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ずっと欲しかったものだった

「うちの、実家に……?」
 考えもつかないことだった。
 ハルトを連れて、一緒に帰る。
 そりゃこの先も彼といるなら一度くらいはそういう機会もあるかな、とは思っていた。このまま実家とノータッチでいられるわけでもないし、一度くらいは顔を見せに行っとくべきかなと。まあうちの親にだって育ててもらった恩というか、義理みたいなもんもあるし――。
 行きたいかと言ったら、全然そんなことないんだけど。
「やっぱそういうのって、行かなきゃいけないもん?」
 私が聞き返すと、ハルトはどことなく気づかわしげに眉をひそめた。
「羽菜が乗り気じゃないなら、俺は――」
「あ、いや、乗り気じゃないわけでもないんだけど」
 あわてて手を振って否定する。

 ハルトがそうすべきだと思うんだったら別にいい。
 私の実家の話なんだから『別にいい』っていうのもよそよそしい言い方だけど、連れて帰ることに問題なんてない。ハルトは非の打ちどころのない素敵な彼氏だし、きっと親受けもいいはずだし、連れてってまずいことなどあるはずがなかった。
 でもうちの親は、ハルトに合わせて問題のない親だろうか。
 彼には全部話してある。うちの親のこと。今でこそ真珠婚式を無事迎えて、まだ小学生の妹を慈しみながら大切に育てている仲のいい夫婦だけど、かつてその関係を粉々に壊されたことがある。
 
「ハルトにはほら、事情話しちゃったからさ」
 私は微妙に笑いながら打ち明ける。
「なんか会ってもらうのはずかしいっていうか……変な目で見ちゃわない? うちの親のこと」
 すると彼は少し考えてから、静かに首を横に振った。
「俺にとっては大切な羽菜のご両親っていうだけだよ。失礼のないように接したいと思うけど、それ以上に思うことはまだないかな」
 そういうもの、か。
 まあ私も、例えばハルトのご両親の馴れ初めとかを伺ったとして、お会いした時に『この人たちが昔こんな出会いを……』とかいちいち考えないかなあ。私にとっても大切な人のご両親、ってだけだから。
 つまりは気にしてるのも私だけなんだろう。

 いや、ずっと前からそうだった。
 あの家で、過去に囚われているのは私だけだ。
 実家では父と母と美羽が、私なんていなくても穏やかで仲のいい家族をやれている。家族に対して思うところがあるのは私だけで、わざわざその平和を乱す必要もなければ、過去を蒸し返す意味だってない。
 母も私の彼氏に会いたいと言っていたし、連れて帰れば歓迎してくれるだろう。妹は喜ぶか、もしかしたらちょっとは人見知りするかもしれない。そして父は――。

「本音を言うとね、ちょっとだけ見てみたい気持ちはあるんだ」
 次の打ち明け話は、もっと微妙な気分で告げた。
 なんというか、変に後ろめたい本音だった。
「うちの父がハルトに対してどんな反応をするのか、全然想像つかないから。『娘を任せて大丈夫だろうね』とかって頑固親父ぶるのか、『貴様なんぞに娘は渡さん』って殴りかかったりするのか。あるいは模範的な父親らしく、『娘をよろしくお願いします』って頭下げたりするのか。どれもぴんと来なくてさ」
 普段はあんまり感情的にならず、温厚って言われるタイプの父親だ。
 だから娘の彼氏に対しても激昂するってことはなさそうだけど。
「ハルトを連れてって、どんなふうに接してくるのか見てみたい。それは純粋な好奇心っていうより、芸能人のゴシップを知りたがるみたいな、覗き趣味的な気持ちで思うんだ。あの父がこういう時だけいい父親ぶったら笑えるだろうなって」
 ちっともきれいじゃない本音さえ、ハルトは黙って、真面目な顔で耳を傾けてくれる。
 それで私は気がつくと、思いの丈を全部彼にぶつけてしまう。
「もしもうちの父がハルトに『娘を大切にしてくれないと困るよ』みたいなお説教したら、私、吹き出しちゃうかもしれない。あなたがそれを言うのかってきっと思っちゃうな」

