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きっと変わらない

「じゃあ、もう一緒に住み始めてるんだ?」
 住所変更の届け出をしたら、店長は笑顔で聞き返してきた。
「そうなんです。駒込でいい部屋見つけて」
 私も上機嫌で答える。
 内心が表情に滲み出ていたんだろうか。そこで店長は冷やかすように微笑んだ。
「幸せいっぱいって顔してる」
「えへへー」
 否定はしない。事実、今がこの上なく幸せだった。

 この夏からはじまった同棲生活は、本当に楽しくて仕方なかった。元から半同棲っぽくなっていたというのもあるけど、ハルトとの毎日は何の悩みも苦労もなく、むしろ今までしてなかったのが不思議なくらい自然に過ごせた。
 朝は一緒に起きて、シフトが合う時は一緒に出勤。そうでない時はどちらかが笑顔で見送る。退勤時間が合えば一緒に帰ってきたり、途中でどっかに寄り道してごはん食べたり。もちろんどちらかが家で出迎えて『おかえり』を言う楽しみもある。
 どちらかが休みの日には溜まった家事を片づけたり、食料品などの買い出しを済ませたりしておく。休みが合えば最大限一緒に過ごす。私も駒込周辺をもっと知っておきたかったし、ハルトと一緒に行ってみたい場所やお店も東京にはたくさんあった。
 彼のいる毎日は何もかもが幸せで満たされている。
 そりゃ顔にだって出るってもんだ。

「同棲なんていいことばかりじゃないんだぜ」
 などと、わかったようなことを言う人もいる。例えば北道さんだ。
 昔みたいなうざ絡みこそ減ったものの、今度はしたり顔で恋愛哲学ぽいものを語り聞かせてくるようになってきた。
「始終一緒にいりゃ嫌な面も見えてくるし飽きだって来る。そのうち息が詰まるって思うかもな」
 うざくはないけど、苦笑しないようにするのがいつも大変だった。
 そんなことすら知らない恋愛初心者だって思われてんのかな。これでもけっこう苦労してきたんだけどだ。
「彼に関しては、そんな心配はしてないです」
 即座に私が否定すれば、どこか不服そうな顔をされた。
「なんでだよ」
「だって、彼とはもう一年近く付き合ってるんですよ? 部屋行ったのだって何度もあるし、今さら同棲始めたからって目につく嫌な面とかないですって」
 まあ、ハルトに嫌な面とかそもそもないけど。
 けど、それ以上にこの一年で実感した。私にはハルトがいないとだめだ。
 彼がいなかったら私は、『男なんて信用できないから』って理由でずっとひとりぼっちだっただろう。それは単なる孤独じゃなくて、わかった気になって何も見えなくなってたひどい勘違いだった。

 誰かを信じるのは簡単なことじゃない。きっと、好きになるより難しい。
 だけど信じるためのきっかけは自分で作らなくちゃいけない。たった一歩、『信じてみようか』って思う必要があった。それが正解でも間違いでも、その一歩がなければ何も始まらない。
 私はそれを、他でもないハルトに教えてもらったのだ。

「出たよ、のろけが」
 北道さんは半笑いだ。
「近頃はほんとそればっかだよな。口を開けば福浦のことべた褒めだし、でれでれとだらしねえ顔してるし。天野ってそんなバカップルキャラだったか?」
 呆れた様子で肩をすくめる彼を、笑顔の店長が肘でつつく。
「やっかまないやっかまない。北道くんこそもうじき結婚するんでしょ?」
「い、いや、別にやっかんでないですよ!」
「そう? ま、今後は所帯持ちの余裕が身に着くといいね」
 そんなふうに諭す店長こそ、余裕たっぷりの大人な態度だ。
 一方の北道さんは拗ねたように顔をしかめていたけど、やがて気を取り直したのかこう言った。
「で、天野たちは駒込のどの辺に住んでんだ? 遊びに行ってやろうか」
「遠慮しときまーす」
「あ! お前、先輩の厚意を一蹴するのかよ」
「北道さんが新居に招いてくれたら考えてもいいですよ」
 逆に切り返したら、なぜか言葉に詰まっていた。
 結婚が決まった北道さんは、どうやら瀬川さんの尻に敷かれ気味らしい。このふたりも馴れ初めが馴れ初めなだけにいろいろあったんだろうけど、それでもやっぱり一年近く付き合ってるんだから上手くはいってるみたいだ。
 幸せの形は人それぞれだろう。私とハルトだって、最初は『友達から』の付き合いだった。人には馴れ初めを絶対言えっこないし言う気もないけど、今じゃふつうにカップルやってるから不思議なものだ。

