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誰にも渡さない

「今日じゃなきゃだめですか?」
 私は『行きたくない』を隠さずに聞き返した。
 さっきまで福浦と会う気まんまんだったことはもちろん秘密だ。この場を切り抜けたらあのメッセージを送信してしまおう。
 そう思う私の目の前で、北道さんは顔をしかめた。
「もう待たせてる。駅前のカフェにいるって」
「待たせてる? どういう相手ですか?」
 北道さんの彼女でも紹介されるんだろうか。
 そんな淡い期待を、北道さんは秒で破壊した。
「うちの店のお客さん」
 ますます意味がわからない。
 お客様が退店後の店員に仕事外で会いたいという。それを店長ではなく、北道さんが私に持ちかけてくる。いったいどういうことだろう。
「どうせ予定ないんだろ、いいから来いよ」
 北道さんは少し苛立った様子で私を急かした。
「行く理由がわからないです。なんで私が?」
「お客様が困ってて、その対応に俺とお前で行く。なんか変か?」
「いえ……」
 私は口ごもる。

 変と言えば変だ。業務時間外の対応、きっと給料だって出ないんだろう。
 それ以前に、北道さんがわざと大事なことを省いているような物言いなのも気になる。お客様というのが嘘だとは思いたくないけど、どうなんだろう。

「俺ひとりじゃ難しいからお前に手伝ってほしいんだよ」
 北道さんは案件をあいまいにしたまま続ける。
「まさか、お客様の頼みを断るなんてことしないよな?」
 もちろんそういう事情なら断れはしない。
 だけど、北道さんひとりじゃ対応しきれないお客様の頼みってなんなんだ。
「それって、クレーム処理とかですか?」
「違う。とりあえず行くぞ、お客待たせらんないだろ」
 北道さんが私の手首を掴もうとしたので、急いで手を引っ込めてかわした。すかさずむっとされたけど、こっちだって好きでもない相手に触らせる義理はない。
「お客様に会うんですよね?」
 一応確かめると、
「そう言ったろ」
「……わかりました」
 嫌だけど、お客様を持ち出されたら従うしかない。客商売の悲しい性だ。
 北道さんとふたりきりで出かけるわけじゃないみたいだし、とりあえず会うだけ会ってみよう。なんか怪しかったら速攻逃げるけど。
「心配すんな、一時間もかからない」
 心なしか、北道さんはほっとしたようだ。表情が少しだけゆるんだのを見た。
 私は釈然としない思いを抱えつつ、北道さんに連れられて池袋駅方面へ向かう。
 一時間くらいなら福浦の退店に間に合うし、嫌なことあったら彼に愚痴でも聞いてもらおう、なんて思っていた。

 蒸し暑い中をほとんど無言で歩くこと数分、駅前のきれいなカフェに到着した。
 北道さんは店内に入ると店員に『待ち合わせです』と告げ、そのまま辺りを見回した。すぐにお目当ての相手を見つけたようで、珍しいくらい愛想よく笑んだ。
「あの席だ、行くぞ」
 私にそうささやいて、北道さんが店の奥へ向かう。
 座り心地のよさそうな向かい合わせのソファー席に、たったひとりで座っている女の人がいた。その人は北道さんに気づくと小さく手を振り、次いで私を見て微笑みながら頭を下げてきた。
 ぼんやりと見覚えのある顔だった。何度かお店にいらしてて、そういえば北道さんが接客しているのも見かけていたかもしれない。社会人というよりは学生さんに見えるくらいの人で、つやつやのショートボブと青い半袖パーカーワンピースがよく似合っていた。
「瀬川さん、これがうちの店の天野」
 北道さんが彼女――瀬川さんに私を紹介する。
「天野です」
 私が頭を下げると、瀬川さんも立ち上がってぺこりとお辞儀をする。
「あの、瀬川です。何度かお店でお見かけしましたけど、はじめまして」
 その後に上げた顔はかわいらしくはにかんでいて、正直どきっとした。ナチュラルメイクだけでぱっちりした目元とふんわりピンクの頬、それに潤むような艶のある唇。カフェの明かりの下で見ると、はっとするほどきれいな人だと思った。
 私が見とれている隙に、北道さんが瀬川さんの向かいに座る。
 気乗りしないながらもその隣に腰を下ろせば、北道さんが店員を呼んで、勝手にアイスコーヒーをふたつ注文した。
「今日は天野さんまで来てくださって、ありがとうございます」
 瀬川さんは丁重にお礼を述べてくれた。
「天野も手伝ってくれるって言うし、きっと上手くいくって」
 それに北道さんは笑顔で応じ、ちらりと私のほうを見る。
「な、天野」
「え、ええ……でも『手伝う』って何をですか?」
 私はそのあたりの事情を一切聞かされずに連れてこられたので、未だに訳がわかってない。
 でも瀬川さんと北道さんの間にはなんらかの話し合いがすでに持たれているようだ。ふたりはそこで意味ありげに視線を交わしあい、それから瀬川さんが口を開いた。
「実はお願いしたいことがあって……その、北道さんには少し前から相談に乗っていただいてたんですけど」
「好きな奴がいるんだって、瀬川さん」
 北道さんが口を挟む。
 そこで瀬川さんは頬を赤らめ、私はなるほどと思う。

