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ますます惚れ直した私がいる

 どこかでスマホのアラームが鳴っている。
 せっかく気分よく眠っているのになんだって起こしに来るんだろう。そりゃ確かに今日は勤務日だけど、アラームが鳴りだした瞬間の舌打ちしたくなるような忌々しさはいかんともしがたい。もっと気分よく起きられる方法ってないもんかな。
 ぼんやりと考えながらスマホに手を伸ばし、アラームを止める。

 と、
「おはよう、羽菜」
 開き切らない瞼の前に影が過ぎり、次の瞬間唇に柔らかい何かが触れる。
 まったく現金なもので、たったそれだけで重かった瞼がぱっちり開いてしまった。
「おはよ……」
 寝起きのかすれた声で挨拶を返す。
 顔を覗き込んできたハルトが、そこで笑った。眩しいくらいの明るい笑顔だった。
「朝ごはん食べる?」
「食べる。ってか起きるの早いね」
「ちゃんと起きて、羽菜を寝坊させないようにしなきゃって思って」
「え、何それ。惚れ直しちゃう」
 布団の上で私が唸ると、彼の笑顔に申し訳なさそうな色がにじむ。
「昨夜、夜更かしさせたから」
「……あー」
 思い出した。

 いや、思い出すまでもなく昨夜の記憶は全然鮮明だ。
 別に夜更かししちゃったことは構わないって言うか楽しかったからいい。真夜中にあんなことしたから若干寝たりない感じするし、今見たら左胸の上にくっきりキスマークもできてたけど、それも含めていい夜だったと思う。
 ただ、それに至るきっかけについてははずかしいから触れたくない。
 というか今でもめっちゃ気まずい。私、ハルトのこと好きすぎじゃん。

「言っとくけど、いつもあんな甘えたことしてるわけじゃないからね」
 一応念を押すと、ハルトもすぐに思い当たったようだ。うれしそうに口元をほころばせてみせた。
「いつもしててもいいよ」
「柄じゃないでしょ。昨夜はたまたま、なんていうか気分盛り上がってポエマーになっちゃっただけだから!」
「ポエマーってほどにはしゃべってなかっただろ」
 そこでハルトはくすくす笑った。
「俺が聞いたのは『大好き』って一言だけだった」
「わ、わー! 再現しない! っていうか忘れて!」
 私はあわてて彼の口を手で塞ごうとした。
 だけどするりとかわされて、
「それは困るな。俺、かなりぐっと来たんだけど」
 布団の上で暴れる私を、彼がぎゅっと抱き留める。
 寝起きの体温はふたり揃って高めだ。触れ合うだけで溶けそうなくらい気持ちいい。
「羽菜はかわいいな。俺も大好きだ」
 そう言って、改めて唇にキスされた。
 唇をくすぐる柔らかい感触に、そっと髪も撫でてくれる優しさに、私もあっさり抵抗する気が失せてしまう。
 ハルトにキスされるのが好きだ。理由はいろいろあるけど、一番はこれだけで不思議と愛情が伝わってくるような優しいキスだから。彼がどういう時にキスしたくなるか、私は十分すぎるくらいよくわかっている。
 それに私だって嘘は言ってない。ただああいう乙女チックなのは本当に柄じゃないなと思ってるだけで――そういう思いもハルトにはちゃんと伝わってるだろうから、もういいんだけど。

 できればずっと布団の上でじゃれていたかったけど、今日はお互い仕事の日だ。
「そろそろ起きようか」
「起きるか……名残惜しいな」
 先に目覚めて私を起こしてくれたのはハルトのほうなのに、彼は布団と私から離れがたかったようだ。口ではそう言いつつも、しばらくぎゅっとされたままだった。
 だけど時間は有限だ。やがて私たちは覚悟を決めて起き上がり、顔を洗ってから一緒に朝ごはんを食べた。ハルトの作ったオムレツは今朝も完璧な出来映えで、中身もふわとろですごくおいしかった。
 その後は洗面所を交替で使って身支度を整える。寝癖がついてたハルトの髪がブローで簡単に直るのがうらやましかったし、彼は彼で私が髪をまとめるのを背後からじっと眺めていた。きっとうなじを見てたんだろう。
 準備ができたら、ふたり揃って部屋を出た。

