Tiny garden

恋の贋作チョコレート

 二月に入ると、デパ地下はチョコレート売り場になる。
 トリュフ、ブラウニー、フォンダンショコラにザッハトルテ――どれもこれも見るからに美味しそうだ。
 その美味しさを引き立てるのに一役買っているのが、我が社の食品サンプルだった。

「ほら、あれもうちの製品ですよ!」
 ガラスケースに展示されたサンプルを指差し、私は思わず声を上げる。
 本物に勝るとも劣らぬ美しさで佇むケーキは、お客様の購買意欲を掻き立てる素晴らしい出来映えだった。
「はいはい、今日はチョコを見に来たんだから」
 一緒に来ていた朝比奈さんが苦笑する。
「でも自社製品のその後も気になりますし」
 私が反論しても、彼女は関心なさそうに小首を傾げるばかりだ。
「気にならないけど……というより、見てわかるの?」
「そりゃあ。我が社のはクオリティからして違いますからね」
 ケーキのイチゴにしても一つ一つ大きさが異なるというこだわり、発色の良さ、そして何より食欲をそそるつや感!
 このクオリティに惹かれたんだってことは志望動機にもちゃんと書いた。
「すごいね、青戸さん」
 朝比奈さんは感心したのか呆れたのか、とにかく首を竦める。
「本当は製作希望だっただけあるね」
「結局、事務に配属されましたけどね」
 私も残念な思いで苦笑した。

 我が社は主に食品サンプルの製造販売を手がけている。
 食品サンプル大好きだった就活中の私は、出されていた採用情報に一も二もなく飛びついた。
 ところが人事はこんな私をどうしてか『デスクワークに向いてる』と判断したらしい。第一志望の製作部には行かせてもらえず、事務員として勤務することになってしまった。
 それでも毎日、大好きな食品サンプルを見られるから満足なんだけど――入社一年目が終わろうとする今でも、作る方に回りたかった気持ちは燻っている。

 先輩の朝比奈さんと一緒にデパ地下に来たのも、事務員としての雑務の一環だ。
 来たるバレンタインデーに向けて女子社員からお金を集め、男子社員に配るチョコを買いに来た。
 小さな会社なので一人一人にチョコを配る予定になっていて、私たちは美味しそうなチョコブラウニーを人数分買い求めた。

 そして買い物が終わると、朝比奈さんが切り出した。
「青戸さん、チョコを配る時のことなんだけど」
 両手を合わせ、申し訳なさそうに続ける。
「手分けして配るでしょ? 私が営業部回るから、製作部はお願いしていいかな」
「いいですけど」
 私が頷けば、彼女は途端にほっとしたようだ。
「よかった! 私、どうしても瀬良さんが怖くて……青戸さんが渡してくれるならすごく助かる!」
 朝比奈さんは、製作の瀬良さんに対してだけは無遠慮な評価をする。
 むしろそれは朝比奈さんに限った話じゃなかった。
「瀬良さん、そんなに怖いですか?」
 私が疑問を呈すれば、朝比奈さんは眉を顰めた。
「怖いよ! いつもにたにた笑ってて気持ち悪いし……」
 実際、瀬良さんの口元にはいつも微かな笑みが浮かんでいる。
 それは頑張って肯定的に見ようとしても『薄ら笑い』としか言いようがなく、社員のほとんどはあの人を気味悪がっている。
 私も一年目の新人だし、瀬良さんとはこれまであまり話したことがない。少なくとも他の部署の人間と気さくに話すタイプではないようだった。
「……そうなんですかね」
 だから瀬良さんを庇えず、先輩に話を合わせるしかなかった。

 バレンタインデー当日、私は終業後に製作部へと足を向ける。
「女子社員を代表して、チョコのお届けでーす」
 声をかけながらチョコを配ると、製作の皆さんは恥ずかしそうにしながらも受け取ってくれた。
「手渡しで貰うと本命かなって気になるね」
「しかも若くて可愛い新人さんだしねえ」
「喜んでもらえてよかったです!」
 これも一年目の特権ってやつだろうか。相好を崩す皆さんを眺めて、喜びに浸ったのも束の間。
 全員に配り終えたと思いきや、人数分仕分けたはずのチョコが一つ余っていた。
「あれ? 今日って欠勤の方いましたっけ?」
 私が問うと、皆さんの間には苦笑いのさざ波が広がる。
「ああ……瀬良くんが来てないからな」
 そういえば、あの人の姿を見ていない。
「瀬良さん、お休みですか?」
「いや、いるんだよ。『瀬良ゾーン』に」

