ようやく息を吹き返すみたいに
浮気は心の殺人。その言葉を初めて実感したのは、中学二年の時だった。
福浦にしがみついたまま、話しはじめる。
「中二の時、父親が不倫してたって知ったの」
天野家の恥、ゴミみたいな思い出、黒歴史。
それを他人に話したことはなかった。友達にさえ言えなかったのは、本当にみっともなくてはずかしかったからだ。
今だって顔を上げられなかった。こんなこと、どういう顔をして話せっていうんだろう。
「一学期の終わり、終業式の日に家に知らない女の人が来た。父親の会社の人だって言ってた。両親は仕事でいなくて、家には私だけだった。そう言ったら『帰るまで待ちます』って言い張るから、私は父親に電話して――すぐに父親は、血相を変えて飛んできた」
優しかった父は女の人を怒鳴りつけ、追い返そうとしていた。
女の人は泣いて父にすがりついていた。
何が起きているのかわからなくて、怖くなった私は仕事中の母に助けを求めてしまった。
「じきに母親も帰ってきて、結果的に鉢合わせってことになった。もちろん修羅場だったよ」
「……つらいな」
福浦がぎゅっと私を抱きしめる。
何か思い出したか、思い出したからこそ私の気持ちがわかったのか。はずかしさで死にそうな私の身体を支えていてくれた。
「その時どんなやり取りがあったかは、正直あんま覚えてない」
母は不倫相手を無視して、父を引っぱたいてたような記憶はある。
不倫相手はいつの間にか帰ってた。
「ただ母親は父親を罵った後、家を出てくって宣言した。そして私に荷物をまとめるよう言って、ふたりで家を出た」
次の日から、楽しい夏休みのはずだった。
家族で旅行に行く計画も立てていた。
「最初はおばあちゃん家。そこから一週間おきくらいに親戚の家とか、ウィークリーマンションとか、安アパートとかを転々とした。おかげで引っ越し慣れして荷造りが上手くなったことが唯一の収穫」
おばあちゃんや親戚はみんな優しくしてくれた。
でもその優しさが、中二の私には逆に堪えた。
いとこが『羽菜ちゃんたち、なんでうちに来たの?』って聞いた時、私が答えるより先に伯母さんがいとこを叱って、それがものすごくショックだった。
友達とも会えない、長い夏だった。
「ずっと家に帰らない毎日だったから、このまま父親とは会わずに終わるのかなって思ってた」
母も父の話は一切しなかったし、きっと家族として三人で暮らすことももうないんだろうと覚悟していた。
「だけど、夏休みが終わる一週間前にね、母親は私を連れて家に帰ったの」
なぜかは、今でもわからない。
でも住み始めたばかりのアパートを出て、全ての荷物を家に持ち帰った。
「家では父親がひとりで待ってて、母親が入っていくとふたりは黙って抱きあった。それから私のことも抱き締めて、『今までごめん』って言ってきた」
羽菜にも心配をかけた。
またこれまでどおり家族で暮らそう。
――みたいなことを言われた覚えがある。
「私の知らないところで、ふたりで連絡取りあってたんだと思う。そうだとしてもいきなりすぎて、訳わかんないくらいの唐突な和解だった。不倫相手が家に来たことも大喧嘩したこともなかったことみたいに、それからは仲良く暮らした」
「……今でも?」
福浦の問いに、私は顔も上げずうなづいた。
「この後に妹も生まれたし、去年は真珠婚式だったとか言ってた」
「修復できたってことなのか」
「たぶん。ふたりとも、あれからあの時のことは一度も話さなかったけど」
一度として話題に上ることはなかったし、私も何も聞けなかった。
あれからふたりはすごく仲がよくて、私のこともこれまでどおりに育ててくれた。
生まれてきた妹もかわいがられてるみたいだし、たまに電話が来て『仕事はどう?』とか『彼氏はできたの?』とか聞いてくる。
気乗りはしないけど年越しは実家に帰って家族と過ごす。仲睦まじい両親と屈託のない妹のいる実家は、だけどあまり居心地はよくない。
私はあの夏のこと、忘れたわけじゃなかったから。
「私は納得してなかった。なんで不倫なんてしたのかちっとも理解できなかったし、それを何事もなかったみたいに許せるのも理解できなかった」
もしかしたら私がいたから、母は離婚できなかったのかもしれない。
そうも思ったけど、後に妹が生まれてからは違うと気づいた。母は父を今でも愛していて、その上で汚らわしい不倫も許したんだって――本人に確かめたことはないけど、きっとそういうことなんだろう。
