今が幸せだから
実家の一階、リビングの隣には和室があって、お客様が来た時に泊まってもらうのはだいたいそこだ。でも今夜、その部屋は私とハルトが泊まっていた。畳の上に布団をふたつ並べて敷いて、一応、別々の布団に寝ている。
昔、二階にあった私の部屋はもうない。あるにはあるんだけど、残っているのは小学校入学の時に買ってもらった学習机くらいのもので、それ以外の家具はすっかり入れ替わり母の趣味部屋と化していた。だから私が帰ってくると、いつも『お客様』の部屋に寝ることになる。
すでに除夜の鐘は鳴り終わり、一月一日と新年を迎えていた。
両親は二階にある寝室に引っ込んでいたし、たぶんもう寝入っただろう。美羽はもう少し前に、眠気に耐えきれず自分の部屋に入っていた。
『年明けるまで起きてる……』
と眠そうな声で言い残していったものの、母によるとベッドに入って五分で撃沈したそうだ。年越しまで起きられるようになるのはもう少し大きくなってから、かな。とりあえず朝になったら新年の挨拶して、それからお年玉をあげよう。
ハルトもさすがに気疲れしただろうし、お酒だって入ってる。ぼちぼち寝た頃かなと思って隣を見たら、彼もこっちを見ていた。枕の上に頬杖をついているのが、豆球のオレンジがかった光の中に浮かんでいる。
「眠れないの?」
小声で尋ねたら、曖昧に首をかしげてみせた。
「いや……少し眠いけど」
眠いけど、起きてなきゃいけない。そういうふうに言いたげだった。
私もそれは心得ていたから、身体を彼のほうに傾ける。
「私と父がどんな話をしたか、聞いてくれるんだね」
「ああ。気になってた」
眠いと言う割に、ハルトの声は真剣そのものだった。気にかけてくれたってことがそれだけで手に取るようにわかる。まあ、そうじゃなかったら実家までなんて来てくれないか。
「ありがとう」
私は感謝を告げ、それから打ち明けた。
「なんか、忘れてたみたい」
「忘れてた?」
「うん。私が浮気のこと口にして初めて、そんなこともあったって思い出した感じだった。もちろん罪の意識がないわけじゃなくて、すぐに謝られたけどね」
でも、忘れてたんだ、って思った。
意外にも失望とか、怒りとか、悲しみとか、そういう負の感情はなかった。
そういうものだよなって腑に落ちただけだ。
そういうものだ。みんな、誰かに傷つけられたことはいつまでも忘れられないのに、傷つけたことは忘れてしまう。
「私はずっと覚えてたのにね」
そうつぶやくと、ハルトが布団から出した手をこちらに差し伸べてきた。
私はその手を握る。すがるみたいに、ぎゅっと。
「傷つかなかったか?」
「ううん、意外と平気」
「そっか……」
「父にとってはもう過去の、遠い記憶でしかないんだろうなって思ったよ。私が覚えてるなんて考えもしなかったみたい。そういうものなんだろうね」
短く、ハルトが息をつくのが聞こえた。
彼にだって思うところがあるんだろう。彼が傷つけられた時の記憶は、まだ古傷と呼べるほどでもないはずだった。
傷つけた側が忘れてしまっても、傷つけられたほうはそうもいかない。忘れたいのに忘れられない。いつまでも傷んで疼いて、ふとした時に蘇って身動きが取れなくなる。
でも、私は忘れるための努力をする。
ずっと忘れられなくたって、考えないようにすることはできる。
「だから、父にも言ったんだ。私はハルトと一緒にいる」
繋いだ手は酔いのせいかほんのり温かい。
その高めの体温が、冷え込む夜には何より心地よかった。
「ハルトと一緒に楽しい時間過ごして、昔の嫌な記憶なんて思い出す暇もなくなるほど幸せになる。そうするのが私のためにも一番いいって思うから、そうする。父が覚えてないような記憶を、いつまでも引きずってたってしょうがないもんね」
「ああ」
ハルトが大きくうなづいてくれる。
「俺も羽菜と一緒にいる。ふたりで幸せになろう」
