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どうしてキスがしたいんだろう

 最初に『好きだ』と伝えてくるところは、とても福浦らしいと思った。
 駆け引きも騙しあいもなく真っ直ぐな気持ちをぶつけてきて、あまりの眩しさに直視もできそうになかった。
 驚いてはいない。
 なんとなく予感していた。そうかもしれないって。福浦のこれまでの言動の端々からそういう雰囲気はにじんでいて、でも私はそれすら直視しようとしてこなかった。
 それを自覚したら、この関係が、本当に終わってしまうと思ったからだ。

「そ……そんなこと、言われても」
 目を逸らした私の声はわかりやすく裏返った。
 突然の告白に驚きがなかったとはいえ、動揺はした。心臓が止まるかと思った。また福浦がめちゃくちゃ好みの顔つきをしていたから――特にあの切れ長の瞳が真っ直ぐに、そして熱っぽく私を射抜いていて、そんな目で見られたら見つめ返すのも無理だ。腰が砕ける。
 それでなくてもこっちはやる気まんまんでシャワー浴びてバスタオル一枚で戻ってきたところで、いわば性欲のアイドリング状態だ。なのに福浦が急に真面目な話を持ち出すから、自分の気持ちの持って行きようのなさといたたまれなさとで、どうしていいのかわからなくなる。
 とりあえずやってから告るじゃだめだったのか、福浦。
「好きなんだ」
 福浦はだめ押しみたいに繰り返す。
 吐息まじりのその声はかすかに震えていて、言葉以上の感情をぎりぎりのところで抑え込んでいるように聞こえた。たった一言が情熱的に、そして煽情的に響いて、私は目の前の彼に抱きつきたいのをどうにかこらえる。
 ここで抱きついちゃったら肯定の返事になってしまう。
「付き合うとかいう話はほら、前に言ったでしょ。責任とか感じる必要はないし、私もそう言うのは求めてないから。友達でいいって話だったじゃない」
 目を合わせずにまくし立てた私の頬に、福浦が手を添えてくる。
 湯上がりだからか、彼の手のひらはいつもより温かく感じられた。指の感触もよく知っているその手が、私にそっと上を向かせる。抗えずにそちらを見上げれば、福浦は熱っぽい目で私を見つめ続けていた。
「俺はあの時、『友達から』って言った」
 彼は言う。
「それにようやく実感したよ。やっぱり俺、天野が好きだ」
 何か思い出したような晴れやかな笑顔を浮かべて、続ける。
「最初から好きだった」
 そんな言葉で福浦はまた私の度肝を抜いていった。
「最初!? 嘘でしょ……」
「本当だよ」
 平然とうなづかれたから、思わず食ってかかった。
「ありえないでしょ! 最初って言ったら、福浦が酔いつぶれてふたりでホテル行った時のことじゃないの? あの時からなんて――」

 思い返してみてもそんなはずはない。
 あの夜に起きたことと言えば、失恋の痛手からお酒に溺れる福浦に最後まで付き合ったのが私で、そして彼が酩酊しているのをいいことに上手く言いくるめて一緒に新宿のラブホに行った。
 お互いに恋愛感情がないことはあの夜に確認済みだった。
 その上で一晩一緒に過ごした。それでも楽しかった。

