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好きな人のお兄さん

 八月が終わろうとしていた。
 まさに激動と呼ぶにふさわしいこの夏も、始まった時よりは穏やかに終わりそうだった。
 もうじき九月が来る。いよいよ本格的な秋物商戦が始まり、店頭にはアウターがぼちぼち並びはじめ、ダウンジャケットさえ入荷してくる九月がやってくる。外の最高気温が未だに三十度台だろうとお構いなしに、ショーウインドウには紅葉や銀杏のモチーフが飾られ、マネキンはニットやツイードなどの暖か素材を身にまとう。
 そして私にとっては、心の底から待ち遠しくて、待ち焦がれていた九月の来訪でもある。

 先日、九月のシフトが出て、私とハルトが申請した休日がめでたく取れていたことが判明した。
 シフトが出た日の帰り道、私たちは思わずハイタッチして喜びあった。
「一緒の休みだー!」
「やったー!」
 何せ付き合いはじめてから一ヶ月、ふたり一緒のお休みは初めてだった。
 この日はふたりでどこかへ出かけようと話していたけど、シフトが出るまではざっくりと願望込みの計画しか立てられずにいた。これで晴れて前向きに計画を立てられるようになったということだ。
「早速どこ行くか考えよう。羽菜は希望ある?」
「どこにしよっかなあ、九月半ばじゃまだ暑いよね」
 アウトドアはちょっと難しいかもしれないけど、思い切ってちょっと遠出もしてみたい気分。でも移動の時間もったいないし、都内でもいろいろ遊べちゃうから迷う。
 ふたりでお買い物してお互いに服選びあうのも楽しそうだし、食欲の秋らしくおいしいもの食べ歩きもよさそうだ。カラオケからボウリング行ってゲーセン寄って最後にダーツバーみたいな贅沢詰め合わせコースも捨てがたい。
 すぐには決めきれなかったので、まずはふたりで予定詰めてこうってことで、八月のうちからいろいろ話しあっていた。

 昨夜は、寝る前にメッセージをやり取りしながら相談した。
 彼は今住んでる駒込周辺を順調に開拓しつつあるようだ。
『この間は六義園に寄ってみたんだ』
 都会の中にあるのが嘘みたいな、閑静で美しい庭園だったと言っていた。何枚か写真も撮って送ってくれたけど、太陽の光の下で夏の緑がいきいきと輝く、本当にきれいな場所だった。庭園を囲む木の梢の向こうにかろうじて背高のビルが写っていて、東京にこんなところがあるなんてって私も思った。
『今度はふたりで行ってみたいな』
 そう言われて、私は一も二もなく賛成した。
 とは言えこの度の休みに対する私たちの思い入れ、期待感は半端なく、今や生半可なデートで終わらせてなどやるものかという熱意が滾りに滾っている状態だ。やりたいこと、行きたいところが多すぎて全然絞り込めない。
 お互いに要望を言いつつ、あれもいいねこれもいいねと言いあいつつ、まだ決めきれなくてじゃあまた明日と言って眠りに就く。近頃はそんな夜を過ごしている。
 昨夜は私のほうが先に眠くなって、『じゃあおやすみ』と送ったのが午後十一時過ぎ。
 ハルトがそれに『おやすみ、また明日』と返信をくれて、意識もうろうとしつつもスタンプを送り返した。そこまでは記憶がある。

 次の日目を覚ましたら、本日は早番の彼からメッセージが入っていた。
 昨夜の続きか今朝のオムレツ報告か、あるいはとびきりの笑顔でも送ってくれたのか――期待しつつ布団の中でスマホを覗けば、そこに並んでいたのは予想もしていなかった一文だった。
『今日、うちの兄と食事する約束した』
 そういえばハルトのお兄さん、東京に出張だって言ってたっけ。会うことになったんだ。
 地元で会社員をしているというハルトのお兄さんは、彼より二つ年上らしい。年に一、二回は出張で東京に来るから、そういう時は会う約束をするんだって言っていた。
 メッセージには続きもあった。
『事後報告になるけど、羽菜と付き合ってるって打ち明けた。もし兄が店に来て、顔見たがったらごめん』
 ハルトは私のことをお兄さんに話したようだ。
 まあ私は構わないけど、よかったんだろうか。前の彼女と別れてから一ヶ月で次の女とか、変に勘繰られたりしないかな。ハルトならそういうとこ、適当に嘘ついてごまかしたりできなさそうだけど。
 ひとまず、返信しておく。
『全然いいよ、私もハルトのお兄さん見てみたいし!』
 私は本当に全然構わない。私だってハルトのこと、うちの家族に話しておいたし。
 でも彼はいいのかな。

