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ひとつ頼みがあるんだけど

 この時分の池袋駅周辺はさすがに人通りも多く、すれ違う人々が一様に不審げな目を向けてきた。
 でも私は動かなかった。
 今、ここでけりを付けなければいけない。そう思って、北道さんに思いをぶつけた。
「北道さんの言うとおりです。私なんて瀬川さんと比べるまでもなくかわいくない女です」
 そんなことはわかっている。
 わかっていても言われるたびに傷ついてきた、けど。
「でも福浦はそんな私をかわいいって言ってくれる人なんです。タイトスカートが似合わないって言われた私に、『似合うから見てみたい、一緒にコーデ考えよう』って言ってくれる人なんです。私が死ぬほどみっともないとこ見せたって、引かずに傍にいてくれる人なんです!」

 彼はいつだって私を肯定してくれた。
 一度として否定しなかった。
 私の存在そのものを望んでくれる、必要としてくれる奇跡のような人だ。
 どうしてなのかわからない。その好意自体をまだ信じきれていない私もいる。でも、それでも私は福浦を、心から好きで好きでたまらなかった。誰にも渡したくない。手放したくない。
 その名前を他の人に、軽々しく呼んでほしくない。

 北道さんはそこで顔を引きつらせた。
 よろめくように一歩後ずさって、低くうめいた。
「なんだよ……」
 それからどこか悔しげに、
「俺だって、本気で言ってきたわけじゃないし……」
 喉の奥から絞り出した声でつぶやく。
 その言葉を聞いた瞬間、私の中にあったこの人に対する怒りや疎ましさや個人的な恨みつらみが、ある種の哀れみに塗り替えられるのを感じた。
 北道さんにもそこまでこじらせるに至ったなんらかの過去があるのかもしれない。聞けば同情したくなるような経緯があるのかもしれない。だとしてもそれを聞く気はないし、受け入れる気だってさらさらないけど。
「私と福浦のこと『お似合いだ』って言ってみたかと思えば、否定してるのに付き合ってるって吹聴したり、今度は別の女の子と引き合わせようとしたり……何やってんですか、北道さん」
 呆れる私に、北道さんが無言で顔を背ける。
 だから聞いてみた。
「北道さん、私のこと好きなんですか?」
 いつもみたいに馬鹿にされるかと思いきや、その顔にはわかりやすい狼狽の色が浮かんだ。
「い、いや、なんて言うか……」
 そこで引くのかよ。
 この期に及んでみっともないなって思った。私に言われたくはないだろうけど。

 でもそういうものなんだろうな。誰にだって死ぬほどみっともなくて情けなくて、できることなら隠しておきたいような一面があるんだろう。それを受け入れてくれる人を、本当は誰もが求めてるのかもしれない。
 福浦は私を受け入れてくれて、私は北道さんを受け入れられない。
 そういう単純な話だったんだろう。

 これ以上話しても無駄になりそうだから、私のほうから切り出した。
「瀬川さんにはひどいこと言っちゃったから、もしかしたらクレーム来るかもしれません」
 相手はお客様だ。
 穏便に済ませられなかった私の態度は、きっと今後に響くだろう。
「もしそうなったら、北道さんからも店長に説明してもらえますか? 私もちゃんと話した上で、必要なら謝罪なりなんなり出向きますから」
 この人に頼みたいことはそれだけだった。他には特にない。
 でもそれすらもスルーされるんだろうな、と思っていたら、北道さんが目の端で私を見た。
「瀬川さん、焚きつけたのは俺だから」
 そう言われた。
 だろうなと思ってました。
「お前と福浦がどんどん仲良くなって、冗談で茶化せない感じになってきたから、どうにかして止めたかった。それで瀬川さんに早いとこ告白するよう働きかけて、ついでにお前巻き込んどけば上手くいくかなって思って――」
 それで今夜私はあの場に引っ張り出され、瀬川さんは予期せぬ宣戦布告を受けてしまった。
 はっきり言って誰も得しない展開にしかならなかった。
 北道さんは深く反省したほうがいい。
「だったら」
 私は溜息をつく。
「まず瀬川さんをフォローしてあげてくださいよ。彼女からしたら適当吹かれてその気になったらいきなり落っことされたようなものでしょ」
 本当に誰も得してない。
 彼女はまださっきのカフェにいるはずだ。出ていったならここから見えたはずだから、たぶん。
「ほら、お店戻って。瀬川さんのとこ行ってください」
「けど……」
「それは北道さんの責任です。行くべきです」
 私が促しても、北道さんはぐずぐずとこの場に留まろうとする。まだ言いたいことでもあるのか、こちらを恨めしそうに見ていた。
 もっとも、私はもうこの人に聞きたいこともなかったし、これ以上実りある話ができるとも思わなかった。それよりも瀬川さんに申し訳なくて、動こうとしない北道さんをどうにかしたくて、声を張り上げるために大きく息を吸い込んだ。
「ためらってる場合じゃ――」
「――天野!」
 私の言葉を遮って、福浦の鋭い声がした。

