誰よりも彼を信じている
それから一時間ほど、三人で食事とおしゃべりを楽しんだ。気づけば時刻は十時半を回っていて、お兄さんが時刻を気にしはじめる。
「天野さん、たくさん食べられました?」
「はい、たくさんいただきました!」
遅い時間だってことも気にせず、お腹いっぱい味わってしまった。せっかくお招きいただいたのに、変に遠慮するのもよくないしね、などと自分に言い訳をしておく。
「じゃあ俺はそろそろ。明日は朝イチで帰るから」
お兄さんが切り出すと、ハルトがいち早く席を立つ。
「待って、先にトイレ行ってくる」
「飲みすぎたな、ハルト」
「そうでもないって……たぶん」
ハルトはそう言って、店の奥にあるお手洗いへと向かった。足取りはふらつきもせず危なげない様子だったけど、思わずしばらく見送ってしまう。
「彼、けっこう飲んでましたか?」
お兄さんにこっそり尋ねたら、苦笑いが返ってきた。
「ええ、まあ。私も弟のことは言えないんですけどね」
言われてみればお兄さんの顔はほんのり赤い。
久しぶりの再会ってことでずいぶんお酒が進んだんだろう。一緒にお酒が飲める兄弟っていいな。いろんな意味でうらやましくなった。
ハルトを待つ間、グラスをまとめたり箸を揃えたりと後片づけをしていたら、お兄さんがふと居住まいを正した。
「天野さん、本日はお越しくださりありがとうございました」
丁寧なお辞儀と共にお礼を言われ、私もあたふたと応じる。
「いえ、こちらこそお招きありがとうございます」
「天野さんには一度お会いしておきたいと思っていたので、機会をいただけてよかったです」
お兄さんはそう語った後、少し言いにくそうに続けてきた。
「あの……失礼でなければお聞きしたいのですが」
「なんでしょう?」
「ハルトとは、知り合ってから長いんですか?」
別に失礼とは思わなかったし、お兄さんがそれを聞きたがる気持ちもわかる。
私は正直に答えた。
「同期入社なので、二年と四ヶ月くらいですね」
そして、大事なことも言い添えておく。
「あ、付き合いはじめたのはここ一ヶ月の話ですけど」
ハルトが彼女と別れてから付き合いました、という点はきっちり主張しておくべきだろう。
私たちにはやましいことなんて何も――いや、まあ、セフレからのスタートが何もやましくないかって言ったら微妙なとこだけど、とりあえず人倫にもとることはしてない。はず。
彼を好きになったのはほんの最近のことだった。彼のことを好みだと思っていたのは事実だけど、ハルトがあの晩酔いつぶれていなかったら、そして店長が私たちをふたりきりにしていなければ、こんなふうにはなっていなかっただろう。人のご縁ってわからないものだ。
「ええ、それはハルトからも聞いてます」
お兄さんは深くうなづき、それから気まずそうに眉尻を下げた。
「誤解させるようなことを聞いてすみません。天野さんを疑ってるわけじゃないんです」
「いや、そういうふうには思いませんでしたよ。大丈夫です」
私が手をひらひらさせると、お兄さんは短く息をつく。
少しだけ沈黙があって、
「あの……」
先程よりもずっと重たそうな口が、ためらいがちに動いた。
「それでしたら、ハルトの――前の彼女についてもご存知ですよね?」
言いながらお兄さんの目が、ちらりとお手洗いの方を窺う。
きっとハルト自身には聞かれたくない問いなんだろう。幸い、かどうかはわからないけど、彼はまだ戻ってくる気配がない。お手洗いは少し混み合っているようだった。
「はい、多少は。どうして別れたのかは聞いてました」
私はうなづいた。
実際のところ、ハルトと彼女が別れた理由については、私のみならずうちの店の誰もが知っている。
逆に言えばそれ以上のことは私もあまり知らない。ハルトが傷ついた記憶に触れてしまう怖さもあったし、そもそも昔の女の話を根掘り葉掘り聞きたいとは全く思えないからだ。
ただ、私にとっては『前の女』でしかないその人だけど、お兄さんにとっては違うのだろう。
「お気を悪くしないでいただきたいのですが……」
そう前置きして、お兄さんはつらそうに続けた。
