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十二月三十一日

 仕事納めを乗り切った十二月三十一日。
 私とハルトは、普段あまり乗らない横浜線の車内にいた。

 クリスマスと年末セールの多忙さを乗り切った身体はずいぶん疲労が蓄積しているようで、昼下がりの電車に揺られていると瞼が重くなってくる。それでも居眠りにまで至らないのは得も言われぬ緊張感のせいだろう。
「羽菜、眠い?」
 隣に座るハルトが顔を覗き込んできた。
 彼は今日のために髪を切ってきたそうで、いつもより短い前髪の下で形のいい瞳がしっかり見える。本日も非の打ちどころのない顔立ちだ。
 一泊二日の短い里帰りの予定で、お互い荷物は多くない。ただ手ぶらで行くのも何だからと彼は手土産を用意してきたらしい。東京名物であるお菓子の紙袋も提げている。
「昨夜もあんまり寝てなくて……」
 私はあくびを噛み殺しながら答えた。
「やっぱり緊張してるのか?」
「そりゃまあ、多少は」
 本来なら私はただの帰省、一方でハルトは付き合ってる彼女の実家にご挨拶に行くところで、緊張しているというなら彼のほうこそだと思う。
 だけど私にとっては帰りにくい実家なわけで――様々な思いや記憶が胸の奥を駆け巡っては落ち着かない気持ちになる。

 父は、ハルトを見てなんと言うだろう。
 私は、そんな父にどんな言葉を返せるだろう。
 そんなことばかり考えてしまって、一向に前に進めない。

 とは言え、全くのアウェー戦に挑むハルトのことも気遣うべきだろう。
 私は空元気で彼に笑いかけた。
「ハルトこそ緊張してるでしょ?」
 とたんにハルトも表情を和ませる。
「多少はな」
「多少なんだ? すごい度胸じゃない」
「羽菜が隣にいてくれるから、不安なことはそうないよ」
 彼は迷いなく言い切ってみせた。
 私だってハルトがいてくれるからこそ、こうして帰ろうと思った。そうでなければ彼を口実に今年は帰らないつもりでいたくらいだ。だから、腹をくくらなくては。
 未だにぐらぐら揺れる私の心を見抜いてか、ハルトはそっと背中に触れてきた。
「俺は羽菜の味方だよ」
 そんなふうにも言ってくれた。
「羽菜は思うとおりにすればいい。俺が傍にいるから」
 彼の言葉がすごく心強い。こんなふうに寄りかかれる人が私にもいてくれるなんて、たまらなく幸せなことだ。
「ありがとう……」
 私は少し気が楽になり、大きく息をついた。
「もし私が父と殴り合いになったら止めてね」
「もちろ――え? 殴り合う!?」
 うなづきかけたハルトが目を丸くしてたのがおかしくて、さらに気が紛れた。
 吹き出しつつ答えておく。
「まあそこまではいかないと思うけど、口論にはなるかも」
 さすがに暴力沙汰は現実的ではないものの、受け答え次第ではかっとなってしまうこともあるかもしれない。
 どちらかと言えば、そんな深いやり取りすらできずに終わる可能性のほうが高いのかな。あれからずっと、父とはうわべだけの会話しかしてこなかった。今さら帰省したところであの頃の話を聞きだせるとも思えない。
 でもどうせ帰るなら、このもやもやした気持ちはちゃんと終わらせておきたかった。

 久方ぶりの横浜は、冬の空気に混じって微かな潮の香りがした。
 東京にだって海はあるものの、潮風を浴びる機会はあまりない。単にご縁がないというだけだろうけど、そのお蔭で私にとって潮の香りはイコール故郷の匂いだ。
 ほぼ一年ぶりの地元をハルトに案内しつつ、まずは実家へ向かう。
 母にはすでに連絡を入れてあって、迎えに行こうかとも言ってくれた。でも大晦日の忙しい時に頼むのも気が引けたし、きっと道だって混んでる。そう思って断った。