 瀬良ゾーンとは。
 製作部の奥の奥にある、スチール棚で囲った壁際の小さなスペースだそうだ。
 そこには瀬良さん専用の作業デスクがあり、彼はいつもそこに引きこもって黙々と作業をしているらしい。

 私も噂には聞いていたけど、足を踏み入れるのは初めてだった。
「し、失礼しまーす」
 背の高いスチール棚のせいで照明も届かない影の中、机に向かう瀬良さんの後ろ姿が見える。
 ひょろりと痩せた身体に作業着を着て、髪はくせっ毛なのかいつもぼさぼさだ。デスクスタンドの明かりを頼りに、何か細かな作業に夢中になっているようだった。
「瀬良さん、ちょっとだけいいですか?」
 恐る恐る声をかけると、瀬良さんは振り向かずに答えた。
「誰?」
「あ、私、事務の青戸です」
「何の用ですか?」
 会話の間も瀬良さんは手を止めない。何を作ってるんだろう。
「バレンタインのチョコを配りに来たんですけど……」
 私の言葉に、彼の肩がぴくりと動く。
「これだけ終わらせるんで待っててください」
 どうやら、受け取っては貰えるみたいだ。
「わかりました」
 見られていないのに私は頷き、瀬良さんの作業が終わるのを待つことにする。

 それにしても、初めて入る瀬良ゾーンは壮観な眺めだった。
 スチール棚はただのパーテーション代わりと思いきや、みっしりと食品サンプルの完成品が並んでいる。どれもこれも本物と見まごう出来映えで、これらは全て瀬良さんが作ったものだとわかる。
 瀬良さん自身の評判とは裏腹に、製作技術は社内でもずば抜けていた。彼が作る食品サンプルの完成度は群を抜いていて、毎年行われる社内コンペでも常にトップクラスの成績を収めている。我が社の製品のクオリティの高さは、彼の技術力が底上げしているからでもあるんだと思う。

 瀬良さんは食べ物の造形を再現する技術力もさることながら、観察眼も優れている。
 例えば棚に収められた寿司桶には、お寿司一貫一貫の違いがとことん表現されていた。
 マグロやサーモンは脂が乗ってつややかに、イカは新鮮そうに透き通らせて、アナゴは焼き目まで美味しそうに、いなり寿司はジューシーに――どれも見ているだけでお腹が空いてくる。
 それからパンケーキのサンプルは、今まさにシロップがかけられるところで時が止められていた。
 そのシロップのシズル感はもちろん、ふわふわの生地もアイスの中の気泡や氷の粒も、添えられたフルーツの瑞々しさまで完璧な再現具合だ。
 食品サンプル好きの私としては、瀬良さんの技術力は尊敬ものだ。
 皆が言うほど気持ち悪いとは思えないんだけど――話したことないから断言はできないけど。

 彼が今、何を作っているかも気になる。
 どうせ手持ち無沙汰だった。私は背伸びをして、背後から瀬良さんの手元を覗き込んでみる。
 デスクスタンドの光の中、瀬良さんの長い指先がつまんでいるのは青々としたミントの葉だ。
 デザートに載せるものだろうか。皺の入り方から葉の細かなぎざぎざまで本物みたいなその葉に、細筆で丁寧に色をつけている。筆先の動きの繊細さといったら、見ているこっちまで息を止めたくなるほどだった。

