夏が終わる
ハルトの部屋に上がり込むのはこれで何度目になるだろう。1DKのどこに何があるかはだいたい覚えてしまった。エアコンの操作のやり方も、食器棚の食器の配置も、バスルームのシャワーの使い方だって完璧だ。
そんな居心地のいい彼の部屋で、私とハルトは缶チューハイの蓋を開けた。
ぷしゅっと炭酸の抜ける音の後、
「はい、かんぱーい」
私が缶をぶつけると、ハルトも苦笑しながら付き合ってくれた。
「かんぱーい。今日はお疲れ様でした」
「ありがと。ハルトもお疲れ様」
缶チューハイは夏季限定のスイカ味。瓜感強めの甘い味わいは紛れもないスイカで、そういえば今年は実物を食べてないなって思う。
ハルトが選んだのはこちらも夏季限定のパイナップル味だ。ぐいっと豪快に呷った後、満足そうに息をついた。
「夏の味って感じがするな」
「おいしい? 一口飲ませてよ」
私がねだると、ハルトは缶を差し出してくれる。私からもスイカ味を手渡して、お互いに一口ずつ味わう。パイナップル味は、甘酸っぱくてさっぱりしてて、確かに夏の味だった。
「スイカの味だ……」
ハルトは目を丸くしてスイカの缶チューハイを眺め直す。そのびっくりした目が面白くて、私は笑いながら缶を受け取った。
「ちゃんと書いてあるよ、スイカ味って」
「こんなにダイレクトにスイカだと思わなかった」
「けっこうおいしいよね」
「ああ。これも夏の味だ」
エアコンの風がフルパワーで部屋を冷やしていく。歩いてくる間に掻いた汗も引き、冷たいお酒で喉を潤せば、ようやく人心地ついた。
「夏が終わるな」
ふたり掛け用のダイニングテーブルに、形の違う椅子が二脚。私と向かい合うハルトは、本棚の上に置かれた卓上カレンダーを眺めている。
八月が終わって、もうじき九月が来る。
「激動の夏だったね」
私が率直に感想を漏らすと、今度はハルトがおかしそうに笑った。
「羽菜にとってもそうだった?」
「うん。まさか彼氏ができるなんて思わなかったし、いい思い出もたくさんできた」
久し振りに、恋をした夏だった。
その過程でいろいろ――本当にいろいろあったし、職場の先輩にうざ絡みされた挙句へこまされたり無茶ぶりされたりもした。ふつうに仕事もあった。とにかく目まぐるしくて、あっという間に過ぎてしまったけど、振り返ってみれば『いい夏だったな』と思えるような日々だった。
「彼氏ができた、いい夏……か」
そうつぶやいたハルトが、うれしそうに口元をゆるませる。
「いつまでも、そんなふうに振り返ってもらえたらいいな」
「ずっと忘れがたい夏になったよ」
私にとっては、いい意味で。
だけど彼にとってはそうでもなかっただろう。
「ハルトからすれば、激動どころじゃない夏だったね」
水を向けると、彼はまた笑って缶を傾けた。
「いろんなことがあったよ。悪いことも、いいことも」
でも今の表情は穏やかで、幸せそうだ。一時期のように打ちひしがれて、傷ついて、くたくたになるまで悩んだ様子はもうどこにも見当たらない。
「終わりよければすべてよしって言うだろ」
ハルトは私を見て、力強く続ける。
「だから俺にとってもいい夏だった、今はそう思う」
そう言ってもらえてよかったと、私もほっとしながら缶を持ち上げる。
スイカ味のチューハイは、おいしい夏の味がした。
なんにせよ、激動の夏は終わる。
やってくる次の季節がどんなものか、今はまだ想像もつかない。夏よりは平穏だといいなと思う。そして、夏よりさらに幸せだともっといい。
「憂鬱とか、腹の立つことは全部夏に置いていこう」
ハルトは決意したようだ。
軽く肩をすくめると、私に対して話し始める。
「七月の頭、俺が一番やさぐれてた頃、兄さんから電話があったんだ。『お前はあの子を殴ったのか』って」
それは元カノがついた嘘だ。
ハルトのお兄さん、そしてご両親はその嘘を信じ、ハルトを疑った。
「すごい剣幕だった。怒ってもいたし、同時にすごく悲しんでるのが怒鳴り声からわかったよ。俺がそんなことするとは思ってなかったって心底失望したように言われて……本当にしてなかったのに」
彼がうつむくと、長い前髪で目元が見えなくなる。
