だめなんて言わない
池袋から駒込までは山手線で三駅だ。だけどそのたった三駅が、今の私にはじれったいほど遠い距離に思えた。
私と福浦はずっと手を繋いでいた。混み合う電車の中で人波に押し流されかけても、電車を降りて改札を抜ける時も、駅から福浦の部屋まで向かう間も、絶対に離さなかった。
福浦が時々指先で、引っかくように手のひらをくすぐってきた。
だから私も手を繋いだまま、彼の指の付け根やそこから手首に向かって走る浮き上がった血管をそっとなぞった。このしなやかな手がすごく好きだ。いや、福浦なら全部好きだ。
その想いを早く伝えたくて、真夏の夜道を歩く足取りが逸った。
マンションのエレベーターに乗った時、福浦が身を屈めて私の額にキスをした。
触れるだけの優しいキスに思わず笑ってしまう。
「部屋まで我慢できなかった?」
私の問いに福浦は無言だった。ちらっと私を見ただけだ。
エレベーターが四階で停まり、福浦の部屋まで手を繋いで向かう。彼は片手で器用に鍵を開け、私の手を引いて中に滑り込んだ。
玄関のドアが閉じるより早く、繋いだ手ごと壁に押しつけられた。
ドアの閉まる重い音の傍らで唇がふさがれる。柔らかくて温い福浦の唇が、私の声も呼吸もやんわりと遮ってしまう。優しいのに強引なキスが、靴を履いたままで繰り返された。
「ん……どしたの、急に……」
次第に荒くなる息の合間に尋ねたら、福浦が鼻先を軽くぶつけてきた。
「我慢なんて……ずっと限界だった」
ささやくような声がして、まだ明かりもつけていない空間にかすかな照れ笑いが見える。
「池袋にいた時からその辺のラブホ入ろうって何度提案しようか迷った。ここまで歩いてくるのが本当につらかった。でも、どうにかここまで我慢したんだ」
「別に提案してもよかったのに」
そしたら私はふたつ返事でついていったのに。私だってここまでの距離がじれったくて、果てしなく感じられてつらかったんだから。
「でも、付き合ってから初めての……だろ」
福浦が言いにくそうに答える。
「ちゃんとしたかったって言うか、がっついたとこ見せたくなかったって言うか……」
そんな言葉とは裏腹に、福浦の手は私をしっかり壁に押さえつけている。片手は私の手を握り、もう片方の手で私の肩を掴んで離そうとしない。私の背中は玄関の壁にぴたりとくっつき、福浦の両腕に挟まれて逃げ場がなかった。
「この状態でそれ言う?」
どう見てもがっついてる。私が笑ったからか、福浦は拗ねたような声を上げた。
「わかってるよ。でも本気でぎりぎりなんだ」
「じゃあ、好きなだけがっついていいよ」
誘惑するつもりで告げてみる。
「付き合ってから初めてのセックスだもんね。思い出に残るやつにしようよ」
我を忘れて他のことなんてなんにも考えられなくなるくらいの時間を過ごそう。ふたりで。
福浦は目をしばたたかせてから、少しだけ困ったように笑った。
「俺、本当に歯止め利かなくなるけど」
「いいよ」
そんなこと言われたらむしろ期待しちゃう。
うなづく私に、彼はふっと真面目な顔になった。
「じゃあ、お互い好き好き言い合いながらひたすらいちゃいちゃするラブラブセックスにしよう」
「え、あ、うん」
開き直ったようなストレートな発言に、むしろ私が面食らう。
「すっごいはずかしいこと真顔で言うね」
「ずっとそうしたかったから」
福浦の目はとても近くから私を見つめている。
熱に浮かされたようで、だけど真摯な眼差しだった。この目の形が好きだし、こうやって見つめられるのもすごく好きだ。福浦の要望、案外あっさり叶えられそうな気がする。
「好き。本当に好きなの、ハルト」
私がそう告げると、福浦は幸せを噛み締めるように目を伏せる。
「俺も好きだ。もう離したくない……」
それから少し長めのキスをした後で、こう言った。
「ちょっと待ってて。エアコンだけつけてくる」
離さないと言ったからか、福浦は私の手を握ったまま、もう片方の腕を伸ばしてダイニングにあるエアコンのスイッチを入れた。
まだ靴すら脱いでいない。玄関はおろか部屋の明かりもついていなくて、青みががった夜の薄闇に見える福浦の顔がきれいだった。
「お待たせ」
改めて私に短いキスをくれた後、福浦は静かに言った。
「口開けて」
