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めちゃくちゃ尽くしたい欲求

 お盆の季節になると、実家から電話がかかってくる。

『お姉ちゃん、今年は帰ってくる?』
 最初に話しかけてくるのはたいてい妹の美羽だ。
 小学生になってから年を追うごとにはきはきしゃべるようになってきて、子供の成長って早いなと思う。
「今年も無理かなあ、うちお盆休みないし」
 カレンダーどおりの休みなんてない職種だから、そんなものも存在しない。毎年言ってるし転職したとも話してないのに、毎年のように連絡が来る。
『お休みないの?』
「ないの。美羽は元気にしてる?」
『してる! こないだ逗子に泳ぎに行ったよ!』
 美羽と一緒に暮らしてたのはたったの三年くらい。その後私は進学のために家を出て、こんな調子であんまり帰ってない。だから接点はほとんどないんだけど、それなりに懐いてはくれてるらしい。
『……じゃあ、お母さんに代わるね!』
 ふつうに姉妹っぽい会話をいくつか交わした後、妹がそう言って、すぐに母の声がした。
『羽菜、今年も帰ってこないって本当?』
 傍で聞き耳でも立てていたのか、そんなふうに聞かれた。
「うん。毎年言ってるけどお盆休みないからね」
『でも一日くらい帰ってこられない? 日帰りできる距離なんだから』
 私の現在住んでる部屋から実家まではたったの電車一本だ。
 一日休みがあれば十分里帰りもできそうだけど、率直に言えば帰りたくなかった。
「休みの日はぐったりしてること多いしなあ……」
『そう……』
 母は多少がっかりした様子を見せたものの、すぐに気づかわしげな声で尋ねてきた。
『お店は相変わらず忙しいの?』
「まあね、お蔭様で売り上げいいみたい」
『身体壊さないよう気をつけてね。何かあったらいつでも連絡してよ?』
「気をつけます、ありがとね」
 こちらもふつうに母娘っぽい会話を交わす。ギスギスしてるわけでも、よそよそしいわけでもなく、でもどこか上滑りするようなやり取りが続いた。

 こういう時、父はめったに電話に出ない。
 父との仲は中学時代のあの一件以来ぎくしゃくしたままで、私は家を出る直前まで父と上手く話せなかった。今も年末年始に帰省すれば、必要なこと以外はほとんど口を利かない。もっとも妹の手前、邪険にしきれないところもあって、表向きはふつうに接してる――つもりだ。
 父が私をどう思っているかはわからない。本人なりにやましさを感じているのか、あるいは娘らしい反抗期の延長だとでも捉えているのか、あまり私とは積極的にかかわろうとしてこない。かえってそのほうがありがたいくらいだった。

 こんな父でも、私に彼氏ができたと聞いたら何か反応するんだろうか。
 今まで話したことはなかったけど、
「そういえば私、彼氏できたよ」
 電話のついでに打ち明けたら、母が息を呑むのが聞こえた。
『え! それで忙しくて帰れないの?』
「そうじゃないけど……ずっと心配されてたし、言っとこうと思って」
『へえ、そうなの。どんな人?』
「店の同僚。どんな……まあ、いい人だよ」
 彼のことを話すと際限なく褒めてのろけてしまいそうだから、程々にだけ打ち明けておく。親に冷やかされるのもなんか微妙だし。
『お父さん、羽菜に彼氏ができたって!』
 母は遠くへ呼びかけるような声を発した後、楽しげに続けた。
『じゃあお盆は無理でも、年末年始は彼氏連れて帰ってきたら? 会わせてよ』
「できたらね。向こうの都合もあるだろうし」
 私は曖昧に答える。
 実際、連れてったらどうなるんだろう。あの父が『お前なんぞに娘はやらん』などと言い出したら一周回って笑えるんだけど。
 もっとも、そんな好奇心を満たすためだけに彼を連れていきたいとは思わない。今年は年末も帰らない方向でいこうかな、なんて考えていた。

 当たり障りない通話を終えた後、私はぼんやり溜息をつく。
 話を聞く限り、実家は全員元気みたいだった。
 私がいようがいまいが仲良し家族をやっていることには変わりなく、幸せそうに暮らしているのがなんとなくわかった。それはいいことだと思う。私も家族の不幸を望んでいるわけではないから、みんなが笑顔で、元気でいてくれたほうがうれしい。
 ただ、そんな家族がずいぶん遠くにも感じられた。
 私がその中に戻ることはもうないんだろうなって、あきらめみたいな気持ちで思う。