「私は許せなかった」
つぶやく私を抱き締める福浦が、そこで短く息をつく。
「そう思うのも当然だ」
「うん……だから私、母親みたいにはなりたくなかった」
浮気されるような女にはなりたくない。
そう思って、家を出てからは必死になった。好きな人ができればとことん尽くしたし、私のことを好きでい続けてもらえるように要求されたことはなんでもした。付き合ったその日に身体を許したこともあったし、それを当たり前だと思っていた。
「でも、変なとこが似たのかな。私も浮気される女だった」
好きになった人は、揃いも揃って移り気だった。
私を踏み台にでもするみたいに、すぐに他の人を好きになってしまう。その程度の価値だったと言ってしまえばそれまでだけど、さんざんに傷ついて、失望するには十分だった。
「就職する頃には恋愛とかどうでもよくなって、今に至るってとこ。好きでもない人を誘って寝るのが楽しかった。後腐れない付き合いのほうが傷つかなくて済むし、気楽だったから」
「天野……」
福浦の声が悲しそうで、話しすぎたかなと思う。
でも、ずっとそう思っていた。身体だけの関係なら裏切られることもない。私の十人並みの顔を『たいしたことない』って見下す男も、服を脱いだらまんまと興奮してくれた。男は大抵おっぱいが好きだ。福浦でさえそうだった。
私もそういう反応を見るのが好きだったし、本当に楽しかった。
浮気が心の殺人なら、私の心は中二の夏に、とっくに死んでいたんだと思う。
それが今になって誰かを好きになるなんて、考えもしなかった。
「私は福浦が好きだよ」
顔を上げると、彼も私を見下ろしていた。
ひどい身の上話を聞かされた後だからか、福浦のほうがよほど苦しそうにしている。
「でも信じることはできないって思う。一緒にいたら絶対疑っちゃうし、事あるごとに問い詰めて息苦しくさせるだけだよ」
「俺は浮気なんかしない」
語気を強めた福浦が、生真面目に続ける。
「そんなことする奴が理解できない。俺だったら好きな人を悲しませるようなことは絶対しないのに」
理解できない。その言葉はちゃんと信じられる。
福浦も私と同じで浮気された人だ。私の父や歴代彼氏、あるいは福浦の元カノの気持ちなんてきっと一生わからないだろう。
でも、そんな福浦でさえ私には愛想を尽かすかもしれない。もっときれいな、そして心が死んでない女の子が現れたら、きっと魅力的に映るだろう。そうなるくらいなら、最初から裏切られない距離でいるほうがいい。
「私、すごくめんどくさい奴だよ」
疑り深いくせに自分はビッチとか、いいところマジでなんにもない。
「福浦だってひどい目に遭った後なのに、次にこんなの選ばなくたって……」
「俺は天野がいい」
でも、福浦はそう言ってくれる。
その言葉が無性にうれしいんだからどうしようもない。好きな人にそう言ってもらえて、心が動かないはずもない。
「俺はどうしたら天野に安心してもらえるかなって思うよ。天野がそうしてくれたように、今度は俺が支えたい。絶対に裏切らないって信じてもらえるようになるまで」
「……そんなの」
一瞬、言葉に詰まった。
そんなこと、今まで誰も言ってくれなかった。
「すごく時間かかるかもしれないよ。福浦を信じられるようになるまで」
「いいよ」
「よくないよ、何年ってかかったらどうすんの?」
「その間、俺の傍にいてくれるだろ?」
そう言って、福浦は少し笑う。
「今すぐ信じてくれなんて言わない。でも、俺を信じられるようになるまで一緒にいてほしい。どれだけ時間かかってもいいから、途中であきらめて離れるのだけはだめだ。俺はその間に、天野が安心できるよう努力するよ」
福浦はすごい人だ。
私が思いつきもしなかった、だけどずっと欲しかった言葉をくれた。
そういう人だからこそ好きになったのかもしれない。ずっと死んでいた私の心が、ようやく息を吹き返すみたいに。
「福浦も……」
私は改めて、目の前の彼にすがりつく。
「お願いだから、離れたりしないでね」
本当に。
心からそう願っている。私は福浦を信じたい。そのために、できることはなんでもする。
「約束する。何があっても離れない」
福浦がそう答えて、それから私の顔を覗き込んでくる。
「好きだ、天野」
「わ、私だって……好きだよ、すごく」
「……よかった」
安堵の微笑を浮かべから、優しく唇を重ねてきた。
