鑑賞品としてのパフェ
三月になると、ようやく寒さもゆるみはじめた。冬物のコートはクリーニングに出してしまって、お気に入りのスプリングコートに袖を通した朝。出社するために駅からの道を歩いていると、前方に見慣れた姿を見つけた。
どちらかといえば、最近見慣れてきた姿、かもしれない。
癖のあるぼさぼさの髪、背丈はひょろりと高く、でもそのせいか猫背気味に歩いている。
羽織っているのは我が社支給のブルゾンで、通勤の間も社名を背負うことを厭わない愛社精神の持ち主――というわけでもないんだろう。ブルゾンの下は黒のスラックスで、いつもスーツを着ているらしい。らしい、というのは見たことがないからで、瀬良さんは勤務中はいつも作業着だった。
そんな瀬良さんに、私は後ろから駆け寄りつつ声を掛ける。
「おはようございます!」
たちまち彼は足を止め、のっそりと振り返った。
そしてなんとも曖昧な笑みを浮かべながら答える。
「お……おはようございます……」
覇気のない挨拶はこれまでに比べれば全然マシな方だった。少し前まではこちらの挨拶にも会釈オンリー、もしくは『ども』の一言だけだったんだから。
私は満足しつつ、瀬良さんの隣に並ぶ。
「瀬良さん、スーツで通勤してるんですね」
「服選び面倒くさいんで」
「そんな理由?」
「他にないですよ、こんな窮屈なもん。許されるなら作業着で通勤したいです」
うめく瀬良さんは、実際息苦しそうにブルゾンの襟元に指を差し入れた。ちらりと白いワイシャツが見えたけど、ネクタイまでは見えなかった。窮屈だというくらいだからノータイなのかもしれない。
「青戸さんは……」
そこで瀬良さんが、ちらりと私を見た。
スプリングコートを羽織る私がすかさず微笑むと、難しい顔で目を逸らされる。
「なんか、ひらひらしてますね」
で、出てきた言葉がそれだった。
「……褒めてくれたんですか?」
思わず聞き返せば、深い溜息が返ってくる。
「もっと褒めようと思ったんですが、あざとい言葉しか浮かばなくてやめました」
あざとい言葉ってなんだ。
「具体的にどんな言葉ですか、それ」
「いやもう、キモオタが口にしたら舌を引っこ抜かれそうな台詞です」
「ええ……そんなのあります?」
「あるんですよ。陰キャ男に人権なんてないんです」
瀬良さんのネガティブさは相変わらずで、事あるごとに自分が日陰者であるかのような言葉を口にする。そういう時の瀬良さんは薄ら笑いみたいなものを浮かべていて、私もそれが彼なりの冗談なのか、それともこれ以上傷つかない為の自己防衛なのか、まだ掴み切れてはいなかった。
それでも、一応は主張している。
「瀬良さんは気持ち悪くないですよ」
私の言葉に、瀬良さんは黙り込んだ。
癖のある長い前髪が三月の風に揺れると、伏し目がちな目元が覗いた。何か考え込んでいるような、ためらってもいるような、そんな表情に見える。
私もなんとなく、それ以上は言えなくなった。
この瀬良さんに、私が告白されたのは先月のことだ。
『青戸さんに残念なお知らせがあります』
そんな、およそ愛の告白の前振りとは思えぬ言葉から始まり、
『俺、青戸さんのことが好きになりました』
『かわいそうに。俺みたいなのに好かれて、今日は人生最悪の日ですね』
次々と言われた内容に、私もあっけに取られてしまった。
ある意味斬新でインパクト抜群、オンリーワンな告白だったと思う。たぶん一生忘れられない。
私は瀬良さんを気持ち悪いだなんて思ってないし、瀬良さんに好かれたことを最悪だとか、自分がかわいそうだなんて感じてもいない。むしろ私でいいのかな、なんて照れくさく思うくらいだ。
しかしそれを受け入れるかどうかはまた別の話で、入社一年目の現在、彼氏が欲しいという気持ちは全然持っていなかった。一応やんわり断りはしたけど瀬良さんは諦めないつもりのようだし、私も同僚として、あるいは尊敬する先輩として瀬良さんのことを気に入っている。正直、一緒にいて楽しいって気持ちはあった。
あと、これだけネガティブな人にあんまり強く言ったら、何するかわからないとこあるし。
瀬良さんももうちょっと前向きになって、猫背やめて背筋しゃんと伸ばして、あと髪型でも変えてみたらけっこういい感じだと思うんだけどな。もったいない。