 やがて瀬良さんが筆を置き、私は止めていた息をつく。
 途端に彼の座る椅子が軋んで、勢いよく振り返られた。
「びっくりした。背後に立たないでもらえます?」
「わ、ごめんなさい!」
 慌てて飛びのきつつ、言い訳がましく言い添える。
「つい見入っちゃって……それ、ミントですよね?」
「ええ、まあ」
「本物そっくりですごいなって思ってたんです。皺とか、縁がぎざぎざしてるところとか。こうやって作ってるんですね」
 製作現場をこんなに間近で見せてもらったこともない。感動する私に、瀬良さんは早口になって語を継ぐ。
「それだけじゃないです。このミント、実はグレープフルーツミントなんですよ」
 そして得意そうに唇を歪めた。
「この葉をよく見てください。うっすらと毛が生えているでしょう。これも実物そのものなんです」
 そしてつまんだミントを指差したので、私は身を屈めて顔を近づける。
 確かに、うっすらと柔らかそうな毛で覆われているのが見えた。
「ここまで追及してこそ食品サンプルってものです。わかります?」
「へえ、突き詰めてるんですね……!」
 こういうこだわりもまた、瀬良さんの技術力を支えているのだろう。私は感心した。
「面白いなあ、もっと見ていたかったです」
 一方、語り終えた瀬良さんは薄ら笑いを浮かべる。 
「聞いてましたけど変な人ですね、青戸さんも」
 やぶからぼうに言われて、さすがに絶句した。
「えっと、そうですかね」
「そうですね。うちの製品好きなんでしょ?」
 表情はにやにやと、決して誉めているようではない。
 でも声に嘲りの色はなく、言われるほど気持ち悪さは感じなかった。
「はい。食品サンプル大好きなんです」
 私の答えを聞いて、彼はふんと鼻を鳴らす。
「ますます変な人だ」
「そうでしょうか。本当は製作に回りたかったんですけど」
「ああ、それは残念でしたね」
 瀬良さんはそこで小さく顎を引いた。
「青戸さん、作業着似合いそうでしたのに」
「えっ、そこですか?」
 意外な冗談に私は思わず笑ったけど、瀬良さん本人は一切笑わなかった。
「ええ」

 どうやらボケではなかったらしい。
 気持ち悪くはないけど――とっつきづらさはあるかな、うん。

 ともかくも、瀬良さんの作業も一段落したようだ。
 私は早速持ってきたチョコレートを差し出した。
「お仕事中にすみませんでした。これ、チョコレートです」
「どうも」
 瀬良さんは猫が匂いを嗅ぐような慎重さで受け取った。
 そして有名洋菓子店の包装紙をためつすがめつした後、じろりと私を見上げる。
「義理ですか?」
 私は即答する。
「もちろんです」
「うわ……マジレスされた……」
 たちまち彼は呆れたように天を仰いだ。

 ここは私にボケて欲しかったらしい。
 そんなこと、急に言われても困る。

「何て言えばよかったんですか」
 思わず突っ込んだら、瀬良さんはまたにやにやと笑んだ。
「本命だって言ったら全力で釣られましたよ」
「釣るつもりないですから」
「ですよねー。こんなキモオタ釣ったところでねー」
 そうして自嘲気味に肩を竦めるから、本当にとっつきにくいなと思いつつ釣られてあげた。
「瀬良さん、別に気持ち悪くないですよ」
 私が告げた途端、瀬良さんの歪んだ口元が微かに引きつる。
「……は?」
「正直とっつきにくいし面倒くさいとは思いますけど」
「ディスりますね」
「でも気持ち悪くはないです」
 茶化そうとする彼を制するように言い切って、それから私は付け加える。
「むしろ製品へのこだわりすごくて、改めて尊敬しました。私が製作部に配属されてたら、毎日瀬良さんの作業を見られたのに残念です」
 なぜか、瀬良さんの口元から笑みが消える。
 警戒するみたいに私を睨む表情が不審そうだ。
「本当に変な人だな」
 職場に『瀬良ゾーン』なんて作ってる人に言われるのは不本意だ。
「瀬良さんに言われたくはないです」
 私が笑って応じると、瀬良さんは腑に落ちた様子だった。
「確かに」
 そこは納得するんだ。変な人。
「じゃあ、お邪魔しました」
 用も済んだし、私は頭を下げて瀬良ゾーンから脱出しようとした。
 ところがそこで、
「青戸さん」
 瀬良さんが呼びとめてくる。

