menu

永久保存レベルの記憶

 社会人になってから、クリスマスが来るのが憂鬱になった。
 何しろうちの職場は十二月が繁忙期だ。クリスマスプレゼントとしてのご購入も増えるし、冬休み期間に入れば学生さんのお客様も増える。冬のボーナスで懐が温まる時期でもあるし、通常のセールに加えて福袋の準備などもあり、毎年目が回るほど忙しい。
 そんなわけだからクリスマスを楽しむなんて余裕は全然ないし、そもそもこの日に休みなんてもらったことない。今年は彼氏がいるけどその彼氏も同じ職場と来てるし、やっぱり休みを申請する気はなかった。
 ただ繁忙期とは言えイブに全員出勤というわけでもなくて、やっぱり何人かは休みが欲しいという人もいるし、激しい競争と事前の交渉、策略、すり合わせを勝ち抜いてクリスマスイブをもぎ取る人もいるようだ。
 そして今年、クリスマスイブに休みをもらったのは北道さんだった。

 十二月のシフトが出たちょうどその日、私は北道さんと一緒の休憩時間になった。
 夏場こそひと悶着あった先輩ではあるけど、最近はすっかりおとなしくなって前ほどはうざ絡みもされなくなった。こっちもうるさく言われなければ別にいいし、季節が変わっても根に持ち続けるほど強い感情は持ってない。あれからは仕事の先輩後輩として当たり障りなく接してきたつもりだ。
 店の休憩室でお昼を食べる私の、テーブルを挟んで斜め向かいに北道さんは座っている。店長から手渡されたばかりのシフト表を見ながら、何やらうれしそうにスマホを弄ってる。
 特に会話もない静かな休憩室で、私は何気なく視線を巡らせていたけど――ふと、北道さんのシフト表を持つ左手に目が留まった。
 薬指に銀色の指輪が光っていた。
 たぶん初めて見た、と思う。結婚したという話は聞いてない。別に仲良くない同僚と言えどさすがに冠婚葬祭情報は耳に入るだろうし、少なくともうちの店長はそういう時黙ってる人でもないはずだ。
 なんにせよちょっとびっくりして、私は珍しく自分から話しかけた。
「北道さん、指輪してましたっけ?」
 すると北道さんはスマホとシフト表を置き、
「ん? ああ」
 これまた珍しい照れ笑いで応じた。
「最近買った。彼女にねだられてな」
「あ、ペアリングなんですね」
 結婚指輪ではなかったらしい。納得する私に、北道さんが急に居住まいを正す。
 そして、改まった様子で続けた。
「実は、ちょっと前から瀬川さんと付き合ってる」
「へえ……え!?」
 意外な名前が飛び出して、私の声が裏返る。
 瀬川さん。
 あの時引き合わされた、ハルトのことが好きだった女の子。
「まあ、成り行きでな」
 北道さんはどことなくきまり悪そうにしている。
 それはそうだろう。北道さんが『瀬川さんのために』という名目でやらかしたことは、他でもない瀬川さん自身を傷つけたはずだ。あと私も、若干だけど傷ついた。それ以上に傷つけてしまったのも事実で、正直あれからも瀬川さんのことはちょっと気になっていた。でもカフェで本音をぶつけた一件の後、店で彼女を見かけることはなかった。
「瀬川さん、元気なんですか?」
 とっさに尋ねると、北道さんは肩をすくめる。
「ふつうに元気だよ。そりゃあの時はさすがにずいぶんしおれてたけどな、俺も申し訳ないと思って謝り倒して、それからも何度か慰めてあげてたら……付き合うことになってた」
 言葉は素っ気ないものの、表情からはまんざらでもない様子がうかがえた。
 意外なところでくっついたな。いや、思えばあの時から瀬川さんは北道さんを頼りにしていたようでもあったし、そこまで意外でもない、かな?
 とりあえずはめでたい話だ。
「じゃあ今は幸せなんですね」
「一応な」
「おめでとうございます! お似合いですよ、北道さん!」
 拍手と共に心からの祝福を送ると、北道さんは気まずげな溜息をつく。
 それからにやりとして言い返された。
「天野、逃がした魚はでかいって思っても遅いんだぜ」
「そんなことこれっぽっちも思ってません!」
 笑顔で応じる。
 微塵もない。一切ない。百パーセントありえない。
「あ、そ……」
 私の返事を聞いた北道さんはむすっとしたけど、すぐに気を取り直したようだ。きっと今日もらったシフト表のお蔭だろう。
「とにかくそういうわけだから、イブの休みはもらったからな」
「どうぞどうぞ。楽しんできてくださいね!」
 私も、いつになく晴れやかな気持ちで先輩の春を祝福する気になれた。
 北道さんにもとことん幸せになってほしい。幸せで気持ちが満たされれば、後輩へのうざ絡みも今以上に少なくなるに違いない。いっそゼロになってほしいので、瀬川さん、よろしくお願いいたします。