 ハルトと前の彼女は、高校時代からの付き合いだったって聞いている。
 そして彼の家族もまた前の彼女とは面識があるそうだ。地元に戻った元カノの話が彼の両親経由で彼に伝わるくらいには。
 だったらハルトのお兄さんも元カノのことは知ってるだろう。
 もし顔を合わせることになったら、なるべくちゃんとしてよう。彼が元カノに振られてヤケになってもっとヤバい女と付き合った、などと思われないように。

 それはそれとして、ハルトのお兄さんが店に来るならちょっと楽しみだった。
 好きな人のお兄さんとか見てみたいに決まってるじゃん。やっぱり顔似てるのかな。お兄さんに対してハルトはどんなふうに接するのかな。なんかいつもと違う態度とか撮ったりするとこ見せてもらえたらめっちゃおいしい。

 遅番で出勤した私は、内心うきうきしながら店に入った。
 ちょうどハルトが休憩中で少しだけ顔を合わせたけど、お兄さんはまだ来ていないらしい。
「商談の後で寄れたら寄るって言ってたし、来ないかもしれない」
「残念、顔見てみたかったよ」
 私が正直に告げたら、ハルトはくすぐったそうに笑っていた。
「見たら笑われそうだな。俺と兄さん、そっくりだって昔から言われるんだ」
 そんなこと言われたらますます見たくなる。お店に来なくても写真くらい送ってくれないかな。
 それと、ハルトはお兄さんのこと『兄さん』って呼ぶのも今知った。
「いいな、お兄さん。上にきょうだいいるのって憧れる」
 どれだけ望んだって絶対に手に入らないもの、それが兄と姉。
 私の羨望の眼差しに、彼は肩をすくめた。
「俺は逆に、弟か妹が欲しかったけどな」
 上にきょうだいがいる人は決まってそう言う。ハルトも例外ではなかったようだ。
 歳の離れた妹がいる私は、曖昧に笑って応じた。
「ないものが欲しくなる的なの、あるよね」

 八月が終わりに近づこうとも、夏の終わりは一向に見えてこない。
 今日も今日とて気温は高く、新入荷の秋物の売り上げはまだ鈍い出足となっていた。私は冷房の利いた店内にいるからいいけど、お客様は暑い中を歩いてこられるから涼しいお店の中に入ってもなかなか秋物に目が留まらないようだ。もうちょっと気温下がらないかな、なんてこの時期は毎年のように思う。
 そもそもお客様自体が少ない平日の午後、私がマネキンの歪みを直していると、すっと誰かがお店に入ってくるのが見えた。
「いらっしゃいませー、どうぞごゆっくりご覧くださーい」
 呪文のようにあいさつを唱えながらお客様の姿を確認する。
 珍しい、スーツ姿の男性だった。夏だというのに長袖ワイシャツにスラックス、さすがに上着は腕で抱えているものの、見るからに暑そうで大変だなと思う。提げた黒カバンも重そうで、店内に入ったその人はまずハンカチで汗を拭った。

 ちらりとその顔を見た瞬間、見覚えがあると感じた。
 横顔が似てる。切れ長の瞳と引き締まった口元がそっくりだ。髪はツーブロックで短めにしているけど、背の高さと腰の細さもよく似ていて、きっとハルトがスーツを着たらこんな感じなんだろうと思った。
 直感した。
 この人が、ハルトのお兄さんじゃないだろうか。

 男性は店内に視線をゆっくり巡らせた後、近づいてきて口を開いた。
「あの、すみません」
 声まで似てる!
 びっくりしつつ、私は愛想よく応じる。
「どうなさいました?」
「本日、福浦陽登は店におりますでしょうか」
 丁寧な口調でそう尋ねた後、男性はかすかに笑んで続けた。
「私、福浦の兄なのですが……」
 私の読み、大当たり。
 まあこれだけそっくりなら見てわからないほうがおかしいか。ハルトが言っていたとおりだ。
「福浦でしたら奥におります。呼んで参りましょうか」
 彼はこの時間はストックルームにいる。私が尋ね返すと、ハルトのお兄さんは一瞬迷ったような顔をしてから首を横に振る。
「いえ、仕事の邪魔になりそうなので」
 店内にいたら顔見てあいさつでも、と思っていたのかもしれない。そうして軽く会釈をした後、ハルトのお兄さんが私の名札に目を向ける。
 たちまちその目を見開いて、それから声を落として言われた。
「あなたが天野さん、ですか?」
 ハルトは私のことを打ち明けたと言っていたけど、いざ問いかけられると内心緊張する。
「はい、そうです」
「私、ハルトの兄です。弟がお世話になっております」
 お兄さんが折り目正しく頭を下げてきたので、私もあわててお辞儀をした。
「いえいえ、こちらこそです。はじめまして」
 こういう時ってなんて言うのが正しいんだろう。接客業も長いけどフォーマルなのは苦手で、今さらちゃんと考えておくんだったって悔やんでいる。上手く言葉が出てこない。
「ええ、はじめまして」
 ハルトのお兄さんはハルトそっくりの優しい微笑みを浮かべている。私を見る目はいたって和やかで、今のところおおむね好意的と受け取ってよさそうだ。
 一安心する私に、お兄さんは小声で言い添える。
「弟のこと、よろしくお願いしますね」
「お任せください」
 その言葉には胸を張った。
 彼のために何ができるかは目下模索中ですが、愛情だけは特大級のやつです。ご安心ください。
 私の答えを聞いたお兄さんはもう少しだけ笑って、それから店内を改めて見回す。
「ところで……」
 どこかためらいがちに続けてきた。
「このお店って、買ったものをそのまま着て帰っても大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ! タグ切りますからお申しつけください」
「よかった。この格好だともう暑くて……」
 そう言って困ったように笑う顔が、本当にハルトとよく似ていた。