 この日はハルトがお休みで、私は早番上がりだった。
 なんとなくやり込められた感じになった北道さんと、いつもどおりの優しい店長に挨拶をして、私はいい気分で退勤する。
「お先に失礼しまーす」
 店を出てからスマホを確認した。
 予想していたけど、ハルトからメッセージが入っていた。
『夕飯はタコライスを作ったよ。羽菜のぶんもあるから、お腹空いてたらどうぞ』
 ちゃんとおいしそうな画像つきだからたまらない。私は大喜びで、仕事が終わった旨とこれから帰ること、そして晩ごはんはぜひ食べたいって希望を送信する。
『おつかれさま! 待ってるから、気をつけてゆっくり帰っておいで』
 ハルトはそう言ってくれたけど、私はできる限り急いで帰りたかった。
 だって彼に早く会いたかったし、最高に居心地のいいふたりの部屋も待っててくれるからだ。

 池袋から山手線に乗って駒込へ。
 同棲前から何度となく乗った路線が、今では本当の帰り道になった。
 意識よりも先に身体のほうが馴染んでいて、何も考えなくても駒込駅の改札をすんなり抜けられる。ただ仕事帰りに駅から出て駅前の街並みを目にした時、不思議な感慨が胸を満たすのが新鮮だった。
 ここが今では私の帰る街。
 そして、ハルトが私を待っていてくれる街。

 ふたりで住んでいる2DKのマンションは、駅から歩いて十五分のところにある。
 前にハルトが借りていた部屋よりも駅から遠くなってしまったけど、彼は『誤差の範囲内だよ』なんて笑い飛ばしていた。実際、十五分なんて全然近い。帰りたい気持ちを逸らせ早足で歩けば、あっという間に着いてしまう。
 取り立てて特徴のないマンションの外観と、部屋の扉だけがまだ見慣れない。だけどこれも直に慣れて、ここが私の家だって当たり前のように思うんだろう。
 玄関のドアを開けて中に入ると、
「羽菜、おかえり」
 すぐにハルトが出迎えに来て、優しい笑顔で言ってくれる。
 その顔を見ただけで一日ぶんの労働の疲れが吹っ飛んでしまう。
「ただいま!」
 威勢よく玄関へ飛び込んだ私に、彼が尋ねてきた。
「おつかれさま。先ごはんにする? それともシャワー浴びる?」
「シャワー浴びてくる! さっぱりしてから食べたほうがおいしいし」
 せっかく彼が用意しててくれたごはんだ。ベストなコンディションで食べたほうがよりおいしいとわかっていたから、靴を脱いだ私は速攻でバスルームへ向かう。

 新しい部屋のバスルームは、残念ながら理想よりは広くない。
 バスタブはふたりで浸かるとみっちみちになってしまう幅しかなかった。それでも洗い場は背中流しっこができるくらいの面積を確保した。そうでもないとふたりで一緒にお風呂に入れない。
 今夜はひとりでシャワーを浴びて、それからダイニングへ向かうと、ハルトはキッチンに立って私の夕ご飯の準備をしてくれていた。
 キッチンは並んで料理をすることもあるだろうからと、やっぱりそれなりの広さを選んだ。お互いアパレルという業種なだけあってどうしても手持ち服はいっぱいあるし減らせないし、個々の居室はどうしても必要だった。そのぶんリビングをあきらめ、代わりに居心地よさそうなダイニングのある部屋を粘り強く探して勝ち取った。

 ダイニングには同棲前にふたりで選んだ新しいテーブルが置いてある。
 もちろん椅子も改めて二脚、ちゃんとお揃いのを買った。
 それに向かい合わせに座って、私はハルトお手製のタコライスを食べた。ぴりっと辛めのトマトソースで煮込んだ挽肉が白米に合うし、ソースの上でほんの少しとろけたチーズと、添えられたざく切りのトマトやレタスが甘く感じられてすごくおいしい。ハルトはこういうワンプレート料理が得意で、彼にご飯を作ってもらえる日は本当に幸せだった。
「労働の後のごはんは胃に染みるね……!」
 唸る私に、ハルトはおかしそうに笑ってみせる。
「そんなにお腹空いてた?」
「今日忙しくて、お昼軽くしか食べられなかったんだ」
「サマーセールでお客様入ってるからな。俺も明日は忙しそうだ」
 明日のシフトは彼が遅番、私は入れ違いでお休みだ。休みが合わないのは残念だけど、朝はのんびり過ごせそうだからまあよしとしておく。
 お互いシフト制の職場な以上、こうして一緒に過ごせるささやかな時間を大切にしていきたいねって、ふたりで言いあっていた。

