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笑いの絶えないデート

 六義園の峠ってやつにも登ってみた。
 名前は藤代峠。小高い丘、と呼ぶには少し高いくらいの山だった。
 けっこうな急勾配の階段を登っていくと、思ったよりも狭い頂上へ辿り着く。苦でもなさそうなハルトとは違って、頂上に着いた時の私はさすがに息が弾んでいた。
「はあ、もうこれ、ふつうに山じゃん……」
「峠って呼ばれる理由がわかるな」
 ハルトは納得した様子で伸びをする。
 この山は自然にできた山じゃなくて、築山というらしい。今日初めて知った単語だ、築山。

 頂上からは、六義園の園内がぐるりと一望できた。
 さっき見かけた立ち入り禁止の土橋と中島、水面に映る木々の影、こんもりした丸い低木のある広場と、そこに並んだベンチに腰かける人々。
「わあ、いい眺め!」
 私は疲れも忘れて歓声を上げた。
 こうして見ると同じ緑でも色合いが微妙に違うんだ。芝生の緑はごく薄く、木々も種類によって瑞々しい若葉色だったり、ブロッコリーみたいな濃緑だったり。
 天気がいいからなのか、池には鏡のようにくっきりと辺りの景色が映っている。時折吹く風が水面をさざ波立たせると、木々や橋や青い秋空までゆらゆら揺れて見えた。
 視線を上げれば、六義園の木々の向こうに都会らしいビル街の頭が見えて、ここはやっぱり東京なんだなって思う。園内を歩いている間は全然見えなくても、ビルはいつでも傍にある。東京って不思議な街だ。
「いい景色だね」
 言いながら私は深呼吸をする。ここに流れるおいしい空気を存分に味わって帰りたい。こんなおいしいの、都内じゃなかなかないもんね。
「ほんと、素晴らしい眺めだな」
 ハルトも私を真似るように胸いっぱい息を吸い、そして吐く。
「九月でこれなら、紅葉シーズンなんてやばそうじゃない?」
「どんな景色になるんだろうな。ぜひ来てみないと」
 彼はそう言った後、見下ろす山の斜面や広場に植わった低木を指差してみせる。
「でも春の眺めもいいらしい。あれ、ツツジの木だって」
「へえ、ツツジなんだ。咲いたとこ見たいなあ」
「あと梅に、桜の木もあるしな」

 六義園の春もどうやらたいそう素晴らしいようだ。
 私はこんもり丸い低木たちにピンクや白のツツジの花が咲き乱れているところを想像してみようとした。でも難しかったので、やっぱり見に来ようと思う。

「ツツジって言えばさ」
 ふと思い出した、くだらない話を彼に打ち明ける。
「ハルトはツツジの蜜って吸ったことある?」
「何、急に。そりゃあるよ」
 彼が吹き出すから、私も笑いながら続けた。
「私もあるんだけど、通ってた小学校の近くにツツジ咲いてる通学路があってね。うちの妹も今そこ通ってるんだ。で、帰省して会った時に『あそこでツツジの蜜吸ったことある?』って聞いたら次の春に試したらしくて、あとで母に『変なこと教えないで!』って怒られたの」
 美羽は素直な子だから、私が何か教えるとすぐ試してみたがる。『ひなまつり』の替え歌を教えた時は学校で披露したらしく、やっぱり母に怒られた。実際、教育的な歌詞ではなかったかもしれない。
「あの子すぐ実行しちゃうから、悪いこと教えられないよね」
「お姉さんの真似が好きなんだ」
 私の隣で、ハルトがおかしそうに笑い声を立てる。
「うちは逆だな。俺がよそで覚えてきた悪いことを、親より先に兄さんが叱った」
「なんかわかる、お兄さんも真面目そうだもんね」
 うなづいた後、せっかくなので突っ込んで聞いてみた。
「ハルトはどんな悪いことしてきたの?」
「コップを手を使わないで口にくっつけて、兄さんに見せびらかした」
「あ! 私もそれやったことある!」
「兄さんは笑うどころかすぐにやめろ、跡つくぞって言ってくれたんだけど、むきになって続けたら口の周りに丸い跡ついてさ」
 彼は自分の口を人差し指でぐるっと指し示し、照れ笑いを浮かべる。
 どういう事態になったかは容易に察しがついたから、私も声を立てて笑った。
「ひどい目に遭ったね」
「ほんとだよ。結局そのまま学校も行かなきゃいけなくて、もうめちゃくちゃはずかしかったし、兄さんの言うこと聞いとけばよかったって思った」
「お兄さん、すごくためになるアドバイスくれてたのに」
 ハルトにもやんちゃな子供時代があったんだなあ。今の姿からは到底想像もつかない。見てみたかった。
「いろんなきょうだいがいるな、当たり前だけど」
「そうだね」