「うん、そうだね」
彼が一緒なら心配は要らない。
あの日の記憶を、私は少しずつ考えないようになるだろう。
その代わりにハルトのことを考え、思い、記憶していくだろう。
完全に忘れることはできなくても、心を幸せな思い出ばかりでいっぱいにすることはできる。余計なことなんて思い出す余裕もないくらいに。
「ありがとね、ハルト」
私は改めて感謝を告げる。
そして隣の布団にするりと潜り込み、腕を広げて迎え入れてくれたハルトにしがみつく。布団の中で足を絡めると、足先までほんのり温かかった。
「一緒に寝てもいい?」
そう尋ねたら、彼は私の髪を撫でながら答える。
「だめなんて言うはずがない」
「っていうか、しちゃおうか? もうたぶんみんな寝てるし」
「……それはさすがに」
だめとは言わなかったけど、ハルトはやんわり懸念を示した。
「彼女の実家でそういうことするのはちょっとな」
「確かに、私も立場逆だったらする度胸はないかも」
「度胸の問題なのか、これ」
彼は声を押し殺して笑う。
それから私を抱き締め直し、大きく息をついてみせた。
「今年もよろしく、羽菜」
「うん。今年も、その先もずっとよろしくね」
「もちろん、ずっとだ。一生傍にいてくれ」
新年の挨拶を布団の中で言いあって、それだけで満たされた気持ちになる。
私たちはそうして抱き締めあったまま、どちらからともなく眠りに就いた。
気がつくと夜は明けていて、私はお雑煮のいい匂いで目を覚ました。
我が家のお雑煮は澄まし汁仕立てで、角餅を煮込む前に軽く焼く派。干し椎茸とかまぼこと鶏肉、それに三つ葉が入る。なんだかんだこのお雑煮しか食べたことがないけど、母が作るのはおいしいし好きだった。
とは言え私ももう二十五、そして今年は彼氏連れだ。お雑煮の匂いがしてきたら起きて手伝いのひとつもしなくちゃいけないだろう。
そう思って布団から起き上がると、まだ私を抱き締めていたハルトもうっすら目を開けた。
「ん……もう朝……?」
「まだ寝てていいよ」
時刻は午前七時前。年越しで夜更かしした次の日だ、そんなに早起きする必要もない。
「準備できたら起こすから、もう少し寝てて」
耳元でささやくと、ハルトの重そうな瞼はとろとろと下りていく。いつもなら私が起こされる側だから、眠そうな彼を見るのも新鮮だった。かわいい。
顔を洗ってからキッチンへ向かうと、母がこちらを振り向いた。
「新年早々、ずいぶん早起きなのね」
「新年くらいはね。何か手伝う?」
「じゃあ三つ葉切ってくれる?」
「はーい」
私は包丁を手に取り、青々とした三つ葉の束をざくざく切っていく。
コンロの上ではお雑煮のつゆがふつふつと煮えている。もうかまぼこも鶏肉も椎茸だって投入済みだ。ぼちぼちお餅も焼く頃合いだろう。
「福浦さん、昨夜だいぶ飲んでたでしょう? 二日酔いしてない?」
「たぶん大丈夫だよ。お酒強いし」
「羽菜もけっこう飲むのね。びっくりしちゃった」
「まあ、店の飲み会とかあるしね」
実家でお酒を飲んだことなんてほとんどなかったから、母はだいぶ驚いていたようだ。まあでも、昨夜は楽しく飲めた。今朝の気分も悪くない、肩の荷が下りた感じだし。
「そういえばね」
おせち料理を三段重に詰めながら、母がぽつりと切り出した。
「昨夜、お父さんに謝られたのよ。昔のこと、悪かったって」
「え」
引きつった声が出て、あわてて咳払いをする。
切った三つ葉を小鉢にまとめる間も、母は冷静な声で続けた。
「あの人、羽菜が覚えてたなんて思いもしなかったみたい。ひどいことをしたって、今さら悔やんで落ち込んでたわ」
ちらりと横目で盗み見た顔は、複雑そうに微笑んでいる。
菜箸を動かす手は規則正しく、動揺の色は窺えなかった。
「ごめんね。羽菜だって傷ついてたのよね」
「そんな、お母さんが謝ることじゃ……」