私が顔を上げてそのとおりにすれば、口の中に舌が侵入してくる。唇よりも熱い舌同士を絡めあうキスは気持ちよくてあっという間に息が上がる。
「んんっ……は……っ」
淫らに聞こえる水音が玄関に響くと、早くも脚ががくがくしてきた。私は福浦の手を握り締め、合わせた唇から息を逃がしながら彼の舌を受け入れる。
「手握ってて、かわいい……」
福浦は口を合わせたままそう言って笑った。
その後で私に頬をすり寄せてくる。
「やっぱり、電気つけていい? 顔見たい」
「ほんとに顔見るの好きだね……」
「かわいいって知ってるからな」
そんなふうに言われて悪い気がしないのと、めちゃくちゃはずかしいのが半々。とは言え嫌なわけではないから、うなづいた。
「いいよ」
すぐに福浦が壁に手を伸ばし、かちりと音がして玄関にオレンジ色の明かりがともる。さっきよりもはっきり見える彼の顔が、私を見てはにかんだ。
「ありがとう。明るいところで見るとさらにかわいいな」
「何言ってんの」
相変わらずの褒めように私が照れると、彼はそのまま私を抱き締め、首筋に顔をうずめてきた。耳の下に軽く音を立てて吸いつかれ、思わず声が出た。
「あ……っ、だめ、汗かいてるよ」
仕事の後だし、今日も湿度高めの真夏日だったし、駅からここまで歩いてくるだけでもじっとり汗ばむほどだった。福浦は嫌じゃないだろうか、急に心配になる。
「俺だってそうだ。さっきは全力疾走しちゃったし」
優しい声の福浦に、私もさっきのことを思い出す。
それこそ仕事の後で疲れてるのに、本当に急いで駆けつけてくれた。あの時の福浦、惚れ惚れするほど格好よかった。
「天野が気になるならシャワー浴びてくる」
「ううん、大丈夫。福浦の汗の匂い好きだし」
「じゃあ俺も、このままがいい」
福浦が、また首筋に唇を押しつける。
「あっ」
私が身をよじると、福浦はそれを楽しむみたいに唇を鎖骨のあたりまで這わせてくる。
その度に身体がびくびく震えて、鎖骨を強く吸い上げられた時は思わず目をつむってしまった。
「んん……っ」
「その顔もいいな、好きだ」
うれしそうな声を立てながら、福浦は私の服の裾から手を差し入れてきた。熱い手がお腹を撫で上げ、腰をさすり、それからゆっくりと上へ向かう。
下着のレース生地の上から、しなやかな手が私の胸を覆った。優しい手つきで揉みしだきながら、指先で胸の先端を探し当てようとする。
「柔らかい……でも、ここは硬いな」
「あ、あっ、あ……」
福浦の指がくにくにと弄るたび、痺れにも似た快感が身体に走った。ブラ越しに、しかも片手は私の手を握ったままだから片胸ばかり責められてる。でもそれだけで、自分でも驚くほど感じてしまっていた。
「天野、顔上げて」
「やだ……見すぎだから……!」
「好きなんだ。天野の顔、ずっと眺めてるのも好きだ」
「そんなこと言っても……あっ、だ、だめっ」
胸全体を揉みながらも指では硬くなった部分をしっかり捉えていて、私の反応を見るようにつついたり、押しつぶしたり、指先で軽く弾いたりしてみせる。その全部が気持ちよくて、その度に声を上げてしまいそうになる。
「やばい、ほんとにかわいい……!」
福浦の声が吐息まじりに聞こえて、彼も興奮しているのがわかった。
そのまま私の服をまくり上げると、ブラをずらして吸いついてくる。わざと音を立てて舌先で転がされ、思わず腰が揺れてしまう。もう立っていられなくなりそうだった。
「あっ、あ……ず、ずるい、ハルトばっかり……っ」
私も反撃したいのに、片手を掴まれ壁に押しつけられて身動きが取れない。
自由なはずのもう片方の手も、掴めるのは彼のシャツくらい。
悔しまぎれに膝で彼の脚の付け根を探ると、すでに硬くなった部分がはっきりとわかった。服を脱いだらきっと反り返るくらい硬くなってるはずだった。
「あ……こら、そういうことするか」
私の胸から顔を上げた福浦が、乱れた吐息と共に笑う。
「触りたい?」
「うん、すごく」
「じゃあいいよ、触りあお」
そう言うと彼は壁際の私にぴったり身体をくっつけてきた。
がちがちに硬くて熱を持った部分を腰に押しつけられると、気持ちよさと期待で身体が震えた。早くこれが欲しい。でもまだちょっと早い。衝動的に心が揺れる。
「はは……ほんとにいい反応するな」