 父が憎いわけじゃない。
 なるべく長生きして、美羽をちゃんと幸せに育ててほしいって思う。二度と母を泣かさないでほしいって思う。
 でも心の奥底にはまだ捨てきれない恨みがましい気持ちもあって、それが私に意地の悪い考えを抱かせる。

「……そうか、そうだよな」
 ハルトは私の言葉に、短い溜息をついた。
 それから申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「羽菜にも事情があるのに、軽々しく頼んでごめん」
「あ、謝んないでよ! ハルトは全然悪くないし、ってか私の家が訳ありなのがいけないんだし」
 私も大あわてでかぶりを振った。
 ふつうに考えたら、付き合ってる彼氏が同棲する前に親と会って挨拶をしたいと思ってくれてるって、すごくうれしくて喜ぶべきことだろう。それだけしっかり考えてくれてるってことなんだから。彼も言ってくれた、『いい加減な付き合いじゃない』って。
 だからハルトの気持ちは私もうれしいし、なるべくなら応えたいとも思うんだけど。
「こっちこそごめんね、家の話となると湿っぽくなっちゃって」
 早口になって謝罪と、それから感謝も伝えておく。
「ハルトがちゃんと考えてくれてるのはすごくうれしかったんだ」
「よかった……真剣なんだ、本当に」
「うん。私だって、そうだよ」
 だから、悩む。
 私の複雑な感情だけで実家を敬遠してていいものか。ハルトが真剣さゆえに挨拶をしたいと思うなら、それに応えて彼を連れ帰るという行動こそが私の真剣さを示せるんじゃないだろうか。私だってそろそろ、過去に向き合うべきなのかもしれない。
「もうちょっと考えてみてもいい?」
 悩んだ末、彼にはそう言った。
「できるだけ前向きに……っていうか、なるべくこう、いい方向にがんばるから。あと親にも一応聞いてみなきゃだし、ちょっとだけ待っててくれるかな」
「わかった」
 ハルトが深くうなづいた。
「俺は羽菜の気持ちを尊重するよ。もし一緒に帰るなら、俺は羽菜のご両親にご挨拶をする。帰らないなら前に話したとおり、ふたりで鍋でもしながら年越ししよう」
 ふたりで鍋年越しは絶対楽しいと思う。今日だって一日中ずっと楽しかったから間違いない。
 でも、彼を家族に会わせるのも大事なことだ。
 もしかしたらそれで何か変わるかもしれない。
 そんな期待もあって、でも複雑さも捨てきれなくて、私はもう少しだけ考えてみることにした。

 夕飯の後はふたりでシャワーを浴びたし、たっぷりいちゃいちゃもした。
 あいにくと明日はお互い仕事で夜更かしこそできなかったけど、それでも終わりゆく一日を最後の最後まで楽しみ抜いたつもりだ。
 寝る前にはちゃんとスマホのアラームをセットした。明日は私が彼より早く起きて、朝ごはんを作っちゃおうかななどと無謀な目標も立てた。
「私がアラーム止めてたら叩き起こしてね」
「ちゃんと優しく起こすよ」
 そんな約束を交わしつつ、ひとつの布団に並んで寝た。

 ただ、いっぱい歩いた日だからだろうか。
 それとも答えを出さなきゃいけない考え事を抱えているせいだろうか。
 真夜中、私はふと目を覚ました。
 部屋の明かりは就寝前に消したままで、目が慣れるより早く隣で寝ているハルトの寝息が聞こえてきた。手を伸ばせばすぐに彼の手が掴めて、軽く握っただけで握り返してきてくれる。
 起きてる、のかな。
 そう思って目を凝らしながら身を起こし、彼の顔を覗き込んでみる。
「起きてる……?」
 ささやき声で尋ねた。
 無言のハルトは瞼を閉じていて、薄闇に整った顔がうっすら見えた。裸の胸がゆっくりと、規則正しく上下していて、どうやら寝ているのは間違いないみたいだった。
 その寝顔に、締めつけられるような幸福感を覚える。
 上手く言えないけど、隣に彼がいるとほっとする。
 一緒にいることがうれしいのはもちろんだけど、こうして夜中に目を覚ました時、すぐ傍に心地よい体温が感じられることって本当に幸せだ。寝ているのにしっかり手を握り返してきてくれるのもうれしい。私の夢でも見てるのかな。