 実家の前には、母と妹の美羽が待っていた。
 到着の時刻を見計らって外に出てきたんだろうけど、十二月の寒空の下だ。ふたりとも寒そうだったし、美羽は鼻まで真っ赤になっていた。
「もう、中で待っててよかったのに」
 第一声でたしなめた私に、トレンチコート姿の母は唇を尖らせる。
「久々に会うんだもの、楽しみにしてたの」
 そして隣に立つ美羽に向かって小首をかしげた。
「早くお姉ちゃんに会いたかったんだもの、ねー?」
「うん!」
 美羽は相変わらずの屈託のなさでうなづく。マフラーしてイヤーマフしてポンチョまで着込んで、白い息を吐きながら私に言った。
「お帰りなさい、お姉ちゃん!」
「ただいま」
 妹に懐かれるのは、なんだかんだ言ってもやっぱりうれしい。私もつい笑顔になる。
 もっともそんな美羽も、初対面のハルトにはそうもいかなかった。私の隣に立つ彼の存在を認めると、急に笑顔がしぼんで母にぴったりくっついてしまう。
「こちらの方が福浦さんね」
 母が彼に目を向けたので、私も紹介しておく。
「そう、福浦陽登さん。言ってたと思うけど同じ職場の人」
「福浦です、はじめまして」
 すかさず彼が進み出て、母と美羽に頭を下げる。
 そして持ってきた紙袋を差し出しながら、にこやかに続けた。
「本日はお招きいただきありがとうございます。これ、お菓子なんですがよかったら」
 さすがは接客業、こういう局面での挨拶にもそつがない。
「あら、お気遣いさせちゃって。ありがとうございます」
 母もうれしそうにお菓子を受け取り、そしてまた妹と顔を見合わせる。
「美羽の好きなお菓子だって、あとでいただこうね。ほら、美羽からもお礼を言って」
 それで美羽はハルトに対し、ぎこちないお辞儀をした。
「……ありがとうございました」
「どういたしまして。おいしく食べてもらえたらうれしいな」
 ハルトが笑顔を向けると、美羽の緊張に強張る口元にもかろうじて微笑が浮かんだ。まだ目は泳いでいるし顔も赤いけど、この分だと帰る頃には慣れてるパターンだろう。
 思ってたとおり、ハルトに関しては何も心配要らないようだ。
「さ、そろそろ入りましょうか。家の中のほうが暖かいものね」
 母がうれしそうに私たちを促す。
「お父さんも待ってるしね。羽菜の彼氏を見てみたくてたまらなかったんですって」
「――ふうん」
 私は適当に相槌を打った。
 内心でどう思ったか、顔に出ないように努めていた。ハルトがそっとこちらをうかがってきたから、それには笑って応じておく。
 見てみたくてたまらなかった、か。
 父は今、どんな気持ちでいるのかな。

 家の中に入ると、ほのかに懐かしい匂いがした。
 すでにお正月飾りの置かれたリビングには、お客様を迎える準備もできていたようだ。テーブルにはお寿司の折り詰めやオードブルが蓋をしたまま置かれていたし、箸やコップも人数分並んでいた。中身の豪勢さをちらりと見て、奮発したのかななんて思う。
 父はリビングのソファーに座っていて、私たちが入っていくとすぐに立ち上がった。
 そしてハルトを見るなり笑みを浮かべる。
「ああいらっしゃい、福浦さん」
 今日の父は小ぎれいな格好をしていた。アラン模様のアッシュグレイのセーターにベージュのツータックパンツ、髪も整髪料できちんと固めている。いつもはもっとラフな格好だった気がする――いや、一年ぶりだから『いつも』なんてもうわからないけど。
 ただ顔つきには不思議と緊張の色があった。背筋を伸ばして続ける。
「羽菜の父です、はじめまして」
「はじめまして、福浦です」
 ハルトが会釈と共に応じると、父は少しだけ安堵の表情になる。
「羽菜とは、同じお店で働かれていると伺ってました。いつも娘がお世話になっております」
 ふつうの父親らしいコメントだ。
 こっそりと、心の中で思う。
「いえ、お世話になっているのは俺のほうです」
 そこでハルトはかぶりを振り、
「羽菜さんにはいつも職場で支えてもらってるんです。一緒にシフト入ると明るく挨拶してくれて、笑顔も素敵だし、働くのが楽しくなります」
 と続けたので、横で聞いてた私がびっくりした。
「そんなこと思ってたの!?」
「ああ。言ったことなかったっけ?」
「あった……かなあ」
 なんか挨拶を褒められた覚えはある。ずいぶん昔の話だ。
 ハルト的にはそういうところが大事なのかな、真面目な人だし。急に褒められてちょっと照れるけど。
 なんにせよ、父はいたく感心した様子でしきりにうなづいてみせた。
「羽菜が立派に働いているようで安心しました。私どもはまだ羽菜の店に行ったことがなくて……『はずかしいから来なくていい』って言うんですよ」
「そりゃそうだよ、もういい大人なんだから……」
 私が思わず口を挟めば、とたんに父が苦笑いを浮かべる。
「そうは言っても、一度くらいは見てみたいだろ。娘がどんなふうに働いてるのかなんにも知らないのも親として歯がゆいものだし、気がかりにもなる。なあ、母さん?」
 そう言って母に水を向けると、母も似たような苦笑を見せた。
「たしかに一度くらいはねえ。羽菜がしっかり働いてるって言うなら、なおさら見てみたいじゃない」
 父と視線を交わしあう、その動作に不自然さはあまりない。
 どこにでもいる夫婦の、当たり前のように通じあう仕草という感じだ。気まずくてこっちが目を逸らしたくなる。
「心配しなくてもちゃんとやってるよ。ね、ハルト」
 私が負けじとハルトに尋ねれば、彼は笑顔になって答える。
「ええ。先日、うちの兄が店に来ていって羽菜さんに服を選んでもらったんですが、親身に接客してもらって気に入る服を選べたってすごく喜んでました。センスもいいし、頼れる同僚なんです」
 あの時はけっこう緊張したけどね。
 でもがんばってよかったな。ハルトはそういうところもちゃんとアピールして、いっぱい褒めてくれるし。
「へえ……」
 父と母は目をしばたたかせている。
 ふたりが知らない私のことを、ハルトはたくさん知っている。いや、両親からすれば今の私はほとんど知らない存在だって言ってもいいのかもしれない。家を出てすでに八年が経っていて、帰ってくるのも年に一度きりだとすれば、知らないことだらけなのも当然のはずだ。
 両親が、そんな私のことを知りたがっているのが不思議だった。
「ねえ、お腹空いた……」
 会話の輪に加わらなかった美羽が、テーブルの前に座り込む。彼女の視線は折り詰めのお寿司とオードブルに注がれていて、いかにも食べたそうな、恨めしげな顔つきをしていた。
「ああ、そうだな。立ち話もなんだし」
「じゃあ乾杯しましょうか。福浦さんも座ってください、お飲み物は何がいいの?」
 両親はそう言ってハルトと私に座布団を勧めてくる。
 時刻は午後五時少し前、夕飯にはちょっと早いくらいだけど、大晦日ならこんなものだろう。飲み物を受け取ってテーブルを囲んだ私たちは、まずは形式どおりに乾杯をした。両親とハルトと私がビール、美羽だけはぶどうジュースだ。

