Tiny garden

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願わくは、花の笑うように(2)

 町の中を走る馬車道もからからにひからびていた。その上に吹き付ける埃っぽい風は強く、コートニーは帽子を押さえながら馬車から降りる。編み上げ靴の傍を、どこからか飛ばされてきた小枝が、音を立てて転がっていった。
 目の前に立っているのは、ケストナー邸使用人行きつけの雑貨店。見覚えのある、古くこじんまりとした店構えの前で、コートニーは一度振り返る。強い風の吹く町並みの中、自然と視線がさまよい出した。
 灰色がかった町並みの、奥の方がどうなっているのかをコートニーは知らない。訪れたことがあるのは、この店の立つ通りくらいのもの。町に何軒もあるという劇場の、その中の一つのありかすら知らなかった。この町並みの向こうの、どこかには、あの青年がいるのだろうか――そう思うとコートニーの胸は高鳴ったが、自ら捜しに行くことが出来ないのでは、切ない思いがしただけだった。コートニーが行くべき場所はたった一つだけだ。この通り以外はどこへも行けない。
 御者席に座ったままのオーランドは、コートニーの感傷など知る由もない。相変わらずにこりともせずに口を開いた。
「わしは外で待っとるからな。こう風が強いと、馬が怯えてしょうがない」
 それは口実で、オーランドは町の人間、特に商人が好きではないのだと、コートニーは十分過ぎるほどに知っていた。今回の町行きに同道させられたのも、ひとえにオーランドが馬車の扱いに長けていて、なおかつコートニーのお目付け役に相応しい石頭だと、他の者にも思われていたからだった。
 長い間荷馬車を引いてきた栗毛の馬は、ただ何も言わずに鼻を鳴らした。風の強さに怯えているようには見えない。
 だがコートニーは素直に頷いた。
「ええ、わかったわ」
 実のところ、オーランドがいない方が気楽だという思いも多少あった。お目付け役の存在感は、若いコートニーには重いだけだ。だから彼を置き、一人で店の中に入った。

 雑然とした店内では、いかにも町の商人らしい、お喋り好きな店主が待ち構えていた。
 その相手をしつつ、使用人たちから頼まれた数多の品々を選びつつ、コートニーは買い物に夢中になっていた。店内に並ぶ商品は、ケストナー卿の屋敷にある美術品よりも強く、年若い娘の心を惹き付けた。色とりどりの織物やリボン、美味しそうなお菓子、ごく安価な装身具などはとりわけ、コートニーの興味を引いた。
 だからこそ、すぐには気付けなかった。
 店の外の騒がしさに。強い風に紛れて聞こえてくる、誰かの叫び声とざわめき、そして馬のいななく声に。

 先に気が付いたのは、よく喋る雑貨屋の店主の方だった。
 コートニーに向けた調子のいい言葉の途中で、ふと眉を顰めて、
「おや、何だか外が賑やかだな」
 それを聞いたコートニーも、はたと品選びを止める。
 途端にドア越しに聞こえてきたのは、ざわめきと誰かの――大変聞き覚えのある誰かの叫び声。そして、馬の声。
「まさか……オーランド?」
 時折ドアを叩く風は、だんだんと強さを増していた。
 本当にあの馬が怯え出してしまったのだろうか。コートニーは俄かに不安を抱く。お喋りな店主に断って、一度店の外を覗いた。
 覗いてみて、心臓が止まりそうになった。

 店の前の通りには人垣が出来ていた。
 緊張と恐怖に凍りついた人々が視線を向けているのは、通りの中央、荷馬車を引いたまま身をよじって暴れる栗毛の馬と、その手綱を必死に引いているオーランドの姿だった。
 オーランドは何事か叫びながら、険しい形相で手綱を放すまいとしている。しかし栗毛の馬はオーランドの支配を振り払おうとしているのか、高くいななきながら盛んに身を振るった。その度に、年季の入った荷馬車ががたがたと、大きな音を立て軋んでいる。猛るようないななきと蹄の音が辺りに響き渡り、異常な様子であることは、一目でコートニーにも知れた。
「オーランド!」
 咄嗟にコートニーは声を上げた。口元に手を当てたが、貴婦人よろしく気を失うような真似は出来なかった。
 なすすべもなく見守る人垣からは、恐怖に満ちた会話が漏れ聞こえる。
「風で物が飛んできて、馬にぶつかったらしいな」
「あの爺さんじゃ御すのも無理だろう。見ろ、さっきからてんで振り回されてる」
「誰か蹴飛ばされちまう前に、猟銃でひと思いにやっちまった方が――」
 そう聞いた時、コートニーの編み上げ靴は地面を蹴り、人垣の中を駆け出していた。オーランドを助けなければ!