 まさかと思って振り返れば、夜の街並みを恐ろしいスピードで駆けてくる福浦が見えた。
 いや、本当にまさかだ。私さっきメッセージ送らなかったっけ。慌ててスマホを確かめたら、ちゃんと送信されてたし既読もついていた。

 彼は私の傍までやってくると、肩で息をしながら立ち止まる。
 汗で額に張りつく前髪越しに私を見て、それから北道さんを強くにらんだ。
「北道さん、天野に何かしたんですか?」
 そう尋ねる声も荒い吐息まじりで、ずいぶん急いで駆けつけてくれたんだとわかる。額の汗を一度拭った後、福浦は険しい顔で再び言った。
「もし天野を傷つけたんなら、許さないです」
 果たして北道さんはなんと言って彼を呼び出したんだろう。福浦の言葉に、気まずそうにうつむいてみせた。
「いや……」
 北道さんが言葉を濁すのを見て、福浦は唇を引き結ぶ。
 一触即発の空気を察した私は、そっと福浦の腕を掴んだ。彼がこっちを向いたから、安心させるために告げた。
「大丈夫、もうだいたい話はついたから」
 それで福浦が実際に安心したかはわからない。顔つきはまだ硬いままだったけど、とりあえず引く気にはなってくれたようだ。
 私は福浦の腕を掴んだまま、北道さんに告げる。
「もう行ってください。瀬川さんのこと、お願いします」
「……わかった」
 北道さんはぼそりと言って踵を返した。そのままカフェへと戻っていく。
 結局、最後まで謝罪の言葉のひとつもなかった。
「『瀬川さん』って?」
 ふたりきりになった後、福浦が私に尋ねる。
「お店のお客様」
 とりあえずそれだけ答えてから、逆に聞き返した。
「北道さん、福浦にはなんて言ってた?」
「『かわいい子紹介するから来い』って。天野もいるって言われて、嫌な予感しかしなかった」
 福浦は相当腹を立てているようだ。まだ険しい表情で、煌々とともるカフェの明かりを見据えている。
「天野は大丈夫だったのか? 何かひどいこと言われたりとか――」
「うん、まあ、けっこうね」
 ひどい目には遭った。
 でもそれ以上にひどいことも言った。
 それは福浦にも話しておかないといけない。

 さすがに人目を避けたくて、私たちは以前足を運んだ駅近くの歩道橋辺りまで歩いた。
 線路をくぐるガード下の手前、歩道に沿う欄干にふたり並んで寄りかかる。池袋駅のすぐ傍なのにここは相変わらずひと気がない。車と、時々電車が通る以外は静かな場所だった。
「瀬川さんは福浦のこと好きだったんだって。北道さんに引き合わされた」
 私が打ち明けると、福浦は不快そうに眉をひそめた。
「なんで天野にそんなこと……」
「ほんとだよね。こっちも騙し討ちみたいに連れてかれてさ、お客様だって言うから会ってみたら恋敵だったんだからむかついたよ」
 冷静じゃいられなかった。それは私も反省すべきだった。
「それで私、瀬川さんにはひどいこと言った。あとでクレームになるかも」
「なんて言った?」
「『福浦は私と付き合ってるから協力はできないし、近づく女は敵です』みたいなことを……」
 改めて振り返るとだいぶ刺々しい言い方だったな。苦笑する私に、福浦は目を丸くする。
「天野がそんなこと言うのか」
「言っちゃった。反省してる」
「反省? どうして?」
「だって相手、お客様だし。あと北道さんに焚きつけられただけで、別に悪くなかったし」
 だいたい悪いのは北道さんなんだけど。
 それでも、私になんの非もないわけじゃない。
「もしこの件がこじれて店にクレーム来たら、福浦にもヒアリングとかで迷惑かけるかもしれない。そうなったら今夜のことはなんにも知らないって言ってね」
「迷惑だなんて思わない」
 私の言葉を遮るように、福浦がかぶりを振る。
「俺だって当事者だろ。ちゃんと正直に話すよ」
「巻き込まれ損じゃない、知らないふりしときなよ」
「関わるつもりで飛んできたんだ、損得の問題でもない」
 彼はそう言い張るけど、そもそも私は『来なくていい』って送ったんだ。
 こんな厄介な案件に、福浦は関わってほしくなかった。
「そもそも福浦、どうして来たの? 私のメッセージ読んだよね?」
「天野が心配だから」
 潔く即答されて、思わず言葉に詰まる。
 その気持ちはもちろんうれしい、けど。
「で……でもさ、大丈夫って言ったよね。信じて任せとこうって気にはならなかった?」
「天野のことは信じてる。でも北道さんが一緒だったら心配して当然だろ。あの人は天野を傷つけるようなことばかり言うし、俺にとっては恋敵だ」
 恋敵、と北道さんを指して言われると違和感しかない。こっちからすればそんな気持ちは一切ないわけだし。
 でも、福浦に心配かけたのは事実だ。
「ごめん、心配させて」
 私が謝ると、そこで福浦はようやく笑った。
「天野こそ、もっと俺を頼ってほしい。謝らなくていいから」
 通り抜けていく車のヘッドライトが、福浦の微かな笑みを撫でるように照らしていく。一瞬だけ、どこか寂しそうに見えた。
「トラブルを自分だけで片づけようとか、つらいことをひとりで抱え込んだりしないでほしい。そういう時は俺も一緒に悩んだり、困ったりしたい。俺の知らないところで天野が苦しんでるのが一番つらいから」
 逆の立場だったら、私も福浦に同じことを思うだろう。
 頼ってほしい、甘えてほしいって。
 でもそうやって言われることには慣れてなくて、私は少し泣きたい気持ちになる。

