見間違うことなんてない
私が答えに詰まったのを見てか、ハルトのお兄さんも気づかわしげな顔になる。「すみません、急にお誘いしたらご迷惑ですよね」
「いえいえ! そんなことはないです」
突然のお誘いが嫌だったわけでは決してない。
むしろ『弟の新しい彼女とも食事をしてもいい』と思われるほどには好意的に捉えられているのが驚きだった。
いや、もっと言うならその前段階として、今カノがどんな相手か見極めたいというのがお兄さんの真意なのかもしれない。だとしても、不快感を覚えるような相手ならいきなり食事には誘わないだろう。
対してこちらは客観的に見れば、ぽっと出で後釜に座った正体不明の女。ここはお受けして、怪しい者ではないことをアピールしておくべきだ。
緊張はするけど。
でも、ハルトが一緒なら大丈夫。
「お邪魔じゃなければ、ぜひご一緒させてください」
私はそう答えてから、本日のシフトを思い出して付け加えた。
「ただ私は今日九時上がりなので、遅れての合流になっちゃうかと思うんですが……」
「こちらは構いません」
微笑むお兄さんの顔からは、どこかほっとした様子が窺えた。
「もしお疲れでなければ、お仕事の後に立ち寄っていただけるとうれしいです」
「はい。絶対うかがいます」
「ええ、よろしくお願いします」
ハルトのお兄さんは顎を引くと、微笑んで続ける。
「そのほうがハルトも安心すると思いますから」
――安心?
喜ぶ、とかじゃなくて?
その言い方は少し気になったけど、まあ仰りたいことのニュアンスは伝わった。お兄さんは私とハルトがもう十分に仲いいことをご存知で、一緒にいたら楽しく過ごせるだろうって思って誘ってくださったんだろう。
考えてみれば、ハルトのお兄さんやご両親は彼が振られた経緯だって知ってるはずだ。
高校時代からの付き合いの彼女がいきなり単身地元に帰ってきて、聞けばハルトとは別れたと言う。彼女がその理由を正直に語るとは思えないけど、なんにせよご両親やお兄さんは心配しただろうし、振られた直後のハルトがあんな調子で憔悴してたら一層気を揉んだに違いない。そりゃそうだよ、あんまりな別れ方だったもん。
今ではハルトも立ち直ってて、新しい彼女――私と付き合ってるけど。
安心したいのは、むしろお兄さんやご両親のほうなんじゃないかな。あれだけ落ち込んでたハルトがどんだけ元気になったか、それで次はどんな相手と付き合ってるのかちゃんと知っときたいんだろう。
だったら私はハルトと仲いいところをお見せして、お兄さん、ひいてはご両親に『大丈夫そうだ』って思っていただく必要がある。
お兄さんが店を出ていった後、私は休憩のタイミングでストックルームを覗きに行った。
そして在庫チェック中のハルトに、お兄さんがお店に来たこと、今夜は私も誘ってもらったことを伝えた。
「兄さんなら誘うと思った」
仕事の手を止めず、それでもちらりとこっちを見たハルトが言った。
「あんま驚かないんだね」
「予想してたから」
そう言うと、彼は口元を少しゆるめてみせる。
「俺も羽菜がいてくれたほうがうれしいな」
「あ、よかった。ついお受けしちゃったから、どう思うか気になってたんだ」
「来てくれるほうがいい」
言い切ってもらえてほっとした。
今日は彼が先に上がるから、行く店が決まったら店名と住所を送っといてくれるそうだ。私も仕事が済んだら駆けつけることを約束した。『あんまり急がなくてもいいよ』とも、ハルトは言ってくれたけど。
一日の労働が終わり、閉店作業も済ませて店を出ると、午後九時半を過ぎたところだった。
約束どおりハルトからはメッセージが入っていて、池袋駅近くのお店にお兄さんといるらしい。遅れていく私のために近場で店を選んでくれたのかもしれない。早足でそちらへ向かった。
ふたりがいるお店は洋風のダイニングバーらしく、看板には『肉バル』と記されていた。お肉の焼けるおいしそうな匂いが店の前から漂っていて、ドアを開ければ冷房の風やお酒の匂い、そして楽しそうな笑い声があふれるように押し寄せてきた。
店員さんに待ち合わせであることを伝え、店内をハルトたちを探しながら進む。奥のほうのソファー席にふたりの姿が見つかって、私はそちらへ足を向けた。