「福浦はあの時、『俺のこと好きなのか』って私に聞いたよね」
 記憶をたぐり寄せながら確かめる。
「私はそれを否定して、単に福浦と寝てみたかったって答えた。そしたら福浦も『俺も』って答えて――つまりこっちのことも別に好きじゃなかった、って捉えたけど」
 私の言葉に、福浦はきまり悪そうに首をすくめた。
「あの時は確かに、性欲に流されてた。どうなってもいいってヤケみたいな気持ちもあったと思う」
「じゃあ……」
「でも、前に話したよな。俺はあの夜からずっと天野のことばかり考えてた」
 それは聞いた。
 一緒にパンケーキ食べに行った時に。
「それまではつらいことばかりで頭がいっぱいだった。苦しくて、なのに忘れられなくてとても前に進める気がしなかった。でも天野と過ごしたら、頭に立ち込めていたもやもやが晴れた。楽しかったり幸せだったりしたことを考えられるようになって、息を吹き返したんだって後から思った」
 福浦はそこで、本当に幸せそうに笑った。
「ひとりの時はほとんど天野のこと考えてたよ。一緒にいると店にいる時より笑ってくれるんだな、とか。下ネタは平気な顔で言うのに、ちょっとしたことで照れたりするんだな、とか。あんな顔するなんて知らなかったなとか、そういうことも……考えた」
 こんな時でさえ正直に、ありのまま打ち明けてくれる。
 私は照れていいのか、困っていいのかわからなくなる。
「そういう気持ちを結論づけたら、やっぱり天野が好きなんだとしか思えなかった」
 浮かべた表情は穏やかで、だけど口調には一歩も引かない意思が感じられた。前みたいに責任を感じていてそう言い出したんじゃないってこともはっきりとわかった。
「好きだ、天野」
 福浦がもう一度言って、私の頬をそっと撫でる。
 指先がわずかに耳に触れ、意識せずに肩がびくっと震えた。
「あっ……」
「天野の答えが聞きたい」
 目の前でささやく声が優しい。
 逆に答えをためらいたくなる。

 私の気持ちはずっと前から決まっている。
 最初からそういうつもりだった。何があってもひっくり返す気はなかった。

「福浦は、もっときれいな子と付き合いなよ」
 意を決してそう告げた。
「私じゃなくてさ。ちゃんとそういう子を探したほうがいいよ」
 たちまち福浦が眉をひそめる。
 怒らせたかなと身構える私に、すかさず彼が反論した。
「天野だってきれいだ」
「え……あ、えっと、そういうんじゃなくて……」
 見た目の話じゃなくて。
 っていうか見た目だってそれほどでもないけど、今は置いておく。
「だって、私がどんな奴か知ってるでしょ?」
 好きじゃない相手でも平気でホテルに誘うビッチなんて、彼女にしたくない女ランキングで上位に食い込むことは間違いないだろう。
「知った上で好きになった」
 福浦は言い張るけど、たぶんわかってない。
「私の経験人数聞いたら福浦だってドン引きするよ」
 そう告げたらさすがに動揺したか、複雑そうな顔をされた。
「引かないよ。聞きたいわけでもないけど」
「いいよ、正直に言っても。やめとこって思うでしょ?」
「思ってない。昔の男の話なんて聞きたくなかっただけだ」
 その『昔の男』が山ほどいるのが私なのであって、我ながら地雷案件だと思う。
 自称ドSの、アラサーなのに好きな子にはつらく当たるしかできない北道さんよりもはるかに特大の地雷。それが私だ。
 いいところがあるとすれば、すぐやれることと胸が大きいことくらいか。いや、さすがにもっとあるでしょって自分でも思うけど、前者の案件が人並みの魅力を補って余りある地雷要素でもあるから、相殺されてなんにも残らないだろう。
「福浦にはもっといい子がいるよ」
 事故物件みたいな女を構うくらいなら、他を当たったほうがいい。
「めちゃくちゃ優しいし、文句のつけようないくらい顔いいし、仕事だってできるでしょ。こないだ作ってもらったご飯もおいしかったし――ちょっとくらい高望みしてもいけるくらいには引く手あまただと思うよ。ひどい目に遭って傷ついた分、うんとかわいい彼女を作って幸せになりなよ」
「俺は天野がいい」
 これだけ言っても福浦の意思は変わらないようだ。私を一蹴した後、溜息をついてみせた。
「さっきも言ったけど、答えが聞きたいんだ」
「だから答えたよ、もっときれいな子と――」
「違う。天野が俺をどう思ってるか教えてくれ」
 とっくに乾いた前髪越しに、切れ長の瞳が私を見つめる。
 眼差しに込められた熱は何も変わることなく、少しも揺るがず真っ直ぐだ。至近距離から覗き込まれるともう目を逸らせなくなる。
「どうって……」
「俺は天野が好きだ。天野は?」
 頬を撫でていた手がゆっくりと下りて、顎で止まる。親指で唇をくすぐるようになぞられて、私は顔を背けようとしたけど、そうさせてはもらえなかった。
「俺を見て」
「や……ちょっと、福浦……」
「答えて」
「言ってるってば、さっきから」
 私の答えは決まっている。福浦にはもっといい子がいる、それだけだ。
 私じゃない誰か。私よりずっときれいな人。そういう相手を探したほうが絶対幸せになれるのに。
「それは俺の聞きたい答えじゃない。わかるだろ」
 そう言うと、福浦は私の顎に添えていた手に少し力を込めた。
 私に軽く上を向かせて、ゆっくり顔を近づけてくる。
「教えてくれないならキスするから」
 吐息がかかる距離で言われた。
「嫌だったらちゃんと拒んで」