そういうふうに考えちゃう時点で、私にとっての瀬良さんはすでに放っておけない人なのかもしれない。
道の向こうに弊社が見えてくる。
三階建ての白壁のビルと隣接する平屋の工場、ビルで働いているのが事務の私で、製作の瀬良さんは工場勤務だ。『瀬良ゾーン』は相変わらずそこにあって、瀬良さんはいつも引きこもって作業に没頭しているらしい。らしいというか、よく覗きに行くから知ってるんだけど。
作業中の瀬良さんはまさに職人という感じで、眼差しも真剣で格好いいんだけどな。いつもあんな感じに振る舞ってたらいいのに。気持ち悪い、なんて自称しなくていいのに。
近づいてくる弊社の外観を眺めながらそんなことを思っていれば、
「青戸さん」
瀬良さんが久しぶりに声を発した。
「なんですか?」
答えながらそちらを向けば、長い前髪越しの目が一瞬挙動不審に泳ぐ。そうして視線をそらしつつ、それでも瀬良さんが答えた。
「十四日の夜、予定入ってたりします?」
三月十四日といえば、ホワイトデー。
そして平日だからふつうに出勤だった。もちろん退勤後は予定もない。
「ないですよ。残業がなければ」
正直に告げると、瀬良さんが決まり悪そうに頭を搔く。
「なら、青戸さんは甘いもの食べれます?」
「甘いもの、大好きです。もう洋でも和でもいけますよ」
「冷たいものは?」
「え、アイスとかですか? それも好きですけど」
「夜に甘くて冷たいもの食べるのも平気ですか?」
「ええ、まあ……家ではよく食べますよ」
なんだこの矢継ぎ早の質問。
戸惑う私に、彼はためらいがちに、ようやく本題を口にした。
「よかったら――いや、よくなかったらすっぱり断ってくれて全然構わないんですけど、俺、パフェ食べに行かなきゃいけないんですよ。けど男一人でパフェとか浮くじゃないですか。なんで、奢りますから青戸さんも一緒に来てもらえないかなって……」
そこまで言ってから初めて私の顔をちゃんと見る。
途端に卑屈な苦笑いが浮かんだ。
「迷惑だったらそう言っていいですよ、マジで」
「迷惑じゃないですよ」
私もとっさに答えてから、すぐに察した。
つまりこれは瀬良さん流のデートのお誘い、なんだろう。
いやそれはわかるけど、もうちょっといい誘い方があるのでは。
私も偉そうなことを言えるほど恋愛経験あるわけじゃないけど、この台詞で喜んでついていく女の子はまずいないと思う。
――全くいないわけでもないか。
「パフェって、どこのお店で食べるんですか?」
そう聞き返すと、瀬良さんはどこか意外そうに目をみはった。
その後で答えてくれる。
「店はもう決まってるんです。季節のフルーツパフェがとても美しい店がありまして、三月はイチゴ、それに桜のパフェが提供されているそうで。味もネットの口コミでは評判いいですよ」
「いいじゃないですか! 行きたいです!」
甘いものも冷たいものも大好きな私はそこで食いついた。パフェなんてもちろん大好きに決まっている。イチゴにしようか桜にしようか、今からめちゃくちゃ悩んでしまう。
瀬良さんはあっけに取られた様子でしばらく固まっていた。少ししてから、はっとしたようにまばたきを繰り返す。
「え、いいんですか」
「そう言いましたよ。食べに行きましょう、パフェ」
「マジですか。てっきり断られると思って、プレゼン画像も用意してきたんですよ」
変なところが準備のいい瀬良さんは、スマホの画面にそのプレゼン画像とやらを表示して私に見せてくれた。件のパフェはつやつやした真っ赤なイチゴのパフェで、薄いピンクのアイスの下はふわふわの生クリーム、さらにその下にはきめの細かいスポンジと甘酸っぱそうなイチゴソースと側面から見た層も実に美しいパフェだった。
「すごくおいしそうですね!」
「ええ、フォトジェニックなパフェですよ」
私とは違う褒め方をした瀬良さんは、今になってやっと実感が湧いたというように口元をゆるませる。
「青戸さんがいいと言ってくれるとは思いませんでした。いいんですか、ホワイトデーに俺なんかと一緒で」
「よくなかったら断ってますって」
自分から誘っておいてこんなにも卑屈なんだから笑ってしまう。やっぱり瀬良さん、オンリーワンな人だ。