 振り返ると、むっつりといやに不機嫌そうな彼がいた。
 そのままの顔で言われた。
「そんなに好きならこれ、あげますよ」
 突き出されたのは剥き出しのチョコレート――いや、チョコレートの食品サンプルだ。
 チョコクリームを挟んだスポンジにチョコレートをコーティングしたそのケーキは、お皿に載せられていたら真贋見極められなかったに違いない。そのくらいスポンジはふわふわに見えたし、チョコレートはなめらかな光沢があって、かじりついたらぱりぱりと音がしそうだった。それ以外のデコレーションはなく、ケーキとしては実にシンプルだ。
「作りたいなら自分でデコレーションすればいいですよ」
 瀬良さんが言うので、私は恐る恐る聞き返す。
「貰っちゃっていいんですか?」
「どうせ失敗作なんで」
「ありがとうございます。試してみます」
 私はありがたくチョコケーキを受け取った。
 すると瀬良さんは溜息をついてから、続ける。
「道具とかなければ、暇な時にでも来てくれれば貸します」
「え……」
「終業後に居残るのが嫌じゃなければですけどね。俺も業務中は暇じゃないんで」
 それはつまり、ここに来て、サンプル作りを試してもいいってことだろうか。
 その技術を教えてもらえたりとか――だとしたら、すごい!
「……いいんですか?」
「青戸さんこそいいんですか、こんな変人野郎に誘われて」
「全然いいです。よろしくお願いします!」
 私は全力で食いついた。
 あまりにも全力すぎたのか、瀬良さんは自分で誘っておきながら戸惑ったようだ。
「知りませんよ、俺とつるんで青戸さんまで気持ち悪がられても」
「そんなことないです」
 きっぱりと否定してから、感謝を込めて笑いかける。
「瀬良さんの都合のいい日に声かけてください」
「……わかりました」
 彼はなぜか、不承不承といった調子で頷いた。
 やっぱりとっつきにくい人だな。でも、悪い人ではなさそうだ。
 それに滅多にない機会を貰ってしまった。すごく楽しみだ!

 私は貰ったチョコを手に立ち去り――かけて、まだこちらを見ている彼に尋ねる。
「瀬良さん、これって本命ですか?」
 意趣返しの問いに、瀬良さんは思い出したように薄ら笑いを浮かべた。
「だったら困るでしょ、こんなキモオタに好かれても」
「気持ち悪くないですって」
 あまりの自虐ぶりに笑いつつ、今度こそ瀬良ゾーンから抜け出した。

 瀬良さんはやっぱりちょっと変わっている。
 バレンタインにあのくらい会話をしたんだから、社内で会った時くらいは挨拶してくれてもいいと思う。
 廊下でばったり行き会った時だって、
「あ、瀬良さん。おはようござ――」
 私はちゃんと挨拶をしようとした。
「ども」
 なのに最後まで言い終わるより早く、聞こえるか聞こえないかの声がしたと思うと、逃げるようにいなくなってしまう。

 お昼休みにも、狭い休憩室に来ているのを見つけた。
 瀬良さんもこちらを見たから、笑って会釈をした――のに、ふいと目を逸らされてしまった。
 会釈くらい返せばって思うけどな。変な人。

 そのくせ私よりも先にお弁当を食べ終わって、休憩室を出ていく際に、
「今日、終業後なら空いてます」
 椅子に座る私の頭上に、すれ違いざまに囁いていった――むしろ『呟いてった』の方が正しいくらいの小声だった。私が立ち去る瀬良さんに意識を向けてなければ、その呟きは拾えなかったとさえ思う。
 当然、私に返事をする暇なんてなかった。
 振り返った時にはもう、ぼさぼさ頭の瀬良さんは廊下に消えてしまっていた。
「えっ、今の何?」
 向かいの席にいた朝比奈さんが表情を凍らせる。
「瀬良さん今、青戸さんのお弁当覗いてなかった?」
「あー……美味しそうに見えたんじゃないですか」
 私が曖昧に答えると、彼女は一層震え上がったようだ。
「こわーい! やっぱりあの人変だよ、気持ち悪いよ」
 怯えた言葉に、居合わせた他の社員もうんうん頷いていた。
 私も挨拶をスルーされた手前、どう庇っていいのかわからなかった。
 
 その日の終業後、私は再び製作部の瀬良ゾーンを訪ねた。
「挨拶くらいしたらどうなんですか」
 顔を合わせるなり文句を言ってやったら、瀬良さんはあの薄ら笑いで応じる。
「いきなり駄目出しですか」
「挨拶スルーされるのってかなり心に来るんですけど!」
「しょうがないでしょ、女子と話すの慣れてないんで」
 瀬良さんの言い訳はこうだ。
「いきなり普通に声かけられたらキョドりますって」
「キョドってもいいから返事してください!」
「やですよ格好悪い」
「挨拶に応えない方が格好悪いです!」
 私が語気を強めたからか、瀬良さんは納得いかない様子ながらも顎を引く。
「前向きに善処します」
「当然です!」
 大体、格好悪いって何だ。そんな馬鹿みたいな見栄の為に挨拶しないなんてそれこそ変だ。
 ともあれ私も気が済んだので、先日貰ったチョコレートケーキのサンプルを取り出す。
「デコレーション、教えていただけるんですよね」
 確かめる私に、瀬良さんはにやにやしてみせる。
「そんなこと言いましたっけ」
「そういうお誘いだって解釈しましたけど」
「まあいいですよ、暇だし」
 面倒くさいやり取りの後、彼は座っていたイスから立ち上がった。
 そしてその椅子を指し示して続ける。
「椅子、一つしかないんで座ってください」
「一つしかないならいいですよ、瀬良さんどうぞ」
「俺が座ってた椅子だと嫌ですか。若干温いですしね」
「……じゃあ座ります」
 つくづくこの人、面倒くさい。
 回りくどい言い方さえしなければ、親切だなって素直に思えるのに。