「あの子とは、ハルトだけじゃなく私も、そして両親もずいぶん前から面識があったんです」
「そうなんですね」
高校時代からの付き合いだというならそうだろう。予想はしていたし、驚きはなかった。
「だから、あの子がハルトと別れてひとりで帰ってきた時、私も両親もひどく動揺しました」
お兄さんの声がかすかに震えている。
「あの子は、『陽登くんと喧嘩になり、暴力を振るわれた』と言って……」
「ええ!?」
これには思わず声が出た。
「ハルトが、ですか?」
「ええ、あの……」
「まさかでしょう。そんなことする人じゃないですよ」
とっさに否定した私に、お兄さんはますます苦しげな面持ちになる。
「そうです。ハルトはそんなことをする人間じゃない」
「なら……」
「でもあの子にそう訴えられて、痣になった痕も見せられて、私と両親はあの子の言い分を信じてしまったんです」
続いた言葉に、私はただ息を呑んだ。
あの別れ話には、まだ続きがあったんだ。
つらい予感しかしない続きが。
「私たちはあの子の嘘を鵜呑みにしました」
お兄さんは、堰を切ったように語を継ぐ。
「父は怒り、母は泣き、私も感情のままにハルトに電話をかけ、問い詰めました。もちろん弟は否定しましたが、私も両親もあの子の肩を持ってしまって、すぐにはハルトを信じられなかったんです」
なんてことだ。
ただでさえ深く傷ついていたのに、家族からも疑いをかけられて――彼はあの一件で、いったいどれほど多くのものを失くしたんだろう。
声も出せない私の前で、お兄さんはうなだれた。
「あの時、どうして弟を信じてやれなかったんだろうって……後悔しています。弟がどんな人間か、一番よく知っているのは私たちのはずなのに」
全て吐露してしまわなければ気が済まないとでもいうように、告白は続いた。
「今日会って、ハルトは『仕方なかった』と言ってくれました。長い付き合いだったから、私たちがあの子の肩を持ったのもわかるって……ですが、弟を傷つけてしまったのは消しようのない事実です」
もしかして、私が店に来た時のあの深刻そうな雰囲気は、そういうことだったんだろうか。
私がここに来る直前まで、ハルトとお兄さんはその話をしていたのかもしれない。
その後のふたりの会話からして、『仕方なかった』というハルトの言葉に嘘はないのだろう。彼は本当にそう思っていて、お兄さんのことを強く責める気はなかったに違いない。そうでなければ私の前であんなふうに仲良く話なんてしないだろう。
でもその裏で、深く傷ついていたんだとしたら。
「私が言えた義理ではないのですが」
ハルトが戻ってくる前に話を終えたいのだろう。少し早口になったお兄さんが面を上げる。
少し疲れた様子の、沈鬱そうな顔がじっと私を見つめてくる。
「天野さんがハルトを信じてくださって、本当によかったと思っています」
私は、何も言えない。
皮肉な話だ。まだたった一ヶ月の付き合いの、しかも告白された時『信じられないかもしれない』などと口走った私が、今では誰よりも彼を信じている。
ハルトは暴力を振るうような人じゃない。私にはわかる。
でもきっと、他の人にだってわかるはずなのに。
「ハルトのこと、よろしくお願いします」
深々と、お兄さんがまた頭を下げる。
それは先程の、あるいは初対面の時の挨拶とは違う意味合いが含まれている。それを読み取った私はすぐに答えた。
「任せてください」
笑おうと思ったけど、たぶんぎこちない笑みになったに違いなかった。
それでも、精いっぱい胸は張っておいた。
「ハルトは私が支えます」
「……お願いします」
その言葉を繰り返したお兄さんが、瞼を伏せる。
まだいろんなことが終わってはいないんだって、その表情を見て思った。
やがてハルトが戻ってきて、私たちは何事もなかったかのように店を出た。
東京駅近くにホテルを取っているというお兄さんとは、池袋駅で別れた。
「次は親も連れてくるよ」
別れ際にお兄さんが言うと、ハルトは少し困ったように微笑んだ。
「いいけど。ふたりとも都会苦手だから、楽しめるかな」
「大丈夫だよ。それに天野さんにも会いたいって言うはずだ」
