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何年経っても一緒にいたい

 枕元で、スマホのアラームが鳴っている。
 無意識に手を伸ばして画面を覗けば、現在の時刻は午前七時ジャスト。今日は確か遅番だからもうちょっと寝てられるはず。そう思ってアラームを消してからまた目を閉じる。

 その瞬間、大きな手にぎゅっと掴まれた。
「ほんとにアラーム自分で止めるんだな」
 耳元で、吐息と共に笑う声がする。
 私が閉じたばかりの目を思わず開けると、視界いっぱいに福浦の笑顔があった。もう服も着てたし髪も整えた後みたいで、その顔を見たとたん、そういえば彼の部屋に泊まったんだって思い出す。
 片や私はと言えば寝起きで服も着てないし、寝る前にかけてもらったタオルケットもどこかへやってしまっていた。とりあえずそれを引き寄せつつ、今さらちょっと照れてみる。
「……おはよう」
「おはよう、羽菜」
 福浦はとても優しく私の名前を呼んだ。
 それだけで昨夜の出来事が一気に蘇ってくるようで、はずかしいって思うのもそれこそ今さらかもしれないけど余計に照れた。
 照れ隠しに尋ねてみる。
「ハルトは、何時に起きたの?」
「六時半。もう羽菜を寝坊させられないと思って」
「う。その節はご迷惑をおかけしました」
 前に泊めてもらった時も自分でアラーム止めて、完全に寝坊したという前科がある。あの時は福浦からTシャツ借りて、北道さんにめっちゃ因縁つけられたんだよね。過ぎた話だけど。
 今日は起こしてもらえたし、遅刻の心配もない。
「ありがとう、起こしてくれて」
 私がお礼を言うと、彼はなんでもないようにかぶりを振った。
「いいよ。時間あるなら朝ごはん作ろうか」
「え? いいの?」
「俺も食べるついでだから。トーストとオムレツでいい?」
「うん、いただきます」
 彼の手料理も前回泊まった時にごちそうになってて、そのおいしさも知っている。私が勢いよくうなづけば、福浦はうれしそうにうなづき返してくる。
「了解。準備してくるから、ゆっくり起きといで」
 そうして私に顔を寄せてきたから、そっと目を閉じると唇に軽いキスをくれた。
 その後で目を空ければ、福浦はどこか楽しそうに布団から立ち上がる。彼はそのまま隣室のダイニングキッチンへ向かい、程なくしてトースターのじりじり言う音や卵を割る音が聞こえてきた。
 私もようやく身を起こし、見慣れない天井を仰いで感嘆の息をつく。

 いいんだろうか、こんなにも幸せで。
 好きな人と迎える朝のなんと穏やかで心地よいことか。こんな思いをしたのはいつ以来か、もう思い出せないほどだ。
 おまけにその好きな人というのが非の打ち所のない人間と来ている。本人は今日お休みなのに、出勤の私のために三十分も早く起きて、アラームを止めがちな私をちゃんと起こしてくれた。その上朝ごはんまで作ってくれるという。
 ちょっと出来すぎなくらいに理想の彼氏じゃないだろうか。
 いいのかな、こんな素敵な彼氏ができてしまって。この幸福に報いるには私もそれなりのものを差し出さねばならないような気がしてきた。とにかく福浦を大切に、大事にして、私なりの愛を捧げていくしかあるまい。

 福浦は朝ごはんに絶対たんぱく質を取る人らしい。
「身体を作る必須栄養素だからな」
 真面目な顔で言い切った後に食卓へ並べたのは、きれいに巻かれたプレーンオムレツ。それとトーストに茹でたブロッコリーのサラダを添えたのが今日の朝ごはんだ。
「はー……」
 身支度を整えた私は食卓に着くなりまた溜息だ。このオムレツの美しさ、完成度、どう見ても完璧で文句のつけようがない。
「よくこんなにきれいなオムレツ作れるね」
 見とれる私の絶賛に、福浦はそっとはにかんだ。
「ありがとう。作り慣れてるからかな」
「私、オムレツ作ろうとすると分解しちゃうんだよね。最終的にはスクランブルエッグでいいかってなっちゃう」
 当初作ろうとしていたものと完成の品が違っても、まあ食べるの私だしって気楽に構えられるのが自炊のいいところだ。
 福浦みたいに、人様に出せる手料理レベルには程遠い。
「コツがあるんだ」
 と、彼は秘密を打ち明けるように語る。
「卵が半熟っぽく固まってきたら、一旦火から下ろしてフライパンを濡れ布巾に当てる。これだけで仕上がりが違うよ」
「へえ、そうなんだ。なんでなんだろ?」
「温度調節が大事らしい。それがなぜかは、俺もわからない」
 素直に言って笑う福浦がかわいい。
 でもせっかく聞いたアドバイスだ。ぜひ実際に試してみたい。
「じゃあ私も、このレベルのオムレツ目指しちゃおうかな」
 私も俄然やる気になって宣言した。
「上手くできたら証拠写真送るから」
「写真だけ? 食べさせてくれるとかじゃないんだ」
「そのレベルに行き着くには何年かかるかわかんないよ」
「何年かかっても待ってるよ」
 さらりとそんなことを言った後、福浦は優しく目を細める。
 何年経っても一緒にいたい。私がそう思うのと同じように、彼も考えてくれているみたいだ。さすがに年単位の時間がかかるとは思いたくないけど――なるべく早く会得して、福浦に食べてもらえるくらいのを作ってみよう。