 つまり、恋愛相談。
 北道さんに持ちかけて私が呼ばれるということは、相手はうちの店の誰かなんだろう。
 まさか――嫌な予感がぶり返す。うちの店にいる男性店員の顔の数々を思い浮かべてみるけど、真っ先に過ぎったのはやはり福浦の顔だ。
 いや若いとは限らないかもしれない。瀬川さんは歳の差オッケーかもしれないし、逆に夜間バイトの子だって可能性もあるだろう。違ってほしい、そんな思いで次の言葉を待った。

 飲みたくもないアイスコーヒーが運ばれてきて、店員が去ったタイミングで瀬川さんがこちらを向いた。
「ハルトくん、ご存知ですよね?」
 おずおずと口にされたのはよく知っている名前だった。
 やっぱりか。
 やっぱり、そうなのか。
「福浦のこと?」
 私が聞き返すと、瀬川さんはこくんとうなづく。
「そうです。あの……私、ずっと好きで」
 福浦からは瀬川さんについて聞かされたことはない。
 どうして彼女が福浦を名前で呼ぶのか、わからないけどいい気持ちはしなかった。
「福浦と仲いいの?」
 だから尋ねてみたら、彼女は首を横に振る。
「いえ……まだお店でちょっとお話ししただけで」
「名前で呼んでるから親しいのかと思った」
 声に棘が混じるのをどうしても抑えられなかった。
 瀬川さんはうつむいてしまって、北道さんには肘で小突かれた。
「天野、あんま瀬川さんをいじめんなよ」
「聞いてみただけです。福浦のこと名前で呼ぶ人、店にもいないじゃないですか」
 うちの店長は同性しか名前で呼ばない人だし、他の店員もふつうに『福浦』か『福浦くん』だ。名札にも名字しか書いてないから、親しくないと自称するお客様が名前で呼ぶのは妙な感じがした。
 他に福浦を名前で呼ぶ人って言えば――そういえば。
「瀬川さんは照れ屋だから、今から練習してんだよ。『ハルトくん』ってちゃんと呼べるようにな」
 北道さんがそう言って、瀬川さんもうなづく。
「以前から、北道さんとはそう呼び合ってて……失礼かなとも思ったんですけど、早く仲良くなりたかったんです」
 そうだ。
 前も北道さんは福浦のことを名前で呼んでいた。まるで呼び慣れてるみたいにずいぶんと自然に。
 福浦は呼ばれたことないって言ってたから不思議に思ってたけど、こういうことだったのか。実はけっこう前から北道さんと瀬川さんは繋がっていたのかもしれない。
「でも私、いざ本人を前にすると上手く話せなくて……」
 もじもじしながら瀬川さんが続ける。
「北道さんは相談に乗ってくださったんですけど、『今は付き合ってる人もいない』って背中を押していただいても全然声をかけられなくて。だから天野さんにも、ハルトくんと仲良くなれるよう協力していただけたらなって……」
 思ったよりもしっかりした口調でそこまで言うと、彼女は真っ直ぐに私を見据えた。
「お願いします、天野さん」

 一瞬だけ。
 ほんの一瞬だけだけど、福浦はなんて言うかなって考えた。
 瀬川さんはかわいい子だしピュアそうだ。こういうきれいな子と付き合えばいいのにって以前は思ったし、福浦に直接告げたこともある。その度に微妙な反応しかもらえなかったけど、いざそういう子が目の前に現れたら、福浦はなんて言うだろう。

 でもすぐに、そんな思いを打ち消した。
 私が福浦の気持ちを信じなくてどうする。経緯はどうあれ、私は彼に好きだと言ってもらった身だ。卑屈になって身を引くなんてそんな馬鹿なこと、してやるものか。

