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こんな人生も全然悪くない

 実家に滞在していたのは、正味二十時間ほどだった。
 私もハルトも二日から仕事だし、しかも初売りってことでちょっと忙しい。お年始の挨拶をして美羽にお年玉をあげて、おせちとお雑煮を食べた後はそのままお暇することにした。

「……もう帰っちゃうの?」
 別れ際、玄関先まで見送りに出てきた美羽はとても寂しそうだった。
「また来るよ。またお年玉持ってね」
 私が声をかけると、彼女はこくんとうなづく。
「うん……来年のお正月?」
「そうだね、そのくらいに」
「遠いよう……」
 しょんぼりする美羽の頭に、母がそっと手を乗せる。そして私に向かって釘を差すように言った。
「もっと帰ってきたら? 近いんだし、いつでも来ていいんだからね」
 それで私はちらりと父を窺い見る。
 昨夜のやり取りのせいか、見送りに立つ父はどこか神妙な面持ちでいた。私は抱えたわだかまりをひととおりぶつけてすっきりした気分だったけど、代わりに父がそれを抱え込む羽目になったのかもしれない。
 だとしても悔いはない。
 少なくとも私はこれで、ようやく前に進めるのだから。
「じゃあ、夏くらいに帰ってくるよ」
 晴れやかな気持ちで私は言い、とたんに母と美羽がそろって安堵の表情を浮かべた。
「そうしなさい、待ってるから」
「やったあ! お姉ちゃん、約束だよ!」
 ぴょんと飛び跳ねた美羽が、その後でハルトのほうを真っ直ぐに見つめる。
「ハルトお兄ちゃんも一緒?」
「え? えっと……」
 私はまた来てもらっても全然構わないけど、ハルトはどうだろう。彼女の実家なんてそうそう頻繁に来たがってくれるものだろうか。
 答えあぐねて彼のほうを窺えば、彼はにっこり笑って答えた。
「また来てもいいなら。羽菜お姉ちゃんと一緒に遊びに来るよ」
「もちろんいいよ!」
 美羽はもう一度、ぴょんと大きく飛び跳ねる。
 母もうれしそうに微笑んで、頭を下げた。
「ぜひお越しください、大歓迎です」
「ありがとうございます。本当に、ごちそうさまでした」
 ハルトがお辞儀を返し、それから父に目を向ける。
 ずっと黙っていた父が、そこでようやく口を開いた。
「これからも羽菜と仲良くしていただければ……福浦さん、どうかよろしくお願いいたします」
 懇願するようなその言葉に、ハルトは間髪入れず答えてくれた。
「ええ、こちらこそ」

 帰りの横浜線の車内で、私は父の最後の言葉の意味をぼんやり考えていた。
 父も、娘の幸せは願ってくれたみたいだ。
 仮に――絶対ありえないことだけど、ハルトがそんなことするはずないって信じてるけど――私が母と同じ目に遭ったら、父は怒るのだろうか。自分のことを棚に上げ、許せないと思うだろうか。それとも自分のしたことが因果みたいに巡ってきたって、後悔するのかもしれないけど。
 私は『自業自得』とか『因果応報』って言葉をそれほど信じてない。悪いことした人が昔話みたいに酷い目に遭うなんてうまい話はそうそうなくて、だいたいはやったもん勝ちなのがこの世の原理ってやつだ。そんなルールがあるなら、私の元カレらもハルトの元カノもちょっとは痛い目見てるはずだろう。
 そんなものはないと思うからこそ、私は父にありったけの思いをぶつけたのだ。

