私の心の養分です
「ハルトは、別に……」とりあえず、反論はした。
「努力してほしいとか、ここ直してほしいとか、そういうのはないよ。それこそそのままで十分素敵だし、好きだし」
さっき彼が言ってくれたことを、私は彼に対して同じように思っている。
だから、がんばらなきゃいけないことなんてないのに。
『ありがとう』
笑うように答えたハルトが、優しい声で続けた。
『今言ったばかりだけど、俺も羽菜に同じことを思ってる』
「うん……」
『俺は羽菜に努力してほしいわけでも、変わってほしいわけでもないんだ。今のまま、俺と一緒にいてくれたらそれでいい』
それから彼は少しだけ声に力を込めて、
『そのことをわかってもらう努力、しなくちゃいけないなって思った』
と言った。
わかってない、わけじゃない。
と思う。
私と彼はお互い好きで、付き合ってて、だから同じことを相手に思うのだっておかしくない。私がハルトになんにもしなくていい、そのままでいいと思うように、彼だって同じ考えを抱いているのかもしれない。
だけど同時に、私には彼のために何かしてあげたいって気持ちがどうしてもあって――彼が喜ぶならあられもない格好の写真だろうともっと過激なことだろうと全然構わないくらいだった。
そうやって必死になってしまうのは、わかってないってことなんだろうか。
「わかってない、のかなあ……」
バスタオル一枚の格好がいい加減肌寒くなってきた。冷房を弱めながらぼやく私に、ハルトが優しく告げる。
『写真送ってくれたのはうれしかったよ』
「ほんと?」
『ああ。欲しいって言ったらすぐに送ってくれるところ、ひたむきでかわいいなって思った』
あの写真、けっこう苦労して撮ったんだよね。ライティングとか角度とか。
でもそれについて感想がないってことは、やっぱり彼が欲しかったものとは違ってたんだろう。送って一分で電話かけてきたあたり、これは早急に訂正しなくてはとあわてたのかもしれない。
「ハルトはどんな写真が欲しかったの?」
『送ってもらったものにダメ出しするのも失礼だろうけど……もっと何気ない写真でよかったんだ。その、無理に際どい写真とか撮ってくれなくても、羽菜が写ってたらそれだけで』
彼がそう言うから、こっちはなんとなく心配になる。
「でも、お色気要素がないとつまんなくない?」
『そんなことない。羽菜が写ってたら、それだけでうれしいよ』
「私、ハルトが望むならいくらでも脱ぐのに」
『いや、それもちょっと。万が一スマホ落としたら困るだろ』
まあ、たしかに。ハメ撮りはスマホでしないほうがいいって言うしね。
何気ない写真、かあ。ちゃんとつまらなくないように撮れるかな。ハルトが今度は喜んでくれるように。
『俺、上手く言えないけど……』
そこでハルトは、どこか思いつめたように息をつく。
その後でぽつりと打ち明けてきた。
『羽菜のこと、大切にしたいんだ』
もちろん、それもわかってる。
むしろ今までに彼ほど私を大切に、大事にしてくれた人なんていなかった。男の人たちからの雑な扱いに慣れきったところにできた面食らうほど優しい彼氏を、私もどうにかして大切にしたいと思っていた。
だからなんでもできる、と思う私と。
だからなんにもしなくていい、と言う彼と。
つらくも苦しくもない、ただちょっと、幸せなのに戸惑ってしまうすれ違いが生じていた。
「そんなの、ハルトは十分――」
とりあえずこれだけは言っとこうと思った瞬間、弱めたはずのエアコンの風が剥き出しの肩を冷たく撫でた。
たちまち鳥肌が立って、
「――へっくしゅ」
あわててスマホを遠ざけたけど、とっさのかわいくないくしゃみは向こうにも聞こえてしまったはずだ。すぐにハルトが声を尖らせた。
『羽菜、今ちゃんと着てるのか?』
「ううん、バスタオル一枚。二秒でフルヌードになれるよ」
『風邪引くだろ! ちゃんと服着て!』
叱られた。
あまりに真面目な物言いに、私は思わず聞き返す。
「えー、いいの? もったいなくない?」
『羽菜に風邪引いてほしくない。頼むから、自分を大切にしてくれ』
ハルトに頼まれてしまったら断れない。
私は通話を終えるとすぐにパジャマなどを着込んで、『言われたとおりちゃんと着たよ』ってメッセージを送る。