 そして迎えたイブ当日、シフトどおりの休みとなった北道さんは瀬川さんを連れて店に現れた。
 例によって忙しくて私は話さなかったけど、店長が言うには『けっこうラブラブ』だったらしい。
 瀬川さんとは目が合って、会釈をしたら少し申し訳なさそうな微笑と会釈が返ってきた。北道さんの隣で幸せそうで、元気そうにも見えて、とりあえずはほっとした。
 この日は私もハルトも遅番だった。休みじゃなくても早く帰りたい人はいるだろうし、ふたりであえて引き受けた形だ。
 既婚の店長もやっぱりクリスマスくらいは早めに上がりたいそうだ。夜の六時頃に旦那さんとお子さんが店にやってきて、これから家族でディナーに行くらしい。
「羽菜ちゃん、福浦くん、あとよろしくね。お先に失礼します!」
 店長は私たちに手を振って、あわただしく店を後にする。
「はーい、お疲れ様です!」
 私が見送ると、店長の娘さんもこちらを向いて小さな手を振ってくれた。
 それから一家三人で手を繋ぎ、幸せそうに歩いていく後ろ姿をちょっとだけ眺める。店長と旦那さんに挟まれ、その顔を代わる代わる見上げながらにこにこしている娘さんの姿が見えて、なんだか理想みたいな家族像だと思う。
 クリスマスを家族で過ごすのも、それは幸せなことだろう。別に恋人たちのためだけの日でもなく、いろんな人と分かち合えるのがクリスマスのいいところだ。

 私は閉店作業を終えた後、ハルトと一緒に過ごした。
 と言ってもすでに九時過ぎだし明日も仕事だしでこれからどこか行くって余裕もないし、店から池袋駅までの道のりをふたりで歩いたというだけだ。ほんのちょっとでもいいからクリスマスの空気を摂取したかったし、彼と一緒にいたかった。
 サンシャインシティの入り口に立つツリーを通りすがりに軽く眺める。水族館とコラボしたというイルミネーションは眩しいくらいにきらきらしてて、どこもかしこも光り輝いていて、その非日常的な美しさに溜息が出た。
 毎年似たようなものを見ている気がするのに、なぜだか胸が詰まるようだった。
「きれいだな」
「うん……」
 ハルトの言葉に、私はうなづくのがやっとだった。
 本当は、ツリーと同じくらい彼を見ていた。イルミネーションの光は彼の横顔もきれいに照らしていて、そのまばゆさに私は息を呑む。際立つような肌の白さも鼻の形も引き締まった口元も、そしてツリーを見つめる優しい眼差しも、全部が全部素敵で、好きだった。

 いろんな物事をハルトと共有できるのがうれしい。どんなに些細なことでもよかった。一緒にクリスマスの空気を吸って、ツリーを見て、白い息を吐きながら駅までの道を歩く。それだけでも十分幸せだった。
 付き合いはじめて四ヶ月が過ぎ、日毎に彼と一緒にいるのが当たり前になってきた。
 何ヶ月記念、みたいなことをする柄でもない私だけど、ハルトと過ごした月日はもれなく大切な思い出だった。これからも、どんなに些細なことでもいいから思い出をたくさん増やしていきたい。今の私なら、その辺歩いて手を繋いでハルトが笑ってくれたってだけで、永久保存レベルの記憶にしてしまいそうだ。

「年末の準備してる?」
 ツリーを離れ、再び駅まで歩きだしたところでハルトが尋ねてきた。
「準備? 帰省のってこと?」
「そう」
 年越しはうちの実家に、彼を連れていくことになっている。
 覚悟はできてる。たぶん。そもそも何の覚悟なのかもよくわかってない。
 強いて言うなら、古傷に向き合う覚悟、だろうか。
「まだ全然。私は実家に帰るだけだし、大した荷物もないしね」
 私は笑ってかぶりを振る。
 実家と言ったって電車一本で帰れるレベルの近距離だ。一泊するにしてもそれほどの荷物にはならない予定だった。
「俺は大体済んだよ、手土産も用意したし」
 ハルトがそう答えたので、そういうことを失念していた私はあわてた。
「あ、気を遣わせてごめん。要るよね、そういうのも」
「泊めてもらうのに手ぶらというわけにもいかないからな」
 よく気がつく頼れる彼氏だ。
 ハルトに関しては、私は何も心配してない。