 瀬良ゾーンは、椅子に腰かけてみるとまた違う眺めだった。
 周囲にそびえるスチール棚が製作部の照明を遮り、代わりに照らすのはデスクスタンドの優しい光だ。食品サンプルを扱うからだろう、光色は自然に近い色合いをしていた。お蔭で居心地は悪くない。
 作業デスクの上には傷だらけのマットが敷かれ、透明なその中には美味しそうなお料理の写真がたくさんしまわれている。やっぱり研究熱心な人みたいだ。
「とりあえず、簡単なところから始めましょうか」
 瀬良さんはチョコレートケーキを柔らかい布で拭うと、私の目の前に置く。
「青戸さん、こういうの経験あるんですか?」
「フェイクスイーツの体験教室には行ったことあります」
 私は答えてから首を竦めた。
「でもいまいち好みのが作れなくて……本物そっくりに作りたかったんですけど」
 それこそ、飾っておいたら誰かが食べちゃいそうなくらい精巧な食品サンプルが好きだ。
 だけど自分で作るとなると材料費もかかるし、手の届く範囲で用意するとなるとどうしてもおもちゃみたいな仕上がりになってしまう。
「店売りのサンプルも結構買うんですけど、並べて置くと、自分で作ったのはクオリティ低いなって」
 恥ずかしながら打ち明けたら、瀬良さんはもっともだと言わんばかりに顎を引く。
「でしょうね」
「言い方! もっと言い方あるんじゃないですか」
「投資と手間を惜しんだらいいものなんてできません」
 瀬良さんは見透かしたように断言した。
 そしてデスクマットの中から一枚、スナップ写真を抜き取る。
「まずはモデルが必要です。今回はこれでいきましょう」

 その写真には、目の前にあるチョコレートケーキと同じ形のケーキが写っていた。
 もっともこちらのケーキはちゃんとデコレーションされている。たっぷりかかったホイップクリームにはブルーベリーと銀色のアラザンが散らされ、さらに上から赤い果物のソースがかけられている。見るからに美味しそうだった。

「アレンジは慣れてからです。まずはこの通りに作ってください」
 そう言うと、瀬良さんはデスクの引き出しや工具箱から次々と道具を取り出す。
「ホイップ素材はいくつかあります。製品はだいたい塩ビ樹脂ですが、今回はアクリル樹脂で作ります。質感が好きなんですよ」
 話しながら白い粘土をボウルにちぎり、水を加えて掻き混ぜる。
 あっという間にボウルの中には本物そっくりのホイップクリームができあがった。
 瀬良さんはそのクリームを絞り袋に手早く入れ、私に手渡した。
「いきなり絞ろうとしても難しいんで、まずここに絞ってみてもらえますか」
 デスクマットの上にビニールを敷いてもらったので、言われた通りにクリームを絞り出してみる。硬さまで本物そっくりで、少し力を込めるだけで出てきた。
 ただお菓子作りはしない私だから、ケーキ屋さんのようにきれいなホイップにはならない。
 角も立たずへにゃっと潰れたクリームを見て、瀬良さんが溜息をつく。
「貸してください、こうです」
 絞り袋を手にした瀬良さんは、何の造作もなく角を立ててクリームを絞り出す。
「わあ、さすがの職人芸……!」
「当たり前ですよ、」
 口ではそう言いつつ、ちょっと嬉しそうなのが見て取れた。
「青戸さんは持ち方からしてなってないんですよ」
 再び私に絞り袋を持たせると、その上から手を握るようにして持ち方を修正された。
「親指と人差し指で閉じ口を押さえたら、指の力だけで絞り出すんです。手のひらで握っちゃ駄目です」
 意外と大きな手だな、と場違いなことを考える。
 それでも言われた通りに指だけで絞り出してみたら、確かにきれいな形になった。
「ほら、言った通りでしょう」
 瀬良さんは得意げだ。
「もっと教えてあげますから、ケーキにも試してみてください。写真を真似るのを忘れずにね」

