私の幸せを願ってくれた
ハルトには、どこにでも溶け込める才能があるのかもしれない。気がつくと彼はうちの実家にもすんなり馴染んでいて、父と語りあい母とも談笑し、人見知りなはずの美羽とも一緒に遊ぶようになっていた。
「お兄ちゃん、見てこれ」
美羽がゲーム機を持ち出してきて、画面をハルトに見せる。
いつもは『一日一時間』と厳命されているゲームだけど、大晦日は特別らしい。今ハマっているのはショップ店員になってお客様をコーデする着せ替えゲームだそうで、ショップ店員の我々としてはその忠実さが楽しくもあり、若干身につまされるようでもあった。
「この店の内装、うちの店に似てない?」
「似てる。マネキンコーデもこないだやったばかり……」
せっかくの休みに仕事を思い出す私とハルトをよそに、美羽は相変わらず屈託ない。
「美羽も大人になったらお姉ちゃんみたいに働きたい!」
そう宣言しては楽しそうにゲームを進めている。時々私やハルトにもゲーム機を貸してくれて、お客様への接客を試させてくれた。
ハルトは普段からゲームをする人だけあって、飲み込みも早いようだ。あまり迷うことなくコーデを成功させて、ゲーム内のお客様にお買い上げされていた。
「わあ、お兄ちゃん上手!」
「すごいすごい、上手いじゃん!」
美羽と私に称賛されて、ハルトは照れ笑いを浮かべた。
「日頃の経験が活きたかな」
そう言って私にゲーム機を手渡してきたから、ならばこちらも負けられぬとゲーム内お客様のコーデに挑む。
結果、全身総額百万円にも及ぶコーデを提案した私に対し、お客様は『また今度にします』と引き気味に帰っていった――。
「お姉ちゃん欲張りすぎ!」
「百万円はさすがに高すぎるだろ……」
「だってセレブな雰囲気でって言われたし! ゲームだから売り上げ稼ぎたいじゃん!」
そう、あくまでゲームだから。リアル店舗でこれやったらクレームものだし店長にも叱られちゃうし、そもそもうちの店では冬物フルコーデでも六桁行くことさえまずないけど、架空のお客様にはちょっと吹っかけてみたくなった。なのに選ぶだけ選ばせて買ってもらえないとか変なとこリアルなんだから困る。
「羽菜、まさか仕事でもそんな売り方してるんじゃないでしょうね」
母がガチな心配モードに入ったので、私はあわてて否定した。
「店ではちゃんとお客様第一だよ! だよね、ハルト?」
「うん。だから余計にびっくりしたよ」
ハルトは笑ってくれたけど、母に続いて父までもが不安そうにする。
「あまり強引に売りつけるのはよくないぞ」
「してないってば、もー!」
ゲームのプレイ姿勢でここまで言われるとは思わなくて、私もげらげら笑ってしまった。美羽も、それに両親までおかしそうにしていて、こんな一家団欒みたいな空気が温かくも少し不思議に思えた。
ハルトがいるだけで、居心地悪かった実家がちっとも息苦しくない。私の居場所なんてないと思っていたのに、本当に不思議だった。
そのうち夜も更け、美羽は母と一緒にお風呂に入りにバスルームへ消えた。
リビングには私とハルト、それに父が残り、それでもなお会話が弾んでいた。
「うちは娘ふたりだから、息子がいなくて。娘の彼氏とお酒を飲むのは初めてで……」
相好を崩す父はすでにビールから水割りに切り替えている。ハルトと私のぶんまで作ってくれて、私は父の水割りを生まれて初めて飲んだ。
「いきなりお邪魔したのに温かく迎えてくださって、ありがとうございます」
ハルトが頭を下げると、父は苦笑気味に手を振った。
「娘にご縁があったことは我々もうれしいですし、それもこんな気立てのいい方で安心しています。こちらこそ、今後とも娘をよろしくお願いします」
「ええ、もちろんです」
間髪入れずうなづいたハルトは、その後で私のほうを見る。
彼もまたほっとした様子で微笑んでいて、私も少し気が楽になった。
反対されるとか思っていたわけではないけど、こうも好意的に捉えてもらえるとやっぱりありがたい。ハルトはどこに出してもはずかしくない素敵な人だから、心配もあまりなかったけど。
「羽菜も、福浦さんと仲良くな」
父にそう言われた時は、ちょっと反応に困った。
でもハルトが隣にいたから、すぐに顎を引いた。
「大丈夫だよ。普段からすっごく仲いいし」
「同い年なら話も合うんだろうな。父さんと母さんと同じだ」
うちの両親も同い年だ。付き合いは長くて、学生時代からだと聞いている。
様々な危機を乗り越えた末、娘ふたりに恵まれた幸せな夫婦。今となってはそう言ってもいいのかもしれない。
「……あれ」
何杯めかの水割りを作ろうとした父が、冷凍庫を開けて声を上げた。