 遠巻きに取り囲む町の人々を押し退け、掻き分け、通りの中央まで出る。
 老いたオーランドは悪戦苦闘していた。手綱を何度も手繰り、引いていたが、栗毛の馬は興奮した様子でいななき、暴れるばかり。引いたままの荷馬車をがたがた言わせながら、オーランドを振り払おうとしている。
「オーランド!」
 コートニーが再び叫んだ。慌てて駆け寄ろうとすると、オーランドはぎょっとした様子でそちらを見、すかさず手を振るった。
「コートニー、来てはいかん!」
 危なっかしい若い娘に気を取られたオーランドは、次の瞬間、手綱に引きずられて地面に倒れ込んだ。
 土埃とどよめきが上がった。
 オーランドの身体は音を立てて倒れ、それでも必死に伸ばした手からは、呆気なく手綱が離れた。するりと、容易く。
 自由を得た暴れ馬は勢い余り、荷馬車を大きく振り回した。尚も止まらず、通りを真っ直ぐ駆けてくる。
 飛び出していたコートニーの方へと、猛然と駆けてくるのが見える。
 今度はコートニーがぎょっとした。息を呑む余裕すらなかった。大急ぎで踵を返し、避ける為に走り出そうとした。しかしその時、踵の磨り減った靴が、乾き、踏み固められた道の上をつるりと、滑った。
 視界が反転する。コートニーの目の前で、乾いた地面が引っ繰り返る。強かに肩を打ったコートニーは、咄嗟に目を閉じた。痛みのせいではなく、近付いてくる馬の蹄の音に、覚悟を決めてしまう為に。
 馬に蹴られて命を落とす娘。――おとぎ話にはそんなお話はなかった、とコートニーは思う。最悪な最期だと思った。たった一つの願いも叶わないまま、馬に蹴られて死ぬなんて、涙すら出ない悲惨な運命だと思った。そうして瞼の裏に、あの青年の優しい面影が過ぎった。
 あの人にもう一度会いたかった。酷い目に遭う前に、せめてもう一度だけでも会いたかった。強く、強く、そう思った。
 その時。

 通りに満ちたどよめきと馬のいななきに、割り入るように聞こえてきた。
 柔らかなフィドルの音色が聞こえた。

 コートニーは目を閉じていた。
 乾いた地面に倒れたままで、じっとしていた。
 その耳に、音色は聞こえた。柔らかなフィドルの音。
 奏でられるのは優しく、穏やかな曲。恐怖と絶望におののく心を、溶かすように響いてくる。風の音にもどよめきにも負けない強さで、しっかりとここまで聞こえてくる。
 コートニーはしばらくの間、ぼんやりとその音色に聴き入っていた。聴き慣れないのに優しく、入り込んでくるような旋律を享受していた。そうしてぼんやりとしたまま、ふと、あの青年のことを思った。そう言えばあの青年はフィドルを弾くのだと聞いていた――。
 その次に考えたのはもう少し現実的なことだった。あれからしばらく待っているのに、一向に馬に蹴られる気配がない。どうしたことだろう。
 さすがに不審に思い、やがてコートニーは目を開けた。

 すぐに見つけた。
 灰色の町並みの中央で、まるで人の――馬の変わったようにおとなしく座り込む栗毛の馬と、その傍らでフィドルを弾く、線の細い青年。
 白いシャツと焦げ茶色のベスト、同色のスラックスを身に着けたその青年は、曇天の下でも目映い金髪だった。すらりと細く、色は透けるように白い。それなのに貧相に見えないのは、姿勢がよいせいだろう。美しい姿勢でフィドルを弾き、優しい音色を奏でている。
 コートニーは地面に倒れたままで、瞬きをした。見間違いではないかと思った。或いは幻ではないかとも。しかし幾度となく瞬きを繰り返したところで、眼前の光景は変わらず、そのままそこにあった。あの金髪の青年が、穏やかにフィドルを弾いていた。
 最後の旋律を弾き終えると、青年は軽く一礼し、それからおとなしくしている栗毛の馬に歩み寄る。馬はそのまま、おとなしいままでいた。青年が伸ばした手に、鼻を擦り付けるようにさえしてみせた。
「あ、あんたは……」
 誰よりも早く、オーランドがかすれた声を上げた。
「あんたは、何者だね。どうしてこいつを静められた?」
 尋ねるオーランドは腰を打ったのか、おぼつかない姿勢で歩いていたが、どうにか馬の傍まで辿り着いていた。彼が手綱を取っても、馬はもう暴れることなく、ゆっくりとその場に立ち上がった。
 青年はそれを見て、柔らかく笑んだ。
「僕は劇場の楽団で、フィドルを弾いている者です。力になれて何よりです」
 その控えめな言葉と、フィドルたった一つで事態を収めた見事さに、通りに集った人々は感嘆の声を漏らした。青年はどこか居心地悪そうに笑んでから、ふとコートニーの方に向き直る。