ネガティブな言葉が続くのもよくないし、私は早々に話題を変えることにする。
「瀬良さんも甘いもの好きなんですね。パフェとか食べるイメージなかったかも」
言ってしまってから『パフェ食べない=キモオタのイメージ』とか思われたらどうしよう、と一瞬ひやりとしたものの、瀬良さんはそこで深くうなづいた。
「甘いものは好きですが、今回の主目的は鑑賞なんです」
「かんしょう……? えっと、パフェを?」
「はい」
ぽかんとする私に、きっぱりと言い切ってみせる。
「こんなに美しいパフェをただ食べるなんてもったいない。これは鑑賞品でもあるんですよ」
そう語る瀬良さんの眼差しは作業中と同じくらい真剣で、そうなると私にも察するものがある。
「もしかして、パフェのサンプルを作る気なんですか?」
「そうです」
「わあ!」
答えを聞いた私は思わず声を上げてしまった。
「それはぜひ見たいです、協力します! 瀬良さんなら絶対すごいの作れますよ!」
「……青戸さんの期待は裏切らないよう、がんばります」
瀬良さんが唇を結ぶ。
気を引き締めたのか、それとも照れ笑いを噛み殺したのかは残念ながらわからなかった。
ホワイトデー当日、私はつつがなく仕事を終えるとロッカールームへ飛び込んだ。
女子社員が少ない会社ゆえ、女子のロッカールームはすれ違うこともままならない激狭空間。私がそこでメイクを直していると、同じく勤務終わりの朝比奈さんが鏡を覗き込んできた。
「青戸さんって彼氏いたっけ?」
「いないですよ」
「ホワイトデーの退勤後に念入りメイクしてるから、そういうことかと思っちゃった」
まるで私が普段メイクも直さず帰っているみたいな言い方をなさる。
いつもだって直してますよ。まあ今日みたいにビューラー使ったりアイライン引き直したりまではしないけど。
「でも早く彼氏作った方いいよ」
朝比奈さんも自分の鏡を眺めつつ、丁寧に前髪を梳き始めている。
「青戸さん、瀬良さんにつけ狙われてるって評判だから」
あ、それは評判も何も事実です。
「よく話しかけられてるじゃない? あの人が女子社員に自ら話しかけるとかほんとレアだからね! もうすっかりお気に入りじゃない」
くすくす笑った朝比奈さんに、若輩者の私は生意気にもイラっとしてしまう。
そりゃ瀬良さんは風変わりな人だけど、そこまで物珍しがらなくてもいいのにな。
しかも私が好かれていることをさも気の毒そうに言うから――くしくも、瀬良さん自身がそう言うのと同じように。
とはいえここで『今夜はこれから瀬良さんとデートなんです』と馬鹿正直に話すのは悪手だ。
私は笑ってかわすことにする。
「まだ社会人なりたてなんで、彼氏欲しいって気持ちがないんですよね」
「そんなもん? 彼氏いない期間って不安にならない?」
「もう四年くらいいないので、いて安心っていうのがわからないんです」
「だめだめ! 瀬良さんがこじらせる前に逃げ切らないと!」
朝比奈さんは言い聞かせるように続けた。
「誰か他に当てはないの? 青戸さんならモテるでしょ?」
いやそんな全然なんですけど、モテたい欲求も今のところないし。
彼氏の当てと言うならそれこそ瀬良さんしかいない。
とはいえ前述の通り、そもそも彼氏を欲していない私は瀬良さんとの付き合い方にも若干悩んでいるところで――恋愛トークに便乗して、先輩に意見を求めてみることにする。
「実は最近、ちょっと告られたんですよ」
「え! いいじゃん、なんて答えたの?」
朝比奈さんはそれが瀬良さんのことだとは思いもしないのか、テンション上げて聞き返してきた。
「穏便に断りました」
「それで相手は?」
「まあ……諦めてはないみたいです。そういうふうに言われたので」
「えー、そんな一方的に追いかけられるの気分よくない?」
どうなんだろう。瀬良さんに好かれて嫌な気はしないけど、でも受け入れる気にもなってないからなあ。どっちかって言うと少し居心地が悪い。
「私も、その人のことは決して嫌いじゃないんです」
そこは強調して伝えておく。
「でも好きでもないっていうか……少なくとも恋愛感情ではないかなって。友達だったら全然オーケーなんですけどね」
好きでもない、というのは事実とは違うかもしれない。