私はあわてて首を横に振る。
「お父さんにだって謝ってもらいたくて言ったんじゃないよ。私は私で自分の気持ちに区切りをつけたかっただけだから」
身勝手な思いかもしれないけど、ここで踏ん切りをつけないと一生引きずる気がしたからだ。
謝ってほしいだけなら、もっと早くに言ってた。そういうんじゃない。謝られたって、忘れられるわけでもない。
「……そう」
母は納得したのかどうか、溜息みたいな声で言った。
そして、完成したおせち重の前で肩をすくめる。
「お父さんはとっくの昔に終わったことだって思ってるのよね。もう過ぎたことだって」
その見立ては間違ってない。
でも私にとってはそうじゃなかった。それに、
「お母さんは?」
尋ねたら、母はゆっくり目を伏せる。
「終わったことではない、かな。過ぎてもないし」
「……そうだよね」
「むしろ、終わりなんてないのかもね。生きてる限りは覚えてるから終わりもしない。そうやって一生かけて、ずっと付き合ってかなくちゃいけない記憶なのかもね」
あの時、母が負った傷は私の比ではないはずだ。
終わりなんてない、という言葉も真実なんだろう。母もまた、忘れられないままなんだろう。
「お母さんは、どうしてお父さんを許したの?」
新年早々のぶしつけな問いに、母は案外あっさりと口を開いた。
「理由はいろいろあるんだけどね。一番は、幸せになってほしくなかったから」
聞こえた答えもまた、意外なものだった。
「お父さんに、ってこと?」
「正確には、他の女とってことね。私たちを悲しませておいて、のうのうと幸せになるなんて許せないじゃない? 一番の理由はそれ」
そう言ってから、母は少し情けない顔で微笑んだ。
「意地になったって言ってもいいのかもね。でもそれが、今日まで終わらず続いてるのよ」
母の今の言葉が、本当の本音なのかはわからない。
母なりの矜持や照れ隠しやごまかしもあるのかもしれない。成人したとはいえ娘に対し、夫の浮気をどうのこうのと正直に言うのも抵抗はあるだろう。だから額面どおりに受け取らなくてもいいのかもしれない。
だけど、わかる気がした。
終わりなんてないのだ。古傷を背負って、それでもずっと生きていくしかない。母はそのために意地を張り、今日まで抱え続けてきた。
「お母さんは、それで幸せになれた?」
衝動的に尋ねた私に、母は抵抗なくうなづいた。
「ええ。かわいい美羽が生まれてきたし、羽菜もいい子に育ってくれたしね。お父さんもすっかり真面目になったようだし……裏でどう思ってるかはわからないけどね」
いい子、と言われると自信のない私ではあるけど、母の答えにはほっとした。
忘れられない傷があっても、それを抱えていくしかない生き方でも、不幸だなんてことはない。幸せにだってなれる。私はそう信じている。
そしてたぶん母にとって、美羽は『嫌なことを考えない』ための素晴らしい存在になったのだろう。子はかすがい、ってやつだったのかもしれない。
「福浦さんは真面目そうだから、心配は要らないわよね」
母がそう続けた。
その口調は印象からの保証というより、私に対する強い確認に聞こえた。
だから、胸を張って答える。
「大丈夫。ハルトはその点、信じられる人だから」
私は彼を信じてる。
そんなふうに思える誰かが現れるなんて、去年の今頃は想像すらしてなかった。でもそれが、ご縁ってやつなのかもしれない。
「そうね。羽菜は見る目がありそうだもの」
母は胸を撫で下ろして、心底ほっとしたようだった。
見る目あるかなあ……。ハルトに関してはもう、奇跡のような引き当て方をしたと思ってるけど。
その見る目か強運かを培うまでにいろんな失敗、挫折、あきらめもあったんだけど――。
でもいいんだ。今が幸せだから。
そしてそういう嫌な記憶もひっくるめて全部、考えないようにさせてくれる人と出会ったから。