 駒込駅から池袋方面への電車に乗り込む。
 平日朝八時台の山手線は当然ながら、うんざりするほど混んでいた。
 だけどハルトと並んで吊革に掴まり、混んでるねなんて顔を見合わせ笑うだけで、うんざり度がちょっとは紛れるから不思議なものだ。
「いいなあ、職場近くて。引っ越してからも三駅じゃん」
「いいだろ」
 私がうらやましがると、ハルトは少し自慢げに笑う。
 時間にしてほんの六、七分で池袋に着いちゃうんだから通勤には便利だ。やっぱいいな、駒込。
「早く一緒に住みたくなったろ?」
 吊革を持った彼が身を屈め、私の耳元でささやいた。
 図星にも程がある。私は笑いながら答える。
「なったなった。来年までお預けってだいぶ長いね」
「そうだな、待ちきれないよ」
「ま、それまではしょっちゅう遊びに行くから」
 一緒に住めないうちはその分、泊まりに行けばいいんだ。待ちきれないのは私だって同じだけど、それまでは別の楽しみ方をしてればいい。『彼の部屋にお泊まり』が楽しめるのも今のうちだけ、なんだろうから。
「羽菜がいる朝って、やっぱりいいな」
 ハルトはしみじみと、噛み締めるようにつぶやく。
「目が覚めて、隣にいるってわかると無性にほっとする。幸せな気持ちになる。先に起きればかわいい寝顔を見られるって役得もあるし」
「あんまり見ないで、すっぴんだから」
 口を挟む私に、彼はむしろ怪訝そうな顔をした。
「すっぴんもかわいいよ」

 そんなことはないんだけど。
 ないんだけど、なんかハルトに言われるとちょっとうれしくなっちゃう自分がいる。はずかしいんだけどね。でも他でもない彼がそう言ってくれるならまあいいかな、なんて。
 寝顔を見ちゃうのはわかる。私だってそうだ。
 それに、ふと目が覚めた時はお互い同じことを思っているみたいだった。隣に彼がいてよかったって私も思った。幸せな気持ちにだってなれた。
 だから、今後は一緒に住んじゃうって、正しい選択だと思う。

「なんか、仕事に行くのに浮かれそうになる」
 ハルトがそう言って、ゆるみかけた唇を引き結んだ。
 でもそれはあんまり上手くいかなかったようだった。にやける口元がちらりと見える。
「もうデートも終わりなのにな、傍にいるだけで楽しくて」
「終わりって感じしないよね」
 実際、昨日今日とふたりで過ごした休日もこれで終わりだ。この後に待ってるのはふつうに仕事だし、退勤後は私も部屋に帰る予定だった。デートの締めくくりがラッシュアワーの通勤電車というのも微妙に冴えない感じだけど、こんな時間も今は惜しいくらいだ。
 本当に、いい休日だった。
 九月の半ば、気温はまだ夏寄りの熱気を残していて、私もハルトも今朝は半袖だ。満員の電車の中で隣り合うと、剥き出しの腕が時々触れる。その肌の感触がふたりで過ごした時間を思い出させて、うれしいような、切ないような気持ちが込み上げてくる。
 次にふたりで会える時が待ち遠しくなってくる。

 やがて電車は池袋駅に停まり、私とハルトは揃って降りる。駅構内を足早に抜けると見慣れたビル街、それにさわやかな秋晴れの空が見えた。朝日が眩しいくらいに射してきて、まだ少しだけ眠たい目に染みるようだった。
「はー……仕事始まっちゃうね」
 なんとも言えない気分で溜息をつく私に、隣を歩くハルトが微笑みかけてくる。
「今日も一日がんばろうな、羽菜」
「急に優等生みたいなこと言うなあ……」
 こっちはまだ頭が仕事モードにならない。思わずぼやけば、彼はうっとりするような優しい表情でこう言った。
「俺、羽菜と一緒に過ごした記憶があればがんばれるから」
「う。わ、私だってそうだよ!」
 がんばれますとも。あれだけ楽しい一日を過ごした後だ、英気は十分養えただろうし、またああいう休日を過ごせるようにって思えばいくらでも働ける。
「ばりばり働いて、またふたり一緒のお休みを勝ち取ろうね!」
「そうしよう」
 急に気炎を上げる私を見て、ハルトが吹き出しながら答えた。
 その後で、ぽつりと言われた。
「でも今日は切り替えられなくて、羽菜のことばかり目で追っちゃうかもな……」
 すぐには頭を切り替えられないのも、やっぱりお互い様みたいだった。