放っておけない。尊敬してる。瀬良さんのことをもっといろんな人に見直してもらいたい。瀬良さんにも卑屈にならず胸を張っていて欲しい――そういう気持ちは、でも、恋愛的な『好き』ではないはずだ。
朝比奈さんはそこで小さく笑った。
「お試しで付き合ってみれば?」
「お、お試し?」
「そう。嫌悪感ない相手なら案外上手くいくもんだって。だめなら速攻振ればいいんだし」
「『お試しで付き合っちゃう?』っていい女向けの台詞じゃないですか!」
さすがに瀬良さんよりずっとポジティブなつもりだけど、それでもそんな台詞を吐けるほどの自己肯定感はない。
うろたえる私に、朝比奈さんはなおも諭してくる。
「いい大人なんだし、『付き合う』をそんな重く捉えなくてもいいでしょ」
「え……いや、そう……なんですか?」
「そうだよ! 友達スタートでも付き合ってみれば違う顔見えてきたりするもんだし、案外相性よくて上手くいったりすることあるよ。逆に友達ならよくても彼氏としてはだめだなって思うパターンもあるけどね」
熱心に説いてくる朝比奈さんに、私はどう答えていいのかわからなかった。
大人はそんなに軽くお付き合いできちゃうものなのか。私の恋愛観はまだまだおこちゃまということなんだろうか。確かにそういうので上手くいくケースもあるにはあるんだろうけど。
「とっとと彼氏作りなって、瀬良さんに付きまとわれる前に!」
朝比奈さんに背を押されつつ、メイクを直し終えた私はロッカールームを出る。
これで私が瀬良さんと『お試しで』付き合いだしたら、一体どんな反応するんだろうな。想像もつかなかったけど、それを見るために実行してみるつもりは毛頭なかった。
だって、そんなの失礼じゃないかって思うんだけど――そう感じるのは、私がまだ未熟だからなんだろうか。
瀬良さんとは現地で待ち合わせをしている。
あのパフェが食べられるお店は駅前デパートの上に入っているそうで、待ち合わせ場所はそのデパート前だ。会社を出た私が急ぎ足で向かえば、瀬良さんの姿は既にそこにあった。
春の装いとなったショーウインドウの前に佇んでいる彼は、社名入りブルゾンにスラックスというよく見る格好をしている。長い前髪のせいで顔は見えないものの、手元でスマホを弄っているはわかった。
帰宅ラッシュのこの時分はデパートのお客さんも出入りが激しく、誰かが脇を通る度に面を上げて確かめているようだったから――それに気づいた私は大慌てで駆け寄った。
「瀬良さん! お待たせしました!」
声を掛けるとすぐさまこちらを向いて、その表情がふっと和らぐ。
それからスマホをポケットにしまったかと思うと、おずおずと、妙に控えめに手を上げてくれた。
「ど、どうも……」
駆け寄る足音に描き消えそうな、小さな小さな挨拶だった。
私も笑って応じる。
「すみません、遅くなっちゃって。だいぶ待ちましたよね?」
「いえ全然。スマホ見てたらあっという間でした」
きっぱり言った瀬良さんは、その後でぎこちなく微笑む。
「それに、この辺りは俺にとってのホームなんです。たとえひとりでもキョドらずに済みます」
「ホーム?」
相変わらず独特な表現を使う人だ。怪訝に思う私に、瀬良さんが説明してくれる。
「休みの日によく来るんですよ、買い物とかで。特にここのデパート」
親指で背後のデパートを指差し、
「五階に手芸用品店が入ってるでしょう? ここには大変お世話になってまして、趣味の材料を揃えたり、ウインドウショッピングでインスピレーションをもらったりしてます」
「へえ、そうなんですね」
瀬良さんと手芸用品店。すごくしっくりくる組み合わせだ。
「ご趣味って、やっぱりサンプル作りとか?」
私が問うと、なぜか照れ隠しみたいな難しい表情をされた。
「それもありますし、模型も作ったりしますよ。物を作るのが好きなんです」
「瀬良さんらしいですね!」
趣味が仕事に結びついているなんて、すごくうらやましい。瀬良さんが趣味で作った模型も見てみたいな。
「そういうわけで、例の店までは問題なく道案内できます」
瀬良さんは胸を張ってみせる。
「ですが、ああいうシャレオツなカフェ的なものは初めてなので、入店後に不審な行動を取ったらすみません。事前に謝っときますね」
「不審な行動って、例えばなんですか」