 それで私は写真をモデルに、チョコレートケーキにクリームを絞り出した。
 プロに教わってもそっくりそのままとはいかなかったけど、時々注意を受けつつ、指導も受けつつ、どうにかクリームのデコレーションを終える。
 そのクリームが柔らかいうちに、瀬良さんお手製のブルーベリーやアラザンを乗せた。
 最後に上から透き通った赤の絵の具をソースとして垂らすと、写真に限りなく近いチョコレートケーキが出来上がる。

「やったあ、できた!」
 歓声を上げる私の横で、瀬良さんは例によって薄ら笑いを浮かべている。
「ま、所詮は街角の体験教室レベルですけどね。こんなもんでも意外と美味しそうにできるでしょ」
「十分ですよ! 見惚れちゃうな……」
 できたばかりのケーキに、私がしばらくしげしげと見入った。
「瀬良さんって本当にすごいですよね」
「これしか能がないんで」
 誉められても素直に喜ばないのが瀬良さんという人のようだ。
「能がこれだけあれば誇りに思っていいと思いますけど」
 そう反論したら、やれやれと肩を竦められた。
「誇りね。そんなもんでリア充になれるならいくらでも誇ってやりますけどね」
「リア充って。瀬良さん、充実してないんですか?」
「放っといてもらえます?」
 質問に質問で返しつつ、瀬良さんは椅子に座ったままの私をじろじろ見下ろす。
「青戸さんは……」
「何です?」
「……何でもないです」
 言いかけて不自然に止めた後、彼は大きく溜息をついた。
「これ、乾くまで時間かかるんで。渡せるようになったら教えます」
「わかりました」
 気がつけば瀬良ゾーンに来てから、随分時間が経っていた。そろそろ帰らないと瀬良さんにも悪い。
「本当にありがとうございました。こんな遅くまで付き合っていただいて」
 椅子から立ち上がってお礼を言うと、瀬良さんはきまり悪そうに目を逸らす。
「いえいえ、気まぐれでやったことなんで」
「すごく楽しかったです」
「ええ……本当に変な人ですよね、青戸さんって」
 私の言葉を信じられない様子で受け取りつつも、いくらか間を置いてから、こう言ってくれた。
「明日からは、挨拶しますから」
「本当ですか? 絶対ですよ」
「できるようなるべく善処します」
「今度スルーしたら、その場で食ってかかります!」
 そう言い返すと、瀬良さんはおかしそうに笑った。
「それウザすぎ。しょうがないな、挨拶しますよ」
 思えば初めて見る、薄ら笑いじゃない瀬良さんの笑顔だった。

 翌日の昼休み、私は休憩室のある廊下で瀬良さんに呼び止められた。
「あの、事務の青戸さん」
 ためらいながらの呼びかけに、苦笑を堪えて振り返る。
「こんにちは、瀬良さん」
「ああ……まあ、こんにちは」
 もごもごと、それでも挨拶を返してくれた彼は、その後で引きつった笑みを浮かべた。
「昨日のあれですけど、今日の終業後には間に合いそうです」
「えっ、本当ですか?」
 どうやらホイップがもう乾いたらしい。
「そのまま差し上げますんで、帰りにでも寄ってください」
「ありがとうございます、楽しみです!」
 喜ぶ私を見て、瀬良さんはほっとした様子だった。
 引きつっていた口元がじわじわとほどけて――でも不意に、引き結ばれた。
 彼の視線が私の肩越しに何かを見て、気まずげに宙を泳ぐ。
「どうかしました?」
 尋ねながら振り向けば、廊下の向こうに朝比奈さんや他の社員の人たちがいた。
 揃いも揃って怯えたような、怖いものでも見るような目をしていた。
「……ああ、そっか」
 腑に落ちた様子で、瀬良さんが呟く。
 私が再び向き直れば、彼の口元にはいつもの薄ら笑いが浮かんでいた。
「すみません、仲良くもないのに話しかけちゃって」
 そして、そんなふうに言われた。
「え……?」
「馴れ馴れしくしすぎたなと思ってます。やっぱスルーしてください」
 早口でまくし立てた瀬良さんが、踵を返して駆け足で去っていく。
「あの、待って!」
 慌てて呼び止める私に、振り向かず、制するように片手を挙げた。
 それで私は呆然と、廊下に一人で立ち尽くす。
「ちょっと青戸さん、瀬良さんと何話してたの?」
 少し遅れて駆け寄ってきた朝比奈さんは、咎める表情で囁いた。
「まともに相手しちゃ駄目だって。何考えてるかわからない人なんだから」
「そんなこと……」
 ない。
 瀬良さんは皆が思う以上にわかりやすい人だ。
 あの人がどうして薄笑いを浮かべているのか、私にもとうとうわかってしまった。
「いつもにやにやして、気持ち悪い人なんだから」
 朝比奈さんが呆れたようにぼやいたから、つい言い返した。
「気持ち悪くないです!」
「え、青戸さん?」
「瀬良さんは気持ち悪くなんかないですよ! 本当です!」
 それで朝比奈さんはドン引きしたように私を見て――。
 私は私で、その日の昼食を美味しく食べることができなかった。