「氷を切らしてる。買ってこようか」
すると、とっさにハルトが立ち上がった。
「俺が行きますよ。コンビニ、近くにありますよね」
「場所わかる? 私が行くよ」
ここは私の地元で実家だ。土地勘のないハルトに任せるのも、と思ったけど、彼は優しくかぶりを振った。
「来る途中に見かけたし、大丈夫。いざとなったら地図見るし」
「外寒いよ。一緒に行こうか」
さらに私が申し出ると、ハルトはこちらをじっと見て、少し意味ありげに微笑んだ。
「羽菜に任せるよ。ここにいたいなら、いてもいいし」
それがどういう意味の微笑みか、私はすんなり理解することができた。
父とサシで話をするなら今だ。
十四の時から溜め込んできたなんとも言えない気持ち、癒えることのない古傷を、このまましまい込んでおくのもいいのかもしれない。
だけど、ずるずる引きずってばかりで前に進めないなら、いっそぶつけるべきだろう。
喧嘩をしたいわけじゃない。ハルトにはああ言ったけど、私には父を殴るつもりなんてない。
ただ、深い話をしたかった。
今まで見てみぬふりをしてきた古傷に、今こそちゃんと向き合いたかった。
結局、ハルトはひとりでコンビニへ出かけて行った。
出がけに外まで見送ったら、『十五分くらいで戻るよ』と笑顔で言ってくれた。
それからリビングに戻ると、父は気づかわしげにお寿司の残りをつまんでいた。
「福浦さん、大丈夫なのか? この辺は来たことないんだろう?」
「うん。でもスマホあれば迷うことないよ」
そう答えて、私も腰を下ろす。
テーブルの角を挟んで、私と父は斜めに向かい合っている。こうしてふたりきりになることなんて年に一度の帰省でもめったになく、リビングには気まずい沈黙が落ちた。
もちろん、父自身が気まずく思っているかどうかはわからない。
ただ、次に口を開くまで、言葉に迷うような顔つきをしていたように見えた。
「福浦さん、いい人で安心したよ」
父が言った。
「羽菜が初めて連れてくる彼氏だからな。どんな人か、ずっと気になっていた」
「安心した?」
私が聞き返すと、即座にうなづかれた。
「ああ、とても」
「……そうなんだ」
安心するんだ。そういうものなんだって、少し驚く思いもあった。
父は娘の幸せを願っている。私からすると、不思議なくらい。
「お父さんがどう思うか、ずっと想像できなくて。連れてくるのが怖かったんだよ」
内心を打ち明けると、父は少し笑った。
「羽菜がそう思ってたとは意外だな」
「そうかな。私が十四歳の時のこと、覚えてる?」
「ん?」
「お母さんが私を連れて家を出た時のこと。この家に、知らない女の人が来た時のこと」
発端は、ちょうどこのリビングだった。
その女の人を家に招き入れてしまったのは、私だった。
にわかに、父の顔がこわばる。
「羽菜……」
忘れてしまったわけではなかったようだ。そのことに、安堵と不安の両方を抱いた。
「私はずっと覚えてるよ。あの時のことも、それからしばらく家に帰れなかったことも」
どんどん血の気が引いていく父の顔に、罪悪感も覚えた。
せっかく和やかに過ごしていた大晦日、こんな話題を持ち出す必要があっただろうか。私ひとりが我慢して、飲み込んでいればよかったことなのに、蒸し返して父の気分まで悪くするなんてひどい娘だ。
でも、私は前に進みたかった。
「私が彼氏を連れていったら、お父さん、どんな反応するだろうって思った。お父さんも娘には、いい人と結ばれてほしいって思うのかなって。浮気するような人とは付き合ってほしくないって思うのかなって……」
いくら考えてもわからなかった。想像もつかなかった。
「羽菜、あの時は……すまなかった」
沈痛な面持ちの父が、謝罪の言葉を振り絞る。
「お前まで傷つけてしまって……そんなにも思いつめていたとは知らなかった」
だけど父がうなだれると、こちらまで嫌な、胸の痛みを覚えるから奇妙だ。
「謝ってほしいわけじゃないよ」
私は、首を横に振る。
「上手く言えないけど、そういうのじゃない。私にとってお父さんはお父さんだし、憎んでも恨んでもない。不幸になってほしいなんて思ってない。むしろお母さんと、美羽と一緒にいつまでも仲良く、幸せでいてほしいって願ってる」
昔の話だ。謝られる義理ももはやない。
むしろ、すっかり沈静化した話題を蒸し返してしまった私のほうがよっぽどひどい。
「けど、私は忘れられないんだ」
傷つけられた人間は、そのことをずっと忘れられない。
傷つけた人間が忘れてしまったって、あるいはうやむやになってしまったって、ずっと。