 そうして食べ始めたオムレツは外がふんわり、中がとろとろの半熟というお店で出てきてもおかしくない仕上がりだった。おいしいおいしいと私が称賛すれば、福浦はすごくうれしそうにしてくれて、ふたり揃っていい気分で朝ごはんを食べた。
 料理まで上手いなんて本当に非の打ちどころがないな。顔もよくて優しくて仕事もできて、いざっていう時には全速力で駆けつけてくれるくらい彼女を大切にしてくれて。

「ハルトって欠点なかったりする?」
 ついにそんな結論に至り、私は思わず尋ねた。
 やぶからぼうの問いかけに彼は目を丸くする。
「いや……そんなことない。いっぱいあるだろ、欠点」
「私の知る限りでは全然ないね。なんでもできるし、優しいし、顔も好みだし」
「あ、ありがとう」
 福浦は照れたのか、目を逸らし頬を赤らめていた。
 そういうかわいさもいい。私の好きなポイントのひとつだ。

 でも私がそうだったように、人間っていうのは誰しもみっともなくて情けない一面があるものだ。
 好きな人には知られたくないくらいどうしようもないところを、だけど好きな人にこそ打ち明けて、受け入れてほしいと願ってしまう。
 福浦にもあるんだろうか。そういうものが。

「ほら、私のダメなところクズなところはハルトもだいたい知ってるでしょ? 同じようにハルトにもダメなところとか、みっともなくて情けない一面とかあったりしたら、私もそれを受け入れたいなって思ってたんだ」
 私はそこまで語った後、肩をすくめた。
「でもハルトにはそういうのなさそうじゃない? ないほうがいいんだろうけど」
「あるよ」
 彼は困惑した様子で反論してくる。
「俺のみっともなさはもう見せただろ? 前に、酔いつぶれたところとか」
「別にみっともないとは思わなかったなあ」
 思い返してみても特に失望とか落胆はなかった。そりゃ意外だとは思ったけど。
「むしろ『酔うとこんなに色っぽいんだ』って思ってたよ、あの時」
 私がそう告げると、彼はますます困ったようだ。その口元に苦笑いが浮かぶ。
「ずいぶん好意的に受け取ってくれたんだな」
「本当だってば。あんなのみっともない枠に入んないよ」
 全然みっともなくないどころか、いい男の酩酊はいいものだ。
 次はぜひ幸せな気分で酔っ払わせたいな。
「今日まで一緒に過ごしてても悪いとこ目につくってこと全然ないし、きっと欠点ないんだろうなって」
 続けた私の言葉に、福浦は心配そうに首をかしげる。
「それって『恋は盲目』ってことじゃないよな?」
「え? あれ、そうなのかな……」
 悪いとこが目につかないってことは、好きすぎて気づけてないとか、むしろ欠点すらもチャームポイントに見えてるってことなんだろうか。そんなに?
 でもそれなら私、けっこう前から彼のこと好きだったみたいなんだけど――。
「羽菜に『盲目になってた』って言われないよう努めるよ」
 福浦がうれしそうに口元をほころばせる。
 そしてテーブル越しに真っ直ぐ見つめてきたかと思うと、
「ありがとう、俺を好きになってくれて」
 そんなふうに言われた。
 今度はこっちが照れる番だった。
「え、いや、うん。こちらこそ……」
「そこはどぎまぎするんだ。かわいいな、羽菜」
 いや、するでしょ。好きな人にそんなこと言われたら。