 そうは言ってもうちの店ではトップの売り上げを誇るハルトだ。
 いざ店に入って勤務時間ともなるとたるんだそぶりは一切見せず、いつものように熱心に働いていた。私を目で追っていたかは正直わからない。でも何度か、店内で目が合うことがあって、そういう時はこっそり甘く笑いかけてくれた。
 むしろ目で追ってたのは私のほうかもしれない。
 いや、ちゃんと仕事はしたけどね。ただふとした時に彼と過ごした昨日の出来事を思い出して、また会いたいなって思ったりもした。同じ店にいるのにこれだから恋の病ってやつはしょうもない。
 でもまあ、そういうのが幸せだったりもする。
 あんまり名残惜しいから、その日は退勤後も彼を誘って一緒にご飯食べに行った。私は次の日も早番だったからそれだけで本当に別れたけど、そういうのにも文句ひとつ言わず、むしろうれしそうに付き合ってくれたハルトにますます惚れ直した私がいる。
 これはもう、一緒に住まない理由がない。

 そのために、絶対しなくちゃいけないこと、ではないんだけど。
 でもひとつ、乗り越えるべき難関がある。

 ひとりぼっちの部屋に帰った私は、一息ついてからスマホを手に取った。
 そこから『実家』の番号を開いて、でも発信を押すまでにけっこうな時間をためらった。
 歓迎されるだろうことはわかっている。彼氏を連れて帰りたいと言えば、会いたがっていた母は喜んでくれるだろうし、美羽だってそうかもしれない。ハルトはどこに出してもはずかしくない完璧な彼氏だし、むしろ会わせたらこんな優良物件をどうしたんだとびっくりされるに違いない。
 ただ、父は。
 あの人がなんと言うか、どんな反応をするかだけは読めない。わからない。
 私にはまだ十年以上前のもやもやした怒り、悲しみ、その他の負の記憶がくすぶり続けていて、それが父への印象をぼやかしている。あれだけはどうしても忘れられない。もういい大人なのに、私はまだ父を許す気になれていなかった。
 だから一番大きいのは、『これ以上がっかりしたくない』って気持ちなのかもしれない。

 十五分ほどスマホを持ったまま迷った後、私は電話をかけた。
『――もしもし?』
 出たのは母だ。前にかけたのはお盆の頃で、一ヶ月ぶりの電話に向こうも戸惑っているみたいだった。
『羽菜からかけてくるなんて珍しいじゃない。どうかしたの?』
「いや、別にどうってこともないんだけど」
 私は歯切れ悪く応じつつ、密かに勇気を奮い立たせる。
 好きな人のためならなんでもできる。いつもはそう思っているのに、自分のこととなるとめちゃくちゃ後ろ向きになるのはよくない。
「年末だけどさ」
 息を吸い込んで、止めて。
 一気に吐き出しながら告げる。
「彼氏をそっちに連れてっていいかな? 一度ご挨拶がしたいって」
 電話の向こうでは息を呑むのが聞こえた。
『あら、そうなの? うちはもちろん全然いいけど。羽菜の彼氏に会っておかなくちゃとは思ってたの。ご挨拶だなんて、若いのにしっかりした方ね』
 母も予想外だったのか、ちょっと混乱した様子でまくし立ててくる。
 その後で、
『お父さん、羽菜が年末に彼氏連れてくるって!』
 遠くに呼びかけるような声がして、背筋がひやりとした。
 父も、家にいたようだ。どんな反応をしただろうか。知りたいような、知りたくないような――。
『お父さんもいいって言ってるし、ぜひ連れてきなさい』
 母の声がこちらへ戻ってくる。
『美羽はちょっと人見知りするかもしれないけど、すぐに慣れるでしょうし。泊まっていくの? ごちそう用意しないとね。彼氏はたくさん食べる人? 好き嫌いとかあったら聞いておいてね』
 結局、この日は母としか話をしなかった。
 父がどんな反応をしたかは教えてもらえなかったし、さすがに突っ込んで聞く勇気までは持てなかった。

 年末、私は実家に帰る。
 ハルトがいたからこそできた決断だ。彼が一緒なら、何が起きてもたぶん大丈夫。
 十年物の古傷なんて、もうぼちぼち振りきるべき頃合いだろう。
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