だけどその胸中はかすかに震える声音でわかった。
「俺は必死になって否定した。その時は別れたことも話してなくて、こっちが落ち着いたら理由はぼかして打ち明けるつもりだったんだ。でも全部、言わざるを得なくなった」
「秘密にしてたのが裏目に出たんだね」
私の問いに、彼が重々しくうなづく。
「長い付き合いで、お互いの親とも仲良くしてたから、両親に事実をありのまま言ったら怒るだろうなって思った。どっちも親も地元にいるから気まずくなったら悪いしなとか、変に気を遣ったのが災いした」
それから、どこか自虐めいた微笑を浮かべた。
「バカだったな、俺。裏切られた時点で気を遣うも何もなかったのに。先に言ってやればよかったよ、俺が一生懸命働いてる間に知らない男を部屋に呼んでたんだよって」
でも、私にだってなんとなくわかる。
ハルトはそういうことを言える人じゃなかった。だから、言い方は悪いけど結果として出し抜かれてしまった。
「兄さんは俺の話をすぐには信じてくれなかった。彼女には証拠があったんだ。腕と脚に痣を作って、わざわざうちの家族に見せに来たんだって。それ見てうちの母さんが泣いたって言われて、こっちの心が砕けそうだった」
本来なら自分の味方でいてくれそうな人たちが、こぞって自分を信じてくれない。
そんな状況になったら気持ちが折れそうになるのも当然だ。
「それで、どうやってわかってもらったの?」
黙って耳を傾けていることができず、思わず私は尋ねた。
こんなフェアじゃない勝負、どうやって逆転してみせたんだろう。
「とにかく、否定するしかなかったよ」
面を上げたハルトが、寂しそうに笑った。
「家族が代わる代わる電話に出て、認めない俺を叱ったり、諭したり……あの時は本当病みかけてたな。いや、とっくに病んでたのかな。さっさと認めて金でも何でも払ったほうが楽になるんじゃないかって思ったりもした」
「そんなの、絶対だめなやつ」
私が強くかぶりを振ると、今度はもう少し明るく笑ってくれる。
「わかってる。俺はぎりぎりのところで踏みとどまって、兄さんに訴えたんだ。『俺は絶対にやってない。俺がどんな奴か知ってるなら信じてほしい』って」
ハルトは嘘をつけない人だ。
それに、暴力を振るうような人じゃない。付き合いたての私にだってそれはわかる。
でも、だったら、お兄さんにはもっとわかっていたことだろう。元カノの嘘に偽の証拠があったから、冷静ではいられなかったのかもしれないけど。
「それで兄さんたちもようやく俺の言い分を聞く気になってくれて……その後に元カノに、本当に殴られたんなら病院行って診断書もらってきてほしい、って言ったって」
「もらってきたの?」
「いや、その前に逃げられたって聞いた。男が迎えに来て、黙ってどこかへ消えたそうだ」
そこで喉が渇いたのか、ハルトがチューハイ缶をまた呷った。
さんざんにハルトを傷つけ、ハルトの家族をも振り回した元カノは、今頃どこでどうしてるんだろう。私なんて性格悪いから、せいぜい不幸になってろよって思いたくなる。
「元カノが消えてから、兄さんたちは俺に謝ってくれた。信じてやれなくて悪かったって」
ハルトが片手で、シャツの胸元をぎゅっと握った。
つらそうに顔をゆがめてみせる、その表情を見ているほうがつらかった。
「兄さんたちが信じてくれなかった理由はわかるし、仕方なかったって思ってるのは本当だ。でもやっぱり、信じてほしかったって気持ちも消しきれなくて……」
深くついた息さえ震わせ、それでも気丈に続けた。
「おまけに地元で元カノとのことが噂になってるらしくてさ……誰が広めたかなんて考えるまでもないけど、怪我させたのが嘘ってわかったところでゴシップそのものが消えるわけじゃないだろ。だから、しばらくは帰れない」
それで、今年は帰省しないって言ってたんだ。
思ってたよりも深刻な理由に、私も言葉にならなかった。
彼はこの度の失恋で、いったいどれほどのものを失ったんだろう。
最愛の彼女だった人はもちろん、その人を信じていた気持ちも、家族からの信頼も、故郷での評判も、かつて住んでいた部屋とそこにあったいくつかの家具も――。