いつもより短いキスの後で、至近距離でぶつかる視線に彼がはにかむ。私も照れてうつむきそうになったけど、それは彼の手が許してくれなかった。だからしばらく、そうやって見つめあっていた。
数年ぶりに、彼氏ができた。
たぶん。
告白されて私も好きだって言って、過去も思ってることも全部ぶつけあった。もう隠し事は何もないくらい、いろんな思いを打ち明けた。だから、そういうことなんだろうと思う。
だけど何分久しぶりすぎた。私たち付き合ってるよね、などと確認するのも今さらはずかしかったし、でも本当にそうなんだろうかって内心まごついていたりもする。福浦には『付き合ってほしい』って言われたけど、そういえばその言葉にはちゃんと返事をしてなかったような――でもあれだけ言ってキスもすれば、さすがに伝わるだろうか。
とりあえず、終電の時間が近づいていた。
残念だけど私は明日早番で、どうしても帰らなくちゃいけなかった。せっかく脱いだ服を着て、福浦の新居を出た。
彼は駅まで送ると言ってくれて、ふたりでまだ慣れない街並みを手を繋いで歩いた。
「何かあったら、いつでも連絡していいから」
歩きながら福浦が言う。
「心配事とか、どうしても俺が信じられなくて不安になった時は、いつでも、なんでも聞いてほしい。ひとりで悩むより直接確かめたほうがずっと楽になるよ」
「うん」
私はうなづく。
好きな人のことは束縛したくないって思うけど、ひとりであれこれ悩むのも確かによくない。福浦は正直な人だから、聞いたらなんでも教えてくれるだろう。
「俺もがんばるよ、天野に早く信じてもらえるように」
そう言って彼は明るく笑う。
名前に恥じないその前向きさが本当に眩しい。正直に言えば福浦ががんばるべきことなんて何もないと思うし、彼に何かしてほしいわけでもない。実際は私こそが努力して乗り越えなければいけないことだ。
人を信じるのは、好きになるより難しい。
私は福浦を好きになったけど、彼を信じられるようになるまでには時間が必要だ。その時間を彼の傍で過ごすと決めた。信じられないまま、でも離れられないなんていうのもよくある話だけど、でも福浦なら――。
「私もがんばる。福浦のこと、何があっても信じられるように」
私は決心を口にする。
死んで、それでも蘇ったばかりの心を奮い立たせて、好きな人を信じられるようになりたい。もう何も隠すものなんてない。みっともないゴミみたいな過去も情けない臆病さも、どうしようもない不安も全部さらけ出してしまった後だ。こうなったらみっともないままでもいいから、この想いだけは貫き通したかった。
福浦のこと、好きだから。
「うん」
彼がうなづく。横顔がどこかうれしそうだ。
それをこっそり見上げつつ、私は、一番気になっていたことを尋ねた。
「あ……のさ、このタイミングで聞くのもなんなんだけど」
「どうかした?」
「私たちって、つ……付き合ってるってことでいい、んだよね?」
「え!?」
福浦はびっくりしたようで、とたんに声を裏返らせた。
それから急に心配そうになって聞き返してくる。
「俺はそのつもりだったんだけど、違う?」
「あ、私もそう思ってたけど、そういえば『付き合って』って言われて返事してなかったかなって」
そのつもりだったんだ。よかった。
私は胸を撫で下ろす。でも福浦はそう言われて逆に気になってしまったみたいだ。
「じゃあ、今言って」
ものすごく期待を込めた表情でねだられたから、私は返事を口にしてみた。
「うん」
「……今のが、返事?」
「だ、だって、『付き合って』の返事は『うん』でよくない……?」
「そうなんだけど……欲を言うともう一言くれたら、俺が大喜びする」
そんなに喜んでくれるんだ。
だったらと私は頭をひねって、思いついたことを言った。
「じゃあ……私を、福浦の彼女にしてくれる?」
考えてみればこれも微妙な線かもしれない。だって問いかけに質問で答えてる。
だけど福浦は一瞬目を見開いて、それからほっとしたように口元をほころばせる。
「する。絶対する。他の誰にも渡さない」
さらにそう答えてくれた後で、繋いでいた手にぎゅっと力を込めてきた。そして勢いよく、こらえきれない様子で尋ねた。
「天野、次はいつ会える?」
道の向こうに駒込駅が見えている。
残念ながら今夜はもうじきお別れだ。でもまたすぐに会える。次の約束もしたから、不安なんてない。
すごくどきどきするのに、不思議なくらい安心もしてる。
そういう気持ちが心地よくて、私は本当に久しぶりに、幸せだった。