すぐに彼からも返信があって、
『安心したよ、ありがとう』
って、かわいいウサギのスタンプを添えて送られてきた。
送ってしまってから、こういう時こそ写真撮るべきだったのかなと思わなくもなかった。でも家で着てるパジャマは地味なパイルワンピースだし、特に色気もないしなと結局ためらう。
明日、別の写真を送ってみよう。バスタオル一枚のインパクトに勝ちうる写真なんて全然思いつかないけど、ハルトは何気ないのでいいと言っていたし――いいのかなあ。一応、送ってみてから反応見ようか。
それにしても。
私に『服着て』って叱ってくれる人、初めてかもしれないな。
翌朝、私は早番出勤に備えて六時に起きた。
顔洗ってメイクして服を着替えて、朝ごはんの支度をしながら昨夜のやり取りを思い返す。ハルトにどんな写真送ろうかなって考えながらフライパンを揺すってたら、テーブルの上でスマホが鳴った。
『おはよう、朝ごはん食べた?』
ハルトからのメッセージには画像が添えられていて、オムレツを載せた皿の傍らでこっちを見て笑う彼が写っていた。休日の朝六時だっていうのに寝癖もなく見とれるほどいい笑顔で、おまけに黄色いオムレツは今朝も美しく完璧に巻かれている。
実物はもちろん素敵だって知ってるんだけど、こうして写真越しに見るハルトもめちゃくちゃいい。この笑顔は間違いなく私のためだけに浮かべられたものなんだろうし、むしろ自分にスマホを向けこうして笑いかけてくれる彼になんだかどきどきしてしまう。私に見せたくて撮った、ってことだよね。
思わず唸りながら速攻画像を保存して、それからはたと気づく。
彼も、こういう写真が欲しかったのかもしれない。
彼のためだけに笑って、スマホを自分に向けて撮る。写真越しに想いを伝えることができる何気ない一枚が欲しかった、ってことかもしれない。それはたしかにつまらなくないし、むしろ即保存したくなるくらいにはうれしい。
ちょうどこっちも朝ごはんのオムレツが焼き上がったところで、彼ほどではないけどまあまあ上手くできたから写真に撮った。
先にメイクしといてよかったなと思いつつ、皿と一緒に写ってみる。寝起きだからちゃんと笑顔になるまで数枚リテイクを繰り返したけど、ようやく撮れたものを送信したらすぐに返信があった。
『今朝もかわいいな、写真ありがとう』
その直後にもうひとつ、
『オムレツもすごく上手にできてる』
とも送ってくれて、たった一言なんだけどにやにやしちゃうくらい、うれしくなる。
本当にちょっとしたやり取りなのに、ハルトと繋がっていられる感じが楽しい。彼は相変わらず褒め上手で、出勤前の私を元気づけてくれた。
おかげで今日の朝ごはんは、いつもよりずっとおいしかった。
こうして私と彼は写真のやり取りをするようになった。
毎日送れるほどネタがあるわけではなかったけど、それでもじわじわと私のスマホには彼のプライベートショットが貯まっていって、自分で送るよりむしろ彼が送ってくれる写真のほうが楽しみになっている状態だった。
またいい男は写真うつりもすこぶるよくて、いつだって見とれるほど素敵な表情を送ってくれる。休みの日に家の周りを散歩して、いいお店を見つけた時の得意げな顔も、暑さでちょっとバテたらしい時の表情も、きれいな夏の夕焼けに出会った時のすごくうれしそうな笑顔も、私は全て保存して時々見返してはにやにやしている。今や彼氏の写真が私の心の養分です。
そうして見返しては目の保養をしつつ、ハルトもこんな感じで私の写真眺めてるのかな、なんて思う。
さすがにここまでにやにやはしないか。もっと凛々しい顔で見ているはずだ。
今日も今日とて昼休憩中に、スマホを開いて眺め入る。
本日はお互い早番で、朝に写真を送りあうことはなかった。でも昨夜は、日付が変わるか変わらないかくらいの時刻にちょっとくたびれた顔を送ってくれた。なんでもお兄さんから急に電話がかかってきて、それが予想外の長電話になってしまったそうだ。
『今度東京に出張らしくて、寄れたら俺の顔も見に来るって』
そんなメッセージも送ってくれて、ハルトはお兄さんと仲がいいのかな、と思う。
お兄さんがいるって話も昨夜初めて聞いた。ふたりきりの兄弟で、歳もふたつしか違わないらしい。歳の近い兄弟っていうのもいいな、少しうらやましくなった。