 心配なのは私自身の気持ちだ。
 年末が近づくにつれ、なんだか心がざわめいた。怖いような、落ち着かないような、すごく不安定な気分が続いている。

「もう、十年以上経つんだけどね」
 私は白い息と共に胸の内を吐き出す。
 クリスマスは十二月で、年の瀬だった。帰省することを実家の家族に持ちかけたのは九月のことで、結局あれからも父とは一言も話していない。電話に出るのは母と妹だけで、父が私と話したがることも、私が替わってくれと頼むこともないままだった。
「いい大人が子供の頃のこと、いつまで引きずってんだって思うこともあるよ。昔のことなんだから見てみぬふりでもしとけばいいのかなってね。でも、やっぱり今でも忘れられないんだ」
 父の愛人という人が家に来た日のこと。
 そして、母と共にあちこちを転々とした夏の記憶。
 父のしたことは消えなくても、せめて私だけでも忘れてしまえたら、いっそ楽になるんだろうけど。
「つらい出来事は、そう簡単に忘れられるものじゃない」
 ハルトは寄り添うように、静かな声で言ってくれた。
「羽菜が忘れられないのも仕方ないよ」
「うん……でもさ」
「前に、話したことがあったよな。俺も以前、つらい記憶にずっと追い駆けられていた」
 それも夏の話だ。
 つい数ヶ月前の今年の夏。ハルトがたくさんのものを失った日の出来事。
「俺も時々思い出す。思い出しては、怒りや悲しみや苛立ちが込み上げてきてどうしようもなくなる。一時期は本当に追い詰められるほどに頭の中を占めていたけど、羽菜と一緒にいるようになって、思い出す時間が減ってきたことに気づいたんだ」
 指を絡めて手を繋ぐ。
 彼のしなやかな指と手のひらはほんのり温かくて、かじかみそうな私の手を温めてくれる。
「つらい記憶をすぐに忘れるのは無理なことだ。でも他にいい思い出があれば、楽しいことやうれしいこと、幸せな時間について考えられるようになったら、つらい記憶が蘇る機会も少しずつ減っていく。時間をかけて少しずつ、考えないようにしていくことができる」
 ハルトが私を見て、励ますように笑ってみせた。
「俺だってそうだった。こうして笑っていられるのも羽菜のお蔭だ。羽菜が傍にいてくれたから、いい思い出でいっぱいにしてくれたから、嫌なことをだんだん考えなくなった。思い出す暇もなくなった。だから今度は俺が、羽菜にとってのいい思い出になれる存在でありたい」
「もうとっくに、そうなってるんだけどな」
 それは強く主張しておきつつ、私もどうにか笑い返す。
「だったら時間の問題なのかもね。今は『少しずつ』の端境期なのかな」
 すぐにでも忘れたい。もう考えたくないって気持ちはある。
 だけどそれは無理な話で、私はもうしばらく古傷と付き合っていかねばならないようだ。

 考えてみればこれまでの十年超は、その古傷を見てみぬふりでやり過ごしてきた。
 気軽に他人と寝る気になれたのも、結局は『いい思い出』が欲しかったからだ。だけど欲しいものはちっとも手に入らず、私はハルトに巡りあうまで古傷を放ったらかしにしておいた。ずるずると長引いて痛むのは不真面目さのツケだろう。
 いい思い出を作るのも、そうしてつらい記憶を少しずつ考えないようにしていくのも、まだまだこれからってことなのかもしれない。

 果ての見えない不安に、私はハルトの手を強く握り返した。
「ハルト、年末……よろしくね」
 情けない声で言った私に、それでも彼は力強くうなづいてくれる。
「任せろ。ばっちりいい彼氏っぷりを決めてみせるよ」
 全くもって、文句なしに頼もしい彼氏だ。
 安心感が胸に満ちてきて、そうするとざわめく心が一時静かになる。
 クリスマスイブの夜、私はすがる思いで彼と手を繋いでいた。この穏やかな気持ちも、繋いだ手の温かさも、永久保存レベルの記憶にしておこう。

 もうじき今年が終わる。
 私とハルトが帰省する、年越しの日がやってくる。
top