 そういう、どうしようもないもやもやは置いといて。
 ここ最近の私が彼氏持ちで、そのために休みのひとつひとつが貴重なものになっているのは確かだった。
 忙しい、というよりはひたすら充実している。八月中に休みが合うことはなかったものの、どちらかが休みの日はなるべく都合をつけて会ったりしている。会えない休みにはデート用の服やコスメを仕入れたり、お肌の手入れに勤しんだり、密かに例のオムレツの練習をしてたりとやりたいことはたくさんあった。
 付き合いたてのテンションの高さもあって、今なら彼のためになんだってできそうだ。

「天野、お疲れ様」
 仕事終わりのロッカールームで、ハルトが声をかけてきた。
 私はようやく彼を名前で呼ぶことに慣れてきた頃で、だけど職場では当然ながら名字で呼ぶし、彼からも呼ばれる。そういうのもちょっとくすぐったい時期だった。
「あ、お疲れ様! 福浦、一緒に帰らない?」
「俺もそのつもりだった」
 そう言って彼がはにかむ。
 お互い、少しでも一緒にいたいと思っていた。だから急いで店を出ると、ふたりで駅までの道を歩きはじめた。

 店からの帰り道、池袋にいるうちは手を繋がないようにしている。
 暗い夜道であろうとどこに店のお客様がいるかわからないから、というのがその理由だけど、でも手を繋ぎたい気持ちはどうしてもある。私たちは並んで歩く間に何度も手をぶつけあって、そのわずかな間に手の感触や体温を感じるようにしていた。
「ハルトは明日、お休みだよね」
 私が尋ねると、彼は少し浮かない様子でうなづく。
「ああ。羽菜は早番だったよな」
「そうだよ。せめて遅番だったらご飯行こって誘うとこなんだけど」
 こちらとしても残念に思ってる。どちらか、もしくはふたり揃って次の日遅番だったりしたらこのままご飯食べに行って、ついでに彼の部屋に泊まりに行ったりもできる。だけど早番は九時出勤、しかも今日が遅番だったから寄り道する時間はない。
 それでしょうがなく、名残を惜しむようにゆっくり歩いてる。
「やっぱり、一緒の休みが欲しいな……」
 ハルトが寂しそうにぼやいて、また軽く手をぶつけてきた。
 しなやかな彼の手の、それでもごつっとした関節が感じられると無性にどきどきする。本当に、休みが合う日が待ち遠しかった。
「九月のシフト希望提出したし、あとは店長次第だね」
 私も彼のほうに手を差し出しながら応じる。
 熱帯夜の温い空気の中、指先が一瞬だけ触れあって、すぐに離れた。
「休み合ったらどこか行こう」
「うん。どこ行きたいとかある?」
「羽菜と一緒ならどこでもいいんだけど……」
 そう言いながらもハルトはちょっと考え込んで、
「もしよかったら買い物付き合ってほしい。あと、おいしいもの食べたい」
 と続けた。
「いいね、賛成」
 私も異存はない。彼と一緒ならどこ行っても楽しいだろうし、何をしたって満足できると思ってる。なんならふたりだけでなんにもない部屋に長時間閉じ込められたって全然楽しめる自信がある。

 それに、私にとっては本当に久しぶりにできた彼氏で、好きな人だ。
 時間ができたら彼のためになんでもしてあげたい。時間がなくても、できる限りのことはしたいと思っていた。

 だから、ついでに尋ねてみた。
「ハルト、私にしてほしいことってない?」
「え?」
 私の問いに、彼は驚いた様子で目を見開く。
 それでもすぐに考えてはくれたようで、眉根を寄せながら答えた。
「してほしいこと……羽菜がこれから先ずっと傍にいてくれる、ってこととは別に?」
「うん」
 それはもちろん叶えたいけど、そういう長期的なビジョンとは違うものだ。
 ハルトにとっては久しぶりでもない彼女だろうけど、それでもこうしてほしいとか、こんなことをやってみたいっていう希望はあるはずだ。ぜひ聞かせてもらって、可能な限りそれを実現したい。
「別にって言われると、あんまり浮かばないな」
 彼はしばらく考えた後、私に向かって笑ってみせる。
「俺は羽菜がいてくれるだけでいい」
「遠慮しないで。洗濯とか掃除しとけって言われたらしに行くし」
「そういうのはないな。全部自分でやるよ」
「ここを直してほしいってところがあれば速攻直すし」
「羽菜に? そんなとこないけどな」
「ちょっと頼みにくい過激なプレイとかでもオッケーだよ」
「……いや、俺、ノーマルだから」
 ハルトはそこで咳払いをして、それからたしなめるみたいに苦笑した。
「そんなにがんばらなくてもいいよ。俺は羽菜がいてくれるだけでいいんだ」