ともあれ休憩室でスマホを眺めていれば、一緒に休憩に入っていた店長がふと声を潜めた。
「羽菜ちゃん、福浦くんとお付き合いしてるんだって?」
店長を含め職場の人から聞かれたら正直に話す、隠さないってハルトは言っていた。
今、聞かれたってことはそういうことなんだろう。そう思って、私も正直にうなづく。
「そうです。すみません、ご報告が遅れまして」
「ううん、それはいいの。福浦くんから聞いてたから大丈夫」
店長はにっこり笑ってくれたけど、この人に対しては前にも彼とのことを尋ねられ、そしてその時は正直に否定したという経緯がある。
あれも元はと言えば北道さんのせいなんだけど――さておき。
「前に聞かれた時はほんとに付き合ってなくて、ああ答えたんですけど。その後付き合う流れになりまして……」
経緯を正確に説明しようとするとなんか白々しく響くから困る。
かと言ってガチで正確に説明すると百パーセント引かれるので、こう言うしかなかった。
「そっかそっか」
店長はなぜか楽しげに手を叩き、それからちょっとだけ苦笑を浮かべた。
「ってことは北道くんはお気の毒……っていうよりむしろ自業自得ってとこかな」
それについては私はノーコメントにしておいた。
まあ、顔には出てたと思うけど。
北道さんはあれから反省したのかどうか、割とおとなしくなった。
仕事はちゃんとしてるし私やハルトともまあまあふつうに話している。前みたいにこっちを貶したり馬鹿にしたりということもなく、すっかり無害な職場の先輩になってくれた。振ったことに罪悪感もなかったけどこじれたら嫌だなと思っていたら、今のほうがよっぽど付き合いやすくなったというから不思議なものだ。
もしかするとあの人は、恋愛が絡むとだめになっちゃうタイプだったのかもしれない。
「でもいいよね。羽菜ちゃんと福浦くん、一緒にいると楽しそうじゃない」
今日の店長はずいぶん機嫌がいいようだ。うれしそうに続けた。
「実はちょっと前からお似合いだなって思ってたんだ」
「そ、そうですかね……えへへ」
職場の上司に言われるとめっちゃ照れるな。
恥じ入る私に店長は目を細める。
「見てると私にもこんな頃あったな、って思っちゃう。付き合いたての初々しい感じ、いいよね」
私たちが本当に初々しいかは微妙なとこだ。
それはともかく、店長の左手の薬指には銀色に光る指輪がある。旦那さんとの間には小学生の娘さんもいて、何度かうちの店にいらしているのを見かけたこともあった。店長の娘さんがうちの妹と同い年だって聞いた時は、ちょっと思うところがあったりもした。
「店長だって旦那さんと仲いいじゃないですか」
お客様どころか店員にすら人当たりのいいうちの店長だけど、旦那さんや娘さんと接する時はまた違った柔らかさがあるように思えた。表情も、声も、どこか雰囲気が違って見えた。
でも店長自身は肩をすくめてこう言った。
「うちはもう結婚して長いしね。羽菜ちゃんたちみたいにときめき満載ってわけじゃないよ」
「ときめき満載……そう見えます?」
「見えるねえ。もう超ラブラブじゃない?」
冷やかすような微笑みを向けられて、私は一瞬言葉に詰まる。
そんなにか。外から見てわかるほど仲良くしてたつもりはないんだけど。店ではちゃんと弁えようとしてたはずなんだけど――。
「福浦くん、わざわざ私に報告しに来たんだよ」
店長は秘密を打ち明けるような口調で言う。
「『天野さんとお付き合いしています。いろいろとお騒がせして申し訳ありませんでした』ってね」
聞かれる前に、自分から言いに行ったのか。
実際お騒がせはしてたし、私もそうすべきだったかな。内心後悔していれば、店長がさらに続けた。
「『いろいろとありましたが、これからは天野さんを大切にしていきます』とも言ってた」
短い溜息の後、少しだけ目を伏せる。
「本当に福浦くん、いろいろあったもんね。だから私それ聞いて、よかったなって思って……」
本当に。
彼にはいろいろなことがあった。
でも、何があっても今は幸福だって思ってくれてるなら、私もうれしい。
「お幸せにね、羽菜ちゃん」
店長の言葉に、私は照れながらもうなづいた。
「はい」
彼のこと幸せにするし、私も一緒に幸せになってやります。