 そして終業時刻を過ぎると、私は矢も盾もたまらず瀬良ゾーンに飛んでいった。
 多分、瀬良さんも予想はしてたんだろう。作業デスクに向かう、作業着姿の痩せた背中から声がした。
「俺に関わんない方がいいと思いますけどね」
「馬鹿なこと言わないでください」
 私が反論すれば、ぎいっと椅子が軋んで彼が振り向く。
 その口元には、やっぱりにたにたと薄笑いが浮かんでいた。
「でも、俺が気持ち悪いのは事実なんで」
 一層馬鹿なことを瀬良さんが言う。
「ちゃんと自覚してますし。皆もそう思ってるんですよ」
「気持ち悪くないって言ってるじゃないですか!」
 私は思わず声を張り上げた。
 それで瀬良さんは笑うのを止め、椅子の上で用心深く足を組み替える。
「……なんで」
「なんでも何も、むしろ皆がおかしいんです。瀬良さんにはもっと敬意を払うべきだし、誇りに思うべきなんです!」
 この間、朝比奈さんと一緒にデパ地下へ行った。
 洋菓子店のガラスケースの中にある我が社の食品サンプルを、私は一目で見分けることができた。
 それはひとえに瀬良さんの技術力が、我が社の製品のクオリティを底上げしているからだ。
「私にはわかります。瀬良さんがどんなにすごい人かって! 瀬良さんが作る製品がどれほど精巧で素晴らしいかって!」
 頭に血が上っていた。
 言いたいことを全部言ってやろうと思った。
「だから瀬良さんは胸を張っていいんです、自分なんてって卑屈に思うこと全然ないんです! 私は瀬良さんのこと、すごく誇らしく思ってます!」
 それで私は吠えに吠え、瀬良さんを睨むように見た。

 瀬良さんはしばらくの間、笑いの消えた顔で私を見上げていた。
 だけど急に立ち上がったかと思うと、頭突きをしかねない勢いで近づいて、私の顔を覗き込む。
 こうしてみると瀬良さんは私よりもずっと背が高い。その身体を屈めるようにして、深刻そうな表情がすぐ目の前、十センチ未満の距離にあった。
「青戸さんに残念なお知らせがあります」
 そして、唐突にそう切り出された。
「な、何ですか」
 私が聞き返すと、瀬良さんは憂鬱そうに続ける。
「俺、青戸さんのことが好きになりました」
「……は?」
「かわいそうに。俺みたいなのに好かれて、今日は人生最悪の日ですね」
 冗談なのかと思いきや、彼は本気で同情めいた目を向けてきた。

 と言うか――今、私、告白された?
 変てこな物言いではあったけど、好きって言われた?

「引導を渡すなら今のうちですよ」
 瀬良さんは他人事みたいに淡々と告げてくる。
「じゃないと俺、青戸さんが根負けするまでずっと付きまといますから。青戸さんを見かける度に目で追うでしょうし、休憩室で一緒になったら黙って隣の席に座ろうとしますし、連絡先を聞き出したら毎日どうでもいい連絡送ったりしますよ」
 私は、まだ呆然としていた。
 こんな告白、生まれて初めてだ。
「気持ち悪いでしょ? 今すぐ息の根止めてくださいよ」
 でも瀬良さんが、そこで自分を保とうとするみたいに薄ら笑いを浮かべたから。
 そうしたら私も黙っていられなくなった。
「気持ち悪くないです」
 目を瞠る瀬良さんに言い返す。
「確かに意外だなとは思いました。瀬良さんって恋愛では自分で動くタイプなんですね」
「またしてもディスってませんか」
「でも気持ち悪くはないです。その程度、誰でもしますよ」
 それから私は溜息をつきつつ、答える。
「いきなり好きって言われて、今すぐお返事はできないです。でも恋愛って自由なものですし、瀬良さんが誰を好きになるのも自由ですよ。少なくとも私は、今すぐ引導を渡す気にはなりません」