「……眠い?」
 隣に座るハルトが、物思いにふける私の顔を覗き込んでくる。
 どこか心配そうなその表情に、私はかぶりを振って応えた。
「ううん、平気。ちょっと考え事してただけ」
「そうか。疲れたのかなと思ったよ」
 吊り広告の『謹賀新年』が電車の動きに合わせて揺れている。車内は空いていたけど、ちらほらと晴れ着姿の乗客がいた。破魔矢を持った人を見かけるのも元日ならではだ。
 私たちもこれから、帰りついでに初詣へ行くつもりだった。
「ハルトこそ気疲れしなかった? うちの家族、やかましかったでしょ?」
 逆にそう尋ねたら、彼はちょっとおかしそうに笑ってみせる。
「やかましいとは感じなかったな。賑やかで楽しかった、お母さんの手料理おいしかったし」
 彼の笑顔が救いに思えて、私もつられて微笑んだ。
 初めて訪ねる彼女の実家なんて緊張もしただろうに、優しく答えてくれるハルトが本当に好きだ。思ったとおり美羽ともあっさり打ち解けてくれたし、またいつか彼を連れて帰ることがあるかもしれないな。
 私のほうこそ、いつか彼のご両親とお兄さんに挨拶をしないとだけど――できればそれが近いうちに叶えばいいと思う。
「うちの母はね」
 私は今朝のやり取りを彼に打ち明けた。
「昔のこと、『まだ終わってない』って言ってたよ」
 ハルトがこちらを向くのがわかった。
「終わりなんてない、一生続いていくものなのかも……って。私も同じ思いなんだ」
「そういうものだよ」
 彼の反応は早かった。
 きっぱりと、迷いのない口調で言った。
「終わりなんてない。ずっと忘れられない。忘れてしまえるのは傷つけたほうだけだ」
「そうだね。父は忘れていたけど、母は私と同じで、そうじゃないんだってわかったよ」
 まだ終わっていない両親が、この先どうなるのかはわからない。
 かすがいとなる美羽がいる間はたぶん、このまま一緒にいるだろう。でもその後はどうか。もしかしたら、忘れられない記憶が両親の関係に影響を及ぼすこともあるかもしれない。
「私はさ、両親がどうするかってことに口を挟むつもりはないんだ」
 私の言いたいことは全部言った。
 いろんな傷をずいぶん長く抱え込んで、引きずったまま生きてきたけど、ようやく前を向いて幸せになれそうだった。だから父を責めるつもりも、母にどうしろと勧めるつもりもない。
「ただもし……もしもだよ、美羽がこの先、両親の昔のことを知る機会が来てしまったら――その時は姉として、あの子をできる限り支えてあげたいって思うかな」
 彼女が生まれる前の話だ。今はまだ知らないだろうし、ずっと知らずにいられるかもしれない。きっとそっちのほうがいいんだろうけど、うっかり知ってしまう可能性だってあるだろう。
 そんな時くらいは、手を差し伸べてあげられる姉でありたい。
 かつて傷ついた人間は、その傷を受けた時の痛みをよくわかっている。
「まあ、その時には美羽も大人になってるだろうし、私もけっこういい歳だろうけどね」
 照れ隠しみたいに言ったら、ハルトは静かに私の手を握ってきた。
「羽菜はいいお姉さんだな」
「そうでもないって」
 単に、私がして欲しかったことをあの子にしてあげたいだけだ。
 あの頃の私も、手を差し伸べてくれる誰かが欲しかった。ひとりでずるずると鬱屈を溜め込んでいる間、誰かに助けてほしかった。そうしたら私も、もう少し違う人生を歩めていたかもしれない。
 もっとも、そうなってたらハルトとはこんなふうに一緒にいられなかっただろう。だめ人間な私だけど、いっぱい傷ついたしばかなこともやってきたけど、今となってはそれもアリかなと思う。幸せだしね。
「俺もいるよ」
 温かい手のハルトが、ささやく声で言ってくれた。
「羽菜が美羽ちゃんの助けになるなら、俺は羽菜を支えるよ。いつでも頼ってほしい」
 彼がいる。
 それだけで、こんな人生も全然悪くないって思う。
「私だって支えるよ。いつだって甘えていいんだからね!」
 張り合うみたいに言い返したら、ハルトはうれしそうに目を細めた。
「今でも十分支えてもらってるけど、ありがとう。頼もしいな」
 それも私だって同じ、なんだけどな。
 元日早々、同じ気持ちでいるっていうのも縁起がいい気がする。