 また来ることを約束して福浦の部屋を出た後、私は一旦自宅へ戻った。
 そして遅番で出勤すると、店のロッカールームで北道さんに出くわした。

「……おはよう」
 力のない声でかけられた挨拶に、私は内心げんなりした。
 北道さんは昨夜あまり眠れなかったと見えて、疲労困憊の顔に隈まで作っていた。それでいて私を見る表情は愛想ゼロパーセントの仏頂面であり、見ようによっては多少の気まずさもうかがえなくはないかな、という程度だ。
「おはようございます」
 適当に挨拶を返した後は黙って自分のロッカーを開ける。
 もちろん昨夜のことは許してないし怒ってる。だけどねちねち言ってやるほどこの人に対して情もないから、できたら関わりたくないというのが正直なところだ。
 あ、瀬川さんのことだけはやっぱり気になるけど。
「瀬川さん、怒ってませんでした?」
 髪をまとめながら何気なく尋ねると、先に短い溜息が返ってきた。
「怒るどころか」
「泣いてました?」
「いや、謝られたよ。『私が無理を言ったのがいけなかったんです』ってな」
「ええ……」
 何それ、めちゃくちゃいい子じゃん。
 そんないい子をこの人は、よくもまあ自分の都合のいいように利用したものだ。
「北道さんは瀬川さんにちゃんと謝りました?」
 余計なことかなと思いつつ、さらに突っ込んで聞いてみる。
「ああ」
 北道さんの声は拍子抜けするくらいにしおらしい。
「謝った。謝らなくていいとは言われたけど、頭下げてきた」
 そしてどこか自虐的に続ける。
「それで帳消しになったとも思ってないけどな」
 申し訳ないけどそのとおりだろう。
 北道さんのやったこと、そしてその結果として私の発言が瀬川さんを傷つけたことは事実だ。瀬川さんが私たちを責めなくても、私たちのやらかしたことが消えてしまうわけじゃない。

 でも私だって福浦のことは、彼のことだけはどうしても譲れなかった。
 あの時どうするのが正解だったのか、今でもよくわからない。

「とりあえず、お前へのクレームにはなんないと思うから」
 北道さんはそう言った後、わざと乱暴にロッカーのドアを閉めた。
 響き渡る音に思わず振り向いた私を、北道さんは物憂げに眺めてくる。
「お前にも、悪かったよ。ひどいことして」
「ええ、まあ」
「謝って許してもらえる問題じゃないよな」
「……私も、職場の人とトラブル抱えたくはないですから」
 許すとは言わない。心の中では当分恨むし北道さんのことめちゃくちゃ警戒してるけど、それはそれとして勤務態度に出そうとは思わない。仕事中はちゃんと職場の先輩として接するし、店長の前では心配かけない程度の没交渉を保つつもりだ。
 ただ、クレームにならないって言われたのは正直安心したかな。
「悪かった」
 北道さんが謝罪の言葉を繰り返す。
 珍しく眉尻を下げて申し訳なさそうな態度を出している。この人のこんな顔なんて接客以外ではもう二度と見られないだろうなと思いつつ、それでも許す気にはなれない私がいる。瀬川さんが傷ついたのと同じように、私が負った傷だってそう簡単に癒えるものではないから。
 私が黙ったからか、北道さんは言葉に窮したようだ。
 頬を掻く仕草の後で、ぽつりと言われた。
「俺、お前のこと好きだったんだけど」
 
 そうらしいですね、と言いたいのをぐっとこらえる。
 でも店長や福浦には見抜かれてるのに私が全然ぴんと来てない時点で、脈のない恋だったってことだ。
 
 北道さんだって今さら逆転できるとは思ってないだろう。
「手遅れだろうけど、そんだけ言っときたくて」
 妙に格好つけながらそんなことを口にして、そのままロッカールームを出ていこうとした。
 私はその背中に告げる。
「あの、上から目線に聞こえたら申し訳ないんですけど」
 北道さんがいぶかしそうに振り返る。
「今回の件の反省、次に活かせるといいですね」
 誰かを好きになるたび、その人を貶して傷つけてたんじゃどうしようもない。誰にだってみっともないところ、情けないところはあっても、それが誰かを痛めつけていい理由には絶対ならないはずだ。
 その点、次に活かしていただきたい。私の願いはそれだけです。
 がっくりと肩を落とした北道さんが、私に向かって気まずげに笑う。
「そうするわ」

 本当にそうなるといい。
 これだけは割と、本気で思う。
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