「店員さんの問いかけに声が上擦ったり目が泳いだり、注文の際に噛んだりするかもしれません」
そのくらいなら別に、不審ってほどではない気がするけど。
「じゃあオーダーは私がしますよ。行きましょう!」
私が促すと瀬良さんは安心したのか、ほんのちょっと笑ってみせた。
デパートの三階にある件のカフェは少し混んでいて、私たちが入るとちょうど満席になった。
入り口にほど近い席に向かい合わせで座り、まずはメニューを確認する。事前にプレゼンされていた通り、今現在の『季節のパフェ』はイチゴパフェと桜のパフェ。メニュー写真でも美しい二種だけど、私はどちらにするかをここに来る前から決めていた。
「私、イチゴパフェにします」
「じゃあ、俺は桜で」
瀬良さんが間髪入れずに続いたので、私は店員さんを呼び、二人分のオーダーを済ませた。
お辞儀をした店員さんが立ち去った後、瀬良さんが胸を撫で下ろす。
「さすがスムーズな注文ですね。青戸さん、ありがとうございます」
「そんな、どうってことないですよ」
こんなことで褒められるのも照れるので、私は笑い飛ばした。
でも、瀬良さんは実際すごく緊張しているようだ。座り心地のいいソファー席でも肩身狭そうに縮こまっているし、視線はお客さんでいっぱいの店内をうろうろと彷徨っている。お店の中は暖かいのに、社名入りのブルゾンも着たままだった。
「な、なんか俺、浮いてません? 女性客ばかりだし……」
落ち着かない様子で周囲をきょろきょろしている様子は宣言通りだ。
「全然浮いてないです。堂々としてましょうよ」
実際、他のお客さんは八割がた女性だった。男性客だけというテーブルは見当たらず、瀬良さんが一人で来にくいと言ったのもちょっとわかる。
「リラックスしてください。とりあえずほら、上着脱いで」
私が勧めた時、瀬良さんはようやくブルゾンを着たままだったという事実に気づいたようだ。
「あ、そうですね」
それで一旦立ち上がると、毎日着ているブルゾンを脱ぎ始める。
上着の下は、案の定スーツだった。
無地の黒スーツはややタイトめの無駄のないデザインで、それが細身の瀬良さんによく似合っている。ネクタイの色は臙脂に近い赤、ドット柄なのも少し意外だ。スーツの袖口からは白シャツと、骨ばった細い手首が覗いている。
スタイルのいい人だとは思っていたけど、びっくりするほどスーツが似合っていた。
普段、作業着の瀬良さんしか見ていなかった私は思わず息を呑む。
当の本人はまだ落ち着かない様子で椅子に座った。
「一人で来なくて本当によかったです。圧倒的アウェイ感で死ぬとこだった」
そうぼやきながら、大きな手でネクタイを直す。長い指は器用にネクタイの歪みを修正し、その慣れた感じがまた意外に、そして格好よく思えた。
「瀬良さんはスーツが似合いますね」
思ったことを率直に告げたら、唐突すぎたんだろう。瀬良さんは目を丸くした。
「え、あ、どうも」
もごもごと言ってから、我に返ったように卑屈な笑みを浮かべる。
「初めて言われましたよ、そんなの」
「えー、まさか! 本当にすごく似合ってますよ、格好いいです」
これで一度も褒められたことない、なんてのは嘘だ。私は主張したけど、瀬良さんはきまりが悪そうだ。
「いいんですよ別に、無理に褒めてくれなくても」
「無理に褒めるってなんですか。お世辞じゃないですからね」
「はあ……」
彼は困ったように唸った後、ふと眉を顰めてみせる。
「もしかして青戸さん、スーツフェチなんですか?」
「え?」
急に変なこと聞いてくるから、一瞬言葉に詰まってしまった。
「フェチ……って観点で考えたことなかったです。どうなんだろ、確かに男性のスーツ姿は好きですけど、スーツ着てたらなんでもいいってわけでもないですし」
とりあえず考えて答える。
やっぱりそこは似合ってるかどうかが大事じゃないだろうか。とびきり顔のいい人が高級スーツ着てても、体型に合ってなかったら格好いいとは思えない。そこ行くと瀬良さんはちゃんと格好いい。
「瀬良さんはスタイルいいし、ちゃんと似合うと思ったから褒めたんですよ。信じてください」
私が念を押すと、瀬良さんはますます困ったように癖のある前髪を弄りだす。