 本当にそうだ。仲のいいのも悪いのも、一緒に住んでるのも離れて暮らしてるのも、きょうだいにはいろんな形がある。
 私と美羽は一緒に暮らした時間がごくわずかだけど、いい子の妹のおかげできょうだいらしくなれている。彼女がもう少し大きくなったら服を選んで買ってあげたり、古着をあげたりしたいけど――その頃まで『お姉ちゃん』って慕ってくれてるかなあ。年に一度しか会わないからな。
 今年は帰らないつもりだし、もっと会わないことになるか。

「妹さんって羽菜に似てる?」
 ハルトが尋ねてきたから、私はスマホに保存していた写真を彼に見せた。
 家族写真なんてものはずっと撮ってないけど、妹の写真だけは毎年ちゃんと撮影して、保存している。最新のものは去年のお正月に撮ったやつで、ふわふわのポンチョを着て不器用にピースしながらはにかんでる姿だ。確か初詣に行く直前だったはず。
「はずかしそうに写ってる、かわいいな」
「昔からピースサインが苦手なの。どうしても中指斜めになっちゃうんだって」
「へえ、そういうもんか。目元が羽菜に似てるな」
 ハルトがスマホの画面と私の顔とを見比べる。隣に立った位置から顔を覗き込んでくるから、キスでもするみたいに至近距離になる。前髪が触れあう近さで見る彼の目は、陽射しの下でもやっぱりきれいだった。
 こっちまではずかしくなってきて首をすくめたら、彼は優しく微笑んだ。
「その顔も、ちょっと似てる」
「そうかな……」
 妹に似てるって言われるのは嫌じゃないけど、なぜか不思議とこそばゆいものだ。
 もしかしたらハルトもこの間、こんな気持ちになったのかもしれない。

 その後私たちは藤代峠を下り、眼下に見えていた広場のベンチで休憩した。
 平日だからか園内にはそれほど人もいなかったけど、別のベンチには小さな子供を連れた夫婦がいて、楽しそうに笑いあいながらお弁当を食べていた。さすがに中身までは見えない――というかそんなにじろじろ見てもいないけど、三歳くらいの子がラップに包んだおにぎりを持っているのがちらりと見えて、ちょっとお腹が空いてきた。

「お弁当作ってくればよかったね」
 ベンチに座ってまったりしながら、隣にいるハルトに告げた。
「今日なんて外で食べても全然よかったかも」
 いい天気だし、景色も空気も雰囲気もいい場所だし、ここで食べたらおいしかっただろうな。
 とか言いつつ普段の私は、お出かけの際にお弁当を作るようなマメさは皆無だ。それでもおにぎり、ウインナー、玉子焼きの三種の神器くらいはいけるから、やっぱりお弁当用意しててもよかったかな。
「そうだな、気温も程よいくらいだし」
 ハルトが空を仰いで同意する。
 ふたり並んで座るベンチに、そよそよと風が吹いてくる。大きな池を渡ってくるからか肌に少しだけ涼しく、歩いた後にひと息ついた身体には心地よかった。
「風はすっかり秋だな」
「ほんとだね、行楽日和って感じ」
「このくらいが一番過ごしやすいよな」
 陽射しはまだぎらぎらと、夏みたいなそぶりで照りつけてくる。
 それでも吹き抜ける風の爽やかさは、真夏の生温さとはまるで趣が異なっている。季節の変わり目を肌で実感する瞬間だった。
「はあ、気持ちいい」
 大きく息をついたハルトの髪も、風にそよそよ揺れている。
 ここの空気を味わうみたいに目をつむった横顔が、相変わらず整っていて好きだ。目元、口元、鼻の形、どれも好きすぎてついつい眺め入ってしまう。
 隣からたっぷり鑑賞していたら、ふと目を開けたハルトと視線がぶつかった。
 どきっとする私に、彼は怪訝そうに小首をかしげる。
「どうかした?」
「ううん、顔見てただけだけど」
 正直に申告したら、たしなめるみたいな照れ笑いが浮かんだ。
「はずかしいだろ」
 そう言うけど、ハルトだって私の顔見てるの好きなくせに。
 それから彼は、
「羽菜はお弁当のおかずだったら何が好き?」
 照れ隠しなのか、話題を少し前に戻した。
「なんでも好きだよ。自分で作るんだったらウインナーと玉子焼き。でもお店で買ったお弁当なら、ちくわの磯辺揚げとか入ってたらうれしいな」
 お弁当のために揚げ物はしたくない派です。でも入ってたらうれしいおかずナンバーワンではある。
「磯辺揚げおいしいよな、ご飯に合うし」
 ハルトはそう言って、さも当然のように語を継いだ。
「じゃあお弁当作る時は磯辺揚げ用意しとくよ」
 こういう時、自分が作る前提で話してくれる人って格好いいな。
 もっとも、せっかくなので私だって作りたい。
「ハルトこそ、好きな献立とかある? 私も作ってくるよ」
 今度はこちらから持ちかけたら、彼はうれしそうにしつつも考え込み始めた。
「うーん……正直なんでも食べるよ。好き嫌いないし」
「そこをなんとか、これは一番っていうのがあれば」
 前に好きな焼き鳥を聞いた時はささみって言ってたっけ。あいにくささみ料理のネタはないから、それもどこかで仕入れとこう。
 ともあれ私の質問に、ハルトは頭をひねっていた。
「本当になんでも食べるんだけどな。逆に、羽菜の得意料理って何?」
 そう聞き返してきたのは、きっと私に気を遣ってのことだろう。