 実家で飲むビールは、いつも苦い味がする。
 いつの間にかここに馴染めなくなった自分を思い知らされるからだろうか。
「美羽、サーモン食べる!」
 まだ好き嫌いのある美羽はお寿司の時、家族みんなのサーモンをひとり占めしたがる。
 でもそれは両親にとって都合がよくて、代わりにふたりの好きなホタテやイクラや光り物をもらえるのがありがたいらしく、いつも快く譲ってあげている。
「美羽は本当にサーモンが好きだな」
「うん、大好き!」
「おいしそうに食べるものね、見ててうれしくなっちゃう」
 両親は美羽のことを本当に大切にしている。慈しみ育てているというのが見ていてもわかる。
 別にそれはいいことだし、だからって私が大切にされてないなんて言いたいわけでもない。二十五にもなって妹と一緒の扱いを望む気もない。
 でも、私がいようがいまいが変わりないよな、という気持ちはある。 
 天野家は三人だけで十分幸せそうだ。私が帰ってこなくたって――そんなことを思いながら苦いビールを呷っていると、不意にハルトが口を開いた。
「美羽ちゃん、サーモン好きなら俺のぶんも食べる?」
「え」
 いきなり話しかけられて、絶賛人見知り中の美羽はびっくりしたようだ。
 目を丸くしつつ、だけどサーモンの誘惑には勝てないらしい。
「い、いいの?」
「もちろん。持って行っていいよ」
 ハルトが折り詰めを手で指し示すと、たちまち顔を明るくした美羽がサーモンを箸でつまむ。
「ちょ、ちょっと……美羽、お礼言いなさい」
 さすがに両親はあわてていたし、私も思わず口を開いた。
「ハルト、お客様なのに気を遣わなくったって……」
「そういうんじゃないよ」
 すかさず彼はかぶりを振る。
「本当においしそうに食べるから、譲ってあげたくなって。美羽ちゃん、羽菜に似てるよな」
 え、そういう理由?
 一瞬言葉に詰まる私をよそに、美羽ははにかみながら言った。
「ありがとうございます!」
「どういたしまして」
 ハルトがとびきりの笑顔を返すと、やきもきしていた両親もほっと胸を撫で下ろして、それだけでリビングの空気が変わった気がした。

 なんか、なんて言うか。
 ハルトがいるだけで空気が柔らかく、穏やかになるのはなんでだろう。
 居場所がないと思っていた実家のリビングで、私は本当に久しぶりの安堵感を覚えていた。
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