 私だって、逆に彼から同じ質問をされたらそういうふうに答えるだろう。
 ハルトがいてくれるだけでいい。あとは私のことを好きでい続けてくれたら、それだけでいい。
 でも彼には私をもっと好きになってほしいし、してほしいことや直してほしいところがあるならちゃんと言ってもらいたい。そういう、めちゃくちゃ尽くしたい欲求がどうしても抑えられない。

「じゃあ、何か思い浮かんだらいつでも言ってね」
 あきらめきれないながらも引いた私に、ハルトはちゃんとうなづいてくれた。
「わかった」
 その後でふと思いついたように、あ、と小さく声を上げる。
「ひとつだけあった、頼みたいこと」
「え? 何なに、言ってみてよ」
 私が聞き返すと、彼はくすぐったそうに微笑んでみせた。
「羽菜、時々メッセージに画像添えてくれるだろ? こんなお昼食べたよ、とか」
「うん」
 ハルトとはお互いにそうやってやり取りをしてきた。おいしかったご飯や買ったばかりの服なんかの画像を送りあって、一緒に過ごせない時間も共有してきた。
「その画像に羽菜が写ってたらもっとうれしいな、って思ったんだ」
 彼が照れながら言葉を続けた。
「要は、俺が羽菜の顔見たいってだけなんだけど」
「つまり、私の写真が欲しいってこと?」
「そう。できる時だけでいいから」
 なるほど。
 言われてみれば今まで自撮りを送ったことは一度もなかった。発想自体なかったと言ってもいい。ご飯や服の画像を撮る時、そこに自分を組み込む必要性を考えたこともなかった。
 でも、私の顔が見たい、写真が欲しいって思ってくれる人がいるんだ。
 なんかうれしいな。絶対期待に応えたい。
「任せて! 早速帰ったら撮って送るから!」
 私は張り切って答えた。

 そして彼と別れて自分の部屋に帰った後、まずはシャワーで身を清めた。
 それからごく薄くだけメイクをして、身体にはバスタオルを巻いたまま撮影の準備をする。
 スマホを片手で掲げて俯瞰の角度から、上手く胸の谷間が写るように撮る。顔が暗く見えないよう、肌がきれいに見えるようにライティングにはちょっと苦心した。スマホに向かって取る表情もなかなか難しくて、いつも美しく映るモデルさんってすごいんだな、などと改めて感心する。
 でも苦労の甲斐あって、柔らかそうな会心の一枚が撮れた。
 私はその写真をすぐにハルトに送信する。
 添えるキャプションは五秒で決まった。
『今夜のおかずはわ・た・し』

 送信して一分も経たないうちに、ハルトから電話がかかってきた。
 感想にしては早いなと思っていたら、慌てふためいた様子で訴えられた。
『違うんだ羽菜、そういうことじゃない』
「違うの!? もしかして、実用性が足りなかった?」
『そういうことでもなくて!』
「ハルトが保存したくなるような写真になったと思ったのに」
『いや、まあ、保存はするけど!』
「あ、それはよかった。ほっとしたよ」
 私が安堵の溜息をつくと、彼もまた息をついたようだ。かすかな音がした。
 それから、静かな声で言われた。
『羽菜はそのままでも十分かわいいし、素敵な人だよ』
「え……な、何、急に……」
『だから俺は、羽菜にあまりがんばってほしくない』
 うろたえる私をよそに、ハルトはそう言って少しだけ笑う。
『俺がどれだけ羽菜を好きか、もう十分伝わってると思ってた。そうじゃないなら、がんばらなきゃいけないのは俺のほうだ』
 思いがけない言葉が耳元に流れてきて。
 まだバスタオル一枚の私は、思わずぽかんとした。
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