ハルトとお兄さんは向かい合わせに座っていた。ハルトは店で着ていたシャツ姿だったし、お兄さんは今日買ったばかりのTシャツ姿だ。テーブルには半分ほど空いたビールのジョッキがふたつ、それに食べかけのローストビーフサラダと思しき皿が載っている。
そしてふたりは、向き合ったままうつむいていた。
和やかに話をすることも、楽しくお酒を飲むこともなく、視線も合わせないその様子は遠目にも違和感があった。私も思わず足を止める。
この距離から表情は見えない。だけど賑やかにお酒や食事を楽しむ他のテーブルと比較しても、ふたりの様子は明らかに違って映った。場にそぐわない重い話でもしていたみたいだ。
もしかして、何か込み入った話の真っ最中だったりするんだろうか。
だとしたら私、入っていって大丈夫かな。
ちょっと待ってみたほうがいいのかも――。
どう声をかけようか迷う私を、だけど次の瞬間、面を上げたハルトが見つけてくれた。
たちまち彼の表情が柔らかく和んで、こちらに向かって手を振ってくれる。少し遅れてお兄さんのほうも私に気づき、微笑みながら会釈をした。
私も頭を下げつつ、とりあえずそちらのテーブルへ近づく。
「遅くなってすみません」
「いえ、来てくださってありがとうございます」
「羽菜、座って。お腹空いてるだろ」
ハルトは横にずれて、私のためのスペースを空けてくれた。私が彼の隣に腰を下ろせば、すかさずメニューを差し出してくる。
「好きなの頼んでいいよ、兄さんの奢りだから」
「え? いいのかな……」
「いいって。じゃんじゃん注文しちゃおう」
そそのかすみたいにハルトが言うと、お兄さんがすかさずうなづいた。
「お招きしたのこちらですし、遠慮なくどうぞ」
「ほら、兄さんも言ってるだろ? 和牛でもなんでも頼んで」
「いやさすがにそこまでは……」
一応控えめに行きたい私をよそに、ハルトはメニューをぱらぱらめくって見せてくれる。その様子をお兄さんが笑って見守っている。
そこにさっきふたりでいた時の沈鬱さは全くなかった。
勘違いだったかな。
そもそも深刻そうに見えたというのがただの見間違いで、偶然会話が途切れてお互い黙っていたタイミングだったのかもしれない。
それならそれで安心だ。せっかくなので多少はごちそうになってしまおう。
私はビールと軽いおつまみをいくつか、それにメニューからおいしそうに見えた肉寿司を注文した。
ハルトとお兄さんもそれぞれに飲み物を頼み直し、まずは三人で乾杯をする。程なくして運ばれてきた肉寿司は軽く炙っただけのジューシーさで、酢飯との相性もばっちりだ。
私が食べはじめるのを見たハルトが、とたんにうらやましそうな顔をした。
「おいしい?」
「うん、すっごく! ハルトも一個食べる?」
「いいの? ありがとう」
物欲しそうな彼に赤身を一貫分けてあげると、彼はゆっくり味わうように目をつむってそれを食べた。そして飲み込んだ直後、勢いよくメニューへ手を伸ばす。
「あ、本当においしい。俺も頼もう」
「ハルト、俺のぶんも一緒に」
お兄さんまでそう言って、結局二人前の肉寿司を追加注文することになった。
聞けばふたりとも、あんまり食事は取っていなかったらしい。そういえば私が来た時、テーブルの上にはジョッキとサラダのお皿くらいしかなかった。
「ごめん、私を待っててくれたとか……?」
話を聞いて焦る私に、ハルトもあわててかぶりを振った。
「違うんだ。兄さんとだらだら酒だけ飲んでて食べそびれた」
「あ、そういうこと」
「久々に会ったものでつい話し込んでしまって」
お兄さんも照れたように打ち明けてきた。
「前に顔を合わせたのが年越しの時だから……八ヶ月ぶりか?」
「そう。帰省した時くらいしか会わないもんな」
うなづいたハルトが、首をすくめて続ける。
「今年は年末も帰らない予定だから、積もる話は今のうちに片づけとかないといけないし」
彼が帰省しないという話は初耳だった。
まだそういう話が出てくる時期でもないとはいえ、それってやっぱり、元カノが地元に帰っているからだろうか。
私が横目で窺うと、ちょうど運ばれてきた肉寿司を受け取ったハルトがこちらを向いた。
「羽菜、さっきのお返しに一貫あげるよ」