福浦はそんな私に喜んでみせると、互いの身体の隙間に手を忍び込ませた。彼の手は私の服をずらし、剥き出しになった腰骨を撫でる。それから探るように下着のあたりに手を這わせる。
私も同じように、自由の利く方の腕で福浦の腰に手を伸ばした。着衣の上から硬くなった部分を探し当てて掴む。形を確かめるように下から撫で上げたら、彼がとたんに息を詰めた。
「ん……探すの上手いな、天野は」
「もう、存分に知ってる身体だよ」
「そっか、じゃあ俺も……」
福浦の指は、弱い刺激を与えるみたいに下着の上を何度も辿る。焦らすような、少し物足りないくらいの快感に、私は奥歯を噛み締める。
「あ、んんっ!」
「腰動いてる。こうされるの、好き?」
「や、あっ、も、もっと……!」
「ん……! わ、わかったから……そんな、握るなって」
思わず私がぎゅっと握ったからか、福浦はびくんと身体を震わせた。切羽詰まったような声に聞こえて薄目でうかがえば、とろけた笑顔と視線がぶつかる。
「天野、好きだよ」
「うん、私も……あっ、あ」
福浦の指が、中に入ってくる。
何の抵抗もなくすんなり侵入してきて、私は思わず喉を反らした。
「は、あ……」
「すんなり入った。待ち望んでた?」
「うん……ハルトの指、好き……」
中に入ってくる時は、少しだけ冷たいように感じられる指。店では商品を畳むのが本当に早くて上手いあのしなやかな指が、今は私の中にある。
「うれしいよ。だったら気持ちよくしてあげないと……」
身体をよく知っているのは、彼のほうも同じことらしい。どこがいいのかをもう覚えてしまっていて、指で探し当てられた。
「ここ、だったよな」
「あ……んっ、覚えてくれてたんだ……!」
「初めて指で満足させられた時、うれしかったから」
そう言って、彼はゆっくりと指を抜き差ししはじめる。もうすでにくちゅくちゅと水音がして、今さらのように私ははずかしくなる。
ここは福浦の部屋の玄関で、私も彼もまだ靴さえ脱いでなくて、こうやって立ったまま愛撫しあってる。このタイミングで場所変えようとか、布団敷いてなんて言うつもりはない。そんな手間さえ惜しむほど、お互いにたまらなく欲しかったんだ。
「あっ、あ……あ、気持ちいい……!」
私が素直に言葉に出せば、福浦もうれしそうに唇をゆるませる。
「かわいい……初めて見た時からずっと思ってた。天野、こんなかわいい顔するんだって」
本当に彼は私の顔を見るのが好きだ。
うれしいような、ただただ純粋にはずかしいような、むしろ余計に駆り立てられるような――変な気分だった。
「ハルトだって……んっ、今、すごくいい顔してる……っ」
指を動かしながら私の顔を見つめる彼は、ゆるんでとろとろの表情を浮かべている。それが幸せを噛み締めてるんだって手に取るようにわかるから、そのことが本当にうれしい。
「だってうれしいからさ……天野」
「あっ……な、何?」
「こんな時になんだけど、俺も名前で呼んでいい?」
「ほんとに、こんな時に聞く?」
私が指を出し入れされて立ったままいっちゃいそうって時に聞くから、困る。
「呼びたい。呼んでいいよな?」
「ん……んっ、だめなんて言わないっ……から……!」
「羽菜」
福浦が私の名前を、耳元にそっとささやきかけた。
吐息が耳をかすめて、ぞわぞわする。
「あ、中締まった」
「や……耳弱いって言ってるのに……っ」
私の抗議なんてお構いなしに、福浦は耳を責めてくる。
「羽菜、好きだ」
ざらりと舐め上げる舌と、頭の中に響く好きな声。
「や、あっ」
「好き、もうめちゃくちゃ好き。俺だって誰にも渡したくない」
「わ、私も……あっ、好きっ、大好き……!」
彼の言葉に応じる声が、ちゃんと呂律回っていたか自信がない。
そんな余裕ももうなくて、私は福浦の手をきつく握りしめる。気がつけば自分から腰を振っていて、彼の指が与えてくれる快感を貪り尽くした。限界に硬直する身体も、その後力が抜けて立っていられなくなった身体も、福浦はずっと支えてくれた。
「気持ちよかった?」
「は……あ、は……っ」
絶え絶えの息でようやくうなづくと、彼は満足そうに笑う。
「よかった。俺も羽菜のいい顔、しっかり目に焼きつけたから」
「も……見すぎだってば……!」
だったら私もこの後、しっかり拝ませてもらうから。