「あの、そんなに褒められると俺、成仏しそうです……」
それは、どういう心境と捉えるのが正しいんだろう。
私が再び考え込んだタイミングで、店員さんが二人分のパフェを運んできた。
「イチゴパフェのお客様」
店員さんの呼びかけに、私は軽く手を上げながら応じる。
「はい」
目の前にそっと置かれたイチゴパフェは、画像で見るよりも更においしそうだった。パフェのてっぺんを飾るイチゴは真っ赤に熟して見るからに甘酸っぱそうだったし、薄いピンクのアイスはまるい球面に赤い果肉の筋が入っていて、さながら木星のような美しさだ。生クリームはふわっふわに泡立ててあるし、グラスの中で層を作るスポンジケーキやイチゴソースも実物の方がずっときれいで、芸術的だ。
「こちらは桜パフェでございます」
店員さんが、緊張気味の瀬良さんの前にもパフェを置く。
桜パフェはその名の通り桜をモチーフにしたパフェで、まずてっぺんには小さな三色だんごと桜アイス、それに桜の花をかたどったピンクの最中が飾られている。その下には和パフェらしい粒あんと抹茶寒天、こちらもふわふわの生クリーム、それに白くてしゃりしゃりのシャーベット――これはメニューによると甘酒シャーベットらしい。こっちもすごくおいしそうで、そしてやっぱりきれいだった。
「わあ……これが鑑賞品としてのパフェですね!」
店員さんが立ち去った後、私は感嘆を思わず口にする。
それに瀬良さんがうなづいてみせた。
「実物は一層素晴らしいですね。食べる前に撮影してもいいですか?」
「どうぞどうぞ。私も撮りたいです」
早速、瀬良さんがスマホを取り出し構えてみせる。まず桜パフェのほうを、正面から一度、角度を変えてもう一度、さらに両側面からも丁寧に撮影していた。
それからちらりと私を見たので、私は席を立つ。
「イチゴパフェも撮りますよね? 退きますよ」
「あ、いや……」
何か言いかけた瀬良さんが、すぐに言い直した。
「すみません、すぐ済ませます」
「ゆっくりどうぞ。溶けない程度に」
私は瀬良さんが座っていた席に腰を下ろし、彼がイチゴパフェを、こちらも丁寧に撮影するのを眺めていた。あの『瀬良ゾーン』での作業中と同じくらい真剣に、そして熱い眼差しでパフェを撮っている。本物の職人、という感じがする。
「お待たせしました」
瀬良さんの撮影が終わったので、私もパフェを、こっちは記念として撮らせてもらって――それからようやくお互いの席に戻り、パフェを食べはじめる。
たっぷり焦らされた後だからか、イチゴパフェは一口めから最高の味がした。
「おいしい!」
思わず声を上げる私に、瀬良さんもちょっとだけ口元をゆるませる。
「確かに、味も素晴らしいです」
「食べに来てよかったです。誘ってくださってありがとうございます!」
「お礼を言うのはこっちです」
長い指で細いスプーンを支える瀬良さんが、そこで考え込むように目を伏せた。
「実は、来年度の社内コンペに何を出そうか悩んでいるところで」
「コンペのテーマ、この時期から考えてるんですね」
「ええ。普通のサンプル作りとは違うので、アイディアのストックが必要なんです」
我が社では毎年度行われている社内コンペでは、製品として出される食品サンプルとは趣の違うものが求められている。食品サンプルは本物に忠実が基本で、食欲を刺激する程度の誇張しか許されないものだけど、コンペ作品においてはそうではなかった。
例えば今年度、瀬良さんが出品したのは『モーニングルーティン』というタイトルで、広げた新聞紙の記事から朝食が立体化して現れる作品だった。小麦の輸入に関する記事から焼きたてのトーストが、野菜の生育状況を伝える記事からはグリーンサラダが、そして鶏卵の広告からはオムレツがというように、新聞記事と食卓が密接に結びついていることを表現している作品だ。もちろんサンプルとしての出来映えも素晴らしく、今年度は準グランプリを獲得していたはずだった。
「今年度の瀬良さんの作品、好きでした。来年度も期待してます!」
私が言うと、彼ははずかしそうに首を竦める。
「はあ、どうも…次もぜひいいものを出したいです」
「なら、次のテーマはパフェなんですか?」
「候補の一つです。やっぱりアイディアが湧かないことにはどうしようもないんで」