 コートニーはまだ倒れていたが、青年の目がこちらへ向いたとわかるが早いか、肩の痛みをおして立ち上がった。スカートの裾は埃にまみれ、被っていた帽子がいつの間にか消えている。頬がひりひりと痛むのは、転んだ時に擦り剥いたからだろう。立ち上がった時ふらついたが、誰の手も借りる気になれなかった。
 惨めな気持ちだった。恥ずかしかった。しかし何よりも強く安堵の思いが過ぎり、コートニーは表情の選択に迷う。
 今、コートニーの帽子を拾ってくれた青年は、ずっと会いたかったあの人だ。それがうれしくて堪らないはずなのに、他のたくさんの感情が溢れてきて、身動きが取れない。
 もしも願いが叶うなら――彼に再び会える時があれば、もっと違う形がいいと思っていた。こんな、馬に追い駆けられて、転んで埃まみれになって、顔を擦り剥いた後になんて出会いたくなかった。もっと普通の出会い方をしたかった。あの夜のことを自然と口に出せるような出会い方がよかった。
 コートニーはまだ茫然としながら、近付いてきた青年が、差し出した帽子を受け取る。それからおずおずと視線を上げ、あの優しい面差しをした金髪の青年が、青い瞳をじっと向けてきているのに気が付く。その時、青年ははにかむように微笑んだ。
「お怪我はありませんか」
 懐かしい声に尋ねられ、コートニーはぼんやりと頷く。
 すると青年は胸を撫で下ろし、言葉を継いだ。
「よかった。貴方が馬車の前に飛び出してきた時は、どうなることかと思いました。――せっかくまた出会えたのに、もう、会えなくなってしまうのではないかと、無我夢中で」
 そう話す青年の頬に、赤みが差す。
 コートニーはまだとりとめのない思いを抱きながら、かすれた声を立てた。
「貴方は、やっぱり魔法使いなの?」
「え?」
 青年が瞬きをする。
「だって、私を――私たちを助けてくれた」
 ようやく、正常な思考力が戻ってきた。
 彼は魔法使いではないはずだった。そのことはあの夜の記憶と共に、コートニー自身がよく知っていた。だけど彼はたった今、間違いなくコートニーと、あの栗毛の馬と、それからオーランドとを救ってくれたのだ。フィドルの音色たった一つで。それは魔法と呼ばずして、奇跡と呼ばずして、何と言おう。
「残念ながら、僕は魔法使いではありません」
 青年は金色の髪を振り、小さな声で答えた。
「でも騒ぎを聞きつけ、ここまで足を運び、貴方の姿を目にしたあの時。貴方の為に出来ることをと思ったら、自然とフィドルを弾き始めていたのです。もしかすると、貴方の為なら魔法が使えるのかもしれません」
 そう言った後で青年は、片手にフィドルを提げ、もう片方の手ではコートニーの、埃にまみれた手に触れた。
 あの夜と同じ、温かい手をしていた。
「こんな形でもお会い出来てよかった」
 ささやくように、しかしはっきりと、青年は告げてきた。
「今度こそ、貴方の為に魔法が使えてよかった」

 コートニーは今頃になってどぎまぎし始めた。
 ずっと会いたかったあの青年が目の前にいる。願いは奇妙な形で、あまりにも唐突に叶ってしまったのだ。唐突過ぎて、一体何から話せばいいのかわからなくなってしまうほどだ。話したいことはたくさん、たくさんあったはずなのに。
「あの、ありがとうございます」
 感謝を述べて俯いた後、コートニーは黙り込んだ。
 そんな彼女の手を取ったままの青年も、じっと黙り込んでいる。もしかすると同じように、話したいことがわからなくなってしまったのかもしれない。
 そこに割り入るように馬のいななきが聞こえた。
 はっとして顔を上げた二人は、二人を見つめる栗毛の馬と、呆れた顔をしているオーランドと、通りに集う人々の好奇の視線に気付いてしまう。
「全く最近の若いもんは、人助けのついでに女を口説くか」
 石頭のオーランドがぼやくと、コートニーは慌ててかぶりを振り、青年から手をするりと話した。
 そして、赤面する青年に向かい、躊躇いがちにこう言った。
「私、用があるからもう行かないと――また、お会い出来るといいですわね」
 心残りはあった。話したかったことは結局、一言も告げられなかった。それでもいいと思っていた。出会えただけでも十分だった。
 もう会えないのではないかとさえ思っていた人にもう一度会えた。それだけで、十分に幸いだと思った。きっとまたそのうちに、会える日が来るだろう。いつになるかも、近い日のことか、遠い日のことになってしまうかもわからないけど。
 また夢を見ることが出来た。今夜からも夢を見続けることが出来る。それでいいと、コートニーは思った。