「いきなりふたりきりってのもハードル高いし、最初は四人でって考えてんだ」
 隣で北道さんが楽しそうにしゃべってる。
「瀬川さんとハルトくんと、それから俺とお前。一緒に行っていろいろお膳立てしてやろうぜ」
 なんでそこでダブルデートだよ。
 北道さんがどういうつもりか知らないけど、何も聞かされずに連れてこられて全部決まったように語られるのもいい気分はしなかった。
 だから言った。
「無理です。申し訳ないけど協力はできません」
 私が言い放ったとたん、瀬川さんは目をみはり、すぐに悲しそうな顔をした。
「そんな……」
「おい天野、空気読めよ」
 北道さんが睨みつけてきたから、逆に睨み返してやる。
「無理なものは無理なんです。福浦、彼女いますから」
「えっ」
「嘘だろ? こないだ別れたばっかだぞ!」
 私の言葉に、さらなる動揺が場に走る。
 そう言われても事実なんだからしょうがない。
「嘘じゃないです。私と付き合ってるんで!」
 怒りに任せて席を立った私は、呆然とするふたりへ感情をぶつけた。
「だからたとえお客様であっても協力はできませんし、こっそり近づく女がいたら敵と見なします! 福浦は誰にも渡さない。以上です!」
 そうしてアイスコーヒーには手もつけないまま店の出口へ向かう。
「あ、天野! ちょっと待てって!」
 北道さんが呼び止めるのが聞こえたけど、私は逃げるように店を出た。
 瀬川さんがどんな顔をしているか、振り返る勇気はなかった。

 意外にも、北道さんは私を追いかけてきた。
 店を出て数メートル歩いたところで腕を掴まれて、ぐいっと引き寄せられる。
「天野!」
 怖い顔で声を荒げる先輩に、私もむっとして振りほどく。
「なんですか! 怒ってるのはこっちですよ!」
「お前、瀬川さんにあんな適当言って……」
「適当じゃないです、事実です!」
 もっと穏便に言えって抗議なら聞き入れなくもなかった。こっちは騙し討ちみたいに連れてこられた身だし、穏便ったって限度はあるけど、もっと賢いかわし方があったのは事実かもしれない。
 でもどちらにせよ断らなくちゃいけなかった。相手がお客様だろうと、職場の先輩の頼みだろうとだ。
 私は福浦を信じたい。
 そして、彼を誰にも渡したくない。
「嘘だろ、お前……ほんとに付き合ってんのか?」
 北道さんは少なからずショックを受けた様子だった。忌々しげに溜息をつかれた。
「だってこないだ聞いた時は必死になって否定してたろ……。あれ嘘だったのか?」
「あの時は付き合ってなかったってだけです」
 私も福浦も、嘘はついてない。
「今日ここに来る前に聞かれてたら、正直に答えてましたよ。今は付き合ってますって」
 北道さんは間が悪い。どうして最近は聞いてくれなかったのか。
 そうしたら私も瀬川さんに啖呵を切る必要なんてなかったのに。
「一時期は迷惑なくらい言いふらしてたくせに、なんで聞かなくなったんですか?」
 逆に私が尋ねると、虚を突かれた顔で口ごもる。
「それは……」
 そして結局答えは言わず、舌打ちをされた。
「まあいいや。お前じゃ話になんないし、福浦に直接聞くわ。あいつもそろそろ上がる頃だろ」
 言いながらスマホを出して、高速で何か打ち込みはじめる。バックライトに照らされたのは苦虫を噛みつぶしたような顔だ。
「聞くって何をですか」
「お前と瀬川さん、どっちを選ぶかって話だよ」
「やめてください」
「もう遅い。仕事終わったら来いって送っといた」
 スマホをしまった北道さんは、やっと溜飲が下がったとでも言いたげに意地悪く笑んだ。
「自信ないだろ、瀬川さんかわいいもんな。そりゃ福浦だって向こう選ぶわ」

 自信なんて、いつだってない。
 北道さんにさんざん言われてきたとおり、私は美人でもないしいいとこ十人並みだ。
 別に性格がいいわけでもないし、褒められるべきところは胸の大きさくらい。そして公にはできない部分で思いっきり資産価値の低い女だ。
 瀬川さんを出してくるまでもなく、私よりスペック高い女の子なんていっぱいいいる。

 でも、そんな底辺スペックの私が最高にみっともなく情けない姿を見せても、地雷でしかない過去を打ち明けたって、福浦は私を好きだと言ってくれた。
 だから――。

 私はスマホを取り出し、打ちかけていた福浦へのメッセージを消去した。
 代わりに一言打ち込んで送る。
『来なくていいよ、大丈夫』
 北道さんの呼び出しなんて無視していい。私が片をつけとくから。
 そして、嘲るように私を見下ろす北道さんに向かって言った。
「福浦は私を好きだって言ってくれたんです」
 だから迷わない。
 いくら貶されたって胸を張ってやる。
 そんな思いで言い切った。
「私は、福浦を信じます」
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