 嫌なわけじゃない。
 すぐ目の前にある、引き締まった形のいい唇。その柔らかさを私はとてもよく知っている。キスしたら気持ちいいことだって知っていた。
 だから拒みたくない。いっそこちらから迎え撃つみたいに背伸びして、距離を詰めて、福浦とキスがしたい。
 そう思うのは性欲だ。唇を重ね合わせたい、気持ちいいことがしたいと思うのは純然たる性欲から来るものであって、恋愛感情に起因するものではない。少なくとも私にとってはそうだった。
 特に今はバスタオル一枚で長らくお預けを食らっているから、福浦が欲しくて欲しくて仕方なくなっているだけだ。拒めなんて無理な話だ。

 でも、性欲はこんなにも御しがたいものだろうか。
 今、彼とキスしたらどうなるか。そのくらいの考えも及ばないほど、私はどうしようもなく追い詰められているんだろうか。真剣に告白してくれて、答えを求めている福浦を無視してまでしたいなんて異常だ。彼のことが好きじゃないなら、拒まなくちゃいけない。
 そうじゃないなら――。
 ずっと思っていた。福浦は特別だって。私にうんと優しくしてくれて、一緒にいるだけで他愛ない会話さえ楽しかった。隣で過ごす時間が何もかも幸せだった。ふとしたタイミングで戯れみたいなキスをされて照れながら、慣れないときめきみたいなものを覚えていた。嘘をつけない彼を好ましく思っていて、その誠実さに言いようもない安心感も抱いた。
 どうして私は、福浦とキスがしたいんだろう。

 先に目を閉じたのは私のほうだった。
 前髪の触れ合う音を聞いて、たまらなくなって目をつむった。
 彼が息を呑むのがわかったけど、次の瞬間には唇が柔らかく重ねられていた。
 初めは塞ぐように触れ合うだけだった。でもすぐに離して、角度を変えてもう一度重なる。少しずつ角度を変えながら何度も、何度も、柔らかさを堪能するように重ねあう。求めているのが彼か、私か、すぐにわからなくなった。
「は……っ」
 苦しくなった吐息さえ飲み込むように、執拗に繰り返された。私は福浦のTシャツの胸元を握り締め、福浦は私の背に手を回す。背骨に沿って背中を撫でられ、脚ががくがく震えた。
「や、だめ……」
 絶え絶えの息で告げたら、福浦も荒い呼吸の下で笑う。
「ああ、ごめん……つい」
 その声がとびきりうれしそうで、たちまち胸が痛くなった。

 私は福浦が好きだ。
 でも――。

「私……」
 福浦の胸にもたれかかって、目をつむる。
 言いたくないことを言わなくちゃいけない。すごくはずかしくて情けないこと。自分でも直視できない古傷の話。
「だけど、福浦のこと、信じられないかもしれない……」
 好きだけど。
 福浦が嘘をつかないってわかっているけど、それでも。
 彼だからじゃなくて、誰でも。私は信じる自信がなかった。
「どうして?」
 聞き返した福浦が、そのまま私をぎゅっと抱き締める。
 そして優しい声で言い添えた。
「理由があるなら話してよ。聞くからさ」
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