コンペに出すならただのパフェを作るというわけにもいかないんだろう。製品にはない誇張や想像、架空の食品が許される世界だからこそ、その自由さに悩まされるのかもしれない。
「ま、没でもパフェでは何か作ってみたいですけどね」
瀬良さんは食べかけの桜パフェを見下ろして笑う。
「こんな素晴らしい造形美、ただ食べただけで形にしないのはもったいないです。コンペに出さないなら趣味で作るのもありかと思ってますよ」
それはそれで、ちょっともったいない気もするけど。
「せっかくの瀬良さんの作品、公開しないなんて惜しい気がします」
私が主張すると、彼はいやいやと手を振ってみせた。
「公開はしますよ。俺、模型垢やってるんで」
「もけいあか、って?」
「えっと、SNSで趣味の模型や食品サンプルを公開してるんです。仕事とは全く別に」
「――アカウント教えてください!」
それは見たいぜひ見たい。前のめりになって食いつく私に、瀬良さんは逆に身体を引いた。
「え……あの、構わないんですが、その……」
もごもごと言いにくそうにしている。
さすがに出過ぎた申し出だったかな。
「ご迷惑でしたら、いいですよ」
見てみたいのはやまやまで本当に本当に残念だけど、ただでさえ繊細な瀬良さんに無理強いはできない。そう思って告げたら、瀬良さんはますます気まずげに目を逸らす。
「迷惑じゃないんです。ただ、青戸さんに引かれないか心配で……」
「引いたりしません」
「や、違うんですよ。俺、SNSは本名じゃなくてハンネでやってて」
「ハンドルネーム、どんなのですか?」
すると瀬良さんは少し震えながら、顔を真っ赤にしながら、絞り出すような声で、
「が……『贋作師ウォルフガング三世』、です……」
と答えた。
私は引きはしないものの、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ笑ってしまった。
「すみません! 厨二ですみません!」
なぜか瀬良さんがぺこぺこ謝ってくる。
「全然いいですよ、なんか思ってたよりふつうに格好いいですし」
厨二という点は否定できないけど、予想を裏切るハンドルネームはむしろかわいい印象だった。
贋作師、か。瀬良さんにぴったりの名前だ。今着ている黒スーツにも似合う気がする。
「瀬良さんって自己評価低い人だから、もっと自虐的な名前を名乗ってるイメージでした」
「『底辺を這いつくばるゴミムシ野郎』とかですか?」
「そういうのすぐ出てくるんですね……私はいいと思いますよ、贋作師」
そう名乗ってるSNSでの瀬良さんがどんな感じなのか、見てみたくなった。あとで覗いてみよう。
瀬良さんはまだ赤い顔をしつつ、どこか安堵しているようだった。
「……青戸さんが笑ってくれる人でよかったです」
長い前髪越しに私をじっと見て、深い息をつく。
「気が向いたら模型垢、見てやってください。青戸さんに楽しんでもらえるものもあると思いますから」
「はい、絶対見ます」
私がそう答えたら、その表情が一瞬うれしそうにほころび――すぐにあわてて引き締めていたようなのが、おかしかった。
パフェを食べ終えてお店を出た後、瀬良さんは駅まで送ると言ってくれた。
「俺も電車で帰るんで」
「瀬良さんはどちらに帰られるんですか?」
路線一緒ならホームまで、のつもりで尋ねたら、たちまち気づかわしげな顔をされる。
「それ聞いたら、俺も青戸さんに聞き返しますよ」
「え、いいですよ」
「俺に最寄駅知られるの、怖くないです? 信用のない顔してるじゃないですか」
「もう、そんな顔してないですって! 瀬良さんは信用できる人です」
むしろそんなふうに聞き返してくる時点でびっくりするほど紳士だ。
私が笑いながら最寄り駅を告げると、瀬良さんは驚いた様子ながら自分も答えてくれた。だけどあいにく、違う路線だった。
「じゃあ駅までですね」
ちょっと残念、と思っている私がいて、自分でも少し意外に思う。駅前デパートから駅まではほんのわずかな距離だけで、エレベーターで下りて外へ出ればもう着いてしまうだろう。
二人でエレベーターに乗り込んでから、私はぼんやり今夜を振り返る。
瀬良さんと一緒に過ごすのは思っていた以上に楽しかった。