 だが青年は、すぐには答えなかった。
 俯き、返事をしない彼の様子に、コートニーが小首を傾げた時、彼は恐る恐る尋ねてきた。
「あなたに、本当は話したいことがありました」
「はい……?」
「でも今は、上手く言えそうにありません。ですから」
 顔を上げた青年は、いつになく真剣な眼差しをしていた。
 息をつくように語を継いだ。
「手紙を書きます。――ケストナー様のお屋敷に送れば、貴方のところにも届くでしょう? ですからどうか僕に、貴方の名前を教えてください」
 コートニーは青年に負けず劣らず真っ赤になって、俯いた。
 そして、オーランドの目を気にしながら、早口で自分の名前と青年に伝えた。
「――手紙、お待ちしています。私も貴方に、お話したいことがあったのです」
 もう一言、小声で添えて。


 それから一日と経たぬうち、町と、ケストナー邸のある一帯には、容赦のない嵐がやってきた。
 ケストナー邸の鎧戸と言う鎧戸に打ち付ける雨と強い風。昼間のうちから真っ暗な屋敷の中、蝋燭の明かりを頼りにして、コートニーは花瓶に水を足していた。
 数日前に活けたしおれかけた庭園の花たちは、今やすっかり元気を取り戻して花瓶の中で笑っていた。しゃんと伸びた茎と美しく開いた花びらにそっと触れ、コートニーは微かに笑う。
「元気になってよかったわね、貴方たちも」
 ちょうどその時、廊下の奥の応接間から、黒い布を掛けられた大きな物が運び出されてきた。雇われ男たちが三人がかりで運び出すのは、大きく、四角く、平たいものだ。コートニーがそれを見つけてはっとすると、廊下に現れたケストナー卿が、弱り切った顔で話しかけてきた。
「とんでもないことになったぞ、コートニー」
「ど……どうなさったのですか、旦那様」
 コートニーが尋ねると、ケストナー卿は深く嘆息し、
「雨を願ったら、嵐がやってきてしまった。それも酷いものだ。もう三日は続くと聞いて、私はすっかりあの絵が恐ろしくなってしまったのだよ」
 確かに、卿の願いはそれだった。庭園の為に、雨が降るように。――しかし現実に訪れたのは嵐で、庭園も間違いなく被害を受けるだろう。卿の願いは捻くれた形で聞き届けられ、喜べない結果となってしまったのだ。
「昨日の町での騒ぎも、嵐の前の風のせい、ひいては私のせいではないか。オーランドには悪いことをしてしまった」
 ケストナー卿は付き合いの長い使用人を案じ、気を落としているようだ。あの石頭のオーランドは傷こそ負っていなかったが、騒ぎの最中に腰を痛め、数日安静にしていなければならないと言う。実のところコートニーもあちこちに打ち身を作っていたのだが、卿の前では口に出すまい、とたった今心に決めた。
「コートニー、お前は何も願ってはいないだろうね?」
 不意に卿が尋ねた。
 気遣わしげで真剣な目が、年若い小間使いを案じている。
「あの絵は危険だ。下手に願い事をするとおかしな叶い方をするらしい。私はもう心底気味が悪くてね、あれは商人に引き取らせることにしたのだよ」
「旦那様、私は、平気です」
 コートニーは曖昧に答え、ケストナー卿から安堵の笑みを引き出した。それからそっと主人の肩越しに、遠ざかるあの肖像画を見送った。
 黒い布を掛けられた不気味な聖人は、次はどこへ行くのだろう。そこでもまた、こんな風に願いを叶えていくのだろうか。願う人の予期せぬ形を、わざと選ぶようにして――。
「そうだ。嵐が止んだら、気晴らしにまた舞踏会でも開こう」
 ケストナー卿は明るさの戻った声で、独り言のように言い出した。
「この間の楽団は素晴らしかったな。また町から彼らを呼んで、盛大にやるのがいい」
 その言葉を聞いた時、コートニーの心臓は高鳴った。
 願いは、また叶うのか。もしかするともう一度、コートニーの予期せぬ形で。あの青年から手紙が届くよりも先に、あの青年と会うことが叶うのだろうか。
「コートニー、皆にも伝えておいておくれ。嵐が過ぎたら、宴を開こう」
 満足げに話すケストナー卿に、コートニーは花の綻ぶような笑顔で答えた。
「はい、旦那様」

 雨風は強く、屋敷へと打ちつけ、今しばらくは止まないように思えた。
 しかし永遠に留まり続けることはない。
 願わくは花の笑うように、一刻も早く、ここに穏やかな日の訪れんことを。
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