた。
 目の端に、ちーちゃんのきょとん、とした表情が映った。
「実家……に?」
「そう。話したことはあったよね、隣の県なんだけど」
「うん……」
「ほら、こうういう機会でもないと帰れないから。たまに顔見せないと、親も寂しがるから」
 この仕事に就いてからは、それこそ年末年始でもない限り帰れてない。ゴールデンウィークもお盆もあったもんじゃないからな。だから、まあ、せめてもの親孝行と思ってたんだよ。十分に親不孝な身ながら。
「そうなんだ」
 明らかに彼女の声のトーンが落ちた。
 会いたいって思っててくれたのか。それはすごく、嬉しいのに。
「ごめん。せっかくの連休なのに会えなくて」
 俺が言うと、ちーちゃんはゆっくりかぶりを振ったようだ。髪が揺れたのが見えた。
「ううん、それならしょうがないよね」
 しょうがない、か。
 俺たちの間には、一体どれくらい『しょうがない』事柄があるんだろう。クリスマスもそう、年末年始もそう、いつも部屋で過ごすしかないデートだってそう。一体どれくらい彼女に寂しい思いをさせたら気が済むんだ。どれくらい、お互いが我慢に我慢を重ねて乗り越えなくちゃならないんだろう。

 ちょうどその時、彼女の家の傍まで着いた。
 家の前で車を止めるとご家族に怪しまれるそうなので、俺はいつも、かなり手前の道端で、ちーちゃんの家から見えないような物陰に車を止めている。まるで不審人物だ、悪いことでもしてるみたいだ。
 悪いことなんて何もない。ないはずなのに。
「着いたよ」
 そう告げて横を向くと、助手席で俯き加減の彼女が目に入った。
 いつの間にか折り畳まれたシフト表を、掴んだ細い手が白い。
 エンジンを切ると、車内は嘘のように静まり返る。外の風の音まで聞こえるほど、しんとする。
 項垂れたままで彼女は、
「うん」
 と応じた。だけどそれだけで、一向にドアを開けようとしない。表情は見えないけれど内心は窺い知れた。
 俺はしばらくフロントガラス越しの家並みを眺め、だんだんとそれが曇っていくのをそのままに、やがて時計を見るふりをしながら口を開いた。
「時間、いいの?」
「よくない」
 ちーちゃんは即座に、ぼそりと言った。
 目が合う。
 笑わない彼女の伏し目がちな顔も近い。建物の陰で、ここは少し薄暗いけれど、明かりがなくてもよく見えた。表情だって鮮明にわかった。
「怒ってる?」
 先に切り出したのは俺の方だ。多分、悪いのも俺だから。
「お正月、黙って予定入れたから」
「そんなことないよ」
 素早く首を横に振って、ちーちゃんは、だけど苦しそうな顔をしてみせた。
「会いたかった?」
 わかりきっていることを尋ねる俺も俺だ。
 その気持ちを、感づいているくせに確かめたい気持ちと、それ以上に罪悪感が募り、交錯する。
「うん」
 彼女は、素直に頷いた。
 しかし俺が口を開く前に次の言葉を継いで、
「でも、違うんだ。怒ってるとかじゃないよ。私、わがままだけどそうなりたくないの」
 絞り出すような、震える声を立てた。
「ちゃんとわかってるの。トモがお仕事大変なことも、ずっと実家に帰ってないってことも知ってるし、何か言えばわがままになるんだってわかってる。だけど寂しいの」
「寂しい? ちょっといなくなるだけだよ」
 少しだけ俺は笑ったけど、それは場違いに響いた。
 彼女は笑わない。さっきからずっと。
「うん。寂しいよ。だっていつもは、トモがお仕事しててもお店に行けば会えたじゃない。だけど、どこに行っても会えないんだって思うと、たったの短い間のことでも、嫌なんだ。寂しい。しょうがないってわかってるけど、わがままだってわかってても、私、会いたかった――」
 ――堪らなかった。
 まだ続きそうな言葉のその先を封じる為に、俺は彼女を抱き寄せる。抱え込む、腕の中にぎゅっと。
「ごめん」
 しょうがない、なんてただの言い訳だ。忙しさに感けて、俺は何度彼女に切ない思いをさせてただろう。
 ほぼ毎日会えるったって、店で会うのは、会ったうちになんか入らない。せっかく付き合ってるのに皆には秘密にして、まるでよそよそしく振る舞って。店にいる時はちーちゃんも、その他のバイトの子たちも皆一緒くたの扱いだ。そういう接し方が彼女に少なからず辛い思いをさせてるって知っていたけど、しょうがないって思っていた。思わせていた。
 ちゃんとした連休も。呼び出しを食らう心配のない真っ当な休日も、滅多にないことだった。それを最愛の彼女の為に使わないなんて、俺はどこまで果報者なんだろう。
「ごめん」
 もう一度言って、俺は彼女の髪を撫でた。髪の先まで冷え切っている。
「連れて帰ってもいい?」
 尋ねてみると、はっと顔を上げて来たちーちゃんは眉尻を下げる。
「え? ほ、本気?」
「うん。駄目かな」
「……多分」
 そうか。そうだよな。外泊なんて十七のお嬢さんが易々と許してもらえるようなもんじゃないよな。
「我慢するから、大丈夫。散々言った後で何だけど」
 ちーちゃんが苦笑いを浮かべて言った。
「その代わり、クリスマスは楽しみにしてるから。仕事、行かないでね」
 無理をしてるってわかる声だったけど、俺はあえて頷いた。そして更に抱き締めた。
「わかってる。楽しいパーティにしよう。俺、絶対電話出ないからな」
「うん、約束だよ。仕事持ち帰るのも駄目だよ」
「もちろんだ。前の日も早めに帰って、ちゃんと寝ておくから」
 約束の為の、指切りを交わす。
 冷たい指の彼女が、ようやく柔らかく微笑んだ。
「きっと、私たちが一番乗りだね。クリスマスパーティの」
 そんなことを言う彼女が可愛すぎて、俺は、時計の針を見て見ない振りしたくなる。

 ――言わないけど、まだ言えないけど、本当は誰より一番愛してる。
 君が大人になるまでは、そういう言い方はしないでおくけど。