 それから私は、ハルトのお兄さんのフィッティングのお手伝いをした。
 秋物メインの売り場から、今の時期にも着られそうな半袖Tシャツやチノパンを見繕う。ハルトと違ってお兄さんは着るものにあまりこだわりがないらしく、チノパンは一目見ただけで迷わず黒を選んだ。
 Tシャツはロゴプリントすらない無地のものを探していたようで、どれがいいでしょうかと聞かれたから涼しげなスモーキーブルーをお薦めしておいた。
「この色合いなら秋口でも着られると思いますよ」
「なるほど」
 お兄さんがTシャツを手に取って眺める。目をすがめるその表情もそっくりだ。
 ふたつ違いの兄弟なら、双子みたいに区別つきにくい時期もあったんじゃないだろうか。どんな兄弟だったのか、今度ハルトから聞かせてもらおう。
「でもこういう色、着たことなくて。俺には派手すぎないか心配で……」
 お兄さんが自信なさそうに苦笑する。
 仕事着がスーツだと普段着にもカラフルな色を着るのが苦手、というお客様はけっこういらっしゃる。オータムシーズンのくすみカラーは着たことない色を試すのにちょうどいい。
「この色のシャツ、福浦も今年着てるんですよ」
 すかさず私はハルトを引き合いに告げる。
 彼がこの間買ったシャツをメールで送ってきてくれた。ちょうどこんな感じのくすんだ青いシャツで、後日それを店にも着てきたのを私はしっかり覚えている。
「それがすごく似合ってたので、お兄さんにも絶対お似合いだと思います」
 私が強く推すと、お兄さんも決心がついたようだ。
「なら、挑戦してみます」
 そう言って、試着室に入っていった。

 背が高い人だと思っていたけど、チノパンはお直しなしでするりとはいてみせた。
 スモーキーブルーのTシャツも予想どおりよく似合っていて、お兄さんも鏡を見て満足そうにしていた。
「天野さんの仰るとおりですね、しっくりくる色でよかった」
「お役に立てて何よりです」
 お買い上げいただくTシャツやチノパンからタグや替えボタンを外し、着てきたシャツやスラックスは店の紙袋にしまってお渡しした。靴だけはまだ黒革靴だったけど、どこかで歩きやすいスニーカーを探してくると言っていた。
「いろいろ、ありがとうございました。助かりました」
「いえ、またぜひいらしてください」
 頭を下げ下げ店を出ていくお兄さんを店頭まで見送った。
 着替えてさっぱりしたのか、満足のいくお買い物ができたからか、お兄さんはうれしそうに笑っている。その様子を見て私も心底ほっとしている。
 お客様には誰でもご満足いただきたいものだけど、これがハルトのお兄さんとなればまた特別だ。いいお買い物をしてもらいたいし、その上で『まともな相手と付き合ってる』と思っていただきたい。そういう意味で今日は多少ポイントを稼げたのではないだろうか。
 一仕事終えた充足感にひたる私に対し、お兄さんはふと切り出した。
「今夜、弟と会う約束をしてるんです。久々に飯でもどうかって」
「あ、福浦から聞いてました」
「よかったら、天野さんもご一緒にいかがですか?」
「――え?」
 にこにこと笑うお兄さんからのお誘いに、一転して私は戸惑った。
 これもポイントを稼ぐチャンス、なのかもしれないけど――いやさすがに、ご家族とお食事っていきなり超難関じゃない?
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