少し前の私なら、その言葉にわくわくしていたかもしれない。そっくりなハルトのお兄さんを見た後だし、ご両親の顔もぜひ見たいと前のめりになって主張したことだろう。
でも今は、なんだか胸が痛い。
「羽菜がいいって言ったらな」
ハルトが私のほうを見たから、それにはちゃんとうなづいておく。
「もちろんいいよ! ハルトのご両親も見てみたいし」
嘘ではない。
ただ、もっと明るい気分でそう言いたかったなって少し思った。
お兄さんを改札まで見送った後、ハルトは私に向き直った。
「羽菜、もう少し付き合えないか?」
「いいよ」
私もそうしたいと思っていた。即答したら、彼はほっとした様子で笑う。
「よかった。実は、飲み直したくて」
珍しい誘い方だ。思えばハルトと会う時はそれほどお酒を飲むことがなかった。あんまり酔っ払うといざという時に困るからかもしれないし、あるいは最初の夜を思い出してしまうからかもしれない。
ただ、今夜はそれでも飲みたいってことなんだろう。
「いいけど、ハルト明日は仕事だよね?」
たしか遅番ではあったけど、出勤であることに変わりはない。私は休みだからいいけど、飲みすぎると明日の仕事がつらくなるはずだ。
「一杯だけ。軽くでいいから」
彼がそう主張するから、私からも条件を出してみる。
「じゃ、家飲みにしよ。ハルトの部屋に行こうよ」
「え? そんな安上がりでいいのか?」
「私はそっちのほうがいい。時間気にせずに飲めるし」
私の意見には彼も納得したようだ。
「わかった、そうしよう」
笑顔で了承してくれて、私たちは駒込まで移動することにした。
電車を降りて駅を出た後、福浦の部屋まで行く途中でコンビニに立ち寄った。
そして適当な缶チューハイやおつまみを仕入れると、改めて夜道をふたりで辿る。
歩きながらふと、ハルトが口を開いた。
「兄さん、何か言ってただろ」
言い当てるような、軽い口調ではあった。でもその『何か』は決して軽いものではなくて、私の答えは歯切れが悪くなる。
「まあ……聞いたよ。元カノが地元帰って、ご家族がどうしたかってこと」
「やっぱりな」
ハルトが溜息をついた。
彼の声や表情は、今はそれほど深刻そうに見えない。それだけが救いだった。
「兄さんもずいぶんと気に病んでるみたいで、今夜はずっと謝られたよ。おかげでお酒の味わからなくなって、酔った気もしなかったな」
「私がお店行った時、なんか雰囲気変だったもん」
「そうだろ? だから羽菜が来てくれて心底ほっとしたし、兄さんも安心してたと思う」
お兄さんも言ってたな。
私が同席したら、ハルトは安心するだろうって。
どういう意味合いで言われたのか、今ならわかる。きっとあの場には事情を知らない第三者が必要だったんだろう。ハルトとお兄さんが、一時でも楽しい気分でお酒を飲むために。
役立ててよかったと心から思う反面、そうでもしなければ修復できない傷の深さも読み取れて、私まで気持ちが沈む。
「ハルト……」
私はどう声をかけていいかわからなくて、彼の手を強く握った。
仕事帰りには繋げないその手も、今なら、ここでなら繋ぐことができる。しなやかな、だけど関節の目立つその手がぎゅっと握り返してくると、胸が締めつけられるような幸福感を覚えた。
「羽菜、今夜はありがとう」
繋いだ手を引き寄せて、ぐっと近づいた耳元で彼がささやく。
「できたらもう少し、一緒にいてくれ」
「うん、いるよ」
そのつもりでついてきた。彼が望むならずっといる。傍にいて、いくらでも話を聞いてあげるし支えてもあげたい。
私の答えを聞いたハルトは、うれしさを噛み締めるみたいに微笑んだ。
「ありがとう……すごく心強いよ」
「ハルトのためならなんでもするって言ったでしょ。どんどん頼ってよ」
「じゃあ、一生傍にいて」
頼ってと言ったとたん、彼がずいぶんとスケールの大きなことを言い出した。
思わず見返すとハルトははにかんでいて、その表情が、たまらなくいとおしく思えた。
だから答えた。
「いいよ」
そのくらいお安い御用だ。
むしろ私が、そうしたいって心から願ってる。