 思えばこれまで彼に手料理を振る舞ってもらう機会は何度もあったけど、私が手料理を披露する機会は一度としてなかった。
 せいぜいオムレツの出来映えを写真で送ったくらいだ。
 でもこの先同棲するなら、私がごはんを用意する機会だって当たり前にあるはずだ。将来を見据えてレパートリーを増やしておく必要があるし、純粋に料理スキルを磨いておく必要だってある。自分しか食べないんだから適当で、などというたるんだ考えを引き締めるいいチャンスだ。

 ひとまずここは正直に答える。
「自信あるのは餃子くらいかな」
「餃子?」
「そう。私めっちゃ餃子がおいしくなるテクニック知ってるの」
 ちょっと話盛った感あるけど、ともあれそう切り出したらハルトも興味を持ってくれたようだ。
「何それ、聞いてみたい。どんなテク?」
「餃子作る時ってキャベツ茹でてからみじん切りにするでしょ? その時に全然水気切らないで挽肉と混ぜるの。そうすると焼き上がった時に肉汁溢れる超ジューシーな餃子になるよ」
 まあ、説明するとたいしたことないテクニックではある。
 と思ったら、ハルトにはすごく意外だったようだ。切れ長の瞳を輝かせて言われた。
「それ、すごくおいしそうに聞こえる!」
 あ、好感触。
 ハルト、餃子好きなのかな。やったね。
「おいしいよ。料理上手じゃない私でもいい餃子焼けるようになるし」
「いいな、食べてみたくなってきた」
「作ろうか? 言っといてなんだけど、あんまりお弁当向きの献立じゃないしさ」
 この方法には残念な欠点もあって、焼きたてのうちに食べてしまわないといけない。
 次の日に取っておいたり、お弁当に入れたりすると、水気が出てせっかくの皮がべちゃついてしまう。もしかしたらそこもカバーできる術があるのかもしれないけど、私の知識ではこんなものだ。
 だから、ハルトに食べさせるならちゃんと熱々焼きたてじゃないと。
「今日の夕飯とかどう? キッチン貸してくれたら作るよ」
 私の申し出に、ハルトは一も二もなくうなづいた。
「食べたい! ぜひお願いします!」
「任せて!」
 胸を張って応じる。
 内心、よかったって思ってる。彼に初披露する手料理が自分の得意料理で。いきなり『天ぷら作って』とか『トンカツがいいな』とか言われたらきっと死んでた。
「あ、でも、お昼もまだなのに夕飯の話とか気が早いかな」
 時刻はまだ正午前。ぼちぼちお腹が空いてきたけど、ランチに行こうかどうかはまだ迷う時分だ。私が笑うと、ハルトもにっこりしてみせる。
「夕飯のメニューが決まったなら、それ以外でって選べばいいからむしろありがたいよ」
「優しいね、ハルト」
 本当に、彼のこういうところが好きだ。
「じゃ、ぶらぶらしながら次はお昼の相談でもしよっか」
「いいな、そうしよう」
 顔を見あわせて笑いあう。
 笑いの絶えないデート、ってところだろうか。自然の中をただ歩いてるだけなんだけど、ハルトと一緒ならそれすら楽しかった。

 私たちはベンチを離れ、六義園の中を再び歩きはじめた。
 そうしてお昼には何を食べようか相談しあい、意見を出しあい、時にスマホの力を借りたりしながら周辺のお店に当たりをつけ、餃子以外が食べられそうなところへ行くことにした。
 夜の予定はもう決まっている。買い物してハルトの家に行って、いっぱい餃子作って焼いて、ふたりで乾杯しながらおいしい餃子を食べる。のんびりした平和なデートにふさわしい締めくくりになりそうだった。
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