 福浦がいる。それだけですごく幸せだった。
 やっぱり誰にも渡したくない。ずっと私の傍にいてほしい。

「ありがとう、福浦」
 泣きたくなるのをこらえて、彼に言った。
「福浦のことを好きな人に会って、私、取られたくないって思った。福浦のこと、誰にも渡さないって」
「そうか、うれしいよ」
 言葉どおり、今度はちゃんとうれしそうに笑ってくれる。
 それから福浦はほっとした様子で続けた。
「天野がそう思ってくれてよかった。ちょっと前の天野なら、『ああいう子と付き合えば?』ってあっさり突き放してた気がするし……」
 心を読まれた気がして、ぎくりとした。
 私が黙ったのを見て、福浦が顔を覗き込んでくる。そして咎めるように目をすがめた。
「まさか、考えた?」
「い……一瞬だけ」
「天野!」
「わ、ご、ごめんって! 一瞬だけだから!」
 弁解する私の肩を、福浦は片腕で強引に抱き寄せる。そのままぎゅっと力を込められ、福浦の胸に押しつけられて、私は目をつむった。
「もう二度と、そんなこと考えないで」
 福浦の言葉に、当然うなづいた。
「うん」
 考えない。
 福浦のこと、信じようって決めたんだ。好きになるよりずっと難しいことだけど、不可能じゃないって今なら思う。だって福浦は私のことを信じてくれてるって、わかるから。
「あとさ、ひとつ頼みがあるんだけど」
 顔を上げて、福浦を見上げて切り出した。
「福浦のこと、名前で呼んでいい?」
「え? もちろんいいよ」
 彼は即答してくれたけど、どうしてそう聞かれたのか不思議そうな様子だった。
「瀬川さんと北道さんが、福浦を名前で呼んでたの。先越されたのが悔しくて」
 私だって福浦のこと名前で呼びたいって今夜思った。
 わかってる、ただの嫉妬だ。でもそのくらい、私は福浦が好きなんだ。
「そういう理由? いいけど」
 福浦はくすぐったそうに笑っている。
 その笑顔に呼びかけた。
「ハルトくん」
「……うん」
「あ、呼び捨てがいいんだっけ、ハルト?」
「どっちでも。天野が呼びやすいほうで」
「ハルト、好きだよ」
 照れくさいとかはずかしいとか、そういう気持ちももうなかった。
 ただその名前を呼べることがうれしかった。これから先もずっと、大切にしようと思った。今のこの気持ちと、福浦のことを。
 福浦は私を見下ろしている。切れ長の瞳を細めてしばらくじっと眺めてきたけど、やがて短く息をついた。
「俺も頼みがあるんだけど」
「いいよ、なんでも言って」
「このまま連れ帰っていい?」
 そう言うと、福浦は大事なものでもしまうみたいに私を抱き締める。
 答えは、ずいぶん前から決まっていた。
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