 私の物言いも、大概他人事みたいだと思う。
 でも、そう言いたかった。
 瀬良さんには誰かを好きになったことを『残念なお知らせ』なんて言って欲しくなかった。

 それで瀬良さんは眉を顰める。
「いいんですか? 俺を潰しとかなくて」
 訝しそうに首を捻りながら、諭す口調で言ってきた。
「さっきのは脅しじゃないです。俺、本当に付きまといますよ。青戸さんがもうやめてくれって言っても、付き合ってもらえるまでは諦めませんよ」
「多分、その程度じゃ根負けなんてしません」
 私は笑ってそう答える。
「私だって、誰を好きになろうと自由ですからね」
 今は彼氏も好きな人もいないけど、先のことはわからない。
 瀬良さんのことだって全然わからないから、返事のしようもない。
「俺はそういう青戸さんの気持ちにだってつけ込みますよ」
 彼は言う。
「青戸さんが俺の好意を否定しない限りはまず挫けませんので」
「否定しませんって」
 私が笑い飛ばすと、むきになったように宣言する。
「じゃ、延々と付きまといますんでよろしく」
 それから私をじっと見つめてきた。
 こんなに真っ直ぐな目を向けられたのも、初めてかもしれなかった。
 その後に飛び出たのは半笑いの溜息だったけど。
「つくづく変な人ですね、青戸さん」
「瀬良さんには言われたくないです」
「確かに。じゃ、お近づきのしるしに」
 瀬良さんが手を差し出してくる。
 大きな手のひらの上には、昨日作ったチョコレートケーキが載せられていた。
「これ、約束通り差し上げます」
「ありがとうございます」
 私がお礼を言って受け取れば、瀬良さんは口元をほころばせる。
「俺も、好きな人に貰ってもらえるのが一番嬉しいです」

 今の言葉には、結構どきっとした私がいた。
 素直な瀬良さんの方が素敵だと思うんだけどな。

 その夜、私と瀬良さんは一緒に会社を出て、二月の夜道を一緒に帰った。
「俺なんかと一緒に歩いてたら、青戸さんまで白い目で見られますね」
 瀬良さんはそう言いつつも、大喜びで私の隣を歩いている。
「そういうの気にしません。馬鹿げてるって思いますし」
 皆が瀬良さんのすごさを軽んじているなら、それこそ馬鹿みたいな話だ。
 私は彼のことを誇りに思う。
「さすが青戸さん。そういうところ、好きです」
 瀬良さんは嬉々として私を見下ろす。
 私が言葉に詰まれば、すかさず白い息と共に呟く。
「俺はそういうところにもつけ込みますけどね」
 こうして一緒に帰る流れになったのも、つけ込まれてるんだろうか。
 別に嫌なわけではないからいいんだけど。
「後で悔やまないでくださいよ。手酷く振っときゃよかったって」
 警告みたいに言われて、やっぱり私は笑い飛ばす。
「大丈夫ですよ。私にだって選択の自由がありますもん」
「選ばせませんけどね」
 ぼそりと言われた。
 瀬良さんは、こういう時だけ妙に強気だ。
「自信あるんですか?」
「それはもう、諦めの悪さとねちっこさにかけては自信があります」
「恋愛テクとかじゃないんだ……」
「そんなものはありません、キモオタのコミュ障なんで」
 きっぱりと言い切った瀬良さんが、待ち構えたように私を見る。
 私は、つられて言ってあげる。
「気持ち悪くないですよ、ちっとも」
 そして彼が嬉しそうに笑うのを、不思議な気持ちで眺めていた。

 コートのポケットにはあのチョコレートケーキがしまってある。
 これも帰ってから眺めてみるのが楽しみで、だからかこの帰り道は、とてもいい気分だった。
 何だかんだで私は、瀬良さんのことを気に入り始めているのかもしれない。
▲top