「あ、うん。ありがとう」
「なんでお礼? もらった分返すだけなのに」
ハルトはおかしそうに笑いつつ、私に好きな一貫を選ばせてくれた。その笑顔に陰りはなく、見ていてなんだかほっとする。
まあ、理由なんていいよね。
ハルトは地元に帰らないし、私もそうすると決めた。
だったら年末は一緒に過ごそうって誘えばいいだけの話だ。
「羽菜が来てくれてよかった」
肉寿司を噛み締めながら、ハルトがしみじみとつぶやく。
「こんなおいしいもの食べずに帰るところだった」
「そこまで気に入った?」
彼の喜びようが見ていて面白い。それに、よっぽどお腹空いていたみたいだ。
空腹の時にお酒ばかり飲んでいたら酔いも回りそうなものだけど、ハルトも、それにお兄さんもさほど酔ったそぶりはなかった。ふたりともはきはき話している。
「そうだ。この服、天野さんに選んでいただいたんだ」
お兄さんがスモーキーブルーのTシャツを指差すと、ハルトは苦笑いを浮かべた。
「聞いたよ。いきなりコーデ頼むとか、羽菜もびっくりしただろ」
「ううん、全然。楽しく選ばせてもらったよ」
私は手を振って答える。
実際、お客様にコーデを一式考えてほしいと頼まれる機会はそこそこある。
ただそれが初めて会った彼氏のお兄さんというパターンは、さすがに初めてだったけど。
「お兄さんとハルト、本当にそっくりだよね」
ふたりを見比べつつ、私は続けた。
「歳も近いし、髪型まで揃えたらちょっと見分けつかなくなりそうじゃない?」
目元、口元、顔の輪郭に身体つき。それに声までよく似ている。さすがに見間違うほどではないけど、まるで双子みたいだなと思う。
「実際、間違われたこともありますよ」
お兄さんは昔を思い出すように苦笑し、ハルトも深く溜息をつく。
「友達とかは間違わないけど、先生は高確率で間違ったよな。俺と兄さん、高校も一緒だったから」
「『おい福浦!』って呼び止められて話聞いてたらなんか噛みあわなくて、実はハルトだと思われてた、なんてしょっちゅうだったな」
二歳差の兄弟で高校も一緒となれば、間違われるのも仕方ない。ふたりの表情を見るに、そっくりだったことにはだいぶ苦労もあったようだ。
「でも性格は全然違うんですけどね」
と、お兄さんは私に語る。
「ハルト、真面目なやつでしょう? 昔はちょっと堅すぎるって思うこともあったんですけど、少しは丸くなったのかな。天野さん、窮屈だと思ったら言ってやってくださいね」
私はハルトのことを堅すぎると思ったことはない。
真面目だなあと思うことは何度もあったけど――それに戸惑うことはあっても、不快に思ったりはしてない。ましてや窮屈だなんて、全然思わない。
こちらを気にするように、隣でハルトがそわそわしている。
だから笑って答えた。
「私はハルトの真面目なところ、いいなあって思ってますよ」
変にごまかしたりしないで、胸のうちを真っ直ぐ伝えてくれるところも。
嘘をつけない正直さも。
私はすごく好きで、美点だと思っていて、だからこそ一緒にいたいって願うようになった。
「むしろ私がいい加減な人間だから、ハルトの真面目さがちょうどいいって思ってます」
正直に答えたら、ハルトはくすぐったそうに照れ笑いを噛み殺す。
「羽菜は全然いい加減じゃないだろ、かわいいし」
「え!? いや、それといい加減さって関係ある?」
「かわいくてその上いい子だって言いたかったんだ」
「ちょ、照れるからやめて」
こっちまで照れ笑いが伝染してきて、私はあわててビールを飲む。
テーブルを挟んだ向かい側で私たちを見守るお兄さんが、ふっと安堵の微笑を浮かべた。
「仲いいですね」
「仲よくなかったら付き合ってない」
ハルトはそう反論したし事実そのとおりなんだけど、真っ向から言われると妙にはずかしい、というのもまた事実だった。
私が黙ったのを見て、ハルトがちらっと視線を投げてくる。
少しは酔っているんだろうか。切れ長の瞳がうるうる揺れて、目が合うと柔らかく細められる。その眼差しにますます心臓が速くなって、もっと何も言えなくなった。
お兄さんとハルトはよく似ているけど、私を見る目つきは全然違う。
だから私はふたりを見間違うことなんてないだろうな、と思った。