それだけ奪い取られたら空っぽになってしまいそうなくらい、たくさんのものを失った。
本当に、よく心が折れなかったと思う。
「なんで……」
私は、呆然としながらつぶやく。
「なんで、そんなことしたのかな。彼女は」
ただの浮気じゃない。それこそ彼自身がかつて言っていたように、別れたいならただそうすればよかったのに、彼を傷つけるだけ傷つけて去っていくなんてひどすぎる。ハルトの家族に対して嘘をついたのは、保身のためなんだろうと思うけど。
「俺にも確信は持てないけど」
ハルトが長い睫毛を伏せて答える。
「今思うと、予兆みたいなものはあったんだ。上京してから俺は仕事順調だったけど、向こうは一年目で仕事辞めて、その後はいろんな職場転々としてた。あんまり長続きしなくて、鬱屈としてる様子なのは見て取れた。それでも俺が養えばいいやって思ってたけど、向こうが求めてたのはそういうものじゃなかったんだろうな」
「優しい彼氏が養うって言ってくれるのに何が不満だったんだろ」
しかも顔もスタイルもいい。性格だって文句ない。セックスもうまい。
いったいどんな不満があると言うのだ。徹底討論してやりたいわ。
「不満はいろいろあったようだけど、一番は――」
ハルトが答える。
「俺じゃなくて、『閉塞した状況を劇的に変えてくれる人』が欲しかったんだと思う」
「うーん……王子様的なもの?」
「そうかもな。長続きしない仕事、代わり映えしない毎日、行き詰まってた状況を変えたかった。そのために古いものは全部壊して、自分をやり直したかったんだろう」
冷静に語った後、彼は気まずげに笑ってみせる。
「本人から聞いたわけじゃないから、推測だけどな」
「そっかあ……」
私はあんまり納得がいかない。
状況の打開を他人任せにするなんて勇気があるなと思ってしまう。その人が信用できるかどうかもわからないのに。
「俺にも、少しだけ理解できるところがあるんだ」
ハルトはそう続けて、私はあっけに取られた。
「マジで? 私わかんないけど」
「俺にとっての羽菜がそうだったから」
さらに続いた言葉にはもっとびびった。
「私!?」
「ああ。羽菜は俺の状況を全て変えてくれた」
「そ、そうだったっけ……?」
「ひどい振られ方して落ち込んでた気持ちも、家族にすら信用されなくてやさぐれてた気持ちも。どうにもならない状況に打ちひしがれた俺を、羽菜はまるで塗り替えるみたいに変えて、立ち直らせてくれた」
それは過大評価な気がしてならない。
私がハルトにしてあげたことといったら、お酒の勢いに任せてホテルに連れ込んだことくらいだ。
「俺は一度で羽菜を好きになったし、そうしたら不思議なくらい気持ちが軽くなった」
ハルトは幸せそうに語ってから、少し真面目な口調になる。
「そういう存在を欲して、真っ当なやり方で手に入れられたらいいんだろうけどな。そうじゃなかった時、誰かを傷つけてでも手に入れたいと思う人とは、俺は一緒にはいられない」
それは私も同じ思いだ。浮気は心の殺人、誰かの心を殺めた人を私は理解も許容もできない。
私がハルトと一緒にいたいのは、彼が誠実で、優しい人だからだ。そうじゃなかったら好きになんてならなかった。
「羽菜」
彼はチューハイの缶を置き、姿勢を正して私を呼んだ。
目が合うと、柔らかく微笑みかけてくれる。
「つらい時に、俺の傍にいてくれてありがとう」
「え……いや、こっちは下心あったからだし、ね?」
「それでも俺がどんなに心強かったか、救われたか、わかるだろ」
わかる。
そんなに立派なことはしてない。というか褒められることは一切してないけど、それでも私はハルトの心を救った。たまたまお互いの欲するものが合致しただけという、奇跡みたいな相性のよさで。
「つらかった記憶も、厄介事も、全部夏に置いていく」
彼は言う。
「この先には羽菜がいてくれればいい。九月からは、ふたりでもっといい思い出を作ろう」
その言葉を私は、噛み締めるように受け取った。
夏が終わる。
激動の、と呼ぶにふさわしかったこの季節の、もやもやした不快な気持ちは何もかも置いていこう。
次の季節はもっといい、もっと幸せなものにする。
ふたり一緒に、そう決めた。