2 もっと色んな顔見せて。

 彼女の手はいつも冷たい。
 だから俺は、手を繋がずにはいられなかった。

 二人で会った日の帰りに、彼女を送りがてらのんびり歩く。夕闇の中の散歩道は静かだ。
 日が落ちて、すっかり暮れた空には星が瞬いている。空気が澄んでいるからか、冴え冴えと光が強い。吐く息の白さが今宵の冷え込みを物語っていた。
 繋いだちーちゃんの手が、いつもと同じように冷たい。
 手袋をして来ない彼女の華奢な手を、俺は自分のパーカーの袖に隠すように入れてあげる。そうするとまるで、彼女のコートの袖と繋がっているように見える。
「トモの手、温かい」
 ちーちゃんが噛み締めるように呟いた。
 望むならずっと温めていてあげたいけど、この散歩道は本当に短くて、二人で外を歩ける時間もわずかだっら
 いつも、ちーちゃんの手が冷たくなくなって、ほどよい温かみを持ち始める頃に彼女の家が近づいてくる。俺は手を離さなくちゃいけなくなる。
 ずっと繋いでいたいと思っているのにな。
「私の手、冷たくない?」
 彼女に聞かれて、俺は声を立てて笑った。
 今更だよ。そんなこと、聞いてどうするの。
「冷たいよ」
「そっか、ごめんね」
 俯き加減になった彼女の髪が、さらりと落ちて、表情が隠れる。
「何を謝るの」
 俺はそう言って、
「よく言うだろ。手が冷たい人は、心が温かいんだよ」
 袖の中の彼女の手をぎゅっと強く握った。
 まだほっそりした女の子らしい手は、まだ温かくなっていない。
「そんな話、聞いたことないよ」
 ちーちゃんはこちらを見て、眉間に皺を寄せた。
「迷信ってやつ?」
「どうだろうな。俺は昔からそう聞いてたけど」
「じゃあ、手の温かい人は心が冷たいの?」
「そう言うね」
「そんなのおかしいよ。トモは冷たくなんかない」
 むきになった口調が可愛い彼女が、手を握り返してきた。
「私だって、心は温かくない」
「そんなことないでしょ」
 俺はまた笑った。今度は小さく。
 優しい彼女だと思っている。休みの少ない俺と文句も言わずに付き合ってくれて、休みの日はこうして部屋に来て、食事を作ってくれて。どこか遊びに行くことも、何か買ってあげることもしていないのに、黙って寄り添っていてくれる。そんな子の心が冷たいはずがない。
「私、可愛くないんだ」
 ちーちゃんがぽつりと言い出した。
「会えない時はいろんなこと、気になっちゃうの」
「いろんなことって?」
「トモが浮気してないかなあって」
「……何を言うかと思えば」
 いやいや十分可愛いよ。可愛い心配事だよ。
 一緒に仕事をしてるから、わかっていると思っていたけどな。俺に浮気なんてする暇はありません。こんな多忙の身で、彼女のことさえ蔑ろにしているような男と付き合ってくれるのは、ちーちゃんぐらいのものです。
「浮気なんてしないよ」
 俺は答えて、その横顔を眺めた。
 星明かりの下で彼女の頬は、白く、ひたすら白く見える。光が落ちた髪には時折冷たい風が吹きつけて、心細げに揺れている。きゅっと結ばれた唇は部屋で見るほど赤くない。
「信用できない?」
 逆に聞き返せば、ちーちゃんはぶるぶるとかぶりを振った。
「そんなことない。ただ」
「ただ、何ですか」
「トモ、大人じゃない」
「はあ」
 大人の顔になりつつあるけれど、まだ大人になりきれてはいない彼女には、こうして時々幼い表情が覗く。
「いろんなこと、慣れてるって気がするし」
「いろんなことって?」
「……手を繋いだりとか」
「ちーちゃんは慣れてないんだ?」
 尋ねても、すぐに答えは返らなかった。
 ちらっと眺めてみた横顔は真剣そのものだ。
「慣れて、ないよ」
 でも、すごくきれいな顔をしている。
「男の人と付き合うの、初めてだもん」
 彼女は大人と子供の境目に、不安定に立っている。大人びた顔をすることもあれば子供っぽい表情をする時もある。妙に物わかりのいいことを言ったかと思うと、理不尽に感情をぶつけてくる時もある。