「やっぱ同棲して正解だったね」
 タコライスをあっという間に平らげた後、私は食後のお茶を飲みながら言った。
「正解?」
 ハルトが目をしばたたかせる。
「うん。『おかえり』って出迎えてもらえるのとか、ごはん作っといてもらえるのとか、あと純粋にいつも顔を合わせていられるのとか、すごくうれしいし」
「そう言ってもらえて、俺もうれしいよ」
 今までだって時間が許す限り一緒に過ごしてはいたけど、生活そのものがふたりの共有時間になるのは大きい。それが苦にならないほど相性がいいのもわかっていたし、同棲はじめてよかったなって改めて思う。
「でも俺は、もっと先のことも考えてる」
 ハルトはそう言って、お茶を一口飲んだ。
 それから軽く微笑み、続けた。
「もう少ししたら結婚しないか?」
 彼がその単語を何気なく、本当に自然な調子で口にしたので、危うく聞き違えたかと思った。
「け……っこん?」
 初めて聞いた言葉みたいに片言で問い返すと、彼はしっかり顎を引く。
「ああ。羽菜と夫婦になりたい」
「え、えー……本気で?」
「本気じゃなかったら言わないよ」
 ハルトが苦笑したので、どうやらガチで本気らしいとわかった。
 でも、なんていうか。個人的には全くの予想外、想定外のプロポーズだった。
「そうなんだ……えっと、うれしいんだけど、私あんまり結婚にポジティブなイメージないからさ。正直今までほとんど考えたことなくて……」
 想定外すぎて、返事がしどろもどろになってしまう。
 世の中にはもちろん幸せでなんのトラブルもない夫婦だっているのだろう。というかそっちのほうが断然多そうだけど、何しろ一番身近な夫婦であるうちの親がああだった。だから私は結婚にいいイメージもなければ、ハルトとの関係をそういうふうに捉えたこともなかった。そんな前提がなければ、きっと大喜びで即答していたに違いないのに。
「羽菜はそう言うだろうと思ってた」
 ハルトも私の事情は知っているし、落ち着いた様子で応じる。
「それなら俺たちで、結婚へのイメージをポジティブなものに変えていこうよ。俺たちなら絶対幸せになれる」
「それは、私もそう思うけど」
 同棲をはじめて、彼のいる毎日に幸せを感じている折も折だ。このまま結婚したって悪いことにはならないだろう。
「でもさ、同棲じゃなくて結婚するメリットがわからないっていうか」
 私はそのメリットを考えてみたけど、とりあえずひとつしか思い浮かばなかった。
「生ハメしても子供できちゃう心配要らないってことくらいしか……」
「さすがにもっとあるよ! ちゃんとしたメリットが!」
 すかさずハルトが突っ込んで、それから生真面目に諭してきた。
「子供のこともそうだけど、夫婦でいたほうが将来の心配もないだろ。経済的にも安定するし控除もあるし、周囲に認めてもらうことで社会的に保証されるっていうのもそうじゃないか?」
「確かにそうだね」
「それに何より、家族になれる」
 ハルトは私を見て、温かく笑いかけてくる。
「俺は羽菜とだったら、笑いの絶えない家庭を築けるって信じてる。ふたりでいる時、いつも明るい気持ちにさせてもらってるから。結婚してもそれは変わらないよ。そうだろ?」

 その言葉は不思議と、すとんと胸に落ちてきた。
 きっと変わらない。私もそう思う。夫婦になったって私たちはこのまま、ちょっとしたことで幸せ噛み締めたり馬鹿なこと言って笑いあったり、時々お互いに支えあったりしながら生きていくんだろう。
 だったら、結婚してもいいんじゃないかって。
 ネガティブなイメージは彼の言うとおり、それこそ私たちで払拭していくしかない。むしろ今まで全部そうだった。私の中で凝り固まっていたほの暗い思いは、全部ハルトと一緒にぶち壊してきた。

「……うん」
 素直にうなづいた私に、彼は言う。
「これからも一生、傍にいてくれ」
「うん」
「結婚しよう」
「うん。しよう」
 こういう時どうやって答えるのがいいのかな。想定してなかったからわからなくて、前のめりなオウム返しみたいになった。
 それでもハルトは笑ってくれて、
「……よかった」
 って言いながら私の手をぎゅっと握り締めてくれたから、今さらのように幸せな気持ちが込み上げてくる。
 彼に出会えて本当によかった。改めて思った。
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