 同棲したら、これが毎日のことになるのかもしれない。
 そう思うと今さらのように、その日が訪れるのが待ち遠しくてたまらなくなってくる。
 こんなことくらいでって思われて笑われるだろうか。でも私にとっては、こんな幸せと安心こそがずっと欲しかったものだった。これが毎日、当たり前のことになるんだったら、他には何も要らないくらいだ。

 少し慣れてきた目で、繋いでもらった手をしばらく眺めた。
 今日は本当に楽しかった。ハルトといればなんてことないおしゃべりも散歩もご飯作りだって全部楽しい。もっとずっと一緒にいたいって思う。
 いつか、彼と結婚したりするのかな。
 自分で考えて、思わず笑った。結婚に明るいイメージは持ってない勢だったけど、ハルトとだったら不思議なくらいすんなりと頭に浮かんでしまう。したいのかな。しなくてもいいけど、ずっと一緒にいたいなら自然とそうなっちゃうのかもしれない。ハルトは真面目な人だし、すでにしっかり考えてそうな気もする。
 まあ、それは同棲より先の話だ。
 今はもう少し近い未来のことを考えよう。そして幸福な今をとことん味わい、楽しもう。
「……大好き」
 私は彼にささやいて、それから頬にキスをする。
 それだけじゃちょっと物足りなくて、剥き出しの鎖骨にも軽く唇を押しつけた。キスマークでもつけてみようかと思ったけど、起こしたら悪いからやめておく。代わりに胸に頬を寄せ、ちょっとだけ心臓の音を聴いてみる。
 あ、意外と速い。
 と思った直後、繋いでいなかったほうの腕が私をがばっと抱きすくめた。
「何、かわいいことしてるの」
 頭上でハルトの声がして、私は驚きに凍りつく。
「お、起きてたの!?」
「さっき起きた。羽菜が起きてるなと思って」
「ちょっ……黙ってないで声かけてよ、びっくりするじゃん!」
「俺もびっくりしたよ。羽菜がこんなに甘えてくるなんて思わなかった」
 どこかうれしそうに言う彼が、そっと髪を撫でてくる。
 その優しい手つきに眩暈を覚えつつ、はずかしさに打ち震える私がいる。真夜中のテンションってやつは本当に危険だ。私のようなスレた人間ですらエンジンフルスロットルの乙女チックポエマーにしてしまう。
「大好きだ、羽菜」
 ハルトがそんな言葉と共に、私の耳たぶを軽く噛む。
「やっ……ってか、聞いてたな!?」
「起きてたからな」
「もー! 知らないふりするのがマナーだよ!」
「しいっ、静かに。まだ夜明け前だろ」
 まだ喚き足りない私の口を、ハルトはそっとたしなめながら唇でふさいだ。それからゆっくり体重をかけて布団の上に押し倒してくる。
「ん……っ」
「今、何時?」
「わ、わかんな……あっ、ちょ……」
「明日――いや、もう今日かな。寝坊しないようにしないとな」
 口ではそう言いながら、ハルトは私の身体のあちこちにキスを始める。顎、首筋、鎖骨、それから胸と、次第に下りていく唇に身体がいちいち反応しては震えた。
「あ、もう……寝れなくなっちゃうよ……?」
「もうとっくになってるよ」
 かすかに、彼が笑うのが聞こえる。
 思わず見上げれば薄闇の中、見慣れた切れ長の瞳がちらりと輝くのがわかった。
 彼は彼で、こんな真夜中にもかかわらずすっかりエンジンかかっちゃったみたいだ。
「ちゃんと起こすって約束するから、明日」
 そう訴えるハルトの声は熱っぽく、どこか切羽詰まっても聞こえた。それで私もあっさり絆されたというか、熱っぽいのがすぐ移っちゃって、それで――。
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