 そういうアンバランスさも魅力だと思う。だけどそれは一過性の、この年代特有のものなんだろう。もう少し時が経てば、こんな悩みを持つこともなくなるはずだった。そうして年齢の壁なんて気にせずに向き合えるようにもなるはずだった。
 残念ながらと言うべきか、当然と言うべきか、俺にとっての彼女は、初めての恋人じゃない。
 多分、彼女も察しているんだろう。『慣れている』と言った形容や心変わりを案じるそぶりからそれが窺える。でも、疑われることなんて何もないのにな。
 君だけを見ているって、後ろめたさもなくそう言えるのに。
 勘繰られるほどの過去もない。あるのはごくありふれた恋愛の記憶と、それにも勝るほどの仕事に追われる日々の思い出、それだけだ。
「昔の話はしない」
 俺は言って、歩きながら彼女の目を覗き込んだ。
「詳しく聞きたくないだろ?」
 彼女は一瞬大きく目を瞠る。
 その後で、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
「よろしい。じゃあ、今のことだけ考えて」
 繋いだ手は、まだ離さない。
 散歩道はもう少しだけ続く。もう少し。もう少しで、終わってしまうけど。
「俺はちーちゃんのことしか見てない」
 歩きながらだけど、言ってあげた。
「休みは少ないし、電話もメールもあまりできてないし、放ったらかしの彼氏かもしれない。でも、こうやって貴重な休みの合間を縫って、是が非でも会いたいって思う相手はちーちゃんしかいない。……このくらいじゃ、わからないかな」
 偉そうに言えた立場じゃないけど、俺は、俺なりに最大限、彼女を想っているつもりだ。だから休みの度に会う。こっそりと、月に二、三度だけだけど、会えそうな休みを合わせているのは店の皆には内緒だった。店長の特権と言うやつだ。
「ううん、わかる、わかった」
 彼女はまたかぶりを振る。
 それから済まなそうな顔で俺を見た。
「ごめん、トモ。私、馬鹿なこと言った」
「そんなことないよ。良くある心配じゃないか。気にしない気にしない」
「でも――」
 まだ何か言い募ろうとする彼女の言葉を遮ろうと思った。
 一瞬逡巡して、でも俺は、時間も気にせず立ち止まる。
 繋いだ手に力を込めると、ぐいっと反動があった直後に彼女の足も止まった。言いかけていたことも冷えた空気に溶けてなくなった。
 星明かりの強い夜だった。向かい合うように立つと、お互いの白い吐息がぶつかり合って消えていく。
「ちーちゃんこそ、俺でいいの?」
 むしろ俺は尋ねた。
 前途有望、未来に希望が溢れているような女子高生との交際は、時々とんでもない罪悪なんじゃないかと言う気分に駆られる。そんなつもりはなかったけど、世間的に見たらこれは、上手いことやって彼女を誑かしてることになるんじゃないかな、なんて。将来結婚するようなことになったら、同期の連中からはさぞやっかまれることだろうな。若いからいいってわけじゃない、それだけじゃないんだけどな。
「いいに決まってるよ」
 俺の見つめる中で、彼女は俯き加減になって、早口で言った。
「トモじゃなきゃ嫌。嫌なの」
 それから化粧っ気のない大人びた顔を上げる。滑らかな白い皮膚にも、茶色に近い虹彩の薄い瞳にも、星の光が降り注いでいるようにきれいだった。
「ありがとう」
 俺は言って、彼女の美しい額に素早く口づけた。ひやりと、唇に冷たさを感じた。
 それから軽く、繋いだままの手を引いた。
「行こう。散歩ももう少しだよ」
「うん」
 キスの瞬間から少し遅れて瞼を閉じていたちーちゃんは、目を開けるとゆっくりと微笑んだ。
 幸せそうな、穏やかな表情をしていた。
 もっともっといろんな顔が見たいから、もっと幸せにしてあげたいから、残りの道程は少しだけゆっくりと、手を繋いで歩いた。