振り返ってみればお店の中でも私はよく笑っていたし、瀬良さんも私ほどではないけど笑ってくれていたようだ。あくまでも会社の中にいる時よりは、という感じではあったものの。
嫌いじゃないんだけどなあ。
むしろ知れば知るほど、瀬良さんという人に興味が湧いてくる。いつも作業着なのに実はスーツがめちゃくちゃ似合うとか、細いのにパフェをぺろりと食べちゃえるとか、SNSのアカウント名が格好よすぎるとか、本当に味わい深い人だ。自己評価の低さは相変わらずだけど、そんなふうに思うことないのになとつくづく思う。
この先も一緒に過ごしていたら、いつか好きになるのかな。
あるいは、『お試し』で付き合ってみたりしたら意外とハマったりとか――いや、でも、そういうのはやっぱり、私には――。
「――俺は」
私の思案に被せるようなタイミングで、ふと瀬良さんが口を開いた。
隣を見上げると、社名入りブルゾンを着込んだ彼はエレベーターパネルを睨んでいる。ゆっくりと下りていくエレベーターは、あと数秒で一階に着くだろう。
「青戸さんを笑わせられる人間でありたい、って思うんです」
そう続けた瀬良さんは、一回で停まったエレベーターから私を先に降ろしてくれた。
そして自らも降りた後、相変わらずこちらは見ずに語を継ぐ。
「なんでもいいんです。俺の作品見て喜んでくれるのでも、一緒においしいもの食べてうれしそうにしてくれるのでも、いっそ俺が変で気持ち悪い奴なのを面白がってくれるだけでもいいんです」
瀬良さんは気持ち悪くないです。
という言葉を、口にするのが一瞬遅れた。
「青戸さんが笑ってくれるのを見ているのが、好きで」
瀬良さんが、そんなふうに言ったからだ。
そのくせ彼はようやくこちらを見たかと思うと、急に卑屈な苦笑を浮かべる。
「いや、俺なんかがこんなこと言うの本当柄じゃないし、やっぱあざといですよね。自分でも気持ち悪いって思うんですよ。発言だけで告白テロ、黙ってるほうがいっそ健全だって」
急に早口になってまくし立てた後、今度はうつむいた。
「でも……青戸さんといると、言いたくなるんです。引かれそうなくらいあざとい言葉を、迷惑顧みずにぶつけたくなるんです。自己矛盾の塊です、俺は」
瀬良さんは、本当に自分に自信がない人なんだろう。
そんな人が、それでも、彼が言うところの『あざとい言葉』を私にぶつけたいと思ってくれるようになった。それはきっと、彼にとっても珍しくて、もしかしたら今までになかったような変化なのかもしれない。
瀬良さんは変わっていくかもしれない。
そんな予感がしていた。
これから先、彼が自分らしくないということをして、口にして、私と一緒にいるうちに――これまでとは違う瀬良さんを見られるようになるかもしれない。
私はそれを、見てみたいと不意に思った。
ちょうどエレベーターホールに人が来たから、私は瀬良さんの袖を引いて歩き出す。
そして、戸惑ったようについてきた彼に向かって告げた。
「今夜、すごく楽しかったです。また一緒にお出かけしませんか?」
途端に瀬良さんが目を丸くする。
すぐには声が出なかったのか、唇を震わせてからぎこちなく聞き返された。
「いいんですか!?」
「もちろんです!」
「俺、勘違いしますよ! よからぬ期待をしながら諦め悪く青戸さんにつきまといますよ!?」
いや言い方。そこまでひどい言い方しなくても。
「嫌だったらそもそもご一緒してないですから!」
私は笑う。
自分でも思った通り、それに彼が望む通り、瀬良さんといるとよく笑う。楽しいのも、うれしいのも、彼の言動がおかしいのもあるけど――どれにしたって悪い気はしてない。だから、また一緒に出かけたい。
私の顔を見た瀬良さんが、次の瞬間、面を伏せた。
「……かわいい」
そうつぶやいた後、ずいぶん苦しげに息をつく。
「なんか、あざとい通り越して気持ち悪い褒め言葉しか浮かんでこないので黙りますが、今すごく俺、喜んでます。うれしいです」
目も合わせずに言われてしまったけど、私はその直前の言葉の方が、気になってしょうがなかった。
贋作師さんだっていうのに、瀬良さんは不思議と正直な人だ。
そういうところがいいのかもしれないな、と今夜思いはじめた私がいる。