「ずっと覚えてた。事あるごとに思い出しては考えてた。男の人はみんな浮気するものだって思ってた頃もあったよ」
私の目の前で、父が痛みに耐えるような顔をする。
「そんなことは……」
「うん、そうだね。そんなことない。少なくとも、ハルトはそんな人じゃなかった」
誰も信じられないと思ってた私が、今では一番彼を信じてる。
ハルトはそんな人じゃない。
「私はたぶんこの先も、ずっと忘れられないと思う。あの時のこと、あの時の気持ちも」
たぶん、一生。
おばあちゃんになったって思い出してはうじうじしてそうだ。
「だけど、ハルトが教えてくれたの。つらい記憶は忘れられないけど、考えないようにしていくことはできるって。他に楽しいことやうれしいこと、幸せな時間があれば、つらい記憶を思い出す暇も少しずつ減っていくだろうって。全くのゼロにはならないだろうけど、でも私は、できる限り思い出さないようになりたかった」
できれば今日で最後がいい。
もちろんそれは無理だけど、最後にしたいという思いで、父には決意と本音をぶつけておく。
「だから私、ハルトと一緒にいるよ」
私がそう宣言すると、父は硬い表情でこちらをじっと見つめてきた。
「羽菜……」
「お父さんは安心してて。私がしてほしいのは、それだけだから」
私の幸せを願ってくれた。
それがわかったから、あとはもう何も要らない。
「本当にすまなかった。償えることならなんでもする」
父が声を震わせたから、私はあわてて応じた。
「そんなのいいよ。私ももういい大人だし、親にしてほしいことなんて今さらないし」
そもそもいい大人が、十四の頃の古傷を後生大事に抱えて生きてることのほうがおかしい。
でも、忘れられなかった。だから今日は帰ってきた。
「ただ、私は美羽が傷つくのだけは嫌だから」
それだけは強く言い含めておく。
「お父さんは美羽と、もちろんお母さんを大事にしてあげて。他に望むのはそのくらいだよ」
「だけど、羽菜は……」
「私はもう二十五だよ。親に何かねだる歳じゃないよ」
これで最後って気持ちでぶちまけた思いだ。
あとは一家三人で、ずっと幸せに暮らしててほしい。
「ようやくこれで、前に進めそうな気がするから、あとはいいんだ」
しゃべり疲れてきた私は、溜息の後で水割りを一口飲む。
生まれて初めての水割りは、外で飲むより濃いめで、ほろ苦く思えた。
父はそれからしばらくの間、放心したように空のグラスを見つめていた。
その表情からは罪の意識がありありと窺えたし、一方でひどく驚いているようでもあった。私があの時のことを引きずっているって、考えもしなかったのかもしれない。嫌な言い方をすれば、もう禊は済んだと思っていたんだろう。
浮気を許す許さないは私が決めることじゃない。母が決めて、私はそれに従うしかなかった。
無力な子供だった私には、それを覚えていることしかできなかった。
今の私はもう大人で、そしてようやくあの時のことを飲み込めるようになった。
「ごめんね、年の瀬にこんな話して」
うつむく姿に詫びると、父は弾かれたように顔を上げた。
「いや。羽菜が謝ることじゃない、悪いのは私だ。羽菜がこんなにも長く抱え込んでいたことに、ずっと気づけなかった」
言えなかったんだから、気づけないのも当然だ。
私が黙ってかぶりを振ると、父が身を乗り出すように言った。
「何か、お父さんにできることがあれば言ってくれ」
「そういうのいいったら。もう美羽たち上がってくるし、ふつうにしててよ」
「でも、娘を苦しめていたのに何もしないなんて……」
父は、本当に何も知らなかったんだな。
傷つけた人間ってそんなものか。そうだったな。だったらしょうがないか。
そろそろ美羽たちのお風呂も済む頃だろうし、ハルトだって帰ってくるだろう。そう思った私は、わざと明るく切り出した。
「じゃあさ、私とハルト、来年同棲しようと思ってるんだ。それ許してくれない?」
「え……ええ!?」
「いいよね?」
私が迫ると、父は戸惑った様子ながらも顎を引く。
「いや、まあ……いい大人同士だし、止める理由はないが……」
「やったね!」
ちょうどその時玄関のドアが開き、
「ただいま戻りました。氷、買ってきましたよ」
コート姿のハルトがリビングに入ってきたので、私は飛びつくように打ち明ける。
「ハルト、同棲オッケーだって!」
「え!? そ、そういう話してたの?」
「話の流れでね!」
「……お許しいただけるんですか?」
ハルトが怪訝そうな顔で聞き返せば、父は弱々しい笑みで答えた。
「娘が幸せになれるなら、是非ともお願いいたします」
「はい。必ず幸せにします」
そこで即答できるところが、ハルトらしいなって思った。