 東京に戻った私たちは、予定どおりその足で初詣に出かけた。
 大都会とあって東京には神社の有名どころがいっぱいある。とは言えあまりにメジャーなところは午後ともなると相当混み合ってるだろうし、迷ったら地元の神社に行けって話も聞いたことがあるので、今年は駒込でお参りすることにした。
 向かったのは駒込天祖神社。ここだって大きな鳥居と立派な社殿の趣ある神社で、私もハルトも厳かな気持ちで手を合わせた。
 新年のお願い事はもちろん決まっている。商売繁盛、というか仕事運も欲しいし、今年もかわいい服にいっぱい出会いたいって思うし、もちろん金運はあればあるほどいいもんだし、健康運、対人運、旅行運とかも捨てがたい。
 だけど、やっぱり一番の願いは、
『ハルトをずっと信じていられますように』
 これしかなかった。
 彼がどういう人かはもう知っている。だから私は、彼を信じていられる強さが欲しい。
 神頼みもしたし、あとは心がけ次第ってところだろう。

 ちなみにハルトは、
「羽菜とずっと一緒にいられますように、ってお願いした」
 だそうだ。
「欲がないね。もっと大それたこと願ってもよかったんじゃない?」
「俺にとっては何を差し置いても叶えたい願いだよ」
 彼は真剣な調子で言うけど、私はそれを混ぜっ返すように胸を張る。
「神様が叶える前に私が叶えてしんぜよう」
「それはすごいな。ぜひお願いするよ、羽菜」
 私に向かって、ハルトは手を合わせてきた。
「どうか羽菜と、末永く楽しく暮らしていけますように」
 声に出して告げられた願い事に、私は大きくうなづく。
「任せなさい。ずっとずうっと傍にいるからね」
「よろしく頼むよ、俺の神様」
 なんだか彼は冗談でもない様子だ。熱心にお参りしてくるから、言い出した側とは言えだんだん気恥ずかしくなってくる。
「神ほどご利益があるといいんだけどね」
 思わず首をすくめる私に、ハルトはそっと睫毛を伏せてつぶやいた。
「あったよ。俺にとっては、羽菜はずっと神様だった」
「えー? 大げさだなあ」
「そんなことない。ずっと前から、そうだった」
 彼の唇から白い息がこぼれて、一月の冷たい空に消えていく。
 私も同じようにふわふわの息を吐きながら、彼の思うとおりでありたいと改めて願った。
 神様だっていうのは本当に大げさかもしれないけど、お互いに支えあえる、助けあえる関係を、今後も築いていけたらいいなって。

 一年の最初にしっかりお願いしておいたからか、それからも私たちは幸せな日々を過ごした。
 仕事は相変わらず忙しくてなかなか休みの合う日もなかったけど、それでもたまにはシフトを合わせてふたりでゆっくり過ごしたり、どっちかが次の日遅番だったら泊まりに行ったり――まあ、これまでとさして変わらないとも言うけど、とにかくそんな調子で全く障害もなく、順調な交際ってやつを続けてきた。
 その一方で、私たちはかねてからの計画をいよいよ実行に移しつつあった。
 ふたりで駒込あたりに部屋を借りて、同棲を始めちゃおう、という計画だ。
 大晦日に父から許可はもらったし――多少どさくさ紛れではあったけどその後物言いがつくってこともなかったし、母なんかは電話で『それで、お部屋探ししてるの?』と聞いてくることもあったりして、反対されるそぶりもなかった。まあ私もすでにいい大人だし、どこに出しても問題ない彼氏を紹介したのもあるし、むしろ一緒に住んでくれるほうが安心って思われたのかもしれない。
 ちなみにまだお会いしたことのないハルトのご両親も、同棲に関しては特に反対されなかったそうだ。お兄さんがずいぶんと口を利いてくださったみたいで、『明るくてしっかりしててチャーミングな彼女さんなんでしょ?』って言われたとか。若干ハードル上げられた気がしなくもないが、ぜひそうありたいです。

 そんなわけで私とハルトは部屋探しを始め、その年の夏前には手頃な2DKを見つけた。
 そしてその夏のうちにお互い引っ越して、同棲生活をスタートさせることにした。
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